29 ける尓阿部一家刑人と成てハ又七郎夫婦も心の
外尓疎々敷過けるか又七郎妻女尓向ひて此
度阿部一類刑人と成てハ憚り有て我等ハ忍ひ
ても問ひかたし女の事ハ御咎も有まし夜更
人静て忍ひやかに問ひ給へ彼等一家滅亡近き
可あり妻女聞えて実も常々馴染わりなく
語りし尓 いと阿王れ尓古そたへ問ひ見■本しく
思ひしか其上を憚り過せし尓苦しかるまし
と思ひ給ハヽひそか尓幼者共を慰めんと其夜
阿部か元尓至り物語り時を移せハ阿部其外家
内の者歓び世ハ春なから我等一類ハ御咎の身
と成秋の露と劔下尓消ぬへし 今更歎き
てもかへらぬこと也 無跡御吊ひ頼参らすと袂
をぞ志■ける 既尓二月廿二日討手向ふと聞へ
けれハ又七郎ハ今度討手の外ハ己か家々を
堅め火災を慎み可有尊命なれ共馳向ふ
人々の働を余所尓見んも本いなしと数年
手練の鑓を提廿日の夜人静りて阿部か境
の垣縄を切置て廿一日未明尓討手の面々阿
部か屋敷尓押入と一同尓件の垣を踏破り兼
而案内ハ知たり屋敷の内何ク尓か兄弟ハ阿り
やらんと尋し尓弥五兵衛下人を下知して臺所
偶然というものは不思議な出会いを呼ぶ。PCに間違った語句を打ち込んだら「隆達」にとび、そしてこの本「戦国時代の流行歌‐隆達節の世界」に導かれた。
その内容説明によると次のようにある。
戦国末から江戸初期にかけて一大流行をみた隆達節は、高三隆達が独特の節付けをして歌い広めた一群の歌謡である。
しかし、隆達の実像は後世の数多くの説話に包まれて必ずしも明らかではない。本書は新しい資料を博捜し、隆達の
生涯とその幅広い交遊関係を探る。さらに恋歌を中心に隆達節の代表歌を紹介、そこに現れた清新な言語感覚と叙情
を指摘し、乱世に生を享けた人々の無常観に裏打ちされた「流行歌」の世界を描き出す。
目次 :
1 隆達の伝記(家系/ 高三家をめぐる資料 ほか)/ 2 隆達の交遊圏と画像(歌本を贈られた人々/ 宗丸 ほか)/
3 隆達の説話と歌謡(説話の代表例/ 小笠原監物 ほか)/ 4 隆達節の世界観(表現の特徴/ 「異なもの」 ほか)/
5 隆達節の受容(阿国歌舞伎踊歌/ 『竹斎』 ほか)
県立図書館には所蔵していないようだから、買うしかないかと心を動かされている。
細川幽齋は息・忠興が豊前小倉に入国後の翌年豊前を訪れている。その際、薩摩の嶋津義久が幽齋を訪ね小倉城で歓待された。
その酒宴の中で細川家の家臣・某が、義久が「一重切(一節切)」の名手であることを承知していて、所望したというのである。義久は快く了解した。
細川護貞氏の著「細川幽齋」では「然らば所望にまかすべしといって、召しつれた家老・島津下野に、りゅうたつ節という小唄を謡わせ、一重切を吹かれた」と記されている。
大いに座が賑わったことが知れる。これは慶長六年の暮のことだが、この時期この「隆達節」が流行って居り、後には阿国歌舞伎踊歌に受容された。
義久は幽齋から古今伝授を許されている教養人である。
年は一つしか違わないが師弟の豊かな交流があった。義久は翌七年に隠居して龍伯と号した。
そんな義久の一重切に合わせて「隆達節」が披露されたと言うのだから、その内容をのぞき見したいと思うのである。
本屋をのぞこうか、Amazonにしようかと思案している。
付足し:定かな記憶がないが、三斎の養女・御三(細川行孝室)がりゅうたつ節が上手であったという記事を見かけた覚えがあるが、どこに記載されていたのか思い出せな
いでいる。
(寛永三年六月)十八日~廿日
|
| 十八日
| (規矩郡)
堤干上リ鮒漁 |一、城野之堤ひ申由ニて、あミ奉行吉内ふなとりニ参候事、
| (と脱)
|一、かち衆山田市左衛門与ノ坂本角兵衛申もの、六月十五日ニ病死仕候、則松本・豊岡所へ申遣候
| 事、
当年中無札ノ鵜遣 |一、当町ノ鵜仕甚左衛門、当春横川へ 殿様御川狩ニ被成御座時、被 召連、其時当年中無札ニ鵜を
免許 | 被成御免候、其御使■村田彦市ニ被 仰付由、其ニ付、彼甚左衛門申候ハ、当御郡中ニハもはや
| (鮎)
当郡限リ | あゆい不申候間、田川へ罷越、無札ニ鵜を遣申度通、村田彦市を以申候、当御郡之外江罷越、仕
| 候儀成間敷由、返事申候事、
|
|
| 十九日
|
宇佐宮ヘノ雨請ノ |一、雨請之料足三十貫文、宇佐ゟ請取との切手参候を、阿野新右衛門・林理右衛門ニ相渡候事、
料足請取切手 |
作事ニ通行ノ開門 |一、問太郎介作事仕ニ付、へいつち取よせ、堀口五介預り之御門を」、式ア少殿へ理り申、明入申度
願 | 由、式ア殿ゟ御使ニ付、得其意申由御返事申候事、
|
龍虎ノ屏風 |一、利根川道孝ゟ、龍虎ノ御屏風、伊礼采女所へ持せ被遣、使者は枝元九郎兵衛と申仁也、
|
|
| 廿日
| (屋方)中津市本耶馬渓町下屋形
簗場 |一、下毛郡やなうち申所屋形と申在所之由、大竹與三左衛門被申来候事、
| 朝ノ
降雨ノ時分ノ占卜 |一、旱ニ付、いつ時分雨ふり可申哉と、大膳ニうらなわせ申候処ニ、廿三日之四つ時分か、晩ノ六つ
| 時分かニふり可申由、うらなひ申候事、
| 加納
加納曲斎後家遣物 |一、松田五左衛門・味噌屋慶徳登城被仕、被申候ハ、狩野曲斎後家被相果候、就夫、遣物書置ニ被仕
| 〃〃
ノ処分 | 候分ハ、それ/\へ相渡遣可申候哉、其外申残被置候諸道具御座候を、寺へ上ヶ可申哉と被相尋
上り屋敷 | 候、其分一段可然候間、其通ニ可被仕由申渡候、家之儀上ヶ可申之由、被申候間、家ハ被仕舞次
| 第、請取可申由、申渡候事、
|
| (松井興長室、三斎女)(豊後速見郡)
松井興長室料米 |一、御こほ殿御米を木付へつミニ遣候御舟罷帰候間、福嶋喜左衛門・藤田弥兵衛ニ可被渡由、申渡候
| 事、
| (眞苧)カラムシ
|一、松や九郎兵衛所ゟ差下候まを一包、黒瀬九郎右衛門ニ相渡候事、
|一、中瀬左太郎殿ゟおくまへ参候状、右同人ニ相渡候事、
| (成定)
坂崎左吉京ニテ走 |一、坂崎道雲ゟ、横田権佐を以被申越候ハ、坂崎左吉京都ニて無所在仕、走申候、就夫、左吉書置な
ル 跡ノ処置 | とも御座候、内々見及候通も御座候ニ付、永良長兵衛・続平右衛門を以、具ニ立 御耳候、然
| 共、別条相替 御諚も無御座候、乍去、左吉知行之儀、重而如何様共可被 仰出候間、其内御代
| 官をも被 仰付可被下候、相渡可申候由、被申越候ニ付、此方ゟ之返事ニハ、上方ゟ如何様共不
| 被 仰下内ハ、請取申儀成申間敷由申候事、 参考:「坂崎家のやっかい者」
| 昨日廿日ニ
|一、桑原主殿与之御鉄炮衆河部少左衛門、〇病死仕候由、小頭野村孫兵衛申来候事、
|
肥後六花と呼ばれる中に「肥後山茶花」がある。歴史は意外に新しく、明治12年に山崎貞嗣が代表的品種「大錦」を作出・命名したことに始まるといわれる。この貞嗣こそが細川家家臣・山崎半十郎家の最後の当主である。
「東肥花譜‐肥後の花と人と」の著者・山崎貞士は貞嗣の孫にあたる。
その山崎半十郎家の宛行状10点ほどが一挙にヤフオクに出品されている。
山崎家のこれ等史料については、下記の如く松本寿三郎氏編の「細川藩御書出集成」に於いてすべて明らかであるが、新出のものも見受けられる.
又貴重な資料がバラバラになる・・・・
代々御書出其の他(細川藩御書出集成から)
喜兵衛宛 細川忠利 ・寛永2年 知行宛行状
1、傳左衛門宛 忠利公御書出(寛永九年)百石 細川忠利 ・ 寛永9年 知行宛行状
同上 忠利公御書出(寛永十年)百五十石 細川忠利 ・寛永12(10)年 知行宛行状
同上 光貞公御書出(寛永十八年)百五十石 細川光貞・寛永18年 知行宛行状
2、山崎久之允知行所付(承応三年)百五十石
久之丞宛 綱利公御書出(寛文元年)百五十石 細川綱利 ・寛文元年 知行宛行状
山崎久之允控
角左衛門宛 細川綱利 ・ 寛文11年 知行宛行状
3、傳左衛門宛 綱利公御書出(天和二年)二百石 細川綱利 ・ 天和2年 知行宛行状
山崎傳左衛門知行目録(貞享元年)加増五十石
傳左衛門宛 綱利公御書出(貞享四年)三百石 細川綱利 ・ 貞享4年 知行宛行状
山崎傳左衛門知行目録(貞享五年)
山崎傳左衛門加増所付目録(貞享五年)
*、角弥宛 宣紀公御書出(正徳六年)三百石 細川宣紀 ・正徳6年 知行宛行状
4、久之允宛 宗孝公御書出(享保十九年)三百石 細川宗孝 ・ 享保19年 知行宛行状
5、傳左衛門宛 重賢公御書出(寛延元年)三百石 細川重賢 ・寛延元年 知行宛行状
6、山崎惣兵衛知行所付目録(安永七年)二百五十石
惣兵衛宛 治年公御書出(天明六年)二百五十石 細川治年 ・ 天明6年 知行宛行状
山崎惣兵衛知行目録(天明六年)
惣兵衛宛 斎茲公御書出(天明八年)二百五十石 細川斉茲 ・天明8年 知行宛行状
7、山崎角弥知行所付目録(寛政元年)二百石
角弥宛 斎樹公御書出(文化九年)二百石 細川斉樹 ・ 文化9年 知行宛行状
山崎角弥知行目録(文化九年)
9、山崎五郎右衛門知行所付目録(文政八年)百五十石
10、隼雄宛 斎護公御所出(文政九年)百五十石 細川斉護 ・ 文政9年 知行宛行状
山崎隼雄知行目録(文政九年)
11、久之允宛 慶順公御書出(万延二年)百五十石 細川慶順・万延2年 知行宛行状
右手のみでタイピングしている。布団の中で左手の親指の付け根を痛めたようだ。shiftキーを押すのさえ難儀である。
よく覚えていないが、未明左足のももに違和感があり、つるような感じがして慌てて布団をはねのけてベッドから飛び出した。
足の裏を床に密着させてしばらく立っていたらどうやら納まってくれた。慌ててベッドから飛び出すときに左手を突いたのだろう。
当初はあまり痛みを感じなかったが、湿布を貼ったら脈動が感じられるように痛みが来ている。
尾籠な話だが、鼻をかむのも難儀している。
奥方が「年寄りだから長引くよ~」と脅してくる。感じとして二三日で治るようには思えない。
少々タイピングの方は控えて、読書でもしようと思っている。
(寛永三年六月)十二日~十七日
|
| 十二日
|
簗ノ設備ハ三斎領 |一、菅村七太夫・樹下作右衛門、やなノ御奉行申付候処ニ、被罷出、様子被相尋候間、 三齋様御領
分ヲ除ク | 分を差除、御うたせ可有由、申渡候事、
透ノ香炉箱 |一、すかしの御かうろ箱十ノ儀、上方ゟ被 仰下候ニ付、右ノ御奉行岩田甚太郎中津へ参候をよひよ
つるノ間ニテ鼠害 | せ、尋申候処ニ、出来仕候を、つるの間ニ入置候由ニて、松ノ御丸へ被持来候、多大分ねずミ損
| 候を繕せ候、但、手間賃ハ自分ゟ被出候へと申候事、 〃
|
|
| 十三日
|
水野守信使者ノ豊 |一、水野河内様ゟ之御使者、国東郡之豊後へ御通候ニ付、生源寺少九郎・寺戸仁兵衛差遣候処ニ、
後ニ行クヲ見失ウ | 〃〃〃〃
| (築城郡)
| 椎田迄ハ被参候を見申候、それゟハ見うしない、豊後別苻迄参候へ共、左様之人通り不被申す由申
| にて
| 之由被申候、今日被罷帰候事、
| 〃〃〃
|
|
| 十四日
| 〇記事ナシ
|
|
| 十五日
|
透ノ香炉箱 |一、すかしの御香炉箱・しふかミ包一つ、
| (八木)
薬ノ箱 刀箱 |一、御薬ノ入たる箱幷刀箱一つ、本庄勘兵衛ゟ八慶閑へ上せ被申候、
| そう(宗珠院)
|一、いよ殿ゟ〇しゆゐん殿へ、しふかミ包一つ、
| (長沢頼長室、沼田清延女)
|
|一、方々へ、爰元ゟ遣状共、何も歩ノ御小性山田六兵衛・赤尾茂兵衛被持上候事、
能衣装 鮓 干貝 |一、御能衣装、すし・ほしかい等も、右衆被乗候御船ニ上ス、御船頭ハ乃美十左衛門也、
|一、右ノ御舟ニ竹や喜兵衛乗上り候事、
|
|
| 十六日
|
牧山番ヲ召抱 |一、佐藤源左衛門、牧山ノ御番者ニ、今日抱申候事、
| (豊後日田郡)
人返シノ請取切手 |一、日田へ田川ゟ被送遣者ノ請取切手、式ア少殿ゟ今日うつし候て、御取可被成候事、
|
|
| 十七日
|
|一、沢善十郎、母煩見舞として、権七知行所へ罷越、昨日罷帰候事、
| (鍋、南條元信室、細川興秋女)
三斎手作ノ瓜 |一、御手作之うり廿一、おちうりのよし申候而持来候を、おなへ殿へ上ヶ申候事、
|一、御家老衆ゟ被差上せ候御小早、徳嶋八兵衛罷下候事
| (規矩郡) ( 花 瓶 )
忠利国廻ノ時召上 |一、三岳の寺ニて、御国廻之時、被召上くわひんのかわりニ、被遣くわひん二つ、右ノ御舟頭持下
シ花瓶ノ替リ | 候事
|
現在ご紹介している「細川小倉藩‐日録」を眺めていると、盛んに野田小左衛門(幸長)の名前が出てくる。
奉行を勤めていたようだが、於豊前小倉御侍帳には「馬廻組五番 百五十石」とあるし、松本寿三郎氏編の「熊本藩御書出集成」には、元和八年の忠利公の判物に百五十石とある。なかなか剛毅な性格の人物だったようで多くの逸話が残されている。
古史料として「随聞録」というものが残されているが、2年前のいまごろ、熊本県立大学の大島明秀教授がこれを翻刻して「細川侯五代逸話集」として発刊された。
野田小左衛門についても、23話から28話まで登場しており、この人物の逸話が異常に多いことが伺える。
23・屋敷が気に入らない
これは八代に三斎のために建てた新居の材料についての話である。
次の間以下は節のある材木で作られていたことに対する三斎の怒りに対して弁明に赴き、これを言い伏せてか
えって「忠利はよい家来を持った」と言わしめている。
24・奉行のつとめ
これも三斎の怒りを買った話。奉行として「水夫米」や「墓所年貢」を八代領にも懸けたが、三斎の怒りは死
を給うかも知れないと忠利の心配をさそうが、是も見事に乗り切っている。
25・財政再建の秘訣
忠利から財政再建のための献策を求められ、小左衛門は忠利が平常使用する高価な紙を用い、「殿様に都合の
悪い事をなさる事」と認めた。紙一枚でも節約するようにとの意である。
26・類焼の責任
細川家の大坂蔵屋敷からの失火により近辺の商家が類焼した。忠利は細川家による再建を思い立ち家老衆も同
意したが、小左衛門は「馬鹿げたこと」と発言して忠利の怒りをかった。
責任者は切腹して事の重大さを知らしめており、小さな火事ゆえ再建をし、もし大火を出してこれは再建でき
ぬでは通らないだろうと小左衛門は主張する。
これらの事がすべて記録に残り、これが先例となりすべての事例で再建が求められる。
他藩に於いても起こりうる話で、細川家の行いが悪しき事例とならないようにすべきだとのべる。
27・船が沈んだ
大阪のコメ相場は肥後の米の取引によりもたらされたとも言われた。どうやらその発案者が小左衛門らしい。
大量のコメを大坂に運び高値で売りさばき、藩に利益をもたらそうというのである。
大船を出航させたところ運悪く米を乗せたまま舟が沈没した。怒った家老衆は17ヶ条の悪事があるとして攻め
立てたが忠利は弁明の機会を与えた。かえって御羽織を下しおかれて面目を施している。
28・石高は増えない
小左衛門は老齢に至り、頭巾と胡坐がゆるされ忠利の話相手を勤めたという。
奉行としてその職責を果たした小左衛門だが、加増もなく禄高は150石のままであった。
(役職に対して足高が定められるのは宝暦に入ってからの事である)
小左衛門は片目が見えず、足も不自由で馬にさえ乗れなかったという。(島原の乱以降の事か?)
追記: 寛永元年八月四日「日帳」
野田小左右衛門(ママ)まなこ煩申候間、一両日宿ニ而やうしゃう(養生)申候て、
少能候ハヽ、中津へ参候由被申、今日よりはいり被申候事
しかしながら生来弁舌爽やかで道理を説き明かすことに秀でていたという。それぞれの逸話がこれを物語っている。
豊前時代から肥後入国後までの彼の働きぶりが「細川小倉藩‐日録」も含めて記されているが、150石の小身ながらも政事の中心にあってその職責を見事に果たしていることが伺える。
(寛永三年六月)十日~十一日
|
| 十日
|
| (萩、長門阿武郡)
| はきノ商人
萩ノ商人 |一、肥前ゟ此地を罷通候処ニ、筑前ニゟ当町之所米町ノ小野久六所へ書状遣申候を、則御町奉行衆へ
| 〃 〃〃
| 差上、御家老衆被成御聞届被成御済候、此様子御奉行衆へもきゝ候ておき候へと、御申候由、吉
| 田少右衛門を以被仰越候事、
| 惣吉
女敵討ノ処分 |一、国東郡木子村ノ〇めかたき五右衛門冣前一度様子相済、誅伐可仕旨、御郡奉行へ申渡候処ニ、只
| (是門)
町奉行公事開ノ存 | 今かのめかたき五右衛門所ゟ書物を差越候由ニて、吉田少右衛門被持来候、米田與右衛門殿も被
念 | 仰候ハ、冣前様子相済候時、其座敷ニ居申候へ共、御郡奉行ゟ様子被相究、まかたきニ相究候上
| 御郡奉行ゟ我々所へ之お届も無之候由ニ付、
| ハ、我々申分ハ無之居申候由ニて候、〇則国東郡へ次飛脚ニて御奉行へ書状を遣、右ノめかたき
| 郡
誅伐ヲ差留ム | 幷女房誅伐可差留之由、申遣候事、
藍島へ矢箆竹ノ検 |一、横山藤左衛門組田代藤右衛門、あいの嶋へ矢箆竹見せニ遣候事、
分 |
江戸ヨリノ来状覚 |一、安東加兵衛と申歩之御小性衆被持下候状其外覚
国廻ニ供侍ノ替米 |一、当春御国廻中ノ時、御供衆替米之帳、上方ゟ野小左衛門被差下候を、松本彦進・豊岡甚丞へ相渡
ノ帳 | 候事、 〃
| (栗野)(加藤)
中津家中知行替ノ |一、中津衆ノ知行替之書付、小左衛門被下候を、伝介・新兵衛ニ渡候事、
書付 |
|一、御書被成下候、又奉書弐通、奉行衆ゟ小左衛門ゟも被下候、幷方々への書状不残届候事、
米価高 |一、御米ハ高ク罷成、大つハやすく候ゆへ、如先例ニ、大つをかい、うち米も前々の様ニ可仕由、か
大豆買入 | い料左右衛門ニ申渡候事、
当春検地ヲ命ゼラ |一、臼杵半左衛門被申候ハ、当春御検地被 仰付候ゆへ、主知行御郡役被引下との御切紙、宇佐御郡
レ郡役引下グトノ | 奉行衆遣候へ共、御検地被仕仕候間、御郡役仕由、庄や・百性申候由被申候、重而御郡奉行三人
| 〃〃〃
切紙 | 被出候時、此段可相尋候、以上、
| ( マ マ )
|一、秋吉又左衛門・ 両人を半大夫・弥兵衛手伝ニ渡候事、
|
|
| 十一日
| (鬼籠)
女敵討誅伐ヲ延期 |一、国東郡木子村ノ惣吉、めかたき五右衛門幷女房誅伐可被差延之由、次飛脚ニて申遣候処ニ、得其
シ当人等ヲ召寄セ | 意存候、惣吉・五右衛門幷女房、此地へ召寄、御糺明可被成由、申来候事、
糺明ス |
薩摩へ綱買ニ行ク |一、さつまへつなかいニ、岐木與右衛門被遣候ニ付、與右衛門被申候ハ、さき/\ニて、奉行人・宿
ニ肝煎セシ者ヘノ | 主なとニ似相ノ礼物を仕候へと、申渡候ニ付、町奉行ニ紙四束、やとぬしニ銀拾五匁遣由被申
礼物算用 | 候、其ニ付、此御算用聞中摩市太夫・山田七左衛門覚書ニ被尋候ニ、右分申渡儀無紛候間、遣
| (田中氏次) 不
| 候分ニ御算用可被聞届、肩書仕遣候、但、右ノ與右衛門さつまへ被参時、與左衛門被居ニ付、
| (浅山)
| 清右衛門一判ニて遣候事、
| (武次)
物書 |一、牧丞太夫与ノ遠藤五郎左衛門、福田吉介手前へ物書きニ相渡候事、
|
(寛永三年六月)六日~九日
|
| 六日
| (鏡)
小早船頭遅延ニ過 |一、小早ノ御船頭石井又左衛門、大坂下候時、遅ク下候とて、過怠米八斗かけ候切手、善右衛門被持
怠米 | 来候ニ、令加判、遣候事、
| 長崎奉行
水野守信使者ノ接 |一、水野河内様ゟ御使者御座候、式ア少殿・監物殿御返事被遣候、御使者ハ是ゟ豊後へ御通り候由ニ
待 | 付、御国中細々賄被申付、馳走加被仕由、御郡奉行中へ申遣、為御奉行、歩之御小姓生源寺少九
| 郎差遣候事、
| 右之御使者今日被罷立筈ニ候へ共、今日ハ靍乱気ニ付、逗留被仕候、明日被罷立筈ニ候事、則宿
| 〃
| (豊後速見郡)
| 送之馬申付、別苻迄送候へと、御郡奉行中へ申遣候、
守信使者案内賄ヲ | 右ノ御使者被申候ハ、御国中御案内者もいやニて御座候、殊ニ御賄・宿送之馬なとニ乗申儀、中
謝絶ス | /\存之外ニ候、河内守堅被申付候間、可被成御免候、無左候ハヽ、是ゟ国本へ罷帰、余国ゟ豊
領内宿貸ノ禁 | 後へ可罷越之由被申候ニ付、不及是非候、御国中泊々ニてやとかし申間敷候間、宿々ニ其理申さす
| へきため、生源寺市兵衛差遣申候事、
藍島ニ鹿一モナシ |一、あい嶋ニ鹿壱つ居不申由、有田弥左衛門申候事、
|
| 七日
|
宇佐国東郡米改メ |一、宇佐・国東両郡へ、米改ノため遣御鉄炮衆杉山藤兵衛与ノ山田猪右衛門・小野久兵衛両人・今日
借米奉行滞米ノ決 | 罷帰候、何とて今迄逗留仕候哉と申候処ニ、御借米奉行滞米有之儀ニ候間、済候迄い候へと被
済 | 申ニ付、今迄逗留仕由申候、
水野守信使者 |一、水野河内殿ゟ、豊後御目付衆へ被参候使者、式ア少殿へも河内殿ゟ御状参候、豊後別符まて、安
| (案)
| 内者賄可申付之由、式ア少殿ゟ被仰候へ共、いやにて候由、彼使者被申候ニ付而、安内者者ハ被置
| せ、路次/\宿無■儀かし申候様ニ申渡候ためニ、歩之御小性衆可遣由、式ア少殿被仰候而、生
| 源寺少九郎・寺戸仁兵衛両人、別苻まて遣候事、
知行所行ノ届 |一、明日八日ニ、私母煩申候間、弟権七知行所へ罷越候、以上、
| 六月七日 沢善十郎(花押)
|
| 八日
|
使番ニ詰メシ鉄炮 |一、御鉄炮衆、今朝迄御使番ニ相詰させ申候へ共、御小人・御小道具之衆相詰申ニ付、御鉄炮衆へ被
| (由脱ヵ)
足軽ヲ返ス | 差返之申候也
竹屋喜兵衛借銀願 |一、竹屋喜左衛門、今度上方へ被召上せ候付、手前礑不相成候而、容易成不申候間、御銀子五百目かり
| (ママ)
茶入ヲ買物 | 申度由申候、しち物茶入を上ヶ置可申由候へ共、しち物取筈にてニ無之候、此中ハ御腰物なと買
| ニ方々へ被遣候間、万事物之入候儀紛無之候間、何も余かしハ不仕候へ共、喜兵衛儀ハ各別候
| 三百目
| 間、御銀子〇かし可申ニ相究候事、
|
中津郡借米奉行同 |一、中津郡御借米両人・御郡代両人登城被仕候而、大村弥右衛門手永之内、御かし米滞拾石斗を御百
奉行借米滞納ノ対 | 性ニ出させ可申処、又何と可仕候弥と被申ニ付、互ノ証拠無之候弥と尋申候処ニ、矢右衛門手前
策 庄屋書物 | ニ滞有之可然由、村々庄やノ書物を御借米奉行被取置候を見届候而、然上、御百性共銘々ニ未払
| 之請取を取置不申候間、滞分相立可申旨、御郡代へ申渡候事、
中津宇佐下毛郡ニ |一、中津郡・宇佐郡・下毛郡ニやな被仰付候御奉行入申ニ付、式ア少輔殿・頼母殿・監物殿へ相尋申
簗敷設ノ奉行 | 候処、弓削太郎右衛門・菅村七大夫・住江孫三郎・荒木五郎助・大竹與三左衛門・樹下作右衛門
| 可申付旨之事、
京ヘノ鮎鮓ノ鮎買 |一、京都へ鮎ノすし仕、上ヶ候ニ付、田川郡へ鮎を買ニ、御鉄炮一人ニ御長ゑ衆・くわの衆ノ内一人
入 | 相添候而、明日遣可申旨、沢田吉右衛門ニ申渡候事、
平戸ニテ破損船ニ |一、五嶋へ参候御舟、平戸ニて破損仕候時、所之者きも入申ニ付、今度差下申御舟ニ、生酒樽五つ遣
肝煎ノ礼 | 可申由、御年寄衆御さしつニ付、則申付、鏡善右衛門ニ相渡候也、
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28 登城の時兼光を借せと仰有て御指被成し
事度々也 壱尺八寸直焼無銘尓して目釘穴
二ッ有一ッハ鈆ニ而埋有銀の九曜の三笄目貫 鈆=鉛
赤銅ふち金拵也 数馬男子なく女子有 幼少
也 養子被 仰付不行跡ニ而知行被召上女子予
か叔父吉兵衛方ニ引取病死して絶ュ 二郎太夫
八兵衛共尓跡なし 七郎左衛門代々相續の所正
徳年中宜紀公の御代御暇被下置古数馬拝
領の脇差吉兵衛方へ傳る 尼ヶ崎ニ而嶋村弾正
討死の時の三原正盛二尺五歩の刀是も吉兵衛
方ニ傳り吉兵衛被下八隅見山と改兼光
の脇差ハ暦々ゟ所望也 三原ハ行末知連す
此刀尓付てハ家説希代の咄し多し
栖本又七郎阿部弥五兵衛を討取同七之允
と鎗を合働き手負事附り又七郎妻
女仁愛有事
阿部南隣は栖本又七郎平生好ミも深かりし
又七郎文武の勇者也 妻女も貞烈尓して
仁愛有けりと也 新玉の年始ゟ四時折々阿部
か妻女尓酒肴を送り月の夕ア雪の朝々遊
山初詣尓も道を同して交り深く有けれハ阿部
か子共も又七郎夫婦を叔姪の恩をなし馴染
毎朝のゴミ出しは知らぬ間に私の当番になってしまった。私の毎日の散歩のせいである。
今日は終日くもりの予報だったが、朝から雷が鳴り風がうなっている。パラパラ小雨も降っていたが傘を持って出発。
あちこちで木々の小枝が折れ、木の葉が路上に満ちている。
自衛隊の前まで来たら、大きな松ぼっくりが沢山落ちている。三個ほど拾ってきたが、写真の者は9センチほどある。
そして中央部やや下の所から松の葉が二本顔を出していた。「えっ、芽が出たのか?」と思って取り上げてみるが、常識的にはあり得ない話である。
松ぼっくりの堅い一枚/\の殻の下に薄べったい種子があって、松ぼっくりが乾燥するとプロペラ状の羽によって風に飛ばされて飛散するのである。
しかし写真に見える二本の松の葉は引っ張っても抜けない。少々様子を見ようと思いあとの二つと共に持ち帰った。
これはどうやら黒松の松ぼっくりらしい。自衛隊の西側に14~5メートルはゆうにある松の木が5・6本植えてある。
その松ぼっくりである。少々興味も沸いて、松の種子を取り出して植えてみようかと思っている。
散歩の道中は強い風で傘も役立たず、すっかり横殴りの小雨に打たれて濡れてしまった。
午後からは雲間から太陽も顔をのぞかせて寒さは感じさせない。あと一両日は不順な天候が続くらしい。
■細川ガラシア夫人 ヘルマン・ホイヴェルス著 春秋社 1976年第2刷■
この本の初版は1966年だから54年前のものである。私が所蔵するのは初版で箱に入っているが、これはカバーが懸けられているようだ。
著者のヘルマン・ホイヴェルスはイエズス会のドイツ人宣教師で第2代の上智大学の学長を務めた人である。
宗教者・教育者・劇作家などとして多くの著作をものにしている。
この著には、戯曲「細川ガラシャ夫人」が収められている。84~5頁を費やしてある。
劇作であるから全てが正鵠とは言えまいが、惣躰歴史に沿ってよくできている。
その他、20数頁に亘り、当時のキリスト教関係の史料が紹介されており、上記戯曲にも反映されている。
ガラシャ夫人についてはキリスト教関係者の著作が多く見受けられるが、その先鞭をつけた物ともいえる。
大相撲千秋楽は正代関にも優勝の可能性がわずかながらも残されていたので、大いに応援したところであった。
気迫のこもった一番での勝利は、徳勝龍の結果待ちとなって気をもませる。
しかし徳勝龍の見事な相撲で正代の夢はついえたが、それでも相撲界にとっては横綱・大関陣のふがいなさの中での一筋の光明であった。
正代関の今後に大いに期待したい。
処で優勝した徳勝龍が所属する木瀬部屋は、熊本出身のかっての「肥後ノ海」が親方となっている角界一の大所帯の相撲部屋である。
部屋付き親方・稲川はこれも熊本出身の元小結の「普天王」である。
熊本出身の二人がこれだけの大所帯の部屋を作り上げ力士を育て上げている。更なる飛躍を楽しみにしたい。
さて先に触れた「正代関は小代氏?」について、貴重な情報をご連絡いただいた。深く感謝申し上げる。
正代関がかって、先祖・小代氏出自の地埼玉県東松山市正代の地区の方々の招待によりこの地を訪問したということをお教えいただいた。 http://ictv.easymyweb.jp/sp/default.asp?c_id=59949&u_id=hctv
まさしく熊本の野津原庄に入った小代氏の父祖の地である。
正代関が小代家のどこに繋がるのか、大変興味深い。他力本願、御教えを乞いたいと思う。
■ 小代八郎 (南東52-16)
伊勢守・親水
下総守・親泰 加藤家侍帳・四千百三十五石五斗三升
1、市正(清兵衛 下総・至休)
人持衆併組迯衆 百五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)・・下総守
御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百五十人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
2、五郎兵衛・親重
人持衆并組外衆 甚左衛門組 四百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
3、清兵衛・重寛(初・才助)
才助-大木弥一右衛門組 八人扶持・才兵衛嫡子、寅ニ四才 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、孫次郎・親忠(五郎兵衛) 四百石 大組附御鉄炮頭 屋敷・古京町
5、左平太・親之 大組附・三百石 元文元辰十一月廿七日
6、平之允・直安
7、八百八・行平
9、平之允・行高
10、次郎助・行俊
11、八五郎・行敬(五郎右衛門・八郎)
参考 (武家家伝-小代氏)
秀吉朱印状-佐々重備判物-佐々成政判物-清正判物(三件)
-清正宛行状-小出秀政・福島正則連署状
参考 佐々豊水編・小代家古文書(上妻文庫-27
参考 小代家系図并旧記 小代文書(新熊本市史関係資料-4 肥後古記集覧)