津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日から開催「細川コレクション特別展 土方歳三資料館×肥後熊本藩」

2024-01-10 07:20:49 | 展覧会

        細川コレクション特別展 土方歳三資料館×肥後熊本藩

           展覧会ポスチラ

・会期
​ 2024年1月10日(水曜日)~2024年3月24日(日曜日)
   ※1月10日のみ、12時00分~開館
 ※作品保護のため、会期中に展示替えを実施。

・会場
 本館 別棟展示室

・開館時間
 9時30分~17時15分(入館は16時45分まで)
   ※1月10日のみ、12時00分~開館

・休館日
 月曜日。月曜祝日の場合は翌平日休館。

・観覧料
 一般700円(500円)、大学生500円(400円)
 ※( )内は20名以上の団体料金。高校生以下は無料。障がい者手帳をお持ちの方無料。

      

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■肥後銀行「肥後の里山ギャラリー」開催中

2023-11-03 08:41:19 | 展覧会
島原大変肥後迷惑

10月10日(火)〜 12月2日(土)

上天草市・天草市・苓北町 連携企画
島原大変肥後迷惑―「自然災害伝承碑」までの道のり―

島原大変肥後迷惑
 江戸時代最大級の火山災害“島原大変肥後迷惑”。
史料や災害伝承碑を通して、先人が残した伝言を未来へ伝える展覧会です。
会期: 2023年10月10日(火)〜
12月2日(土)
時間: 9時30分〜16時30分
休館: 日曜・祝日
催し:
■ギャラリートーク
11⽉11⽇(⼟) 島原⼤変の⾃然災害伝承碑

※いずれも13:30 ~ 14:00
場所:ギャラリー展示室 申込不要
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■於・くまもと文学歴史館 20日迄

2023-07-17 10:49:32 | 展覧会
 私の様に歴史に親しんでいる者にとっては、上妻博之氏は膨大な書写資料を残された偉大な人物としてとらえがちである。
「上妻文庫」と命名され、その史料は公開されて、我々は熊本近世史の勉強にその恩恵を多大に受けている。
一方では植物学者であられ、牧野富太郎博士との交流もあって、今般の企画となった。
明治13年生まれの祖母は、何故か牧野富太郎博士のフアンであった。「無学の人が日本一の植物の先生になられた。何でも一生懸命にやればこうなれる見本のような人」と言うのが祖母の弁であった。
NHKの朝のドラマも大変評判のようだ。植物学に向かう人が増えるかもしれない。
私としては、古文書に親しむ人が増えて、「上妻文庫」が読み解かれていくことを期待したい。
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■於「熊本県立美術館本館・永青文庫展示室」峯

2023-01-24 19:37:50 | 展覧会

      ■細川韶邦夫人峯君

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■お出でまっせ・・熊本博物館・22年度企画展「熊本城と明治維新」

2023-01-19 10:44:47 | 展覧会

 

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■細川韶邦夫人峯君

2023-01-15 06:48:55 | 展覧会

 一昨日13日の熊本日々新聞に掲載あった記事である。

   

 細川韶邦の正室・峯君は一條左大臣忠香養女で実は三條大納言實萬女である。三條實美は兄にあたる。
明治天皇皇后(昭憲皇太后)美子も一條家の出身だから義姉妹の関係である。

韶邦は実学党の連中から半ば追われるように、跡を改革派の護久に後を託して隠居した。(肥後国事資料)
それを期に8年の間過ごした見知らぬ肥後の地を離れて東京へ帰っている。
その8年前の帰国の時の事は「恕斎日録」(未刊行)に詳しいが、果たして出品されるのだろうか。
明治5年6月5日、天皇・皇后がプライベートで韶邦邸を尋ねられている。天皇家と近しい関係にあった細川家である。

 

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■肥後の里山ギャラリーで開催

2022-01-29 15:04:18 | 展覧会

 半年ほど前かと記憶するが、ブログ「江津湖の水辺から」を主宰しておられる方から、江津湖周辺を主題にした展覧会を準備している旨をお聞きしていた。
会場は「肥後の里山ギャラリー」だとお聞きしていたので、注意して眺めていたところその予告が掲載された。
上記ブログは江津湖の魚たちを紹介する秀逸のブログ、幼い頃の遊び場であった江津湖はまさに私の心の故郷である。
開催が待ち遠しい。


                                                           熊本の水と緑展・Ⅵ
                            湧水潤う水辺水前寺・江津湖ー水が育む風景と歴史遺産ー
               豊かな水と緑の都市熊本のシンボル・オアシスとして親しまれる水前寺・江津湖地域の歴史と文化を紹介します。
                                                                  会期:2022年3月19日(土)~5月7日(土)

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■御恵贈御礼・令和三年熊本博物館企画展「能楽伝承~熊本の能文化~」図録

2021-12-22 09:07:45 | 展覧会

                 

 12月18日から熊本博物館で始まった令和三年冬季企画展「能楽伝承~熊本の能文化~」の図録を、肥後金春流中村家のご当主・中村勝様からお贈りいただいた。深く御礼を申し上げる。
この度中村家に長く所蔵されていた、貴重な能楽資料を熊本県に寄贈され昨年度「熊本県指定重要文化財」に指定された。
これらの能楽資料に加え、永青文庫・松井家・本妙寺そのた多くの機関また個人からの貴重な資料が共に展示され、またとない展覧会となった。
氏の御子息・中村一路氏は金春流のシテ方として将来を嘱望されたが現在体調を崩されている。そのご子息・大雅さんもまた精進を重ねられて父君の跡を襲われるものと期待されている。
ご先祖以来の能の中村家であるが、ご一家をあげて能一筋に精進されている。皆様のご助力を賜りたい。

氏は現・熊本史談会の創設者でもあられる。16年の歴史を紡いできたが、初代の事務局長(当時は会長職は存在しなかった)としてご苦労を成され、今日の史談会の道筋を作っていただいた。
私はご自宅にお邪魔して、この「熊本県指定重要文化財」に指定された資料の一部を拝見させていただいたことがある。
伊達政宗の「鶺鴒の花押」が押された、初代中村政長に宛てた「恐惶謹言」と記された敬意をもっての書状や、錚々たる大名衆の入門の為の血判起請文などまさに名実ともに「重要文化財」としての価値ある資料ばかりである。
今回一堂に会するこれらの史料は、又機会を改めて早々に展観できるものではない。
多くの皆様に会場へ足をお運びいただきたい。

これは熊本の宝と言えるが、能楽に関する日本の宝と言っても過言ではない。日本中の能楽愛好者の皆様にもご来場いただきたいものである。


付け足し:
熊本史談会では令和四年の一月例会に、肥後金春流中村家のご当主・中村勝様(熊本史談会・創設者)をお迎えしてお話を伺うことにしている。
        日時:令和4年1月15日(土曜日)午前10時~11時30分
        場所:熊本市民会館第9号室
        演題:加藤清正と能

私たち熊本人でも、加藤清正が能達者であったと知る人は多くは有るまいと思う。その師たるべき人物が清正に仕えた中村政長である。加藤家改易後、その子・靭負正辰が豊前の細川忠利に召し出されることになる。
それ以来、武家であり能楽師でもある中村家が誕生した。一方では6代目・庄右衛門(恕齋)は時習館訓導や郡政の能吏として活躍し近世肥後の26年間にわたる貴重な記録資料「恕齋日録」を残し、その刊本一・二巻が歴史家の研究資料として多大なる恩恵をもたらした。
又、吉村豊雄元熊本大学教授の「幕末武家の時代相」(上下巻)はこの恕齋を主人公とした、大変読みやすい著書である。併せてお読みいただきたい。

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■於・熊本博物館「熊本の能文化・能楽伝承」

2021-11-10 12:56:11 | 展覧会

熊本市立熊本博物館で「熊本の能文化ー能楽伝承」が開催されます。肥後金春流・中村家の多くの能楽資料その他永青文庫・松井家史料など熊本に於ける能楽関係の一級資料が展示されます。
右中央の文書は伊達政宗が中村家に宛てたもので、有名な「鶺鴒の花押」が記された貴重な書状であり、その他多くの大名が中村家でお能の教えを受けていたことを物語っています。
このような資料が一堂に会することは早々にはないと思われます。是非ともこの機会を逃さず展観されますようお勧めいたします。

                   熊本市立・熊本博物館からのお知らせ

       

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■細川小倉藩(509)寛永七年・日帳(八月廿ニ日~廿四日)

2021-03-07 09:56:28 | 展覧会

     日帳(寛永七年八月)廿ニ日~廿四日

         |                        
         |   廿二日  奥村少兵衛
         |
舟大工中津ヨリ帰 |一、中津へ被遣候当町之舟大工、御舟作事仕廻申由ニ而、御留守居衆ゟ之状を持、罷帰候、十五人参
ル        |  候内、上之大工今四人、中津ニ逗留仕居申候由也、
         |一、大坂ゟ之状、八月十八日ノ巳ノ上刻ニ、大坂出船仕由候而、急ノ御用状持下申候、
         |                           (黒原、規矩郡)(直正)
忠利書状木下延俊 |一、木下右衛門様へ 御書箱壱つ、次飛脚にて持せ被遣候、くろ原まて、寺本与葉山清左衛門尉ニ持
宛        |  せ遣候也
         |   (一成)
道家一成室肥後へ |一、道家帯刀内儀、肥後へ御暇申、見廻ニ被罷越、昨日戻被申候之由、帯刀登城ニ而被申候事、
ノ見廻ヨリ帰ル  |
         |       (不破平太夫)     (角兵衛)
張付奉行     |一、張付奉行、ふわ与才津七太夫・湯浅与土方猪兵衛と申候、右ノ奉行ハ江戸へ参、こしらへニ付、
         |  かわり候由申候也、
具足櫃作製奉行  |一、御具足ひつノ奉行ニ、横田権佐与八坂権右衛門・吉村加介と申者也、
         |      (大里、規矩郡)
忠利茶屋ノ番人ニ |一、内裏之御茶やニ被召置候坊主ニ、たれニ成共宿をかし候へと、当春 殿様 御越之時、被 仰出
         |       (勝茂)
宿貸ヲ許ス    |  ニ付、今度鍋嶋様御息女御通りニ付、被成御宿、銀子弐枚被下候、御かけにて忝奉存由にて、
         |  御礼に被出候を、小崎與次兵衛同道にて登城候、御本丸へ上り可被申由、申渡候事、
竹西堂船中賄奉行 |一、竹西堂之上り船中賄奉行ニ上り申友田二郎兵衛与田中久太夫ニ、竹西堂ゟかたひら壱つ、もめん
ニ賞与      |  たひ弐足被下候由申候、
         |  (吉兵衛)
竹西堂ヨリ賞与  |一、竹内与今池作兵衛・谷忠兵衛与相良茂左衛門尉、此両人も右久太夫同前ニ、三人参候へ共、かた
         |  ひらハ不被下、木綿たひ三足宛被下由申候也

         |                        
         |   廿三日  加来二郎兵衛
         |
         |         (加々山可政)
大坂京へ鮭ヲ求ム |一、鮭を下候へと、主馬ゟ大坂・京へ申上せ候由、被申候也、
         |           (規矩郡)
忠利石ヲ見分ス  |一、今日、石火成御覧ニ、足立へ被成御座候也、
         |  (細川光尚) (三淵宗由)
三淵宗由鉄炮伝書 |一、御六様へ、長岡藤十郎殿ゟ鉄炮之書物之由にて、ちいさきはこ壱つ御上候、明日ノ便ニ上候へと、
ヲ光尚へ上ク   |  被仰越候、得其意申由申候而、北村伝兵衛ニ渡候也、
三斎迎船ノ水夫ニ |一、三斎様御迎舟之水夫、飯米ニ渡申惣米無之ニ付、御舟出不罷成候ニ付、中神與兵衛をよひ、い
渡スベキ飯米ニ惣 |  かゝ被成候哉、出船延引候而ハ、さたのかきりにて候、急度可被相渡通、申渡候処、調禍申様無
米ナク出船不能  |  御座候ニ付、銀子にて相渡可申と候て申候処、かねをうけ取候而ハ、俄ニ可仕様無之と申候由被
         |                 〃〃
飯米三十石ヲ取替 |  申候、いかほとの儀ニ候哉と、相尋申候処、米三拾石斗之由被申候間、それほとの儀ハ御米をと
ウ        |  りかへ可申候、何角候て延引仕、立御耳候は、御機嫌いかゝニ候間、此分ニ申付候、是を以来ノ
以来ノ例トセズ  |                             大分ノ事ニ候ハヽ、上方ノ双場ニ仕、うり可申候へ共、
         |  引懸ニ被仕間敷候、御家中ノ御為いかゝと存、取かへ申候、〇其上、ふかしからさる儀ニ付、如
         |  此候、急度御蔵ゟ被請取、渡可被申通、申渡候事、
         |                                  私等共ゟ
         |一、かちノ御小性喜多村伝兵衛、明日江戸へ被参候ニ、江戸御留守居衆へ、〇之状弐通、佐藤安右衛
         |  門・井関久馬方へ之状壱通、京都衆へ之状とも相渡候也、

         |                        
         |   廿四日  奥村少兵衛
         |
三斎ノ迎船出帆  |一、三斎様御迎ニ、爰元ゟ被成御上候御舟とも、今日出船仕候、鏡善右衛門も灘御召舟ニ乗、今日出
         |  船仕候事、
         |            (遠藤)(大羽)(兵太夫)
         |一、江戸ゟ、竹内吉兵衛・安斎・理介・佐分利与篠原小左衛門尉、今日罷下申候、江戸を十四日ノ晩
         |  ニ立、廿日ノ朝ノ五つ時ニ着申候由申候事、
          

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■細川小倉藩(505)寛永七年・日帳(八月五日~七日)

2021-03-02 07:40:26 | 展覧会

     日帳(寛永七年八月)五日~七日

         |                        
         |   五日  加来二郎兵衛
         |
         |  木下
木下延俊使者   |一、右衛門様へ御飛脚被進候御返事、持参申候、休心ニ持せ、御本丸へ上申候事、
         |                       (吉田)
         |一、右之右衛門様ゟ御飛脚、御文箱持参仕由にて、縫殿被持上候事、
十郡改之節出頭ノ |一、發月朔日、十郡諸御改之時、郡々ゟ出申御惣庄や之覚
惣庄屋覚書    |       篠崎孫兵衛
         |       城野五郎左衛門
         |       合馬清六         上野清兵衛
         |  きく   富野二郎右衛門  田川  弓削田甚左衛門
         |       高月孫右衛門       いのひさ太郎左衛門
         |       永の九兵衛
         |                    伊良原二郎兵衛
         |  みやこ  堅嶋四郎左衛門  中津  国作善七郎
         |       稲光作兵衛        長井儀左衛門
         |
         |  ついき  椎田與右衛門   上毛  大瀬孫左衛門
         |       安武喜兵衛        山内大進
         |
         |                    山村弥一右衛門(阿部弥一右衛門、忠利殉死)
         |       蛎瀬新吾兵衛       斎藤角太夫
         |  上下毛  津民平右衛門   うさ  畳石新右衛門
         |  〃    落合孫右衛門       山蔵伝兵衛
         |                    高家末右衛門
         |        (太)
         |       小原大郎右衛門
         |  国東    (安岐)
         |       あキ八郎兵衛
         |
         |  右之分、罷出、相詰、御吟味能承者也、
         |           (是次) (慰英)
         |一、嶋村三郎兵衛ゟ、米田左兵衛・仁保太兵衛方へ銀子言伝被申候を、御船頭東次介ニ言伝上せ申候、
         |  則、銀子相届、請取候との返事取来候、三郎兵衛ニ可相渡也、
船頭等ニ賞与   |一、右御船頭東次介にて、木村久兵衛のり上り被申候処、次介ニ八木壱俵、但、五斗也、又、御加子
         |  ニ斗樽壱つくれ被申候由、被申候也、
         |   (興昌)忠利従兄弟・常陸谷田部藩主
細川興昌飛脚等へ |一、細川玄番様御飛脚ニ、銀子壱枚幷御帷子弐つ被遣候、又、付候而参候小者ニ、金壱歩壱つ被遣候、
郡金等賞与    |                                    (加々山可政)
         |  右金銀請、則、御横目ニ被参候歩之御小生渡辺五左衛門也、但、御飛脚ヘハ主馬殿被成御渡候也、          

         |                        
         |   六日  安東九兵衛
         |
京都ヘノ書状覚  |一、細川玄番様ゟの御飛脚両人乗せ上り申候御小早之御船頭宮崎孫左衛門ニ渡候 御書之覚
         |  一、佐藤少左衛門・真鍋小左衛門尉、此両人ニ被遣候 御書箱壱つ、
         |    (烏丸光賢室、三斎女) 
         |  一、御万様へ、御こほ殿より被進候御文箱壱つ、右弐色渡候也、
         |         (松井興長室、三斎女)
江戸京都ヘノ書状 |一、江戸へ被参かちノ御小性、田辺七郎兵衛ニ渡遣文箱ノ覚
覚        |  一、江戸御留守居衆へ之御文箱弐つ、
         |  一、三斎様への御文箱壱つ、
         |  一、京都衆へ被遣 御書箱壱つ、
         |  一、京都御留守居衆へ、我等共ゟノ状、幷下村五兵衛造佐銀、江戸にてかり被申候を返弁被仕ニ付
         |    我等共ゟ、状をそへ、一包遣候事、
         |    (松井興長)(自徳院、松井康之室)
         |  一、式ア殿ゟ、しとくゐん殿へ被進之文一包、         

         |                        
         |   七日  奥村少兵衛
         |
長崎へ飛脚    |一、長崎へ、為御飛脚被遣候御小人孫助・少右衛門尉、此両人遣候也、
         |          (宇佐郡)
         |一、皆川治ア被申候ハ、船木ノもの、青鷺ノ生鳥を上ヶ申候ニ付、御帷子・御ひとへ物ニ弐つ被遣由、
         |  地ア被申候也、
         |      (成政)                        (覚)
         |一、明日、坂崎清左衛門被乗上候舟ハ拾壱たんほ也、同船弐道各・御茶道ノ以白、四十六丁立に三十
         |  一人のせ申候、但、かちとり共ニのせ候由、かゝみ善右衛門被申候也、

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■細川家家臣・高見家のブログ「ルーツ探訪」

2021-02-28 13:39:11 | 展覧会

 ご厚誼をいただいている、細川家家臣・高見家の御子孫YT様からメールを頂戴し、ブログ「ルーツ探訪」を正式にUPされたご報告をいただいた。
いやはや見事なブログで恐れ入ってしまい、当方ブログなどは足元にも及ばない素晴らしいものである。
これは又、沢山の資料が今日まで残されてきたことも幸いしている。
さきにその膨大な資料は、熊本大学付属図書館に収められたが、ちょうど一年になる。
コロナが騒がれ始めた時期だったが、ご子息とご一緒に来熊された折、御目にかかり食事を共にさせていただいたが、余りのうれしさに、飲みすぎて大いなる酔態を晒してしまった。
それからわずか一年である。見事なブログのスタートをお喜び申し上げるとともに、新たな切り口でいろいろ発信していただけるものと期待をしている。
うれしいの一言に尽きる。

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■明智光秀に味方した若狭武田家とその後の若狭衆

2021-02-12 12:29:42 | 展覧会

昨日Yahooで配信されたサライ・JPの記事「本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城」は大変興味深いものであった。
私のサイト内に、特に「細川家中の若狭衆」を設けているように、多くの若狭武田家の人たちが細川家に召出されている。
先祖附その他から現在15人の方々を確認している。あの沢村吉重もその一人である。西川与助の足軽となり、10,000石の大身に上り詰めた。

それは6代信豊の弟・信高に幽齋女・宮川が嫁いでおり、その男子で京都の建仁寺長老の永甫英雄が力したとされる。
そして細川家と明智家のかかわりが何と深いことかと感じざるを得ない。

大変興味深いのは、信高の孫にあたる信秋のお墓が高森の含蔵寺にあるということである。
どういう切っ掛けで熊本へ来られたのか、又は御子孫がお墓を建てられたのか?
NHKアナウンサー武田氏や、茶道肥後古流家元武田家との関係もうかがわれる。

            五代
     武田元光---+--元度
          | 六代   七代  八代(絶)
          +--信豊---+--義統---元明
          |    |
          |    +--元実
          |       ↓
          |      大和守  山城守
          +--信高---+==元実---信秋 墓所:高森含蔵寺
               |
               +--永甫英雄(京都建仁寺長老)
                 母・細川幽齋姉・宮川殿

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■細川小倉藩(485)寛永七年・日帳(四月三日~五日)

2021-02-10 07:00:00 | 展覧会

                     日帳(寛永七年四月)三日~五

         |                        
         |    三日  安東九兵衛
         |
         |一、今日は未明ゟ雨降候事、
         |此三人へ被遣御文箱ノ銀子ハ、小笠原壱岐守様へ参小判ノ儀被 仰遣由、左兵衛被申候、藤北殿ゟ早キ便候ハヽ可上申候へ共、別ニ早キ便無之ニ付、藤北殿便ニ上ス也
忠利書状諸方宛  |一、寺嶋殿・米田殿・仁保殿へ被進候御書箱壱つ、又京にて津田與庵様・豊永好入様・都築次左衛門
         |                           (秀政)
         |  殿へ被遣候御書三つ、一箱ニ入被遣候、慥請取申候、       吉田理兵衛〇(黒印)
         |                                        (政朝)
         |   但、京へノ御文箱ハ御取返候而、藤掛蔵人殿へ御渡被成ニ付、差上候、左候て、本多甲斐守
         |             (名村)
         |   へ被進候御文箱、むろ左太夫迄可相届由ニて、うけ取申候、以上、
籠ノ鍵ヲ林隠岐へ |一、籠ノかき、祐念ニ持せ、林隠岐ニ渡させ申候也
渡サシム     |
本多政朝ヘノ状ヲ |一、本多甲斐守様へ 御書箱壱つ、むろの左太夫所へ差上せ、左太夫ゟ相届候様ニ可申遣旨、皆川治
名村左太夫へ届サ |                                          〃〃〃
シム       |  ア林隠岐を以、被 仰出候事ニ付、御船頭吉田理兵衛ニ渡、
         |  〃           〃
藤北三佑ノ船旅ヲ |一、藤北三佑殿御上候ニ、船中御気遣ノ由候間、小早を壱艘付上せ候へと、被 仰出候間、奉得其意
気遣ヒ小早ヲ付シ |  通御請申上候、何丁立ノ御小早申付候通、可申上旨候ニ付、幸御船頭田村善兵衛御奉行所ニ有合
ム        |  候ニ付、相尋候ヘハ、四丁立ノ御舟こしらへ置申由申候間、其段申上候事、

         |                        
         |    四日  奥村少兵衛
         |
         |                         後筆                        (へヵ)
         |一、京都へ被遣 御書箱、藤掛蔵人殿ニ相渡申候事、「津田與庵・豊永好入・都築二左衛門殿□被遣候
         |                         御書、右ニ御船頭ニ渡候へ共、蔵人方ニ渡候也、」
忠利有吉英貴邸ニ |一、今朝は、頼母佐殿へ御申被仕候事、
臨ム       |
掃除坊主ノ跡式  |一、皆川治ア被申候ハ、御掃除坊主ノ喜斎病死仕候、左候ハヽ御座候ヘハ、喜斎せかれ親ニおとり不
         |                         〃〃〃
裁可ヲ得難キ身分 |  申ものにて御座候間、則かミをそらせ、喜斎ニ成可申候間、其まゝ跡次ニ被召置可被下候、かや
故子ヲソノマゝ襲 |  うノ類まて立 御耳申儀、 御前難成御座候、其上御掃除坊主すくなく候て、御用かけ申候間、
名セシメム    |  右之分ニ可仕と被申候間、談合之上、右ノ分ニ被仕被仕候へと申渡候事、
         |   (延俊)
木下延俊使者ノ宿 |一、木下右衛門様ゟ、御使者ニ■■青野少左衛門被参候、宿奉行被申付候へと、坂崎清左衛門方へ申
奉行       |  渡候也、
         |一、木下右衛門様ゟ御使者青野少左衛門御やと奉行不被参候間、急度可申付由、式ア殿ゟ被仰聞候
         |  事、

         |                        
         |    五日  加来二郎兵衛
         |
藤北三佑出船ス  |一、藤北三佑殿、今日被成御上候也、
         |            (長沢顕長室、沼田清延女)
三佑ノ帰リ舟ニ |一、三佑殿御上候御舟ニ、いよ殿被下候ハヽ、船中已下念を入、下候へと可申上旨被 仰出ニ付、
ヲ乗セ下ラシム |  此段京・大坂衆へ具ニ申遣候、いよ殿へ被遣 御書ハ、吉田理兵衛京へ持上り候へと申付、渡申
         |  候事、
         |   (吉重)                       (信通)    (ママ)
沢村吉重ノ言分  |一、沢村大学殿ゟ、使者を以被仰聞候ハ、今度稲葉彦四郎様就御座候ニ付而、下々御賄ノ料理人出候様
稲葉信通家来ヘノ |  ニと被仰触候、拙者儀は能料理人持不申候、魚なと洗候ものなとハ御座候、か様ノ者を茂出シ可
賄ノ料理人差出ノ |  申候や、但、拙者ゟも知行高之衆、御触の外ニ御座候間、是ニも被差替候而可被下候やとの被仰
觸  吉重ヨリ知 |                                 (元信)
行高ノ南条元信ハ |  聞様にて候、此方より申候は、御使得其意候、貴様ゟも知行高之衆、南条殿、是は触落被申候、
触落 料理人差出 |  当前ニ而御座候は、たとへ料理人無御座候とても、此方ニ存儀にて無御座候へとも、貴様ゟも知
ハ元信へ差替ヘム |  行高触おとし申候間、差替候由、返事候事、
         |一、横田権佐与小頭有馬七左衛門登城也、此中相煩申、湯治なと仕候而、快気仕候由申候也、
         |  なめし
鞍覆百障泥百製作 |一、とうの御くらおゝい百・同あおり百かけ、今度被仰付候、皮ハ此方ゟ被成御出候、くらおゝい壱
ノ命       |  つニ付弐分のまけ、まへかとの御定弐匁五分ノ内、弐分御まけ申候、又あおり壱かけニ付、二匁
ソノ価      |     〃〃〃〃〃
         |  六分、内五分ノまけ申由、岡本源次・池内源介両人被申候、かわや共呼寄、如此相極申由候、
         |  (桐 油)
         |  とうゆハかわや自分ゟ引あけ申由候、
忠利藤北三佑ヲ川 |一、三佑殿を被成御送、 殿様川口迄被成御出候也、
口迄送ル     |

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■細川小倉藩(477)寛永七年・日帳(三月七日~十日)

2021-02-02 06:57:15 | 展覧会

                     日帳(寛永七年三月)七日~十日

         |                        
         |    七日  加来二郎兵衛
         |
田川京都両郡ノ鷹 |一、矢野勘右衛門被申候ハ、田川・京都郡両所之御たかへや幷御鷹師・御ゑさし居申家修繕可仕由候、
部屋鷹師餌差ノ家 |  就其、両所へ遣度人数三十人ニ而候由、人割衆へ申候へ共、人少も無之由被申候、如何可申付哉
ノ修繕      |  と、被申候也、
         |   (幸長)
         |一、野田小左衛門弟孫七郎ニ御小袖二つ被遣候也、
吹気屋新左衛門へ |一、ふけいや新左衛門ニも御小袖二つ被遣候也、
小袖給与     |
         |       
湯治願      |一、橋詰理兵衛 苻内へ湯治仕度由、田坂角介被申候、遣し可被由申渡候、則山田七左衛門与ニ而
         |         〃
         |  候ニ付、申上げ候由候也
         |  (木下延俊)
木下延俊へ貸与ノ |一、右衛門様へ被借進候御能衣装被成御戻候時、中山金右衛門奉行ニ而持せ可被戻由、堅申渡候事、
能衣装ノ奉行   |

         |                        
         |    八日  奥村少兵衛
         |
上リ屋敷下渡シノ |一、木原権太夫上り屋敷、横井矢次右衛門尉ニ被遣との 御裏書御座候書物を、此方ニいつものこと
忠利裏書ヲ取置ク |
         |  く取置申候、御家奉行波多理右衛門ニ急度被相渡候へと、申渡候事、監物殿ゟ弥次右衛門ニ被仰
         |  渡候へと、監物殿へも申入候事、
忠利北ノ丸ニ数寄 |一、今日は北ノ御丸にて御すき被成候、
ヲ催ス      |
         |   (高成)佐伯藩弐代藩主
毛利高成飛脚ニ京 |一、毛利摂津守殿ゟ之飛脚ニ、京銭壱貫文被遣候、則御返書も出申候を、山本安太夫ニ持せ、遣申候事、
銭ヲ給与ス    |
         |                    (前田)
国東郡奉行ヨリ銀 |一、国東ゟ銀少参候、則 御前へ上ヶ申候、次左衛門状も則相添、上申候事、
上ル       |
京大坂江戸ヘノ状 |一、明日伊藤甚左衛門江戸へ被参候ニ付而、京・大坂・江戸へ遣申書状共相渡候、又佐藤少左衛門
京詰佐藤少左衛門 |  京都宿賃銀、言伝上せ申候、但、銀目弐百廿八匁一包也、
宿賃銀      |
台所奉行拝領物  |一、伊藤仁左衛門ニ御小袖弐つ・金一歩拾、被為拝領由にて、持参被申候也、

         |                        
         |    九日  加来次郎兵衛
         |
忠利東ノ追廻馬場 |一、今朝ハ東之追廻ニ而、御馬被成御責候事、
ニ責馬      |
忠利亀屋ニ臨ム  |一、今晩ハかめや所ニ被成 御成候事、
         |      (下毛郡)(速見郡カ)
忠利福島木付ノ踊 |一、今夜、福嶋木付両所之おとり子共ニあそひ被 仰付候、福嶋之ものニ銀二枚、木付ノものニ銀
ヲ覧ル      |  弐枚被遣候也

                   参考:福島神楽 杵築盆踊り

         |                        
         |    十日  奥村少兵衛
         |
踊子頭等ニ銀子給 |一、木付之おとり子頭作兵衛、
与        |一、福嶋之おとり子頭理兵衛、 (浅山)      (田中氏次)
         |  右両人ニ銀子二枚宛被遣候、修理殿内八兵衛・兵庫殿内哉兵衛ニ見せ、少兵衛相渡候也、
         |             (林)
寛永六年忠利留守 |一、去年御留守中御奉公帳、隠岐ニ相渡候也、
中ノ奉公帳ヲ天守 |
奉行へ渡ス    |
松井興長遣銀ノ計 |一、式ア殿被仰候ハ、銀子弐枚よそへ被遣候間、かけさせ置可申通、被仰ニ付而、かちノ御小姓山路
量ヲ命ズ     |  官左衛門ニ申付、かけさせ置申候也、
銀ノ切手ヲ銀奉行 |一、右ノ銀敷ア殿へ相渡、切手を取、宗多伝左衛門ニ渡申候也、
へ渡ス      |

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