津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覺書」 鳥--10

2011-10-29 09:57:50 | 旦夕覺書

         この項は大変長文であるため三回に分ける。其の(一)

新知被為拝領しはらく仕候て老父知行所の観音に神米毎年差上候事存出し拙者知行所の村にて祭禮有之候両所とも新米差上申候 御加増被下候正保村名も拙者生れたる年號にて不思議と心付所々様子承り候へはむかし阿蘇大宮司知行にて御座候由承候故阿曾へ初穂銀少差上申候 其後傳右衛門代に替人有之毎年札申請候 尤近所に伊勢御座候故毎年米の初穂差上申候 是も老母被申候は拙者内入新知同日に拝領いたし候時両人に無心申事有之と被申候故何事にて御座候哉と申候へはいや薬師法王へ米豈(壹カ)俵宛毎年くれ候へと被申候得其意候由に毎年上申候 其砌は拙者何の心なく其後又被申候は祖母妙菴の位牌蓮臺寺に上置被申候哉是も得其意候と申西岸寺下にて毎年上せ申候 右の妙菴権之助殿娘一人子にて幼少之時鬼松とつけ被申殊の外秘蔵にて十二三迄は門前を池田輝政公御通被遊候節は召連御目見被仕候へは毎度鬼松出たか堀出かと御意被成候由幼少にて咄承申候 拙者母八右衛門角入不白母にて拙者其為には祖母にて熊本へ被参果申候 十七日廿六日に精進を被仕月待日待も宮内に頼其餅を毎度給申覺申候 老父は誰にても昔咄すき妙菴へ参被候へは昔備前にて構之助殿代の名ある侍ともの事尋被申候に誰は知行何程夫は番頭足軽頭と一々覺咄被申候覺居申候 むかしは外にも似たる人多く候 長谷川久兵衛殿御母儀諸仙と申も老母所に折々被参祖母同前の年にて老父と咄被申候に妙菴同意の咄にて御座候 右の通むかしは女にても武士の子は男子の心御座候 近代にも其所々の風俗と見へ先年十七人の義士磯貝十郎右衛門母儀は貞柳と申拙者に一ツの年おとりにて何も切腹の年の五月廿六日に十郎左衛門事のみ思ひ被申候哉つかへ差出被果候 病中にも音信仕見舞臥居被申候所へ呼被申達候 富森助右衛門母儀にも竹屋惣次郎と申候て此方屋敷へ出入仕候刷屋所にて初て逢申候 右両人の咄承申候何も女には珍敷昔も今も女は女男は男にて替りは有間敷候へとも其所々の風俗にも寄り申又は親の心により娘にも幼少の時より武士の道語り聞せ見習たる哉と存候 其刻亡妻方へ申遣候にも拙者姪共に能く申聞せ候へとて神依頼同前に存右の通に候然とも各存候通同名中にても拙者は身軽く御奉公に罷出三人の内にても弟にて候ヘは何を申か當世はならぬ事なとヽ心の内に何も被存たるも世の習ひにて恨共不存候 拙者初として勤申内には侍中それ/\に結構に被召仕候より禄も多く位も能被仰候へはおのつから人柄も能く見へ敬慎申事に候 左候へは其人は自慢顔にて勤申せとも大勢の小身者の内には右の人より上成る者多く候故打寄/\そしり笑申せ共其人はしらす次第/\におこり出来心まヽに成候故天罰にて或は若くて病死いか様災難も有之天のつけと咾み不申出入者は其人を心實から能きと思ひ又は夫程には思ひ不申候へともへつらひ廻りいや外にもケ様の事多く他國の事を申出うそ誠我等にさへ申たる當世者神以幾人も有之候定て十左衛門殿舎人殿御懇頃の儀は太守様も御存被遊候 家中侍中は不及申其時傳右衛門/\と申相伴にも方々参申候て味き物給廿年在宅仕其時節を思ひ出如斯聞申候 各若く候へば結構にも被召仕候様に有間敷物にてもなくうかへる雲の如しと賢人の言のごとく成行申候間必々古人の言葉を被存結構に成候程重く被召仕候位程/\に手前の身を軽く捨其身より末々を恵む心を第一に心得可被申候 尤目利相違は聖賢ならでは人の目利は成らぬ物と承申候 能きと被思召候ても悪敷物も可有之候へ共人には必又能き所或は十の物六七能き方にて可有之候 又八九能候ても一ツ二ツ悪敷御用に立申さぬ者可有之候十が十能き者可有之様無御座候若有之候ても實の男は無之物と信玄記に有之候

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御恵贈御礼・日本エッセイストクラブ編 ’11年度ベストエッセイ集

2011-08-28 16:24:14 | 旦夕覺書

 畏友近藤健氏から’11年度ベストエッセイ集をお贈りいただいた。今年で29年目となるこのエッセイ集に、市井のエッセイストとして今回五度目の掲載となる快挙を達成された。

                               

 氏は赤穂義士・堀部弥兵衛の切腹の折介錯役を勤めた米良市右衛門のご子孫である。時代が下って米良亀雄なる人物が神風連の挙に参加、以降ご子孫は北海道に屯田兵として入植された。当然氏も北海道のご出身だが、大学時代を京都で過ごされ、就職されて以来ずっと東京にお住まいだった。今年初めに北海道に転勤された。ひょんな事でお付き合いが始まり、ご厚誼いただいている。そんな中でこの権威あるベストエッセイ集に五回も登場されたのだが、どの作品も氏の人柄があふれた温かみ溢れる佳作ばかりである。出版業界も荒波の中にあるらしく、残念ながらこの本も今回がお仕舞になるらしいが残念の極みではある。

  • 05年ベストエッセイ集・掲載・・「警視総監賞」
  • 06年ベストエッセイ集・掲載・・「昆布干しの夏」
  • 08年ベストエッセイ集・掲載・・「介錯人の末裔」
  • 09年ベストエッセイ集・掲載・・「増穂の小貝」
    ・ 11年ベストエッセイ集・掲載・・「風船の女の子」     
  • 私のサイトでも「 Coffee Break Essay 」 でご紹介している。
    ご一読をお勧めする。

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    氏家卜全と大木土佐

    2011-08-12 17:24:10 | 旦夕覺書

     氏家卜全と大木土佐のそれぞれ立派なお墓(碑)が某サイトで紹介されている。

        氏家卜全  http://www.m-network.com/sengoku/haka/bokuzen450h.html 
        大木兼能  http://www.m-network.com/sengoku/haka/kaneyoshi450h.html

     両家は時代を経てその子孫が細川家に仕えた。氏家卜全孫女は細川忠興二男・興秋室(飛鳥井中納言持信再嫁)である。大木兼能は加藤清正の死去に際し殉死したが、孫兼憲が忠利に仕えた。その室は加藤清正側室竹の丸殿の妹である。大木家はその直系とともに家老有吉家、旧主佐々家にその血が流れている。

     この二人が相まみえる事があったかどうかは定かではないが、共に長嶋城の戦(長嶋一向一揆)に加わっている。卜全は信長軍の武将として第一次侵攻に加わり戦死した。今読んでいる文書「大木土佐」では、「氏家卜全なとヽ申信長秘蔵之侍大将討死仕候」と記している。
    上記お墓の写真によると、その場所は戦死した場所とされているが、長嶋輪中からはいささかの距離があり、当時の戦いが輪中に留まらず広範であった事を窺わせている。

     一方大木土佐は奇跡的に生き残りその高名を残した。その高名は秀吉も知る処となり、佐々成政家臣の道につながり肥後との係りができ、加藤清正との縁へとつながった。文書「大木土佐」によると、大坂で中風を煩った土佐を清正が見舞い、その頭を自らの膝にのせ、「何とそして此度本復仕候へ其方相果候へハ我片うで落たると同前なり」と言い落涙したと記す。そのことが土佐をして殉死ならしめた「根本此一言」であったという。

     文書「大木土佐」の読み下しは、あと数文字が解読できずに苦労している。
    完読した際には提供者のお許しをいただき、全文をご紹介したいと思っている。

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    「風説秘話」から お上人と願人坊主

    2011-07-22 12:17:05 | 旦夕覺書

     以前「風説秘話」をご紹介してきたが完結していない。今回は八代番頭・河喜多三左衛門についての一項をご紹介する

    三左衛門 後兎山
        字不知
    河喜多○三郎或人の許ニ行しに亭主掃除様して取紛レ様子ニ付直ニまたんとせしかハ 亭主云今日は延壽寺の上人見へ申筈也滞可被咄と云 然らハ迚居けりしに端して亭主最早追々見候半迚上下を着けり 河喜多大ニ心ニ不叶居内延壽寺来りたれハ亭主迎入次之間より手を突慇懃ニ挨拶す 河喜多少も不構居たり 主人気の毒ニ思ひあれは河喜多○三郎とて八代番頭ニて御座候と云 延壽寺聞て是ハ/\當時迄間違不得御意私様は世外之事ニ候得は御侍方ニ對し御番頭衆も御番方衆も同様ニ心得御無礼致候と云しかハ河喜多云様是は被入御念御挨拶ニて御座候 成程御世外之事故此方も御自分様も願人坊主も同様ニ存ると云たるとそ

     言葉の使いようには随分と気をつけなければならない。
    延壽寺の上人さまも願人坊主と一緒になってしまった。

     ここに登場する三左衛門(兎山)とは、次のような人物である。

        三左衛門・一英  六百五十石外二百石 宝暦五亥二月廿四日当役
                   宝暦五年二月(廿挺頭)~宝暦十三年三月 八代番頭
        
    河喜多斗山 名は一英、三左衛門と称す。世禄六百五十石藩に仕へ八代番頭を勤む。
        剛直の士なり。致仕後免山又は吐山と号す。寛政二年九月二十日没す。


     ちなみに延壽寺とは川尻にあるお寺のことであろうか。(断定は出来ないが)
             http://www.tendai924.com/enjuji/

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    「旦夕覺書」 鳥--9(2/2)

    2011-07-12 23:31:51 | 旦夕覺書

     口の過たる故にと度々十左衛門殿口に手をかけ縫ひ細め候へ當世にて勤候へと毎度暇乞に参候時分被仰聞候 然れとも若き時分より生れ付にて人前にても無遠慮思ふ事不残申ゆえ諸人にくむも尤と存候 右の通御目附申達候て舎人殿以の外立腹にて翌日江村節斎上御屋敷へ参候とて扨々能時分被参候 唯今芝えへ拙者を呼に遣可申と存候處に幸にて候 明日早々御用有之候間参り候へと上御屋敷に被参折節堀次郎右衛門小屋にて咄居候處へ節斎被参候て右の通被申聞候故次郎右衛門殿も何事哉と節斎に尋被申候へはとくとは不承候へ共拙者に向先日芝へ御供に参候時何そ不調法成る事候哉終に見不申程に舎人殿顔色替申候由拙者に被申聞候 拙者もこもつふしはつと存候徒記に次郎右衛門殿御申候は夫程舎人立腹の様子ならは思ひ當る事はなきかと拙者へ被申候故いや/\ケ様/\の事御座候御廣間の御目附より御聞被成候物と申候へは夫々扨々苦々敷儀にて候 随分/\申譯あらは能々申候へと次郎右衛門殿節斎も殊の気遣にて被申候 拙者儀は不及申最早明たる事新知拝領にて初て罷上り如斯の儀は天罰と極め鑓を持せ申事も最早是迄と存神以鑓もたせ急き参候
    舎人殿中山九朗左衛門咄居申候へとも罷立候へ御用之儀有之傳右衛門呼寄候由にて次にて逢申し直に居間に参候へは是へ寄候へと御申候故寄候へは先日御廣間の前を木履にて通候由如何様の心得にて踏通候哉御申候故いつも妙解院へ御参詣の御供ふれに芝へ御寄被成候由觸申候へはそふりたけをも持せ申候へとも其前にの觸にも任せ直に御帰被成候と何れも存候てわらしの替斗持参候故ケ様/\と申候へは敷石の上にてはたしに成程に心付候はヽ其儘にて可参儀に又栗石の上にて踏申事はいかヽとしはらく物をも御申なく案し居被申候故少又寄候て申候は私儀今度新知被為拝領候て初て罷越候處に右の仕合兎角可申上様無御座候 

                           以下書き込み中

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    旦夕・堀内傳右衛門とその一族

    2011-07-05 22:37:30 | 旦夕覺書

     肥後堀内氏は家祖を安房守氏善としている。氏善は加藤清正に仕え、宇土城代などを勤めて慶長20年(1615)に熊本城で病没したという。墓所が宇土市三宝院にある。
    没年については、サイト熊野学の熊野の歴史/略年表(近世)によると、「慶長十四年(1609)14.8.15 己酉 堀内安房守氏善、肥後国宇士(熊本県宇士市)にて死す 」等諸説ある。

        武家家伝-堀内氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/horiuti.html
        ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/堀内氏善

      ---+--安房守氏善(新宮27,000石→加藤清正臣・宇土城代)
        |
        |    (1)     (2)
        +--半介---構之助---+==三郎兵衛     
                 |    ‖------+===妙庵  
                 +-----妙庵   |     ‖-----+--三盛----------------------------→(三曎家)
                          |     三盛  |
                                                              |       +--喜左衛門---+--喜左衛門-------→(謙太家)

                                 |             |
                                  |             +--傳右衛門-------→(傳内家)

                                                              |
                          +--八右衛門---------------------------------------→(角平家)
                          |
                                                              +--角之允-----------------------------------------→(軍蔵家) 
                                                              |
                          +--文右衛門---------------------------------------→(卓爾家)

                               
     肥後堀内家は六家を数えるが、上記略系図は「堀内家先祖附」「旦夕覚書」「堀内傳右衛門覚書」などを資料として作成したものだが、堀内家は女系の一族である事が分かる。氏善の甥(弟・半助子)構之助女・妙庵と、婿養子・三郎兵衛との間に三人の男子と一人の女子をもうけた。女が医家・三盛と結婚するが、この三盛の名前が「肥後入国宿割帳」に見え、堀内一族の消息の初見である。
     この当時構之助(1)、三郎兵衛(2)は池田輝政に仕えていたらしいが、それを証明するものに、「備前侍帳--500石・堀内構之助」「寛永10年岡山藩侍帳--300石堀内三郎兵衛」というものがある。(ろんがいび:堀内伝右衛門の家系と親族より引用)

     つまり堀内三盛が、義弟三人を肥後細川藩に推挙したのではないかと考えられる。ちなみに角之允の召出は、先祖附から寛永18年である事が分かる。

     赤穂浪士の接待役を勤めた堀内傳右衛門は、三盛の次子・喜右衛門の子である。赤穂浪士にかんする記録を書き残し、赤穂浪士研究の貴重な資料と成っている。
    面白いのは六家全てが200石を頂戴している事である。

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    私九州ジゴロウのB型です

    2011-07-05 12:53:51 | 旦夕覺書

     防災担当大臣がやめましたね~、当然のことでしょうが菅政権もいよいよいけませんな~。
    被災者の皆様には神経を逆なでする発言で、皆様お怒りでしょうが、九州のB型人間に対しても失礼な話ですよ。政治家って本当に発言が安易ですね。直情径行なタイプだといいたかったのでしょうが、人の気持ちを慮る気持ちが欠けていますね~

     皆さん・・・九州のB型人間は良い人ばかりですよ(私を含めての話ですから・・)

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    「旦夕覺書」 鳥--9(1/2)

    2011-07-04 13:08:46 | 旦夕覺書

    我等は十四より馬を乗習ひ申候 其刻十八日には毎月初瀬へ参候 老父被申候は何と存参候哉と被申候時馬を能乗り落不申怪我不仕様にと拝申と申候へはいや左様に我身の事はかり拝し申さぬ物にて候 頓て御入國被成候へは御目見させ可申候 左候へは無足にても殿様御家来にて候 神前にては先殿様御機嫌よく御繁盛被遊候様次には両親兄共息災に居申様に其次に我身の事を申拝し候物とおしへ被申候 唯今も奉存涙を流申候 尤成る事幼少より如斯おしへ被申候 其志を各にも能合點可被仕候 我等の如く幼少の時分より殿様を本に仕拝し申候 其心御家来は何も同前にて御座候 幼少より利發にて親の教を請す生れ来たる衆も可有之哉 乍去拙者同年位の侍中上下ともに拙者を不存衆無御座候 尤十歳はかりの時分より拙者は老父召連候て同姓八右衛門角入本書書置文左衛所へ毎度参候 屋敷たから町高田原手取三ヶ所今は替り申候 其時分御花畑の辻番所にて夜中にても冬は頭巾をぬき申候て頓て御入國被成候へは侍中是にて下馬仕候 頭巾も同前とておしへ被申候 如斯幼少より色々おしへ被申候へとも生れ付あしく心懸も薄く我身に覺へ節々誤り多く年寄候て思ひ出す事のみにて候 新知被為拝領御供にて江戸へ参り候年より初て上御屋敷へ被成御座候 四十年前迄は芝御屋敷に被成御座候上御屋敷より東海寺妙解院に御参詣直ニ芝へ御寄被成御供衆に御料理被下候 給申候て御廣間の次帳付共居候所に而たはこ給居候へは佐分利再見より小屋へ参候て御國茶申付候給候へと被申越候故得其意候と申草履取呼候へはわたし計持居申故木履を借参り候へとて奥村久左衛門小屋へ遣候て借参り候故其儘御玄関前栗石の上踏通り敷石の所にて二十年前思出先年三田八幡の御祭禮御門にて御覧被成候徒木に爰はうすへり敷候て御歩行被成候所と心付はたしに成候て通又木履にて参候 御廣間御番の内に御横目結居申候 何も御小姓組にて候 惣躰拙者事は御奉行御目附共に皆々憎み壱人も拙者をかはゐかる者無之候

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    「旦夕覺書」 鳥--8

    2011-07-02 23:11:03 | 旦夕覺書

    一、同弾蔵方より先年太守様宣の字御拝領の時江戸より同姓中に達書に御悦を被差越申候紙面に 
      宣紀公の御字にカタカナ付候て即刻讀申様の心と存其外御持鑓或御駕の者の衣類迄書付差越申候
      拙者心には扨々能心を付申候是に熊本には即刻侍中に聞せ申度事觸状にても廻可被申事と存候故
      舎人殿に持参仕右之段一々申 同名平八は兎角器量御座候と同名なから感し入申 是は御觸にて諸
      侍中にも早く知らせ申度事とわさと舎人殿に返々申達候へはかたかな迄付たか/\とくり返/\きも
      つふされたる様子にて候つる 惣躰弾蔵をは舎人殿は夫程能きとは不被存候故拙者能と申候に幼少よ
      り唯今迄の儀私ならては他人何とて可存哉親には生れ増たる取多御座候 色々申たる事共弾蔵殿に
      語申候間覺居可申候
         初江戸より帰候刻舎人殿御迎に出被申候て久住一宿の所に立寄申さねとて角入宿を
         可知と存使遣なとヽ被申たると覺申候

    一、平九郎初て江戸御供にて参候時曾我殿かと覺申候御使者に参候時分折節能を被仰付候日にて
      幸に思召候外に御用も無之候はヽ其儘居申候て見物被仕候へ 太守様へはみぎの之通御噺御断可
      被仰上と御懇頃に被仰聞候 曾我殿は御代々別て御心安く思召故に右之通の時に参仕合と申見物
      罷帰候上 妙應院様事之外御意に叶兄の平八も及び申間敷との御意にて候つる 兎角ケ様の時節も
      善悪共に身を捨申心に無て候へは分別極めかたく候 かろき事にて平九郎器量顕れ申候 不實にて
      はいかヽ可仕哉其儘見物候ては 太守様御意に叶申間敷候 曾我殿へ御断申分は軽事なとヽ十人
      並の男は分別分り兼申候 此時は曾我殿御留被成候事はおもく 太守様の思召をは軽く存る事當然の
      道理にて候 就夫御双方様の御心に叶別して 太守様御意に叶候信實から出たる事は天の恵みある
      道理にて候 何事に不限其時々の軽重可有之儀にたとへ御意にても事により軽く御家来迚も事により
      重く在る事可有之候 何事も信實より出たる事にてなく候へは能とは不被申候 昔の善人と申物も聖
      賢の傳を請言行たしなみ其の身の行能無之候ては諸人合點不仕候 兎角學問を好み本を正敷其身
      を治天下治と御座候事何事にも入申候 平生の寄合咄申にもむさと仕候 當世のはやり事に小歌三
      味線大酒を呑大食をいたし面白く存る者は差當り今度の様成る扶持方はかり渡候時分行當迷惑仕
      候 能々工夫可有事に候 かな書の書物にも實と偽と御座候 實を書きたる書物古人の言葉多候 隙の
      刻は御覧可有候 正成の軍法皆々唐にて有たる事にて夫を尤と見被申たる故におのつから正成の
      智謀も出たると聞へ申候 何時も昔仕置候儀は宜敷當世の事は當時/\の用にても以後には捨り
      申候 惣躰はやり事は末々の者好む事と  三齋公御意被成候儀覺書に調候間御覧可被下候 我身
      の覺候事迄覺書に調申候 六拾年前より廿年程はむそりの刀脇差はやり拙者も差申候 四十年より
      此かた又昔のことく反りたる刀脇差に成り申候 第一に用申候刀脇差さへ右の通併御家中にて歴々
      其外老人衆さし不申候 これにて合默可有候 犬の庭鳥の菊の花のと金銀つゐへ誠に/\無物躰存
      候 近頃は皆々すたりたると承及申候 必々はやい事御用ひ有ましく候 拙者能覺申候 廿年/\には
      本のことく成物と三齋公御意の通に身に覺申候

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    御代々様御参勤御帰国 (10) 齊樹公

    2011-07-01 22:28:01 | 旦夕覺書

    齊樹公

    一、文化二年四月十八日御部屋住初而御暇被仰出 五月三日江戸御初駕 白金御屋敷御住居 東海道御旅行 同十九日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月七日熊本御着
    一、同三年正月廿三日熊本発駕 小倉路御通行 従大里御乗船室路御越 二月十三日大坂御着 東海道御旅行 三月二日江府御着 同十五日御礼
    一、文化九年四月十五日御家督後初而御暇被仰出 文化七年十一月十日御家督 同廿八日御礼 五月朔日江戸御初駕 東海道御旅行 同十七日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月三日熊本御着
    一、同十年二月廿七日熊本発駕 従鶴崎御乗船室路御越 三月十七日大坂御着 美濃路東海道御旅行 四月六日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
    一、同十一年四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿四日江戸御初駕 木曽路御旅行 五月十三日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月二日熊本御着
    一、同十二年二月廿三日熊本発駕 鶴崎より御乗船室路御越 三月六日大坂御着 東海道御旅行 同廿三日江戸御着 四月九日上使 同十三日御礼
    一、文化十三年四月十八日御暇被仰出 同廿一日御礼 同廿四日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行 五月八日伏見御着 依御病気同所十七日迄御逗留 同十八日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月七日熊本御着
    一、同十四年四月廿一日熊本発駕 依御病気御発駕御延引 小倉路中国路御通行 五月廿三日大坂御着 美濃路東海道御旅行 六月十八日江戸御着 七月三日上使 翌四日御礼 御頭痛気ニ付御使者 御用人 を以御献上
    一、文政元年 文化十五年改元 四月十六日御暇被仰出 同十八日御礼
       四月十九日御礼可被仰上旨御奉書御到来之処御病気ニ付御断
       今年依御病気御滞府
    一、同二年 去年以来御滞府 四月三日より御出勤 上使無之 四月十五日御礼
    一、文政三年四月十五日御暇被仰出 同十八日 同廿五日江戸発駕 同晦日日光山御参拝 前以御願相済 五月朔日彼地御発駕 同四日江戸御通行 今日両御様江御越御機嫌御伺丸御用番龍口御屋敷に御立寄 東海道御旅行 同廿一日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 小倉路御通行 六月十七日熊本着
    一、同四年九月十三日熊本発駕 小倉路御通行従大里御乗船室路御越 同晦日大坂御着 東海道御旅行 十月廿日江戸御着 同廿九日上使 十一月朔日御礼
         去年日光山御霊屋向并諸堂社御修復御用御勤付 七月中旬可被遊御参府旨被仰
         出置候処 其後依御病気御発駕御延引
    一、同年五月十六日御暇被仰出 同十九日御礼 同廿四日江戸御発駕 東海道御旅行 五月十五日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同廿八日熊本御着
    一、文政六年三月廿七日熊本発駕 小倉路御通行大里より御乗船室路御越 四月十五日大坂御着 東海道御旅行 五月六日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
         今年依御病気暫御発駕御延引
    一、同七年四月十五日御暇被仰出 同廿八日御礼 四月十八日御礼可被仰上旨御奉書御到来之処 依御病気今日御礼 五月十五日江戸御発駕 東海道御旅行 六月二日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同十七日熊本御着
    一、同八年九月廿五日熊本発駕 依御病気御発駕御延引 従鶴崎御乗船室路御越 十月十四日大坂御着 東海道御旅行 依御病気関宿江十月廿日より十一月十二日迄御逗留 十二月二日江戸御着 同廿五日御礼就御病気御使者 御用人 を以御献上
         御着府之上御病気而不被遊御出勤候付 上使無之
    一文政九年二月十二日御逝去

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    御代々様御参勤御帰国 (9) 齊茲公

    2011-06-30 08:24:21 | 旦夕覺書

    齊茲公
              http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%8C%B2

    一、天明八年四月廿七日御家督後初而御暇被仰出 同廿八日御礼 五月十日江戸御発駕 東海道美濃路
      御旅行 同廿八日大坂御着 室路御越室湊より御乗船 鶴崎路御通行 六月廿一日熊本御着
    一、寛政元年 天明九年改元 三月十九日熊本御発駕 従鶴崎御乗船 室路御越 四月十日大坂御着美濃路
      東海道御旅行 同廿八日江戸御着 五月十三日上使 同十五日御礼
          御生母長照院殿正月十二日於宇土死去付御病気之儀被仰立 御発駕御延引
          (細川興文側室?薗氏女・久、竹)
    一、寛政二年四月十三日御暇被仰出 同十五日御礼 同廿九日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行
      五月十四日大坂御着 室路御越室湊より御乗船 小倉路御通行 六月四日熊本御着
    一、同三年二月廿七日熊本御発駕 鶴崎より御乗船 室路御越 三月廿九日大坂御着美濃路東海道
      御旅行 四月十五日江戸御着 同十六日上使 同十八日御礼
    一、同四年四月十三日御暇被仰出 同十五日御礼 同十九日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行 五月四日
      大坂御着 中国路小倉路御通行 同廿五日熊本御着
          今年四月朔日之夜 御領海高浪而御迎船乗廻之儀難相成 依之中国路御旅行
    一、寛政五年二月廿五日熊本御発駕 小倉路御通行大里より御乗船 室路御越 三月廿七日大坂御着
      東海道御旅行 四月九日江府御着 同廿一日上使 同廿三日御礼
    一、同六年四月廿七日御暇被仰出 翌廿八日御礼 五月四日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行
      五月十九日大坂御着 室路御越室湊より御乗船 鶴崎路御通行 六月九日熊本御着
    一、同七年二月廿五日熊本御発駕 小倉路御通行大里より御乗船 室路御越 三月十三日大坂御着
      美濃路東海道御旅行 四月二日江戸御着 同十一日上使 同十三日御礼
    一、同八年四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿三日江戸御発駕 東海道美濃路
      御旅行 五月九日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月朔日熊本御着
    一、寛政九年二月廿三日熊本御発駕 小倉路御通行従大里御乗船 室路御越 三月十五日大坂御着
      美濃路東海道御旅行 四月九日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
    一、同十年四月十六日御暇被仰出 同十八日御礼 五月七日江戸御発駕 東海道美濃路
      御旅行 同廿三日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月十三日熊本御着
    一、同十一年三月四日熊本御発駕 小倉路御通行大里より御乗船 室路御越 同十七日大坂御着
      美濃路東海道御旅行 四月十一日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
    一、同十二年四月廿三日御暇被仰出 同廿五日御礼 閏四月十五日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行
      五月朔日大坂御着 中国路小倉路御通行 五月廿三日熊本御着
           御召船泰宝丸損所有之 且波奈之丸ハ痛船ニ付当時新造中ニ付中国路御旅行
    一、享和元年 寛政十三年改元 二月廿三日熊本御発駕 小倉路御通行大里より御乗船 室路御越
      三月八日大坂御着東海道御旅行 同廿七日江戸御着 四月十三日上使 同十五日御礼
    一、同二年四月十九日御暇被仰出 同廿一日御礼 五月九日江戸御発駕 東海道御旅行 同廿四日
      大坂御着室路御越 従室御乗船 鶴崎路御通行 六月十一日熊本御着
    一、同三年二月廿五日熊本御発駕 小倉路御通行従大里御乗船 室路御越 三月九日大坂御着
      東海道御旅行 同廿七日江戸御着 四月十九日上使 同廿二日御礼
    一、文化元年 享和四年改元 四月十八日御暇被仰出 同廿二日御礼 八月廿二日江戸御発駕
      東海道御旅行 九月十七日大坂御着室路御越 従室御乗船 鶴崎路御通行 十月三日熊本御着
           就御病気秋迄御滞府
    一、同二年二月四日熊本御発駕 小倉路中国路御通行 同廿四日大坂御着
      東海道御旅行 三月十四日江戸御着 上使無之 四月十五日御礼
           御病気為御療養御願御参府ニ付上使無之
    一、同三年四月廿一日御暇被仰出 同廿三日御礼
      此年就御病気御滞府
    一、同四年 去年以来御滞府 四月七日より御出勤 上使無之 四月十一日御礼
    一、同五年四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿八江戸御発駕 東海道御旅行 五月十
      五日大坂御着室路御越 従室御乗船 鶴崎路御通行 六月七日熊本御着
    一、文化六年五月十五日熊本御発駕 小倉路御通行従大里御乗船 室路御越 同廿八日大坂御着
      東海道御旅行 六月十八日江戸御着 七月六日上使 同九日御礼
           依御病気御国御発駕御延引
    一、同七年十一月十日御隠居 今年十一月十三日浜町御屋敷江御移徏
    一、同十年八月廿七日御積気御腰痛為御療養 相州宮之下御湯治廻之御暇御願之通被仰出 九月九日
      江戸御発駕 同十五日宮之下御着 同廿五日宮之下御発駕 同廿九日御帰府
    一、同十三年八月廿四日御国許御湯治ニ十ヶ月程之御暇御願之通被仰出 閏八月四日江戸御発駕
      東海道御旅行 十月四日大坂御着中国路小倉路御通行 十一月三日熊本御着
      直川尻御茶屋御住居
    一、文化十四年八月七日御病気御快方付 為御参府川尻御発駕 小倉路中国路御通行 九月朔日大坂
      御着 九月十三日伊勢御参宮 東海道御旅行 同廿九日江戸御着 浜町御屋敷住居 十月十三日上使
      龍口御屋敷御入来 同十五日御礼
    一、文政三年正月廿六日猶又御国許御湯治ニ十ヶ月程之御暇御願之通被仰出 二月廿二 日江戸
      御発駕 東海道御旅行 三月十七日大坂御着中国路小倉路御通行 四月十四日熊本御着 本山御屋形
       新造 御住居
            御暇之月数満候得は其の時々御願継
    一、文政七年六月六日二丸御屋形 新造江 御移徏
    一、同十年御病気御快方付為御参府三月十五日熊本二丸御発駕 小倉路中国路御通行 四月十一日
      大坂御着 御風気付四月廿二日迄同所御逗留 東海道御旅行 五月十一日江府御着 白金御屋敷
      住居 十月十三日上使 同十八日御礼 御病気付御使者 御用人 を以御献上
    一、天保六年十月廿九日御逝去
     

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    御代々様御参勤御帰国 (8) 治年公

    2011-06-29 08:55:01 | 旦夕覺書

    治年公

              http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%B9%B4

    一、安永四年九月朔日御部屋住初御暇被仰出 同廿八日御発駕 白金御屋敷住居 東海道御旅行
      十月十五日大坂着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 十一月七日熊本御着
    一、同五年四月廿二日熊本御発駕 鶴崎より御乗船 室路御越 五月十五日大坂御着 東海道御旅行
      六月四日江府御着 同十一日御礼 就御病気御使者 御傳役 を以御献上
    一、天明元年 安永十年改元 五月十五日御暇被仰出 同廿二日御発駕 東海道御旅行
      閏五月八日大坂着 従大坂御乗船 鶴崎路御通行 六月十一日熊本御着
    一、同二年二月十九日熊本御発駕 従鶴崎御乗船 室路御越 三月七日大坂御着 東海道御旅行
      同廿三日江府御着 四月朔日御礼
    一、同五年正月十五日御暇被仰出 二月十五日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行
      三月三日大坂着 室路御越室湊より御乗船 鶴崎路御越 同十八日熊本御着
    一、同年九月十一日熊本御発駕 小倉路中国路御旅行 同廿八日大坂御着 美濃路東海道御通行
      十月十一日江府御着 同十五日御礼
          治年公就御病気従重賢公依御願比節御参府 御内実は重賢公御不例 御勝不被遊
          ニ付而也
      (天明5年10月26日父・重賢死去 12月12日遺領相続す)
    一、天明六年四月廿二日御家督後初御暇被仰出 同廿三日御礼 同廿九日江戸御発駕 東海道
      美濃路御旅行五月十四日大坂着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月三日熊本御着
    一、同七年二月廿八日熊本御発駕 従鶴崎御乗船 室路御越 三月十九日大坂御着 美濃路東海道
      御旅行四月八日江戸御着 同廿二日上使 同廿八日御礼
    一、同年九月十六日御逝去

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    「旦夕覺書」 鳥--7

    2011-06-26 09:11:04 | 旦夕覺書

    一、同姓二観郡奉行勤候時分在宅より致出府候時道筋左右見候へは畑の崩れ不申候様に芝をつか
      せ申候故道もせまくは成候へとも畑のくすれ申さぬ様とも見掛に不構申付候 其時節は中々後年
      の儀を打捨當分の能様に諸人心得候分故扨も/\能仕候 妙解院様御代ならは御意に叶可申儀と
      感心仕内入に咄候へは夫は文左衛門預りの郡にて候間文左衛門申付たると被申候 其後文左衛門
      に尋候へはいかにも左様にて候唯今時分尋候ては前のことく/\と諸事聞へ申候故尋不申心まヽ
      に申付候 若悪敷成候ても郡奉行さのみ望に存不申と申候 尤■極と感心仕其時分山名殿御働の儀
      に候へは委細に申道すから感申候へは文左衛門預と内入申聞候
      妙解院様御代ならは御意に叶可申と神以如書付咄申候 本より文左衛門儀故如斯に咄申たるにて
      も神無之候 他人にてもケ様の儀當座/\の御意には叶申間敷候へ共後年の御為と心を付申候へ
      は信實と奉存信實は天の好むと承り候 同名にても能に能悪は悪と見へ申候

    一、同名弾蔵御聞番相勤候趣十七人の衆へ刀脇差可被下候間其心得仕刀屋共にそろ/\申聞金貮
      三枚の札有之を才覺仕候へとの御内意三宅藤兵衛殿・松野一二なと覺申候 其座に横山五郎太夫
      も居被申候而承候て拙者に咄被申候 扨ヽ弾蔵に能申たると拙者に被申候故神以即座に申候は惣
      躰同名共打寄咄申時分は萬事吟味仕咄申候 本より左様の儀申兼候 弾蔵にて無御座候由返答仕
      候 委細に事永く書付不申候覺書共傳右衛門見候はヽ咄可申候御聞可有候 其後町宅へ弾蔵参候
      てケ様/\と申候折節三枚の正利の刀拵出来仕目釘打申時之儀に御座候へは同名中並平九郎差
      替差上可申と申候故則刀は是より上ケ可申候たぶん内蔵助に可被為拝領候 數年數寄候て求申候
      にケ様の時御用に立申儀武冥加に叶たると申候 定て弾蔵覺居可申候 其後熊本への出府の刻右
      の刀初て差出候に内入屋敷前にて家来走りで候 不相應かと存召置候處其後油屋源二郎承及申候
      御刀在宅にて當分御用になくは御拂被成候へ去る御大名さま方御聞及被成候て申上候由在宅へ
      申越候 其刻圖書殿御妹か縫殿殿に縁邊被仰出候時分にて多分此衆と存拂申候へは十左衛門殿
      御取被成唯今に帯刀殿差料と承り候 其後十左衛門殿咄申笑申候 若き時分刀脇差馬を數寄申候
      老父被申候は武士の數寄尤に候へとも人により刀脇差數寄は取賣の名を請馬數寄は馬苦労の名
      を請申候間無左様に心得申候へと若き時分に被申たる事神以少も失念不仕尤至極に存候 尤大小
      共に拂たる事多く御座候へとも御國中にて拂申事は叶不申候ハ拙者道具とて取申自然切兼候時き
      れぬ故に拂たると申候へは御國中皆々朋友も心にて古人の傳にては快く不存候 此咄は於江戸舎
      人殿小屋にて互に刀脇差見申時拂物多く参候時拙者申出候へは尤と被申たる儀迄失念不仕候置候 

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    「旦夕覺書」 鳥--6

    2011-06-23 21:58:04 | 旦夕覺書

    一、今の世に善人といわるヽ人上下共に有兼申候と聞申候 たとへは少の事にても扨々能仕候の能申
      たるのと誉られて自慢顔にて居申者多く候 世々代々家々數萬人の勤たる路にてたとへ見聞いたさ
      す共おのすと工夫にて仕候事も聞及ひたるの見及たるなとヽ申候 自慢顔にて居申よりは一位能き
      人柄と存候 功譲ると申古賢の傳は右の心得たる人まれには數十年江戸御供にて上下の侍中に出
      合咄申候は少の事にても其身は自慢顔にて咄申候 今度江戸中に壱度も御奉公をかヽし申さす熊
      本にても個様/\と咄申人多有之候 小者中間下々一年給銀取候末々の申様成る事と拙者は歩の
      御使番勤申時分より心の内には扨々あの男は物頭にも被仰付先祖代々御知行をも被下候者のさ
      もしき心底成と存候へ共能奉公人と申に成たる儀多く御座候 右之通の者忌かヽる軽き親類なとは
      隠し忌の内にも勤申を承及ひ申候 或は生れ付不気根に病よわき人は其時々には引籠養生仕快成
      候て勤可申事に候 尤虚病にて夫程の事にて無く度々御奉公を勤不申候者も御座候へとも夫は人外
      と存候へとも必々左様の者は不實故あなたこなたと軽薄仕却て實儀に勤たる者より能く成り候者有
      之候 併天道明らかに御座候へは必々後には悪敷成申候 たとへは御意に叶候へはわき/\より
      も其節々誉申候けいはくの者の不實は天の御にくみにて必々後には悪敷成候事歳寄候へは能く思
      ひ合候事多く候 此後各も年若く候へは随分心かけ各より末々に筋目有之者或は實儀にてうすもれ
      たる者は引立被申候心持第一に我身の命も天明候へは願てもならす貧福も同前にて候 右の通の
      心得は天道に叶ひ差當ては其人の為能人にて候へは御為にも成り申候 當世は大形我心に叶たる
      者をは色々才覺にて能く成り申候へとも其人にあらされはうかへる雲のことしと申聖賢の詞の通各
      も定て心底には思ひ可被申候 拙者事に値へは數十年の儀覺申候 其上に先御代の咄も承傳候
      日本には聖賢と申は人王以来少く御座候也 又明大将と申も少く御座候つる 人の目利は聖賢なら
      てはならぬ事と承り申候 うかへる雲のたとへを能々工夫可被仕候 必々浦山敷被存ましく候 不實に
      て欲心深き人は必々天罰承申事定りたる儀に候へ共或は不仕合者の又あれさへ如斯なとヽ當世の
      人は大形天道を恐れ不申不實は目に見へす利發口利口に當時/\間合せ申者を能人と沙汰仕候
      事三十四五年此かた別て多く候 江戸表の儀承傳候へば昔を御好被成候と聞候間次第/\に實儀
      成者と不實者とあはられ可申と人の非をかくし申事道にて人の善をは少の事にても顕れ申様にと心
      得候事専用と見へ候得とも當世はうらおもてにて我身は不及申他人も気に合候へは非と存なから
      色々能申直し候 しかし人をめくむ心にて候へは非を改善に移り候はヽ天道も御ゆるし可被成哉其身
      聖賢にてなく愚人の目利に合兼可申候 實成人は必働不申候 侫奸に必發明利發者と見へ申大にて
      は家をたをし小に人をたをし申候 東照宮の御遺訓に大賀彌四郎と申人御目利違にて信長公へ御附
      御悔の儀委細に書て有之候 左候へは末々の人の目利相違候事有間敷物にてなく候兎角人をめく
      むと申事天道の好事と申候へはめくむ心にて目利相違は其人により御ゆるしも可有候 主人之為と
      申て大形に其身/\の為に成事多く有之故天罰多く有之と見へ候

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    一、妙解院(忠利公)様御代に御國中の竹の皮を請申銀子差上可申と京都の町人とも以才覺達御耳熊
      本にて御郡奉行其外御勝手方の役人に如此京都の町人さへ申上候に郡を御預被成候者共御為を
      おろそかに存候故心付不申と御叱り被成候由 其趣何某とか申仁申上候にいかにも心付申候へと
      も當分銀■差上申は御為めの様に聞へ申候へ共以後に御為に不成候 其譯は御國中の竹のかはは
      其處の村々に老人或は病者にて子供に懸り居候者何百も御座候 其者取候而すけ笠同前に笠を拵
      へ或は草履に仕渡世を送り申候 子供の助けに成り申候 町人に被遣候てに其渡世おくり申者子供迄
      も迷惑におよひ候はヽ夫/\御吟味の上にて大分の米不被為拝領候はヽ成間敷候 他國へ聞へ候
      ても御外聞も不宜と奉存候故其分にて召置候由申上候へは扨々尤成儀と御誉被成候由宇野理兵
      衛郡奉行寄合の刻此咄承り候て咄被申候 誠に此事を存候はに諸事に付て如斯心持有可之事と書
      置候 寔に信實に御為を奉存心より顕れ申候先見の明と有之聖賢の言に後年の儀を考申事と申候

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    「旦夕覺書」 鳥--5

    2011-06-22 13:16:08 | 旦夕覺書

    一、上田新兵衛咄にて承候廣島にて此以前安藝守様御家中に縁組に出入有之中々六ヶ敷成申候 何
      某とか名は失念候 歴々の嫡子年若く候へとも智勇義兼たる人にて候故無事に取持事済申候 其後
      御下國被成候て御家老御用人なと被召出色々御聞被成候時に右の取持被申たる親罷出被申候は
      未被聞召と奉存候 今度御留守の内にヶ様/\の儀御座候而六ヶ敷罷成候處私嫡子取持事済申候
      此段は是に居候者とも能存申候 尤親の身にて申上候段いかヽ共奉存候へとも是は御家中の侍と
      もの平生覚悟可仕事にて後に御召仕候時御用立可申子供の為にて御座候 御褒美を可被下儀と奉
      存候と申候由安藝守様御聞被成扨々能申上候とて感申候 此咄は舎人殿にも度々咄申候 新兵衛殿
      被申候 上田主水は新兵衛殿母方の祖父天野半之助は主水聟かと覺申候 両人ともに隠なき人に
      て半之助は若き時分は松倉豊後殿に居候 大坂夏陣に高名仕安藝守様に三千石にて御召出候
      右之通の筋目故新兵衛殿は眞源院様御代に御召出御年頃に御召出候由承申候 嫡子の儀を申上
      候人も右の両人の内か慥には覺不申候 扨々明白成心底と感心仕書置候 総して武士は武勇を専
      ら用る事と見へ候得とも乱世の時は銘々の志の働にて名も高く候へとも御静謐の時には平生の言
      行専一に身を嗜心を明白に夫々の勤真實に命を上ケ置候しるしの外にも願はるヽ程の人はたとへ
      は明君成れは遠近となく被見届上の好勇義下々にも多く何事も上の好ことく成ものヽ由聖賢の傳言
      各も見可被申候へとも書付置候
            貴慎     樂義士 
          上有好利行則  下有盗賊俗
            用謀     佞好徒
      如斯乱世の時さへ心にかけ候へは名も高く子孫の面目にも成り申候 御静謐の時節は座敷の上に
      ての勤食事おもふ様に給へ衣類居宅も相應にとおこる心さへすくなく候はヽ上中下ともにくらし能時
      節殊更江戸表の儀を傳承候へは當世のおこりを御嫌ひ古風を御したひ被遊候様に相聞誠に以各は
      結構なる時節に御逢ひ候と存候 からやまと共に昔の善人と申程の人上下共におこる者をきらひ申
      さぬはなきと見へ申候 武田信玄の内武勇すくれたる者ともに奉行役其外色々に被召仕候に如願万
      事能埒明申候由 されとも乱世の時分にて差當戦場の御用大事に思召古の人々に或は侍頭足軽頭
      に城代境目を御預け候由に候 左候へは明白成心にても武道もすくれ夫々の役も明白に埒明申たる
      と聞へ申候 しかれは武士たる者は専一に心を清く朝暮我身を主君へ上置たる事忘れ申さぬやうに
      嗜み申候はヽ先我身の養生能息災に無之候ては勤も成り申間敷候 兎角我身を我と思ふ故に或は
      私欲多く立身を心かけへつらひ可申事も諸人にしかられぬ様にと口をすくみ萬事我とくるしむ事人は
      しらぬと思へ共諸人目も耳もかわらぬ物故おのすと見およひ聞及ひ笑ひそしり申事八十に成り候へ
      は數十年能覺申候名大将衆は御家来は不及申牢人を被召抱候に十人ともに誉申は御不審にてけ
      いはく者かと侫奸者のかろきは人をそかないおもきは國天下乱れと成事古今書物に見へ申候 右二
      色は明白心不明にては見へ不申物と聞へ申候 三好・松永・石田其末々にも數田記録候 唯今も可
      有之候へ共すくれたるも善悪共に乱世に成候ては少く成候と見へ申候

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