先にご恵贈いただいた某書を読んでいたら、「老人雑話」からの引用文があった。これは京都の医師・江村専斎の話を孫の伊藤宗恕が記したものである。専斎は細川幽齋と親しかったとされるが、その子孫二家が細川家家臣(医家)として仕えている。専斎が赤松氏の子孫だというのも興味深いし、加藤清正に仕えていたなどとは驚きであった。
この「老人雑話」は色々な所で引用されている、貴重な資料である。WEB上でも「早稲田大学」「京都大学」のサイトで公開されており有り難いことではある。
www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_02052/index.html
なかなか達筆できれいな紙面で大変読みやすい。古文書の読み下しの勉強にはもってこいの資料である。皆様もチャレンジされては如何。「史蹟集覧」に読み下し文が掲載されていると思われるが・・・熊本県立図書館には収蔵されていない(・・・)
専斎については、「Taiji’s Notebook」というサイトに、藤田篤訳「譯注先哲業談(後編)巻一」で紹介されているので、抜粋して引用ご紹介する。
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江村專齋、名は宗具、字は專齋、又以て通稱となす、倚松菴と號す、平安の人
專齋は村上源氏、赤松の庶族〔支族〕なり、曩祖(のうそ)〔先祖〕赤松次郎則村入道して圓心と號す、元弘中北條高時獨り威權を擅(ほしいまゝ)にし、萬乘〔天子〕を廢立(はいりつ)するに當り、始めて播州摩耶城に據りて、勤王(きんわう)し〔忠を皇室に盡す〕賊を討(たう)ず、後足利將軍に從ひ、武功を以て封を此に受け、子孫一州に繁延す、永禄中同族なる州の三木城主別所小三郎晴定織田右府の爲に攻められて、其所領を喪〔失〕ふ(、)專齋の曾祖を江村民部大輔孝興と曰ふ、又州の三石城に在り、既に三木城の守(まもり)を失ふと聞き、其禦ぐ〔防守〕べからざるを知り、窺(ひそか)に京に奔(わし)り、新在家に隱居し、跡を市井に混じ〔民間に下りて平民の仲間入す〕、慶長癸卯の歳を以て歿す、孝興榮基を生み、榮基既在を生む、乃ち專齋の父なり、既在は聞香〔香を■(火偏+主:しゅ:灯心・灯火・たく:大漢和18965)して嗅ぐこと〕の技を以て世に著稱せらる、豐太閤屡召して其法を問ふ、是時に當り海内搶攘(さうじやう)〔騷亂〕し、日に干戈を尋ぬ、既在身閑散〔ヒマ〕に在りて當世に意なし、某氏を娶り、永禄乙丑を以て、專齋を新在家に生むと云ふ(、)專齋幼にして新在家に在り、十五歳の時平安に遊び、醫術を法印徳岩に學び、又自ら濂洛の學〔朱子學〕を攻(おさ)む、遂に儒(じ-ママ)を以て肥後侯加藤清正に遊事す、食禄五百石、清正卒して後、其禄を辭す、寛永中美作侯森忠政其名を聞きて之を聘〔招致〕し、遇するに賓師の禮を以てし、月俸七十人口を饋(おく)る、遂に又之に遊事して以て終る
專齋の弟を久七郎と曰ふ、始め江州の佐々木義秀に仕ふ、佐々木氏亡ぶるの後、薙髪〔剃髪〕して久茂と號し、聞香を既在に受け、又其技(ぎ)〔ワザ〕を以て世に鳴る、豐太閤屡其家に臨む、是を以て專齋亦謁見することを得、金帛(きんはく)の賜(たまもの)を受くること、前後數次時人之を榮とす
專齋少壯より務めて修養をなし、齒(よはい)九十を過ぎて、視聽衰へず〔眼も耳も達者〕、少壯の時と異なるなし、後水尾上皇之を聞きて召見し、修養の術を問はせらる、專齋奏して〔天皇に申し上げる〕曰く、臣固より他術なし、平生唯一の些字を持するのみ、上皇問はせらる、曰く食を喫する〔喰ふ〕些〔少し〕、思慮も些、養生も些のみ、上皇大に之を感賞し給ふ
專齋好んで和歌を詠ず〔作る〕、兼ねて其説に精(くは)し、細川幽齋、木下長嘯子〔幽齋長嘯子は當時和歌を以て名ある人〕等皆之と交る、寛文四年甲辰齢(れい)甫(はじ)めて一百歳自ら和歌三詩を詠ず(、)曰く
もゝとせになるまで飢えず寒からず
道ある御世のみちにひかれて
なにもせで身のいたづらに過ぎしゆえ(*ママ)
今日もゝとせの春にあふかな
もゝとせもなほあきたらず行末を
思ふこゝろぞもの笑ひなる
其詞藻〔詩歌の采華に富むこと〕傳播して〔評判高くなる〕叡覽に入る、七月に至り、勅して院參〔上皇の宮に參内すること〕を許され、鳩杖(きうじよう)一、黄金一を賜ふ、後又扇紙等の賜あり、草莽(さうきく-ママ)の士〔民間無位無官の人〕(*頭注に士を「土」とするのは誤植。)にして、至尊の顧問たること此の如きは、儒林〔學者社會〕の榮と謂ふべし
專齋鳩杖の賜あつてより、家に額して賜杖堂と曰ふ、子孫世々此に居る、三子あり、長は宗覺字は斯民、好菴と號す、次は宗眠字は友石、剛齋と號す、次は宗祐字は惠夫、愚菴と號す、三子の後皆文學を以て世に名あり、文學を以て侯家(かうか)に仕ふ、其榮耀(えいえう)〔顯達〕繁衍〔盛昌〕(*原文ルビ「けんえん」は「はんえん」の誤り。)、世に希なる所たり、是れ專齋が徳澤の致す所にあらずや
專齋伊藤坦菴と友愛殊に渥(あつ)〔厚〕し、坦菴專齋より少きこと五十八年、後進を以て之を視ず、常に吾家の畏友〔及ばざる恐るべき朋〕と稱す、坦菴深く專齋の人となりに服し、心を傾けて〔及ぶ限り意を用ふること〕推奉(*原文ルビ「さいはう」は「すいはう」の誤り。)す、甞て專齋平日の談話數百條を記し、題して老人雜話と曰ふ、好古者之を寶とす、坦菴又甞て專齋の肖像に賛して曰く
人生百ニ滿ツ古來難シ、青無ク休有ル還(また)更ニ難シ、孫子蝉聯最モ得難シ、一家獨リ自ラ三難ヲ併ス(*人生滿百古來難、無青有休還更難、孫子蝉聯最難得、一家獨自併三難)
畢(おはり)に書して曰く、余弱冠(じやくくわん)〔二十〕にして專齋老人と相交はる、此に數十年、年分不偶なり〔齢の違ふ〕と雖も、氣類頗る相同じ、聚會(しうくわい)往來殆ど虚日(きよじつ)なし、老人往事を談ず、疊々として聴くべし、一も浮誕〔ウキタ嘘〕なし、余毎に倦(けん)を忘る〔イヤにならぬ〕、其人となり、恂々和易(わゐ)、室に在りて忿疾〔立腹して罵言す〕の聲を聞かず、其面常に和煦(わく)〔和易和煦は打解けて仲好き形容〕の色あり、眞に所謂寛厚の長者なり
專齋鳩杖を賜ふの年九月二十六日を以て、綾小路の家に歿す、歳を享くる一百、洛東の善正寺に葬る、法謚(ほふし)を仙壽院日榮居士と曰ふ、今に至るまで、遠方の人京に遊ぶ者は必ず其墓に謁すと云ふ
或は云ふ、江北海が衆に傳(つと)ふる所、專齋が眞蹟楷書二行、實に希世の珍なりと、今其語を此に附載す曰く
名利兩ラ好ムベカラズ、名ヲ好ム者、之ヲ利ヲ好ム者ニ比スレバ差(ヤゝ-ママ)勝ル、名ヲ好メバ則チ爲サゞ(ザ)ル所有リ、利ヲ好メバ則チ爲サゞ(ザ)ル所無シ(*名利兩不可好、好名者、比之好利者差勝、好名則有所不爲、好利則無所不爲也)