津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今川了俊と熊本の20余年

2020-03-14 09:02:55 | 年表

  ■菊池十八外城「台城」における戦いは永和元年の事である。その後蜷打の戦で南朝軍は大敗を期すと、舞台は再び熊本へと展開する。
南朝が最後の大勝利を得たのが永和4年の「託麻が原の戦」である。南北朝の合一迄長い戦いがつづく。

正平23年/応安元年(1368)12月:足利義満(11歳)が征夷大将軍に就任する。

建徳元年/応安3年(1370)7月:今川貞世(了俊)九州探題に任じられる。
建徳2年/応安4年(1371)12月:今川貞世九州入り
文中元年/応安5年(1372)6月:懐良親王菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで
               追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点となす。
天授元年/永和元年(1375) :水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、豊後の大友親世、筑前の少弐冬資大隅島津氏久らの来援を乞う。
               唯一九州探題と対立し着陣を拒んだ少弐冬資は、島津氏久の仲介で来陣したが、水島の陣において了俊は宴の
               最中に冬資を謀殺する。
この水島の変により氏久は離反帰国、以降島津氏は了俊の九州経営に抵抗する。
               又、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止める。
天授3年/永和3年(1377)  :菊池武朝阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の阿蘇惟武等有力武
               将を多数討ち取った。
その後、玉名の臼間野等を平定し隈本城を攻める。
天授4年/永和4年(1378)9月  :今川了俊・同弟仲秋・大内義弘勢が熊本詫麻が原に於いて良成親王(20歳)、菊池武朝(17歳)等と戦い
               敗軍となり、河尻の津より筑後に逃る。

弘和元年/永徳元年(1381) :菊池勢の本拠地隈部城を攻め菊池武朝らを追放。
   ・
   ・
元中8年/明徳2年(1391)  :八代の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏さす。
元中9年/明徳3年(1392)  :南北朝合一を機に菊池武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たす。
応永2年(1395)7月     :了俊は上京の命により同年8月に上京し、九州探題を罷免さる。

                                      参考:新・熊本の歴史3「中世」
                                         新熊本市史・通史編 第三巻「中世」
                                         川添昭二著「九州の中世世界」
                                         田中義成著「南北朝時代」
                                         高田泰史著「肥後武将の源流」
                                         ウイキペディア「今川貞世」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本藩年表稿

2019-04-28 18:19:22 | 年表

 以前ある人が「熊本藩年表稿」を手に入れられた。随分高かったみたいだが、書き込みやマーカー線入などがあるようだし、本自体も相当くたびていたようだ。
現在、熊本藩年表稿を日本の古本屋で検索すると10件が出品されている。安いものは5,000円、高いものでは25,000円といったところだが、なにせ昭和49年発行の年代物だから、状態がまあまあと思われるものは20,000円といったところのようだ。
当時はなかったが、現在大変ありがたいことにこれは、WEBで次の様に公開されている。

          熊本大学学術リポジトリ―・熊本藩年表稿

私はこれをA4叛でプリントアウトして、パイプファイルにとじ込んで使っている。最近その方とお話しする機会がありまたその話に及び、A5版で読みづらいので拡大コピーをして楽しんでいるとのお話であった。
そこで上記の事をお話したらご存じなかったらしく、ぜひコピーをしますとの事であった。
厚さ3センチほどを和綴じしたという話、どうやら両面コピーされたらしく見事な出来栄えになっていた。
私のものは片面コピーだから枚数が多くて、持つには少々重くて難儀するが、又これだけの枚数をコピーする気にはならない。
皆さんが知恵を働かせて、いろいろな形で活用されれば、公開された意儀は深いものになる。深謝・・・

                                  


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■忠利殉死と阿部一族事件に関する年表

2014-06-10 12:33:08 | 年表

 森鴎外の「阿部一族」は、「阿部茶事談」をベースに書かれていることを先に指摘したが、この阿部茶事談の内容のいい加減さがそのまま鴎外によってコピペされ、大家の著作をしてこの事件の顛末がまさに真実を損なってしまっている。
今回の史談会で、この「阿部茶事談」をとりあげるにさいし年表を示してご説明しようと作成したものである。まさに「小説は真実よりも奇」なる事を実感する。 

     寛永18年
     3月14日、寺本八左衛門、枕頭に殉死を願い出る。 ----→家老衆留意

     3月17日、藩主忠利死去
            太田小十郎正信(18)殉死
     
     4月17日、内藤長十郎元續(17)殉死

     4月26日、光貞(光尚)名代、堀平左衛門帰国「今度御供を申出シ候衆」に追い腹禁止を申し渡す(御意に背くなら跡式断絶)

     4月26日、原田十次郎直之・大塚喜兵衛尉種次・橋谷市蔵重次(31)・野田喜兵衛尉重綱(69)・本庄喜助重政・林與左衛門定光・
            宮永勝左衛門尉宗祐(35)・
伊藤太左衛門尉方高 以上八名殉死

     4月27日、右田因幡統安(64)殉死 

     4月27日付、寺本八左衛門正式に願い書差出す

     4月28日、寺本八左衛門(54)殉死

     4月29日、妙解院(忠利)遺骨、泰勝寺に収む

     5月 1日、明石の御鷹春日寺の井戸に飛び込む

     5月 2日、宗像加兵衛尉景定・ 同 吉太夫景好 兄弟殉死

     5月 5日、光貞遺領相続の命あり、翌日登城御礼

     5月19日、光尚江戸発

     6月14日、光貞帰国

     6月16日以前、阿部弥一右衛門尉通信・津崎五助長泰・井原十三郎吉正・小林理右衛門尉行秀 以上四名殉死 

     6月17・18日、田中意徳に対し殉死制止

     6月19日、田中意徳殉死

     6月20日、田中意徳を除く十八人に跡式言渡し

     6月23日、田中意徳跡式言渡し

     9月29日、光貞参勤の為発駕

  寛永19年  
     4月    妙解院菩提寺(妙解寺)建立の為、家中以下に賦課あり(百石に三歩役、その他は一分半役)

     6月12日、光貞(光尚)帰国 この秋、光尚と改名ス 

  寛永20年

     2月13日、妙解院追福の為一寺建立、妙解寺と号す、17日まで取越法要行わる。この月遺骨を移す (江戸東海寺中妙解院同断)

     2月17日、阿部権兵衛、焼香の際元結いをはらい、目安を上げる 即刻逮捕の上、組頭・藪三左衛門に御預

     2月21日、阿部一族誅伐 、権兵衛も井手口に於いて「縛首」処刑さる。

     3月14日、阿部権兵衛召仕以下の者、豊前の者四人、国の者八人、計十三人のうち、豊前以来の三人誅伐、他は放免さる。

     

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忠興公年表から(一)

2013-06-22 09:11:59 | 年表

・永禄六年(1563)癸亥十一月十三日、忠興誕生 熊千代・与一郎・越中守・従四位下侍従・少将・従三位宰相・三齋宗立・松向寺殿

・天正二年(1574)甲戌正月十七日、信長の命に因て明智光秀の女御嫁娶之約有之

・天正四年(1576)丙子十一月、十四歳ニ而甲冑御召初

・天正五年(1577)丁丑二月十五日、藤孝君貝塚の一揆攻衆にて御向ひ被成候時、忠興君十五歳ニ而初陳也

・ 同            二月廿二日長尾合戦、三月朔日鈴木孫市居城攻に参加

・ 同            十月朔日河州片岡城攻・・・「忠興君御若年にての御働を、信長公深く御賞美被成、感書を被進候、人皆羨之候と也」

       綿考輯録はこの感状については、その内容を取り上げていない。
       信長直筆の書状であることを証明する、堀秀政の添え状がある貴重な書状だが、綿考輯録の編者小野武次郎はこれを見ることが出来なかっ
       たのかもしれない。 
       追記:実はこの書状については天正七年の丹後攻めにあたっての項に取り上げられている。果してどちらが本当?  6:23/22:22記

                                  

                                               働き手からニて候
                                                         かしく

                                               おりかみ
                                                   披見候
                                               いよ/\
                                                   働候
                                                      事
                                               無油断
                                               馳走候へく候
            
                                                 十月二日

                                                 与一郎殿 

 堀秀政の添状
       御折紙具ニ今披露候処則ち御自筆之披成御書候
       尚以相替儀候ハゝ追々可有御注進旨御意候恐々謹言
                             堀久太郎秀政 判
             十月二日
          長岡与一郎殿
                 御陳所


附けたし
さて此の時、細川軍の勇士・下津権内が戦死した。そのことを忠興は残念に思い「つりを被仰候」と綿考輯録は記している。(巻九p9)
この「つり」とは「吊」の字を当て、「弔=とむらう、弔意」の意がある。ところがここでは「つり」と記してあり興味深い。 

                 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤穂義士切腹当日 「旦夕覚書」から

2013-02-04 12:07:14 | 年表

一、翌四日の朝、花を出し候へは、何れも忝り被申候、飯後に林兵助代りに参候故、拙者は何心なく代り相引取候、四日には太守様御入被遊沙汰前夜
    より有之、依て何れも衣類改居被申候、次之間に出候へは、十郎左衛門被申候は、今日は御代り被成候由、重て御越被成候砌迄はいかゞ、多分其
  内埒仕にて可有御座候、何れも様御懇難申盡存候、就中傳右衛門殿、何れも御心易存居申候、とてもの事に、御詰内に埒明申様に、願申事に候と
  被申候に付、拙者も何の気も不付、被仰出前以承申にて可有御座候間、詰前にて無御座候共、罷越候て可得御意候と申候て罷立、詰所に参候へ
  は、関惣左衛門も参居申、何とやらん急に歸候心もなく咄居申候處に、堀尾萬右衛門被参候て被申候は、我等へは其儘逗留にて咄候様にと被申候
  付、私宿へは同名喜左衛門罷越、逗留致居申候故歸り可申候、こなたは何とやら、各様がおそろしく候と、雑談なと申候て立申候、四日には代あひ
  にて歸候儀と、同名平八は兼て存居、其日は平八方へ他客も有之、精進日を能存候故、是非立寄候へと、約束いたし置候事を存出し、数寄屋橋邊
  にて、御借馬の仲間に時を尋候へは、九ツ半過と申故、夕飯時分もと存候て、小姓并に挟箱は町宅へ直に返し、鑓斗にて数寄屋橋御門内へ乗込候
  へは、向より平野丹右衛門羽織着、馬に乗参候にあひ、様子尋申候へは、追付芝え上使有之候と申候故、早速草履取を町宅へ遣し、小姓挟箱なと
  参候へと申遣し、丹右衛門と致同道、丹右衛門は愛宕廣丁通参候、拙者は近道日影丁参り、増上寺門前通にて、堀七郎兵衛に逢ひ上使有之故、御
  用に付参り候とて立別れ、夫より新堀にて鎌田軍之助に追付申、些用事御座候迚乗通、目黒御門番に馬を預、其儘裏玄関に上り候へは、何れも麻
  上下着用に付、同名喜左衛門方へ麻上下取遣、着用仕候てより、丹右衛門なと追々参申候、夫に付兼ても申候様に、武藝の内にても、馬は生もの
  にて候、乗手をよく存候、兵法鑓は必の働にて候故、大體に有之候てもよく有之候、當時馬少き時節故、稽古成兼可申候へとも、心懸候はゞ成可申
  儀と、亡父も度々申候、上手に成候ても武藝の名高き武士は、昔は嫌ひ申候、心懸有之事肝要と存候
       但拙者今朝代り歸候處、其儘出候はゞ、何れも不審に可被存と、指控のそき候て見申候、總體諸人の顔
       色、其外の様子共、何共合點不被仕様子にて、御料理給被申内にも、互に見合早く仕廻度との様子に見
       え申候、いつれも給仕廻被申候て、八木市太夫罷出、上使にて御座候間、麻上下御着用可然と申候て、
       黒羽二重小袖、浅黄無垢二宛、麻上下、上帯、足袋出申候、我等も罷出、十郎左衛門助右衛門なとには、
       袴の腰を當遣候事
一、内蔵之助被申候は、傳右衛門殿もし花は御取入被成間敷哉と被申候、依之花は自身に取入申候、扨十七人衆上の間に次第のことく着座有之候事
一、上使御使番久永内記様、御目附荒木十左衛門様、御通り被成候、御跡より此方御側衆なと、段々次第のことく罷出被申候、拙者も唐紙越に承候、上
  使の趣は、浅野内匠儀、勅使御馳走之御用被 仰付置、其上時節柄殿中をも不憚、不届之仕形に付、御仕置被 仰付、吉良上野儀、無御構被差置
  候處、主人のあたを報儀と申立、内匠家来四十六人致徒黨、上野宅え押込、飛道具抔持参、上野を討候儀、始末 公儀を不恐候段重疊不届候、依
  之切腹申付者也と、十七人の名字共一々御よみ被成候、内蔵之助御請に、いか様に可被仰付も難計奉存候處に、すべ能切腹被仰付候段、難有仕
  合奉存候と申候、又十左衛門様なと何か被仰候やうに有之、内蔵之助も御返答被申候様に候へとも、譯はとくと不承候、總體内蔵之助は、小聲なる
  人にて候、其後助右衛門側に指寄申候は、右の譯を被申聞候、助右衛門所に書付置候事
一、上使御立以後、我等も其儘可罷出と存候處に、宮村團之進被罷出候て、内蔵之助を呼立、何か暫被申候、堀部彌兵衛は長瀬助之進呼立、是も右
  の通にて候、定而御意の趣有之事と存候、團之進、助之進被立候跡にて、上の間へ出候へは、内蔵之助上之間に被参候て、扨々難有仕合、御意の
  趣可申候間、何れも御寄候へと被申、老人衆被申候、其譯は何も分り不申候へ共、内蔵之助落涙の體にて、段々有難事共と被申す候、事は聞え不
  申候事
       但右の様子、外に見申たる衆も無之、其後江村節齋に逢咄候へは、達御聴被申候へは、何とも不被遊御
       意、いかにも左様に可有之との御意と申候
一、御酒土器銘々に出申候、心易咄申候衆には盃所望仕候事
一、鎌田軍之助・長瀬助之進我等へ被申候は、心安衆有之候て若介錯を頼被申候事も可有之候、仁柄極書付御目附衆へ出申候、其心得仕候様にと
  被申候、然共箇様の事頼被申候事無之候事
     

                               (続く) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世忰被召出候面々

2013-01-30 07:57:55 | 年表

御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世忰被召出候面々
       
ここに記載ある500石以上のものについて列記する。陽明学徒の内西川与助の扱いはその由緒によるものか? 

寛文元年閏八月
  ・千石     堀江勘兵衛    四拾人扶持被下置、病死 
       綱利の側近、綱利の初入国に際しその行列の華美に過ぎるのを咎められたという・・・・?          断絶カ

寛文五年六月
  ・五百石   平野三郎兵衛   躮三郎兵衛ニ元禄三年三拾人扶持被下之     平野弥平家

寛文九年十月
  ・五百石   西川与助      元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付、躮弥右衛門御勘気被成御免、
                       五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ召加候
       秀吉から感状を賜った高名の士、陽明学徒追放により国内宇土に閉居した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西川均家 

寛文十一年八月
  ・五百石   佐分利兵大夫    躮佐分利七兵衛ニ元禄四年三十人扶持被下候   佐分利彦右衛門家(弐百石)

延宝六年七月
  ・六百石   大河原治部進    元禄三年妙解院様五十年御忌之節御勘気御赦免被成、十人扶持
                        被下之、元禄五年甥大河原源八養子ニ被仰付右之御扶持方被為
                        拝領、側御中小姓与ニ被召加候            不明

延宝六年九月
  ・千石    丹羽亀之丞      元禄三年妙解院様五十年御忌之節御勘気被成御赦免、三十人扶
                        持被下之                           不明

天和三年六月

  ・五百石   佐藤八郎右衛門  元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付、躮団之允御勘気被成御免、
                       五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ被召加候    不明   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真源院様御代御侍名附

2013-01-27 21:47:07 | 年表

真源院(光尚)時代承応年間の侍帳とされ、天草島原の乱後のもので、これらの褒賞により高禄取りの家士の数が急激に増加している。158人
一方三齋の側近であった10,000石の長岡(村上)河内その他の人の離国などのより、非常に出入りが激しいことが判る。

同じく光尚代の侍帳に「真源院様御代御侍免撫帳」があるが、これは高禄の方から順次並べられているが、この時期の500石以上の家士が177人は尤も多く、以降数は減っていくことになる。
 又「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」や。「御国追放被仰付候面々」「御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世倅被召出候面々」その他の資料によると多くの高禄の家士が、禄を召し上げられたり、其の為に離国したり、落席したり大変大きな動きが認められる。綱利代の陽明学徒の追放などもその因の一つである。

 人持衆併組迯衆
   30,000石  細川帯刀
   25,000石  細川刑部少輔
   30,000石  長岡(松井)佐渡守(興長)
   28,500石  有吉頼母佐
   10,000石
                 少輔(行はずれ、まま)

    5,000石          (氏名なし)
    6,000石  小笠原備前
    6,000石  志水伯耆
    5,000石  平野弥次右衛門
    3,000石  南条大善正

    3,000石  佐久間半丞
    3,000石  上月長(文)右衛門
    3,435石余 大木与平巳
    2,000石  早川弥五左衛門    承応弐年十月・御暇
    1,500石  長岡(三渕)道伯
    1,500石  松野右京
    1,000石  長岡与八郎(忠恒・・内膳家)
    1,000石  長岡半左衛門(忠春・・内膳家)
    2,000石  藪 市正

    1,000石  平野九郎右衛門
    3,000石  長岡(沼田)右馬助

    1,000石  丹羽亀丞         延宝六年九月・御知行召上、元禄三年御勘気被成御赦免
    1,500石  有吉内膳正
    2,000石  西郡要人佐
    1,000石  槇嶋半丞
     700石  筑紫左近
    3,000石  尾藤金左衛門
     800石  小笠原民部少
    2,000石  平山三郎左衛門     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1,000石  牧 平左衛門
    1,000石  下津清吉
    5,600石余 平野茂左衛門
    1,000石  沢村八良左衛門
    1,000石  尾池傳右衛門
    1,000石  尾池藤左衛門
     550石  津川次郎左衛門
    1,000石  松野采女

    1,000石  楯岡孫市郎
     500石  後藤与兵衛
     650石  竹内七郎右衛門
    1,500石  三宅藤右衛門
     500石  上田新兵衛
     500石  河方安右衛門
     800石  上月源介

     500石  沼田半之助

     506石余 平野三郎兵衛
     500石  沼田小兵衛
    1,000石  平野源太左衛門
    1,000石  長谷川仁左衛門

  御鉄炮頭衆
    3,008石  奥田権左衛門
    1,050石  寺尾九郎左衛門
    2,500石  伊丹半弥
    1,000石  芦村十郎左衛門
    2,000石  浅山修理亮
     500石  西川与助
    1,500石  長尾伊織
    1,000石  住江甚兵衛
     800石  佐分利加左衛門
     900石  山田新九郎
     600石  田中又助
     700石  木戸与五右衛門
     700石  野田安兵衛
    1,000石  中根平兵衛
     650石  河喜多九太夫

     500石  平野治部左衛門
    1,000石  谷 忠兵衛
     500石  奥田藤左衛門
     600石  早水助兵衛
    1,000石  小崎五郎左衛門

    1,200石  斉藤又太夫
     700石  横井牛右衛門
    1,300石  松野亀右衛門
    1,500石  出田作左衛門

  御弓頭衆
    1,000石  中路内蔵介
     500石  黒部孫丞

  御買物奉行衆
     600石  小笠原宮内少  
     500石  藤懸蔵人
     500石  金守外記
     500石  吉弘嘉兵衛
     500石  山尾又作
     500石  貴田角右衛門
    1,000石  坂崎金右衛門

  一番長岡右馬助組
     700石  佐藤安太夫
     500石  松崎伝介
  二番谷内蔵允組
       なし
  三番丹羽亀丞組
    1,000石  国友半右衛門
  四番有吉内膳正組
    1,000石  春木主税
     500石  山川平兵衛
    1,500石  奥田源左衛門
     500石  中村市郎右衛門
     500石  水野善左衛門
  五番西郡要人佐組
     800石  林才兵衛
     500石  赤埴八良左衛門
     500石  小笠原勘介
  六番槇嶋半丞組
    1,000石  嶋又左衛門
      500石  佐分利兵大夫
  七番筑紫左近組
    1,000石  小坂新八
     500石  濱田新蔵
     500石  井上勘左衛門
  八番藪図書組
     500石  大塚喜兵衛
    2,000石  藪 図書
  九番小笠原民部少輔組
     500石  松野善右衛門
     600石  長尾清右衛門
     500石  冨田藤松
  十番平山三郎左衛門組
    2,000石  藪 市正
     500石  湯浅三大夫
    1,000石  陳 吉大夫
  十一番氏家志摩守組
     600石  吉見内蔵助
    1,000石  志方半右衛門
     600石  吉住伝右衛門
     500石  上月十郎
  十二番牧平左衛門組
     なし
  
  御詰衆
    3,066石余 坂崎兵庫
     500石  山田三郎右衛門

    1,356石余 横山五郎大夫
     700石  堀 太兵衛

     600石  小笠原隼人正

    2,822石余 朝山斉助
     500石  金子十郎兵衛
     500石  仲光半助

     500石  山路新太郎

     800石  住江求馬助
     500石  佐藤八郎右衛門

     800石  藤崎作右衛門
     500石  遠坂関内

  御小児性衆
    1,000石  有吉市郎兵衛
     500石  高木吉右衛門

  御側物頭衆
    1,000石  柏原新右衛門
    1,000石  寺本久太郎
    1,000石  奥村安大夫

    1,000石  田辺平助
     500石  芦田与右衛門

  御使番衆
    1,000石  津田三十郎
     821石余 高見権右衛門
     500石  続 次大夫
     568石余 生田又介
    1,000石  乃美市郎兵衛
     800石  林 孫介
     600石  落合勘兵衛

     500石  服部武右衛門
     700石  上月八右衛門
     500石  丹羽源兵衛
     500石  山内八大夫
     500石  佐藤小右衛門
     800石  芳賀助右衛門
     500石  加来佐左衛門
     700石  三宅藤兵衛
     500石  兼坂藤右衛門
     500石  戸川貞右衛門
     500石  上条又十郎

  御医師衆御伽衆御茶道衆
     600石  片山自庵
     600石  明石玄碩

  御側組外衆
     500石  志水久馬
    1,000石  須佐美権之丞
     650石  永良長兵衛
    1,000石  大河原仁右衛門

     500石  阿部主殿助

  組外衆
    1,000石  松下市進

     800石  河喜多五郎左衛門

  八代与力衆
    1,500石  立石市兵衛
    1,500石  岩越惣右衛門

 

   計158人 

    

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入江平内事(三)

2013-01-23 08:35:59 | 年表

         入江平内事

            一先祖入江平内儀兄入江淡路守と最初には若州邊見家江相勤
             申候処邊見家断絶ニ及申候ニ付  御家ニ来候処淡路守江は
                                                御知行三百石平内江は弐百石被為拝領  三齋様御近習
             ニ被召仕候
            一天正十年九月八日一色殿御討果候節  三齋様江御長刀
                を取差上申候右御長刀ニ而被遊御働日並小左衛門と申者
                之面を遊御剥差候其砌ゟ面之御長刀と被遊御号候平内
                も並ニ切出働申候
            一同十八年秀吉公関東御陳之節伊豆國並山城攻之砌
              三齋様御水練ニて堀を越城之様躰を被遊御見分候節
              平内壹人被召連同水練仕御供仕候
            一慶長五年八月岐阜被遊御攻候節は 与一郎様御
              手ニ付従 三齋様被為 拝領波草之陣羽織を着仕候而相働
              申候 三齋様被遊御覧奇特成ル働仕候由被為成 御意候
            一同年九月十五日関東御合戦之節 三齋様御側ニて相働
             玄蕃様江之御使等も相勤申候
            一慶長六年十月従 三齋様被為 拝領候御書出樹下
             団之允家ニ持傳居申候写左之通

                    豊前国下毛郡之内
                 一六百九拾五石六斗弐升八合
                       内
                 一 三百五拾石     樹下壽林
                 一 百石          樹下右門
                 一 弐百石        入江平内
                 一 四拾五石六斗弐升八合
                       松下因幡組江出候
                       以上
                       慶長五年六月十月日 御衆印                                                               

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする