WEBで紹介されている「大江戸切絵図・芝高輪編(位置合わせ図)」をみると、細川家の白金邸は旧・東海道「二本榎木丁通り」に面していることが判る。
それは、文字の書き込みの向きが表している。(縦書き文字の頭部分が正面を示す。)
ところが厄介なことに、永青文庫に残る「白金邸」の図面を見ると、方位(右下表示)が記されているがこれだと入り口は北向きになっているから、これだと説明がつかなくなってしまう。
赤穂義士17名が切腹した場所が、高松中学校内に特に囲いが設け設けられたのは中央義士会のお陰だが、この場所の正面入り口の戸にのぞき窓が設けられていて、そこから拝見することができる。
図面の左上、能舞台の上部がその場所である。(一番下の図面は左右天地が逆転していますから、能舞台は右手に書かれています)
その場所は「檜書院」の前にある能舞台の右手脇である。いろんな形で残されている細川藩邸内での「切腹の図」は正式なものではない。
随分昔「再び・・赤穂義士切腹の図」を書いた折、赤穂義士研究家の佐藤誠氏からコメントをいただいた。(コメント欄を参照されたし)
私は以前、熊本県立美術館の永青文庫展示室でこの絵を拝見した時、よせばいいのに、近くに居られた係員の方にその旨をお話ししたところ、なんと永青文庫(東京)に電話を入れられて、直接ではないが、「これは切腹の場の雰囲気を描いたもので、間取りには応していない」とのご返事をいただいた。
下に御紹介する絵図のとおりであり、どう見ても「切腹の図」とは似ても似つかない。
これは切腹の場にも臨んだ右田某が描いたもので、真実に一番近いものだとされている。
さてその場所をかって私の友人が訪ねたらしいが、とうとう探し出すことができなかった。
「誰かに聞こうと思ったが聞けなかった」との事であったから、少々冷やかしたことを思い出す。
先に上皇様の仙洞仮御所となった旧高松宮邸(ここも白金邸内)の裏手に「紫陽花ロード」がある。
左手は港区の都営高輪アパート群、その敷地が終わるあたりから左折すると、右手の鬱蒼とした森の中にその場所の玄関(この地図ではクローズアップすると二つの門柱らしきものの表示有)が表われる。
失礼して都営アパートの1号棟と3号棟の間を抜ければほぼほぼ正面に当たる。
先日の史談会での中央義士会の理事・宮川政士氏のお話を思い出しながら、少々触れてみた。