津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家・白金邸のこと

2024-11-12 07:54:13 | ご挨拶

 WEBで紹介されている「大江戸切絵図・芝高輪編(位置合わせ図)」をみると、細川家の白金邸は旧・東海道「二本榎木丁通り」に面していることが判る。
それは、文字の書き込みの向きが表している。(縦書き文字の頭部分が正面を示す。)
ところが厄介なことに、永青文庫に残る「白金邸」の図面を見ると、方位(右下表示)が記されているがこれだと入り口は北向きになっているから、これだと説明がつかなくなってしまう。

        
     
 赤穂義士17名が切腹した場所が、高松中学校内に特に囲いが設け設けられたのは中央義士会のお陰だが、この場所の正面入り口の戸にのぞき窓が設けられていて、そこから拝見することができる。
図面の左上、能舞台の上部がその場所である。(一番下の図面は左右天地が逆転していますから、能舞台は右手に書かれています)

               
 その場所は「檜書院」の前にある能舞台の右手脇である。いろんな形で残されている細川藩邸内での「切腹の図」は正式なものではない。
随分昔「再び・・赤穂義士切腹の図」を書いた折、赤穂義士研究家の佐藤誠氏からコメントをいただいた。(コメント欄を参照されたし)
        大石良雄 - Wikipedia    大石内蔵助義雄切腹之図 
               
 私は以前、熊本県立美術館の永青文庫展示室でこの絵を拝見した時、よせばいいのに、近くに居られた係員の方にその旨をお話ししたところ、なんと永青文庫(東京)に電話を入れられて、直接ではないが、「これは切腹の場の雰囲気を描いたもので、間取りには応していない」とのご返事をいただいた。
下に御紹介する絵図のとおりであり、どう見ても「切腹の図」とは似ても似つかない。
これは切腹の場にも臨んだ右田某が描いたもので、真実に一番近いものだとされている。

         
さてその場所をかって私の友人が訪ねたらしいが、とうとう探し出すことができなかった。
「誰かに聞こうと思ったが聞けなかった」との事であったから、少々冷やかしたことを思い出す。
先に上皇様の仙洞仮御所となった旧高松宮邸(ここも白金邸内)の裏手に「紫陽花ロード」がある。
左手は港区の都営高輪アパート群、その敷地が終わるあたりから左折すると、右手の鬱蒼とした森の中にその場所の玄関(この地図ではクローズアップすると二つの門柱らしきものの表示有)が表われる。
失礼して都営アパートの1号棟と3号棟の間を抜ければほぼほぼ正面に当たる。

先日の史談会での中央義士会の理事・宮川政士氏のお話を思い出しながら、少々触れてみた。

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■立冬

2024-11-07 09:14:19 | ご挨拶

                                        コーヒーミルの香り一段冬の朝    津々

 立冬を迎えました。夏からいきなりといった感じで、まだ紅葉さえ見ることができないようです。
数年前の事ですが、小学校低学年の登校の子らが、「リットー・リットー」と叫んでいるのを見かけ、その年の立
冬の日を教えられたことがありました。
その年は今年と違って、立派な「秋」が存在したことでした。

昨夕、わずかに水が戻った水無川(健軍川)の堰のあたりにカワセミが飛んできていました。
こんなところでカワセミに出会うとは少々驚いたことでしたが、なにやら小魚をとらえて飛び去りました。

 今朝は、先日娘がコーヒー豆をもってきてくれたので、コーヒーミルを取り出してコーヒー曳きにチャレンジしました。
良い香りが一面に漂い、コーヒーをたててささやかな朝食をとりました。
差し込む朝のひかりはまさに冬を感じさせます。良い天気の冬のはじまりの初日です。

 

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■6分半

2024-11-05 06:50:32 | ご挨拶

 毎朝の朝食はトースト+サラダ+半熟卵+スープ(又はコーヒー)、もしくは昨日の残り御飯でお茶漬けの何れかである。
最近半熟卵に凝りだして、ようやく6分半というタイムと火加減(湯加減)を極めて、おいしい半熟卵を作ることに成功した。
7分になると黄味が少々固くなるから、タイマーを準備して時間をちゃんと守らなければならない。
サラダはレタスをちぎり、キュウリをスライサーでスライスすれば終り、スープは既製品の粉末状のポタージュでお湯さえ沸かせばすぐできるから朝食にはもってこいである。
トーストはバターオンリーだったり、チーズを乗っけたり気分次第、ジャムをのせて食べたりもしたが食べ挙げてしまった。
これを5分ほどで食べ揚げると、すぐさま食器洗いをして乾燥機に放り込むと、朝の一大業務完了である。
もう11月も5日になった。明後日は立冬、少々足元が寒い。

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■病院ラジオ

2024-11-04 11:31:08 | ご挨拶

 今朝は8:15から1時間、NHK・TVでサンドウィッチマンの二人がMCを勤める私のお勧め番組である「病院ラジオ」をみる。
今回は東京渋谷にある、日本有数のリハビリテーション病院「初台リハビリテーション病院」が舞台だった。
妻が熊本の T リハビリテーション病院に入院中とあって、少々身につまされながら回復に向けて頑張っておられる患者さんに、サンドウィッチマンの二人がいつもながらの事だが、優しく声をかけ励ましていく様が心にしみた。
妻同様脳梗塞であったり、交通事故やその他の事故で数年間の療養を余儀なくされておられる方々の様々な生き様が紹介されていく。
しかし、皆さんが大変前向きに自らの症状を受け止めて、生きていかれている様には妻の将来を含めて大いに励まされるものがある。
私の妻は、介護認定については「非該当」となった。理由は「自立可能」とある。
左手が上がらないとか、歩行幅が狭くなって歩行スピードがすっかり落ちたりしているし、最大の症状は「失語」である。
番組で出演されていた女性の方も、失語の症状がみられ、サンドウィッチマン相手の会話に言葉を一生懸命さがしておられたが、私の妻もそんな感じである。
しかし「自立可能」というお墨付きには、私には大いなる安心をもたらしてくれた。まさに不幸中の幸いというべきである。
入院100日をはるかに超えて、そろそろ退院が近いのではないかと思っているが、お互いよく頑張ったという感じがする。
食事造りの腕は一向に上がらず、それでも100日なんとか台所に立って三食毎日作ってきたから、妻が退院してきたらいろいろ教えを受けて「男子厨房に」入って腕を上げようと思っている。
親しんできた「歴史」も少々はまり込み度を抑えなければならない。
それと共に、自らの健康を改めて見直していかなければならない。
「病院ラジオ」の舞台となった病院や、妻が入院している病院そのた、リハビリで頑張っておられる患者の皆様に最大のエールを送りたい。
そしてスタッフの皆さんへ最大の感謝を申し上げたい。

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■飴と鞭

2024-11-01 10:19:06 | ご挨拶

 文政10年(1827)11月朔日の「惣月行事記録抜書」にある文章である。グレゴリオ暦では12月18日に当たるから相当寒かったものと思われる。
そんな中「一衣不着」の者がいることについて、町奉行の根取中からの町方別当に宛てた書面である。
宛名の渡辺甚三郎とは、町在の記録(褒賞記録)によると「熊本蔚山町町別当町独礼渡辺甚三郎」であろうと思われる。
蔚山町の住民に着るものさえ窮する者があったと見える。
そもそもそのような者は、「すべて銘々の者の日頃の不心得によるもので、「救不申」ともよいように達をして下さい」(全銘々不心得故之事ニ付、夫等之類ハ救不申候て其段被相達候様・・)とまでしたようであるが、これは役所の取り上げることではなかったようだ。
これを町内で助け合いが為されないことは「重疊不埒」であると通告している。その様なものは「町方末座」を申し付けるとし、一方では「五人組なとよりも無油断心を付、気立能成立産業心懸」て、藩からの「御救」を受けることがないようになれば、そのことを「達出」すれば御褒美も下されるであろうと、「飴と鞭」のやり方が顔を見せている。
今年もあと二ヶ月、年末の共同募金などが街中に見られる季節となった。
いつの時代も助け合いの心をもって、心豊かでありたいと思う。

       例年極寒ニ差向候得は各支配内一衣不着之ものとも不及飢寒候様ニ連年被取救來候処、
       何之申分も無之有力達者之もの等第一衣不着ニ居候もの全銘々不心得故之事ニ付、夫
       等之類ハ救不申候て其段被相達候様との儀ニ付てハ、委細天明八年及達置候通候処、
       近年間々右体之もの有之哉ニ相聞、不心得之至第一風俗ニおゐて難相済事ニ候、根元
       鰥寡孤独其外病者不具之類或ハ非常之災難等ニて一衣不着之其身之力ニ難及難儀之訳
       ニ被対、御仁慈之筋を以取救候様ニ被仰付、其功を夫々被賞事ニ候得は取も直又上よ
       り之御救ニ候処、右躰之もの如何相心得候哉、平日己か振捌ハ自由ケ間敷候ても被取
       救候節ハ義理も恥も無之、剰人並ニ口を張居候など重疊不埒之至候間、以来右躰之者
       有之段相聞ハ屹ト御吟味之上、町人末座ニ被仰付筈ニ候、若其上ニも心底不相改産業
       不心懸にて徒らニ日を送り候者ハ一統風儀之妨ニ相成候間、猶稠敷被仰付筋も有之候
       間、其旨能々相心得候様、常々各以下役脇より之教示ハ不及申、五人組なとよりも無
       油断心を付、気立能成立産業心懸救を受不申程之自分ニ相成候ハヽ、其段達出有之次
       第屹ト御褒美被下置筈候条、右之趣委しく申諭候様、町中一統可被達旨候、以上
           十一月朔日           町方根取中
                渡辺甚三郎殿

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■東大vs筑波大

2024-11-01 09:00:10 | ご挨拶

 現在「堀内傳右衛門覺書」をご紹介しているが、これは「肥後文献叢書」掲載文をタイピングしている。
昨日もご紹介した「赤穂事件」の研究者であられる佐藤誠先生によると、この覚書は「あまりよくない」と仰る。
原本に近いものは東大史料編纂所が所蔵するものだとされるが、以下の如くそのデータを見ることができる。
   大日本史料総合データベース・「堀内傳右衛門覺書

「肥後文献叢書」掲載文と見比べてみると、大意に間違いはないが、明らかに語彙の違いが見受けられる。

一方、筑波大学も同名本を所蔵している。
   堀内傳右衛門覺書 - 国書データベース - 国文学研究資料館

この二つの史料の相違は、専門家にお任せするしか仕方がないが、地元熊本の「肥後文献叢書」掲載文とどのくらい違うのかが気になり始めた。
後程、当サイトでご紹介しているものに朱書きででも書き加えてみようかと思ったりしている。

 

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■ご恵贈御礼ー草志会年報「隣人‐第37号」

2024-10-31 10:29:45 | ご挨拶

 長くご厚誼をいただいている、東京在住の近世史家で赤穂事件の研究者であられる佐藤誠様から、草志会年報「隣人‐第37号」をお贈りいただいた。
深く感謝を申し上げる次第である。
             

 佐藤様は、伊藤武雄編「堀内傳右衛門書簡集」4(終)を20頁にわたり、綿密な考証のもと、16~24号文書を詳しく紹介されている。
これは義士接待役の傳右衛門の書簡ではないが、その息・傳次と吉田忠左衛門の女婿・伊藤十郎太夫との交流の書簡である。

一人傳右衛門だけではなく、赤穂義士の遺族と傳右衛門の遺族の間に末永い交流があったことを表している。
私はたまたま「堀内傳右衛門覚書」を現在ブログでご紹介しているが、一方熊本史談会では11月9日(第二土曜日)に熊本県山鹿市在住の、(財)日本義士会・理事の宮川政士氏をお招きして、赤穂義士接待役・堀内傳右衛門について「山鹿日輪寺と赤穂義士-忠臣蔵と肥後」という演目でお話を伺うことにしている。
赤穂義士討ち入りの日に合わせて開催したいと思っていたが、諸般の事情によりひと月早い開催となった。
私は、「旦夕覚書」や「堀内傳右衛門覚書」など、よくぞこのような史料を書き残してくれたことに感謝をしているが、併せて、佐藤氏の24件にわたる書簡をご紹介いただき、傳右衛門とその一族の赤穂義士に対する熱い思いに心を打たれている。
佐藤様の真摯なご努力に深甚なる敬意を表しご恵贈に感謝申し上げる。

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■2リットルの下剤

2024-10-29 06:40:19 | ご挨拶

 短期間に7㌔ほど体重が減ったので、単なる夏痩せではないのではないかと思い、懸り付けの病院で相談したところ、昨日は腹部エコー、一月後には胃カメラと大腸検査を受けることになった。
腹部エコーの結果、腎臓嚢胞大小二つが見つかってエコー写真に対面した。
ガンになる可能性があるから経過観察しましょうという事に成った。82にもなった爺様だから何か出てくるのは覚悟の上だが、今私が一番恐れているのは尾籠な話だが、大腸検査の折に飲む、2リットルにも及ぶ下剤を飲むことだ。
レントゲン写真のバリュームも願い下げだが、看護婦さん曰く「少し甘くしてありますから、頑張って飲み干してください」との由。
1.5リットルのポカリスウェットのボトルでも難儀なのに・・・なんだか夢に出てきそうである。
そして、発見されるのは腎臓嚢胞で終わりと願いたいと切に願うのみである。
涼しくなって又散歩をはじめようかとも思うし、減り続けていた体重もどうやらストップしたし、少々体力を付けなければならない。

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■秋のあせも

2024-10-25 12:56:45 | ご挨拶

 この夏は余りにも暑かったが、外に出ることを極力控えてクラーを四六時中回していたから、あまり汗をかくという事がなかった。
ようやく涼しくなったころ、長袖を着込んだりしたら右の二の腕の内側あたりに「あせも」が出来てしまった。
あまり気にせずに放っておいたが、知らず知らず掻いたらしく、10×6センチほどあちこち搔きむしり、かゆくて仕方がない。
今朝も長袖を着込んだが、段々気温が上がってきたので、短パン・半そでにあわてて着替えた。28℃くらいまで上がりそうだ。
それにしても、秋にあせもとは恐れ入った。昔は「天花粉(ボディーパウダー)」なるものをはたきつけていたものだが、何方かの句に

   天瓜粉まみれや老の喉ぼとけ  という句があるのを承知している。

「喉ぼとけ」ならずとも、汗疹の痒さは願い下げである。我が家は妻が入院中で、その天花粉があるのか無いのかさえ判らないから、ただひたすらに痒さを我慢している。

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■去年の記事から

2024-10-24 20:05:37 | ご挨拶
 
■堀内傳右衛門の話は嘘か本当かという疑問

 熊本藩年表稿の頁をめくっていて、寛永17年7月19日「白川より川尻へ船通水道、開通工事予定あり」という「奉書」からの引用として紹介されている。はたしてこの船通水道は開通した......
 

 ちょうど今、堀内傳右衛門覺書をご紹介しているが、一年前のこの記事は同じ傳右衛門が書いた「旦夕覚書」にある記事である。
「旦夕覚書」の記事は、綿考輯録などにも引用されているが、ここで上げた白川から川尻に至る水路整備の記事には食い違いが見受けられる。
傳右衛門の話も大変具体的で、私はこの説を信用してきたが、どうも旗色が悪い。
決定的な資料が出てこないものかと、目を光らせているがなかなかお目にかかることができない。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(3)

2024-10-24 10:02:47 | ご挨拶

(15)
(大石)内蔵之助被申候者、若き者共其外何れへも、御深志之儀共、於私も扨々忝存候、寔に御心易存居申候、少是へ御寄被成
 候へ、御咄申度事共候と被申候故、御心易思召被下忝とて、側に差寄候處に、内蔵之助被申聞候は、いや別之事にても無之、今
 度之儀を、定而御傍輩衆中御批判と察申候、是に居申候者共、大かた小身なる者計にて、大身成もの可有之と、思召も御はつか
 しく奉存候、尤大身なるものも加り候へとも、皆了簡を替、不及力候、先奥野将監と申候は千石にて、番頭を仕居申候、今度赤
 穂にて、私と何角申合、御目附荒木十左衛門様え、書付をも差上、口上にても申上候儀有之、江戸へ御歸座以後、即刻土屋相模
 守様へ委細被仰上候間、左様に相心得候へと、私并に将監え、十左衛門様より御書付被成被遣候故、両人共に江府え御禮に罷越
 候、右之通にて御老中様御存之将監も心替仕、其外城代申付候、佐々小左衛門と申者、三百石にて、吉田忠左衛門よりは高座に
 召仕候、いや此小左衛門は、若き時分御當家に居被申たると承り候が、御覺はなきやと被申候故、我等答候には何とやらん名は
 承候様に存候得とも慥に覚不申、惣體越中守入國、幼少之時分、段々暇を遣し、或は暇をもらひたる者共御座候、其内にて御座
 候哉、しかと覺不申由を答申候、又被申候は、近藤源四郎、小山源五右衛門、河村傳兵衛なと申者は、知行も多く遣し、足輕も
 預置、是に罷在原宗右衛門より上座に申付置候、剩右之内には、拙者遁ぬ者も有之候、一旦加り了簡を替不及力と咄被申候、自
 是申候には、御心易思召、委細の譯も可有御座候へとも、唯今各様え被對候ては、被仰分も有御座ましく候、各様今度之御様子、
 兎角を可申上様も無御座、傍輩共も打寄感申候、總體身重き者は、小身者には劣り身命を捨かね候と、古今申傳候、定て御聞及
 も可有之御座候、肥後國先國主加藤清正は、度々の武功の後、肥後半國御拝領被成候刻、同國天草の戦の時、木山弾正と申者と
 鑓を合せ候事、清正公御一代の勇道を御ためし被成候と、常々御自談にて御咄被成候と申傳候、其外古今の勇將にも可有御座候、
 扨々今度の御事、とかくを不被申候、皆共小身にて難儀は仕候へとも、昔物語を承り、小身者もたのもしく存候て、傍輩共の大
 身の前にても、思ふ事申散し候と挨拶仕候、右之内には、内蔵之助伯父有之との事
(16)
(富森)助右衛門被申候は、十七人の者共、些物語有之度との事別の事にても無御座、拙者共儀今度之事定て斬罪にて可被仰付
 候、天氣晴候て、所柄成共能候へかしと願居申候、然處各様御咄、又は世上の批判を承及、はや奢が付き、萬一切腹なとゝ結構
 に可被仰付や、左様之節は、御屋敷に可被仰付やなとゝ、奢が付き申候、若左様にても候はゞ、十七人は夫々宗旨もかはり候へ
 は、寺々の坊主共、又は一類なと、死骸を被爲拝領候様に願申にても可有御座候、必す被下間敷候、泉岳寺中空地有之處に、四
 十六人共一つ穴に御埋被下候へと被申候、それかしの答には、扨々御尤成る御事に候、成ほと御意は去なから、左様之儀は有御
 座間敷候、行末長く得御意申様に成行可申と挨拶いたし置候、大御目附長瀬助之進え、右之趣噺申候へは、尤なる事と感心被致
 候事
(17)
(吉田)忠左衛門被申候は、助右衛門より我々共之願を御頼申候處に、御快御請合被下、何れも忝存候、夫に付て拙者も又其上
 に御心遣に相成申度事御座候、是に金子少々所持仕居申候、是はいなものを所持いたし候と可被思召候へとも、持來候故捨もい
 たしかたく、其儘致所持候、是を夫へ進可申候間、白布御調させ二重の大風呂敷を被仰付、四方につかりを御付させ、死骸の見
 へ申さぬやうに、其儘くりよせ候様に仕度候、御覧の如く年罷寄大からに候へは、いか程に仕候ても見苦敷も可有御座候それか
 し申候は、承知いたし候、然とも此儀は 公儀よりの被仰出次第の儀にて可有御座候哉、先は難計候、此方打寄、幾通りにも申
 談、諸事之儀何も支申事も無御座候、若も思召の通にも被仰付候事も御座候はゞ、如御望可仕候、金子御遣し被成候に不及事と
 申候、御尤成御頼致承知候、乍去助右衛門殿へ得御意候如く、行末ながく得御意候様に成行可申と、挨拶いたし罷立、右之趣を
 長瀬助之丞に申達候へは、尤成事と涙をなかし被申候事、右之通いつれもそれかし心易被存、何やかや頼有之事故、助之丞御役
 柄故些不審に被存體に付、此方助右衛門え返答之趣不殘申聞候へは、助之丞被申候は、扨々尤なる手前了簡に候由、寔にいつれ
 も摩利支天と存候と被申候、助之丞御用に付、堀部彌兵衛を折々呼び立、咄被申候事共有之候、此趣も殘衆中はいな事と可被存
 候、助之丞心底をいつれも申達呉候様にと、助之丞被申候故、助右衛門なとへ申達候へは、殘衆も承被申て、扨々忝、助之丞殿
 へ御出仕之上、分而御禮を申事もいかゞに候、いつれも忝かり申候段、宜申呉候様にと被申候に付、其段猶又助之丞え申達候事、
 

 

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■「堀内傳右衛門覺書」をタイピングする

2024-10-17 08:43:39 | ご挨拶

 熊本史談会の11月例会では、中央義士会の理事で熊本県山鹿市在住の宮川様をお迎えして「「日輪寺と赤穂義士」〜忠臣蔵と肥後〜」をお聞きする。
再来年は堀内傳右衛門の没後300回忌ということもあり、傳右衛門を顕彰する日輪寺の地元・山鹿で「忠臣蔵サミット開催・シンポジューム・忠臣蔵展」などの催しを計画されている。
湯の町・山鹿の人々は熱く燃えておられる。

 私はと言えば、「堀内傳右衛門覺書」や「御預人記録」などはタイピングをしていたから、お役に立てばUSBに落としてお渡しできると考えていたら、これが見当たらない。
ブログ内検索をかけたら「■消えた 「堀内傳右衛門覚書」 に代えて」という記事が出てきて、記録を失っていた。「旦夕覺書」はちゃんと保存している。
そこで再び「堀内傳右衛門覺書」をタイピングして、今度はちゃんとUSBに落として保存しようと思う。
明日からそのタイピングの過程をご披露しようと思う。「肥後文献草書第四巻」p289~340までの51頁ほどだがひと月もあれば終わらせることができるだろう。
後半部では妻が退院してくる可能性が強く、若干の余裕が必要かもしれない。

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■無食欲の秋・・?

2024-10-16 11:48:37 | ご挨拶

 先日体重計に乗ったら66.9㌔を表示したので、さすがにまずいと思い、何とか三食ちゃんと取ろうと努力している。
この夏の暑さは82爺には大いに応え、73㌔半ばをキープしていた体重がどんどん落ちてこのありさまである。
久しぶりの夏痩せを心配して、先に病院に薬もらいの定期診療でDrに話をしたら尿と血液検査をしてくれて、特段悪い結果は見えなかったが、後日胃カメラ・腹部エコー・大腸検査をしていただくことにした。
妻の入院生活が三ヶ月を過ぎ月末位には退院の運びとなるのではないかと思うのだが、高次脳機能障害者の妻をフォローしていかなければならない。
のんびり読書や古文書に親しむというわけにはいかないようだ。
まずは体力を付けておかなければなるまいと、何とか食事をちゃんとしようと思うが、なかなか食欲が戻らない。
最近インターネットでジーンズを1本購入したのだが、ウエストを元のままのサイズで購入したがワンサイズ落としておくべきだった。
6㌔もやせるとさすがにこうなる。食欲が戻るとジーンズのウエスト回りもちょうどよくなるだろうが・・・

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■史料の終活

2024-10-15 16:30:34 | ご挨拶

 熊本史談会でお話しする資料を作成する中で、オークションを主として買い集めた史料がたくさん出てきて、終活対象物件だなと思ったことだ。
主に熊本地震後流出が顕著だった「米田家資料(私の命名)」が随分ある。投資した金額も結構な額になっている。
しかしあまり自分で死蔵させてしまうような思いは全くなくて、しかるべきところに引き取っていただければ寄贈したいと思っている。
そろそろ、リストを作り写真などを添付して準備に入りたいと思い始めた。
まずは、朽木定彦氏(細川齊茲公末弟が朽木家養子、その嫡子)の朽木家類続間での「順養子問題」のガチャガチャ振りを記した資料(結果として定彦氏はこれを嫌い、刑部家の養子となった)とが、5,000両の借金の家臣21名連署の安永五年の申込書など、宇土細川家関連の文書がある。
まずはこれらを手始めに、先様にご連絡をして御届をしたいと思っているが、どこに収めるのが一番かを考えるのに頭を悩ましている。

■宇土細川家・借銀に関する書状                  一点   

■米田家御屋敷図 605×475 一点、372×282に132×62貼付け   ニ点            

■指物(図)          -沢村宮門            一点
■甲立物幕之紋定紋附      -沢村宮門    弘化三年十二月 一点
■指物附            -鎌田軍助    天明六年閏十月 一点
■甲立物幕之紋定紋附      ー續 繁弥    天保二年十月  一点
■指物附            -續 繁弥      同上    一点      
■甲立物幕之紋附        -牧 佐学    天明四年閏正月 一点
■分明印            -長谷川新右衛門 安永六年四月  一点
■甲立物幕之紋定紋附      -藤崎喜八郎   文政七年八月  一点
■兜立物指物幕紋定紋差出    -宇野忠左衛門  安永二年正月  一点
■甲向立物幕之紋圖       -稲津角之允   文久元年八月  一点
■差出             -竹原権助    寛政十年十一月 一点  

■覚(切支丹宗門改に関するもの)-津田平助    嘉永四年亥三月 一点
■覚    同上        -宮村益太    文化丁夘年五月 一点
■切支丹就御改仕上起請文前書  -松野又右衛門(宗岳寺裏書)文久四年四月 一点

■米田是福自筆書状        (宝暦六年比之御筆と奉考之)  一点 (妙應院様御直書之内御国之歴々・・)
■米田是長自筆書状       宛名・左近殿           一点
■監物縁組之節願之儀・・・                    一点
■御自筆写 両方ゟ願として罷越候節御用番様御手数之続       一点
■有吉立行・興道・英貴・英安・貞之に関する手控え?        一点

■寛永年中御鷹場御拝領以来之趣下志らへ    冊子        一点
■覚 (寛永十七年・三家に鷹場お分け・・・) 控         一点
■職五郎様江御祝儀                        一点

■八代朽木家取扱之扣写      冊子              一点
■朽木定彦順養子に関わる書状  ー朽木内匠            一点
■     同上        -長岡監物            一点
■     同上        - 定彦             一点
■     同上        -署名無し・定彦か        一点

■天明四年・御供立被減候覚          冊子        一点

■地獄極楽御倹約仰出事                      一点

■覚                        天保十一年  一点  (監物家来中井・・・)
■覚 長岡監物宛楯岡源左衛門            天明七年八月 一点  (薮田斉の御奉公について)
■「二丸江御一門衆御家老衆表玄関ゟ 云々」            一点
■書状 長岡左近様あて 細川左京(尚房)             一点
■口上書            ー山田淳助     寛文九年十月 一点  (志水才助儀立田之内山口・・・)
■御改正以来大御目附衆人数                    一点
■御達  御右筆所之儀                      一点

■湯治心得            明治五年二月  熊本縣医學校  一点

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■落穂ひろい

2024-10-13 08:28:44 | ご挨拶

             落穂ひろいという言葉思い出すコメ不足  

 つい一週間ほど前までは、近所のスーパーストアでもコメ不足状態であったが、最近は平積みの山ができていてなんだかほっとさせられる。
一方では古古米などがインターネットで売られたりしていて、今年のコメ不足状態の一端をうかがわせている。
「落穂ひろい」という言葉を思い出すとともに、ミレーの絵なども頭に浮かんだ。

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 私くらいの年齢の人は、「落穂ひろい」を経験された方は結構多いのではないかと思う。
私が幼少期を過ごしたところは、余り田んぼが広がる場所ではなかったが、友達のI君は家がお百姓さんだったから、秋の刈り入れ時一度だけ遊びに行ったときに手伝った覚えがある。
帰りにはその落穂を持たせてくれたが、二三日(?)縁側で干したのち祖母が一升瓶に入れて棒でついていたことを思い出す。
一合にも満たない量だったとは思うが、獲れたての新米を食したという事になる。

 江戸時代の下級武士は「扶持米」というものを頂戴した。一人一日五合を例えば三人家族であれば「三人扶持」といった具合だが、一日二食の時代であれば食べるだけであれば十分すぎる。残りは「銭」に換金したのだろう。野菜や味噌醤油や薪木などの購入に充てられた。
知行取の家でも、主人が若死にすると幼い男子があってもこれが成人するまでは、「扶持米+合力米」を頂戴する身分となる。

我家にもそんな時代があってご先祖の苦労のほどが偲ばれるが、「五人扶持五石」等という記録が残る。
男子が十五歳ほどにもなって知行が旧に復すると、大いにお祝いをしたのであろう。

 今年のコメ不足減少はわずかの期間だったが、やや慌てふためいたことを瑞穂の国の民だなと感じたところである。
こないだ買った2㌔の不洗米がそろそろ底をつくからまた買いに行かねばならぬが、店先には新米が山済みでもう心配することはない。
農業機械の進歩で今の時代「落穂ひろい」などは全くないのだろうと思うが・・・如何。

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