津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

朝の横断歩道

2007-02-24 00:19:54 | 徒然
 信号機のない通学路になっている横断歩道に、小さな子供の姿があった。ランドセルがいやに大きく見える。ゆっくりブレーキを踏んで、車をとめるとその子は深々と頭を下げた。ふと前方を見ると大きなランドクルーザーが走ってくる。子供に気がついているか・・・慌てて前照灯をフラッシングして合図を送った。今風にあごひげを蓄えた40前後かと思える男性は、私の心配は無用であったらしく、横断歩道の前で静かに停車した。子供は再度左右を確かめるように首を二三度振り、そして右手を大きく上げると、胸を張って5~6メートルほどの道を急ぎ足で横断していった。そして今一度深々と頭を下げると、今度は友達でも見つけたのだろうか、走り出して視界から消えていった。私はランドクルーザーの男性に目を移し、軽く頭を下げた。男性はニコニコ顔で片手を挙げると一言つぶやいた・・・「どうも・・・」彼は間違いなくそうつぶやいた(と思う)。彼にもあんな年頃の子供がいるのかもしれないなー
朝の一分にも満たないこの出来事は、今日一日を心豊かにさせてくれた。我が家も、内孫・外孫二人の女の子が今年は新一年生。恙無く健やかに・・
ただそれを祈るばかり
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文庫本

2007-02-12 19:04:32 | 書籍・読書
 昨日、今日の読書は軽いものをと思い文庫本二冊。
   1、山本七平の武田信玄論-乱世の帝王学 
                   山本七兵著 角川ONEテーマ21
   1、学校では習わない江戸時代  山本博文著 新潮文庫

  意識したわけではないが、両著とも山本氏、御代は合わせて1,086円
  お徳でした。
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続・宇土細川家資料

2007-02-10 23:13:29 | 新聞
 昨日の続報、今日の熊本日々新聞によると、宇土市に寄贈されたという資料は1416点だと報じている。寄贈者の名前は明かされていないが、宇土細川家のご子孫らしい。宇土細川家の資料は終戦時散逸して数が少ないとされるが、貴重な資料が含まれているらしく公開が待ち遠しい。
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宇土細川家資料

2007-02-09 22:28:23 | 歴史
 テレビのニュースで宇土市の教育委員会に、相当量の宇土細川家資料が寄贈されたことを報じていた。多分細川家かららしい。詳細が今一分からないが、多分明日の新聞で報じられることだろう。楽しみだー。
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再び・・有禄士族基本帳

2007-02-06 22:44:01 | 徒然
 「ホームページビルダー」のインストールに四苦八苦している。その結果「有禄士族基本帳」の方は原稿をUP出来ずにいる。そんな中、「自分の先祖の名前を見つけ感激しています」というメールを数本いただいた。これに過ぎる幸せはない。これだから止められない。
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「大名証人制度」の細川家10家

2007-02-03 22:45:54 | 歴史
 大名証人制度は、慶長五年(1600)から寛文五年(1665)までの長きにわたっている。その廃止は「殉死の禁止」とともに決定された。「江戸へ証人差し上げ候衆之・・・」によると、細川家家臣で江戸へ証人を差し出すべき家は、以下の十家になっている。

       細川刑部       一門  25,000石
       長岡佐渡守(松井)  家老 30,000石
       有吉頼母佐       家老 18,500石
       長岡監物(米田)    家老 15,000石
       長岡勘解由(沼田)  家老 10,000石
       沢村宇右衛門     家老  6,000石
       小笠原備前守     家老  6,000石
       清田石見守       備頭  3,035石
       田中左兵衛       城代  2,150石
       平野弥次右衛門         5,000石 

 まさに錚々たる面々ではある。この一覧は慶安期のものらしいので、65年の歴史の中では若干の動きもあったのだろう。ここにも「刑部」の名前があるのが痛々しい。     
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原因は「大名証人制度」

2007-02-03 20:03:56 | 歴史
 河喜多家の先祖附を読んでいる。初代石見はガラシャ夫人の自栽に際し殉じた。その子石見は、飯岡肥後誅伐にあたり仕手を命じられて、不幸な死をとげた。飯岡肥後の子、長岡豊前は忠興の二男興秋に近く、興秋は江戸証人を忠興に命ぜられたが京都で出奔した。その後、飯岡肥後・長岡豊前親子は誅伐されるのだが、興秋出奔の責任を取らされたのだろうが、あまりにも惨い仕打ちではある。そもそも興秋の江戸証人の事は、弟忠利に替わってのことであったから、興秋が怒ったのも頷ける。大名証人制度が制度化されたのは、正式には慶長五年九月だとされている。それ以前、細川忠利はその年の一月、十五歳で証人として江戸へ下っている。前田利家夫人・芳春院が自ら証人となって江戸に赴いたのはその後のことだが、細川・前田両家が証人を出さざるを得なかった当時の緊迫した状況が伺える。興秋の出奔により代わりに、長岡(三渕)平左衛門重政(15歳)が江戸へ発った。その後、忠興の生母光壽院が務めたがその死により、天千代(細川刑部)がわずか三歳の身で小倉をたった。刑部はその後22ヵ年にわたり江戸で証人として生活する。島原の乱の勃発にあたり、忠興に出陣したい旨頼んでいるが「証人だから幕府の許しがいる」として断られている。刑部と忠興との仲がよろしくなかったことは周知の事実だが、こんなことが原因であろう事も又容易に窺い知れる。興秋の死や、刑部の父親との不仲を考えると、すべて「証人」に起因しているように思われる。河喜多石見の死も又同様である。「大名証人制度」は、細川家家臣10家に対しても要求されている。
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