津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御礼

2022-12-31 09:00:10 | 徒然


          当サイト開設以来、皆様の温かいお励ましでサイトの運営が続けられましたことは、
          私にとっては奇跡的と思うほどの望外な幸せで御座いました。
          年末にあたり、深く御礼を申し上げます。
          来年8月には記念すべき満20年目を迎えます。
          いつまで続けることが出来ますか判りませんが、今では私の生きる力となって居ります。
          健康に留意しながら頑張ってまいりたいと思います。
          有難うございました。皆様には良いお年をお迎えくださいませ。

          私の年納めはNHKの紅白ではなく、樋口一葉の「大つごもり」を読んで過ごしたいと思います。

                                2022年大晦日 津々堂・敬白
          

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■ヤフオーク「細川三斎」「細川綱利」関係書簡

2022-12-30 11:36:49 | オークション

 細川三斎 消息 平野屋宗貞宛 十一月八日付 大倉好斎極 真筆

       

     私は平野屋宗貞については良く知りません。町人茶人で古田織部の許で学んだみたいですね。
     見廻の品が届けられたことによる礼状です。祐筆の筆によるもので、三斎は花押を書き入れたのでしょう。

『 細川綱利 消息 』江戸前期の大名 肥後国熊本藩3代藩主 古文書

                             

 弾正忠を名乗った松平正の人物としては、二人の人物が伺える。確定的証拠がないが奏者番を勤めた(1)の松平正久か?
(1)上総大多喜藩初代藩主。大河内松平宗家3代の松平正久。幕府に於いては若年寄りから奏者番などを勤めている。

(2)上総飯野藩の初代藩主。保科正貞、父は保科正直、母は徳川家康の異父妹多劫姫。
 秀忠の妾腹から生まれた保之が父・保利の跡を継いだため出奔。追々実力をもって1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。
 最晩年に弾正忠を名乗っている。

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■「加賀山家(伊丹氏)由緒略記」を読むー2

2022-12-30 07:16:19 | 史料

          其後大永・享禄ノ比ニハ伊丹山三郎元扶 同ク相
          續テ在城シ所々ノ戦ニ軍功ヲ顕シ細川武蔵守高国ノ手ニ
          属シ後ニハ兵庫助国扶ト改メ居タリシカ享禄二年已丑十一
          月廿一日細川右京大夫晴元ノ臣柳本弾正忠カ為ニ被攻
          伊丹ノ城ニテ討死シ其子次郎親興ト云人兵庫助ト穪シ又
          大和守ニ任シ兵庫頭ト改メ初ハ晴元ニ属シ後ニハ将軍
          義昭公ニ従奉リ永禄十一年戌辰九月摂津国三万貫
          之地ヲ給ヒ翌十二年已巳正月六條本国寺桂川等ノ戦

          ニハ伊丹勘右衛門ヲ始トシテ手ノ者數多討セ大ニ武功有之
          相續テ伊丹城ニ在ケルカ天正二年荒木摂津守村重ト不快ノ
          事出来テ矛盾ニ及ケル処兵庫頭カ第一之家臣北川原
          三河守カ村重カ舅ナリケル故兵庫頭三河守ニ対シテ常ニ
          疑心ヲ抱ケル 然共伊丹カ家人共多クハ三河守カ一族又ハ
          外戚ノ者共ナレハ無左右渠ヲ打事モ不叶兎角思案ニ煩
          テ在ケルカ今一人ノ家老野間勘太夫ヲ近付三河守定而味
          方ノ計策抔ヲ皆聟ノ荒木ニ告知ラスラント覺タリ 去トテ
          歴然タル符ノナカランニハ誅セン事モ世ノ舌頭ノ謗リアリ
          汝等カ所業ニモテナシ三河守ヲ追出候ヘト下知シケレハ野間

          頓テ伊丹市正・同越中守兄弟ニ内議シテ面々ガ私ノ宿意ニ
          詫テ遂ニ北川原ヲ追出ケルヲ三河守第三ノ舎弟北川原市
          允ト云者當年廿歳之若武者大太刀提ケ馳出テ戦ケルカ向
          敵廿人迠切倒シケル 爰ニへんて右衛門ト云者長刀振テ蒐リ
          ケレハ市允屹ト見テ誠ニ蟷螂カ立車ニ向トハ汝カ事之 吾ニハ
          飛蒐テ細頚中ニ打落ス 其兄與吉ハ六嶋カ男子ヲ生捕
          質トシテ各一所ヲ切破り池田勝入ヲ頼テ在ケルカ其後伊那
          寺ヱ城ヲ構テ伊丹ヲ攻ント擬議シケリ 伊丹兵庫頭此由ヲ聞テ
          同三月中旬伊奈寺ヱ逆寄シテ攻ケル間三河守モ打テ出數人
          
          切伏無比類働ト云共両勢ニ不叶シテ終ニ其所ニテ討死ス カカル
          所ニ荒木謀臣ノ為ニ討レタリト云浮説有ケレハ北河原ノ者共
          彌力ヲ落シ妻子悉ク茨木へ落行ケリ 村重此ヲ聞不安事
          ニ思ヒ鎧取テ打著(着カ)續ケヤ者共トテ馳出ケレハ例ノ中川等ノ者
          共追々ニ馳著伊丹ノ城ヱ押寄スル 池田ヨリモ二千余人加勢シケル
          間伊丹不叶ト思ヒ城ヲ明テ逃去ケリ 其後北河原ノ一黨悉ク
          村重カ手ニ属スル由

                    (3へ続く)  

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■今年最後の外出?

2022-12-29 18:21:58 | 徒然

 午後から京都から帰熊されたK氏とお会いするために外出。メール・電話で五六度やり取りしただけで初対面である。
実は先頃、 長岡京市でガラシャ祭りで開催された際、講演会長岡京ガラシャ祭2022歴史講演会「戦国を駆け抜けた志水氏―細川家に仕えた西岡衆―」に出席され、その折の史料をわざわざお送りいただいていた。
「サクラマチ熊本」でお会いして、コーヒーラウンジでしばらく雑談、故郷熊本の歴史、特に細川家に随分関心をお持ちの様でうれしい限りである。
公務員でいらっしゃるから土曜日もお休みで、京都を中心に広く勉強のためにお出かけになっているそうで大変羨ましい。
こういう若い方が熊本に居られて、熊本史談会の為に活動いただけたらと大いに感じてしまった。

 どこも、仕事納もすんで一息ついた人たちで、寒い中にもかかわらず街は賑わいを見せている。
ご多分に漏れず熊本のコロナも12月の13日突然3,981人と急増、しばらく3,000人~5,000人台が続いているから、此の人出でまた広がりを見せるかもしれない。
久しぶりに下通から上通りを散策して、人波の中を歩いてみた。
腕を組み笑いあって行きかう若い人たちを見ていると、コロナ等吹っ飛ばすような快傑さが頼もしい。

         いそがしく 時計の動く師走哉

正岡子規のこんな句があったことを思い出した。人波の慌ただしさの中の師走の風に身を置いた。

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■忠利の困ったおじさん・孝之

2022-12-29 06:54:59 | 先祖附

 侍の世界には「厄介叔父」という言葉がある。
厄介叔父というからには、士分の家に生まれたものの、次、三男であるために仕官の望みもなく、一生生家に寄食して、日陰の暮らしを余儀なくされている人間であろう。
藤沢周平『回天の門』から。

    ところが今日ご紹介するのは幽齋の末子・細川孝之で、細川忠利にとって一つしか歳が違わない厄介な叔父さんという存在である。
一時期は香春の25,000石の城主であったが、一国一城令が出ると、兄忠興から扶持され府中に住まいした。

許しを得ることなく鉄炮で狩りをしたり、舟で海へ漕ぎ出したり勝手気ままな行動が見受けられ忠利とは全くの不仲になった。
過去には忠興弟・細川孝之と忠利の仲違いをご紹介している。

いつの比か知れないが出奔し京都に住まいしたらしい。父幽齋の庇護を受けたのだろう。しかし、細川家の肥後入国後は
八代に行き三斎の扶持を得た。

こちらは「厄介叔父」ではなく「厄介な叔父さん」という事になる。
元和九年(1623)十二月廿九日付けの記録が残る。この時期忠利38歳、孝之39歳である。

           一、十二月廿九日、中務少輔孝之主の御事ニ付御奉行中江之御書
               中書殿ふちゆう(府中=小倉城下)ニ候ハん間
                一米百石・まめ三十石
                一こそて 一重
                一たる 十
                    右之分使ニう右衛門を仕可遣候
                 右馬介をそへ候て遣、今度ハ知行も申付候て進候
                 様子との事ニついて、我々知行のありたけまかな
                 いノ様子書付、此内何ノ知をなにほと進候へと御申
                 候へ、其上たんこう可申よし申候処ニ、知行無之
                 所御聞わけ候て、以後はたはり有之時いか様にも
                 申付候へととの事承とゝけ候、何とて他人さへよく
                 可仕に、おやこノ様ニ御さた候ハゝ、我々かたよ
                 り成次第とハゆめ/\不存、其上中書殿前々よ
                 り我々すいふん心をつけ申候様ニ存候、今以如在
                 少も無之候、何とかなと存候へ共、公儀のかれか
                 たキ事多候て引たり不申候故、三斎様より進候御
                 ふちの内申うけ候て人ニ遣度と存候、時も御さ
                 ゝキ其段口上ニよく可申よし可申候、以上
                    元和九年十二月廿九日  御名
                                奉行中

                 休斎主ハ幽齋君之御末男ニ而細川中務少輔孝之
                 申候 初孝紀幼名茶知丸、其後与十郎 丹後ニ而幽齋君之御隠居領を
                 御譲被成、扨豊前ニ而は領弐万五千石ニ而香春之
                 城主なりしか、豊前御立退 年月不分明 御剃髪有之、休
                 斎宗也と号せられ、京ニ御幽居被成候、忠利君よ
                 り三百人扶持被進置候

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■頭の毛がうずくから・・・

2022-12-28 07:15:40 | 人物

 陰陽師・土御門家の事を調べていたら久侑の夫人が三渕家の人であったことを思い出した。
余りメジャーとは言えなかった三渕氏については、NHK大河ドラマ「麒麟が来る」で俳優・谷原章介氏が藤英を演じて全国的に名が知られたのではないか?

                                                                       
細川幽齋の実家が三渕氏であり藤英の弟である。尤も幽齋は足利義昭の子だとされ、幽齋を身ごもっていた生母が離縁となり細川晴員(三渕氏)に嫁いだことによる。
インターネットで調べていたら、「寛永重修諸家譜」をベースとした「旗本三淵氏略暦図」が紹介されている。
これを眺めていたら私が承知している系図と齟齬があることに気付いた。
嘘だろうと思い、東大史料編纂所の金子拓先生の論考「室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英」等を引っ張り出して再確認する。
これは相当分が悪く私が間違っていたようだ。赤旗を上げる前に最後の抵抗を試みている。
藤英の孫・藤正が細川家家臣となり郡氏を名乗っているから、いろいろ影響が出てくる。
過去のブログでも三渕家の系図などを何度かご紹介しているから、私にとっては大問題である。
一両日、問題解決に時間を過ごさなければならない。

ちなみに、土御門久侑と三渕氏女との間に生まれた泰重に、織田信長の弟、信包の孫である織田三十郎女が嫁いだ。細川藩士津田家(1,000石)の祖である。

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■根子岳

2022-12-27 07:27:24 | オークション

 先の熊本大地震の際、西原村から久木野(南阿蘇村)へ通ずる道は大被害を受け復旧に大なる時間を要した。
私が現役のころは、俵山越えのルートで車を走らせたものだが、大橋が出来、トンネルが抜けると快適そのものでハイウエイを走る気分であった。
山を下り久木野へ入ると、道沿いに清流を擁した小川が流れ、左手には田畑が広がりその向こうに根子岳が雄大な姿を見せる。
時には車を止めてスケッチをしたことがある。過日そのスケッチが顔を出し余りの下手さに笑ってしまった。

 私は画家の田崎廣助の画が好きで、或る時ヤフオクを眺めていたら彼の画集が2,000円で出品されていた。
欲しいと思い応札したが、どんどん値が上がり途中でギブアップしてしまった。
最近久しぶりにヤフオクで検索してみると、田崎廣助が花盛り状態である。
真筆、レプリカ、リトグラフ、画集など多く見受けられて見入っている。残念ながら「根子岳」は見受けられないが「阿蘇山」がある。
880,000円の真筆を始めとするが、リトグラフだと30,000円位では手に入りそう、それでも「根子岳」に執着している私である。
ここしばらく、ヤフオクで「根子岳」をキーワードに年末年始を過ごしそうである。


                                            

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■「びわんくび」雑感

2022-12-26 08:16:36 | 熊本

 随分「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」を取り上げてきたが、この中に清正の治水・利水の工事が行われた場所として「びわんくび」が登場する。
私の手元に何方が作られたのか記名がない史料があり、ここでは「渡鹿堰」だと比定されておられる。
ところがこれを裏付ける資料が見いだせない。私も地名辞典や、関係書籍、インターネットを通じて随分調べてみたが見出すことが出来ず「渡鹿堰=びわんくび」に懐疑的になった。
処が思いがけず10年前の白川大水害で被害を受けた白川に突出した場所に作られた住宅団地が、5~6mも水位が上昇して大被害を受けたがその報告書の中に「枇杷の首」の名前を見出した。■2012年7月12日の熊本水害と「びわんくび」
全く偶然で驚いたが、私はこの場所こそが善蔵が云うところの「びわんくび」だろうと考えた。
熊本史談会の12月例会では私の解釈を御披露した。

 昨日「隈本に消えた地名」(熊本地名研究会編著)を読んでいたら、菊池郡七城町(菊池市)菰入と言うところに「びゃんくび」があったことが紹介されいて、これには驚いてしまった。
川が大きく蛇行する土地の突端部をそう呼んだと記されている。
川幅30m・深さ3mあった「びゃんくび」は、川の流れは洪水などで変化し、現在は消滅し水辺公園になっているらしい。
しかしこの場所の治水工事が加藤時代に行われたという事はないようだ。

 今一つ、南阿蘇村にも「びわんくび」は存在するが、この工事も細川藩制期のものだとされ対象外である。
さて、善蔵さんが云うところの場所はいったいどこなのか、解決の糸口が見えない。

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■「加賀山家(伊丹氏)由緒略記」を読むー1

2022-12-26 06:53:44 | 史料

「奥田権左衛門由來記を読む」が終了したので、続いて奥田氏の祖・「加賀山家由緒略記」をご紹介する。
加賀山氏の祖は「伊丹氏」である。私も随分伊丹氏については文献調査などしてきたが、上記記録の存在は知らずに来た。
この記録をご紹介することで、伊丹氏研究の一助になれば幸いである。(出典:上妻文庫‐熊本県立図書館藏)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

               加賀山家由緒略記                           大正十二年十一月加賀山崇氏
                        先祖記録ヲ抄録ス

               傳云往昔加賀山氏ハ摂津国ノ産ニシテ藤原氏ノ末葉ナリ 本苗ハ
    伊丹氏ニテ代々摂津国伊丹ノ城ニ住居セリ 其
先正平十三年二鎌倉ノ
    執権北条相模守高塒カ代ニ當リテ紀州安田ノ莊司ト云者
    武名ヲ叛キケル時摂州伊丹ノ住人伊丹十郎兵衛重継
    楠正成ニ随ヒ鎌倉ヨリノ命ヲ受河瀬大夫抔云人ト同シク
    進発シテ追悼セシ事武家評林三楠實録等ニ評之併其
    後建武二年足利尊氏ゟ軍勢催促ノ御教書ヲ受ケ私ニ
    尊氏ニ内通シケル故正成何トナク居城千釼破ニ被召寄家
    子郎等(党)ニ命シテ被誅シ由其子伊丹大和守ト云フ人延文年
    
    中尊氏ノ長男義詮公ニ仕へ摂津国ノ地ヲ賜ハリ伊丹ノ城ニ住
    ケルカ貞治元年壬寅八月同国ノ守護代箕浦二郎左衛門
    等ㇳ固ク正成ノ三男正儀ト戦ヒ於摂津討死ス 又其後百余
    年ヲ経テ応仁元年将軍義政公ノ代ニ前管領細川右
    京大夫勝元・山田右衛門督持豊入道宗全ニ対シ不快ヲ
    抱キ世ノ大乱起ケル時伊丹何某ト云人摂州ハ元ゟ勝元分国ナレハ
    勝元ニ属シ武田大膳大夫国信ノ手ニ被附所々ノ合戦ニ赴キ
    其後ハ代々細川管領ノ家ニ従ヒ伊丹ノ城ニ在住ス 永正ノ
    頃ニ至テ細川家ノ長臣三好カ一族勢威盛ニシテ国々ノ
    合戦暫クモ止事ナク細川家ノ人々モ動モスレハ互ニ合

    戦有ケル時永正十七年庚辰二月伊丹但馬守ト云人伊丹ノ
    城ニ在テ敵ノ為ニ被攻防戦難叶野間豊前守ト同ク城中
    ニテ生害ス

                                                (2へ続く)

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■訃報・近代史家渡辺京二氏逝去

2022-12-25 16:15:08 | 人物

 在熊の近代史家・評論家の渡辺京二氏が亡くなられた。水俣病問題などにも深くかかわられ、作家・石牟礼道子氏などと共に共に行動を共にしてこられた。
石牟礼氏が亡くなられた後も、お元気に活動をしておられたようだが、92歳というお年を考えると天寿を全うされたかと思う。
私は随分氏の作品に親しんだ。氏がその作「神風連とその時代」のなかで記されている次の記述が大変記憶に残る。
「いわゆる郷土史家たちのみみっちい党派心がつねづね不愉快でならない。肥後にはいまだに小楠や実学党に対する隠微な党派的反感が残っている」
言わんとされることはよく理解が出来るが、いまでも学校党の流れを引くような保守的な土壌は、小楠を仰ぐ勢力が一時的に天下をとったものの、その土壌を天地返しをして豊かな土地にするまでには至らなかったように思う。
私は未来永劫この熊本の政治的風土は変わる事はないのではないかという悲観的な思いを持っている。
渡辺京二氏の著作を通じて、その深い精神に触れたことはまことに有難いことであった。
心から哀悼の誠を捧げたい。天上世界で又石牟礼氏との変らぬ交流が続けられることであろう。合掌。

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■「奥田権左衛門家由來記」を読むー6・了

2022-12-25 12:34:30 | 人物

                       
          一同人ニ男子早世と系図ニも記有之候得共按田噂ニハ
        堕胎ニ而直ニ産屋ニ而死去之由此儀津崎ニも承候処同意の
        噂ニ而夫ゆへ俗名とても無之と両人ゟ承候事
       一同人妻冷光院ハ十七歳ニ而幸田原屋敷ニ而之婚礼有之
        廿歳にて産後の煩ニ而於同所死去之由高麗門外禅定寺ニ
        墓有之由ニ付罷越役僧■林に致對面石塔等致
        吟味之處む相違有之尤位牌にハ朱三計の紋有之
       一同人後妻無之妾腹ニ女子有之五歳計ニ而高麗門
        外之隠宅にて病死之由
       一元祖二代目三代目四代目権左衛門病死之節の年齢今まて
        存知不申候處少右衛門方の家記自分方の位牌ニ有之候
        間此節致吟味系図にも書加之事

                 (以下略・・了)

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■いただけぬ町名を考える

2022-12-25 08:29:36 | 熊本

 1、しょうべん町・2、こえとり坂・3、いんころし丁・・・熊本の町(丁)名や坂の名前にいただけぬものがある。
これらはそれぞれ漢字になおすと小弁町・声取坂・犬殺し丁という具合になるのだが・・・

1、は少弁という漢字が充てられているが、本来はこの辺りに菖蒲園(しょうぶえん)があったからだという説がある。
 熊本弁はローマ字にしてみると、或る音が抜けることで成立すると理解できる。syobuen の u が一文字抜けるとまさに「しょうべん」になる。
 少弁とは太政官で弁官と言われる位の大・中・小の少弁官によるが、これがこの地とかかわりがあるとは思えない。
 私は菖蒲園を勝ちとしたい。

2、は現在の安政町4丁目の安政町通りの中程からから北に抜けていた路地で現在は存在しない。
 これは大変好意的な解釈で「声取」という字があてられているが、白川沿いで謡や詩吟の稽古をする人があり、川の瀬音に声が搔き消されたからだという。
 一方「肥取坂」という意味も隠されていて、安政年間には安政橋も架橋され、下肥を積んだ荷車がこの橋を渡っていったことに因るのではないのか。
 私は肥取坂が本当ではないかと思っている。

3,は普通に「いんころし丁」が良かったように思う。それでも説明が必要だが、当然消えた名前である。
 熊本地名研究会の小崎龍也氏の解釈によると、淀川周辺でつかわれた平底の小さな船(飾磨舟)のことを「いぬころし」と言ったことによるとある。
 出処は熊本ではなかった。
 inukoroshiの u が抜けて「いんころし」となった。 u が抜けて熊本弁的になるのは、「小弁」と同様である。
 熊本の繁華街上通の中程、肥後銀行の反対側から坪井川の蛇行の突端部に至る割と広い部分で現在の熊本大学・付属幼稚園の敷地が大部分を占めている。
 問題はこの場所が何故飾磨舟と関りがは有るかということに就いては、小崎龍也氏は、この「いんころし舟」を管理する役職の人たちが住んでいたのだろうと
    推測されている。
 水害が度々出ることにより、大きな屋敷や寺々ではこの船をそれぞれ持っていた。
 新町の某寺の床下から数年前にこれが姿を現し、処分寸前のところをある人が見つけて是を思いとどまらせて、自ら大工さんを手配して修繕された。
 水害が出た時には、女子供の二三人は乗れるくらいの小さな船である。
 

 

 

 

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■クイズです、何と読むでしょうか?

2022-12-24 11:39:46 | 徒然

    1、誰何
    2、彼誰
    3、誰彼
    4、被分

 これらの文字、こうして眺めると即答とはいかないし、こっそり漢字のサイトで調べなければならない。
しばし頭の体操に如何ですか?。ヒントは、1 は訓読みでも音読みでも、2・3・4 は音読み

 

 

 

・・・・・・・・・・・・こたえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    1、「すいか」これは音読みでは「誰か?」まさしく、 何者なのかと問い質すこと。人を呼び咎めること。
      何だか街中で飲み歩いていると、お巡りさんに声を掛けられるといった風情であろうか。

    2、「かわたれ」と読むが、「夜明け前の人の見分けがつかない」の意。そんな時刻を「かわたれどき」という。
      最近では死語に近い。

    3、本来は「だれかれ」と読んだが、のちには「たそかれ」と読みこちらも時を表す。
      つまり2とは逆に、夕刻に人の見分けがつかないころをさし「黄昏時」と変じた。
    4、熊本に在った熊本の町名「わかされ」町、現在の水道町のメルパルク周辺である人が屋敷が手狭になり「被分候て」、
      この地に屋敷を拝領したことによる。添屋敷だろうか。
      又、分家して屋敷を拝領することもそういうようだが、こんな事例は多々あったろうが、ここに限定されているのも面白い。

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■袖珍本

2022-12-24 07:09:37 | オークション
 
■長い事一息つけば・・・・・

 私が中学生くらいの事で全くうろ覚えの話だが、同居していた母方の祖母が「長い事一息つけば・・・・・」という句があると言っていた。「・・・・・」は五文字であったと思う。その五文......
 

 これは一年前のブログだが、祖母が時折百人一首の札を眺めていたことを思い出す。
不思議に思うのは、我が家は昭和28年の熊本大水害で鴨居の上まで水が着て、家の中のもののほとんどが流失したが、祖母の百人一首は残されたのだろう。

 最近袖珍本に興味を持っていて、ヤフオクを眺めていたら袖珍本百人一首 豆本 江戸後期版本 絵入本 小本 和本 なる古書が出品されていることに数日前気が付いた。
最近百人一首を諳んじてみたいと思うようになって興味をそそられた。
「袖珍本」とは「 袖の中に入れて持ち歩きできるほどの小さい」のことだが、「馬上本」ともいったというからその歴史は大変古いものだろう。
袖の中に入れるというから、学生がまだ和服で過ごした時代が限度なのだろう。
私も少々判が小さい本を数冊持っていて、是が殆ど明治・大正期のものだから不思議に思っていたが、これが袖珍本であることを後になって知った。

 しかしながら、ヤフオクに出品されている古書は相当草臥れている。あまり気が進まない事の確かである。
それは別として、一年前に同じことを書いているが、来年はなんとか脳細胞の活性化のために頑張ってみようと思う。

                長い事一息ついて和田の原 

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■「奥田権左衛門家由來記」を読むー5

2022-12-23 12:53:40 | 人物


     一権左衛門正雲院弟之内十三郎後生白と申候者一生浪人にて
     菊池郡水嶋村の知行所ニ引越及老年宗旨替有之候而
     熊本古町延壽寺旦那ニ成七十歳ニ而病死則延壽寺ニ
     葬送有之候由津崎咄ニ付右寺へ罷越役僧 教永寺 に致
     對面承候処生白戒名今迄知ㇾ不申候処右役僧ゟ書付遣候ニ付
     系図ニ有之候年月日引合候得共無相違扨又生白子とも
     有之事同姓中の系図ニも不相見候処宗岳寺過去帳ニ
     生白娘として戒名有之ニ付今度之系図ニ記候事
    一四代目権左衛門舜惶院享保二年八月五日之夜乱心ニ而家来へ
     手負せ候ニ付翌六日御知行家屋敷被召上其節の家来
     家司役城善兵衛百石水野孫三百石奉行役岡部兵助
     其外高井九左衛門鎌戸佐左衛門此外譜代之者一両人も有之

     候得共断絶之後脇家中ニも出或ハ病死之者も有之追々
     子孫も無之由右家屋敷被召上水野孫三借宅ニ而致
     居住居候高麗門外長国寺近所地子屋敷ニ 孫三此所より■ヶ勤いたし居候由
     権左衛門其外従類共引移候同年八月晦日ニ御知行當前之
     百弐十人三歩扶持被下候貧敷暮ニ而押移居候處延享五年
     七月致病死候叔父三十郎も此所ニ而死去之由右孫三居候
     所ニ権左衛門引移候ニ付孫三ハ其節又々外ニ屋敷を借り引除候由
     扨右御扶持方百廿人三歩扶持と申儀津崎江承候處御切米所
     被致吟味候處知行三千七石五斗ニ付テ百弐十人ㇳ三歩の
     御扶持方出候由御切米所御役人仁右衛門江噂被申候由津崎咄有之

     右権左衛門病死之節も宗岳寺ニ葬候処石塔も無之候而
     傳宗院石塔前ニ小キ六地蔵の折に丸キ笠石有戒名の
     様なる事もなく候間宗岳寺の住持に致對面委敷様子
     承候處其砌石塔建候ものも無之故寺ゟ先右ノ石を建置候
     との咄ニ而有之尤位牌ハ在世相應■度相見候墓ハ後年ニ
     なり候ハゝ知れ申間敷と存候此吟味の節ハ同姓の次郎右衛門を
     致同道過去帳之内権左衛門方代々の戒名等写候事
     

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