津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■四百石・志方逸次家先祖附

2023-12-04 07:26:39 | 先祖附

                                      

                   四百石 志方逸次

         一先祖赤松家ニ而御座候 播州神吉之城主神吉
          八郎 上野介祐則 同民部少則實 同ク
          民部少輔則氏弟播州志方之城主志方
          左馬介後丹波則繁初櫛橋と申所攻取其家を
          主子志方右衛門尉繁廣天正六年五月諸将を
          引請及合戦落城仕候 此節播磨七家大形
          ( 一行コピー欠落 原本確認後補足 )

          志方上月別所明石等ニ御座候 右衛門尉落城
          仕候付世忰 初代六助二歳ニ而一命を遁丹波
          国穂壷之城主赤井悪右衛門養育ニ而盛長仕
          居申候処悪右衛門病死ニ付同国長生院与申仁江
          罷越居申候
          三斎様被為及聞召十五歳之時於丹後被召出
          御知行被為拝領御昇頭被仰付候 悪右衛門陳中
          振申候大長刀于今私家ニ持傳申候 右志方

          六助小牧御陳朝鮮御陳岐阜御陳之時
          右之御役儀相勤筑紫御陳之節就中働
          有之高麗御陳之節ハ城江乗候時石討之
          手傷負病申候処御懇之以御意養生被
          仰付御薬等御直ニ被為拝領快気仕関ケ原
          御陳大阪御陳之節茂右之御役儀相勤申候
          三斎様被遊御隠居候後茂六助若手ゟ之
          働等度々被仰出立身可被仰付者ニ候を始終

          小身ニ而被召置候段御懇難有御意御座候
          御国替以後八代ニ而者御軍役之外無役ニ而
          罷在 寛永二十年病死仕候
          二代目
         一志方半兵衛儀右六助嫡子ニ而御座候 於豊前
          十八歳之時
          三斎様被召出相勤申候 関ケ原御陳之節
          御供仕於戦場甲付之首討捕高名仕首帳ニ
          附申候由御帰陳之上為御褒美新知

          五百石被為拝領御弓被成御頭候 其後御鉄炮
          被成御頭段々御役替御加増被仰付御替ヱ御指物
          引両之御幕被為拝領候 御指物者大白熊之御差物也
          御指物引両之御幕只今至迄所持仕居候
         一慶長二十年五月大阪之城落城之時
          三斎様者御手廻計被召連昼夜御■舩ニ而
          御上り被遊兵庫ゟ陸地被遊御登候節茂半兵衛
          儀者御側ニ被召連候 御家中諸勢者中国

          陸地を御登せ被成候付
          三斎様大阪江被遊御着候御跡ゟ追々着之御
          手傳申候 御合戦之刻者御先手藤堂和泉守殿と
          御同備ニ而御座候
          三斎様御手廻之面々も和泉守殿御先手
          同前ニ手合候面々ニ者清田七助・佐藤将監・
          藪三左衛門・村上縫殿助・佐方与右衛門・續勝助・
          續亀之助・乃美主水・朽木与五郎・志方

          半兵衛右何茂関ケ原御陳大阪御陳之刻
          鑓太刀打甲付之首討捕無比類高名仕候付
          御直段々難有御意共御座候而御加増一廉可
          被下由御直被仰渡候 半兵衛儀関ケ原御陳
          大坂御陳ニ手柄仕候為御褒美後御知行千石
          被為拝領有馬御陳之刻者御人数半兵衛引廻
          可申旨被仰付候而細川立允様江御附被成被遣候
          右候而城乗之日者立允様有馬本丸之流尾

          升形ニ一番ニ奉着御昇之揚時分触候而御馬
          印を揚候得と御昇頭原傳右衛門ニ致下知御昇を
          張と立允様御座候所ニ呼登せ申候 於此所
          御昇頭原傳右衛門御昇小頭藤原と申者能働
          御當家諸手ニ御勝レ被遊九曜之御昇本丸江
          壱番ニ入候者半兵衛働候由承傳申候 尤
          御昇有所ニ至迄一ニ之■壱人茂無御座候 御帰陳
          之上

          三斎様御直ニ有馬之様子委細被聞召■■■
          御感被思召上之旨難有御意ニ而今度之為
          御褒美半兵衛儀
          三斎様御家老役被仰付候間御礼申上候得者
          當時八代江細キ御様子ニ而被遊御座候間御加増
          不被下候 責而御家老ニ被仰付ゟ外之儀無御座候と被
          思召御家老被仰付候 此後自然之儀有之
          御人数被遣候者長岡河内・佐方与左衛門・志方

          半兵衛此三人之内壱人ハ八代江罷在弐人者
          御陳二可参候 半兵衛儀ハ何時茂御陳ニ罷立可
          申旨御直二遊御意候 右之様子者以来人      志方半兵衛言上之覚
          存知候由承傳申候                 
          三斎様江ハ被遊御隠居
          妙解院様御家督被遊御下国候節御供ニ半兵衛
          被召連段々難有被仰付二而罷下申候 下着仕候上
          妙解院様江半兵衛奉願仕候者

          三斎様殊ニ御懇ニ被召仕たる儀二御座候間
          三斎様御在世之間者 御隠居様被相勤候様
          被仰付被下候者難有可奉存旨奉願候処ニ願之通
          被仰付中津江罷越
          三斎様江勤上申候 御国替以後茂八代江御供仕
          参相勤申候
          三斎様御逝去之後
          真源院様江御暇申上候処嫡子半右衛門二三百石

          二男十兵衛ニ三百石被為拝領半兵衛ニハ五拾人
          扶持被下置段御懇之御意ニ而御鷹場之内
          猟等を茂被遊御免候間随分息災ニ仕居申候
          重而可被召出之旨御直被成御意候処其後
          於江戸御逝去被遊候 猟等御免之儀御家老中ゟ
          被下候御書付只今至迄所持仕居申候
          真源院様御逝去後御家老中迄御暇
          願之書差上申候得共御暇不被下候 就夫

          半兵衛生而申上候ハ御暇不被下候者嫡子半右衛門二
          私先知千石私弟志方小左衛門ニ新知貮百石
          被為拝領 私儀者只今之通被仰付被下候様ニと
          申上候処如願御知行被下半兵衛儀茂申上候通ニ被
          仰付万治二年病死仕候
          三代目
         一高祖父志方半右衛門儀親半兵衛先知千石被為
          拝領外様御弓貮拾張被成御頭相勤申候 寛文
          七年病死仕候

                (以下略)

          

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■おおごと、新・肥後細川藩侍帳「入江家」のこと

2023-10-05 06:55:59 | 先祖附

随分以前■お安く読む・中公新書「武士と世間」を書いた。

 細川家家臣・加賀山主馬は転び切支丹として知られるが、その父・源左衛門政房を著者・山本博文氏は
 「加賀山主馬の父源左衛門は、摂津高槻城主・高山右近の三男で・・・・・」と書いておられるのが、ずっと解決しないままできた。

 先に入江太門太家の史料を入手し、先祖附を詳細に飛んでいると初代三之允は「浪人ニ而伯父加賀山主馬方江罷越居申候處・・・」とあった。
「義伯父」だと思われるが、入江三之允の伯母婿と理解できよう。又女系による繋がりを一つ発見した。

 この入江太門太家の先祖附では、初代三之允以前の先祖については全く触れられていないが、別途系図が残されていた。
これによると三之允の父親は景秀であり、淡路守を名乗り、晋門とも称している。
この景秀の弟が、入江平内(景光)であることが判明したが、私はこの平内が田邊城に籠城した人物だと思い込んでいた。細川家史料によると平内を淡路としているが、これは兄景秀と混同しているかもしれない。または真齊とも名乗っているが、真齊については「新・肥後細川藩侍帳」で紹介しているように、入江平内入道真斎として「淡路弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
      立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明」(綿考輯録・巻14 P260) とあり、これが入江傳十郎家の初代・平内(景光)なのか?

一方、忠利君よりの御書に、於田辺長々籠城苦労有之由、尤心中察申候、手柄なる儀共満足申候と被遊候御自筆なり(下記)
豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子に勝る働有しと也、父は左近将監光秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たりしといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪して普門と云、慶長十九年六月病死(綿考輯録・巻五)

又、入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻二十八)
折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
        五月三日               内記忠辰(忠利)御判
          入江淡路殿 まいる

上記妻ハ毛利家士乃美某女なりという記述からすると、ここに書かれている淡路とは入江景秀ということになる。というのは系図にある太門太家初代の三之允正勝の母が乃美兵部少輔とあることによる。

現在私は少々頭が錯乱していて頭が整理できないでいるが、我が「新・肥後細川藩侍帳」に大いなる誤解を以てご紹介していたことになる。
図書館に出かけ早々に「傳十郎家」の先祖附を取り寄せて、再確認をしなければならない事態となった。改めてご報告をしたい。

 

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■「武家の相続法」と異例の事例の発見

2023-09-17 06:18:15 | 先祖附

 鎌田浩氏の論考「近世武士相續法の特色ー熊本藩を中心としてー」をプリントアウトして読んでいる。
私は細川家に限定はするものの、いわゆる馬乗り衆と言われる家格の代々の相続を見てきたが、上記論考は大原則論であり実際はなかなかそうはいかない現実的な相続が行われていることを実感する。
数代にわたり女子に男系血族ではない聟養子を迎え入れている事例など数多くある。
嫡孫相続・弟への継続・血族男子を養子とする継続などは、筋目優先の原則からするとまだ驚くものではないが、私が発見したS家の場合の事例は専門家も驚くようなものであった。
S氏との出会いはS氏が熊本史談会に入会されてからの事である。10年以上にわたり書道家のお姉さんの協力を得ながら、先祖附の読み下しを行い、遠祖については出身地などを訪ね、豊前の知行地や肥後に於ける任地・知行地やお寺等を訪ね諸資料を交えて立派な冊子を作られていた。
そんな時期に出合ったのだが、私の調査で新しい事実が次々に出てきたので追加記載が度々となり、完成とはならずに来た。そんな中で順当に相続が為されてきた中、6代目は5代目の従兄弟の子(従甥=6親等)が跡目相続しており、3代目の弟が分家しその3代目が一領一疋の身分であったというものだ。
この先祖附の記述に疑問を持った私はいろんな資料をひっくり返して、その裏づけを花岡興輝氏著「領国支配の構造」にしっかり紹介されているのを見つけ出した。某地区の地侍となっており系図が示されていた。
つまりこの相続は、従兄弟の子という一族の者ではあるが、「徒格」の身分から「士分」の家を継いだ訳である。
S氏はこれ等の資料を携えて、ある方にその旨を伝えた処、こういう事例がある事に「例外的だ」と大変驚かれたと報告を受けた。これ等の結果を書き加えられて「S家累代の歴史」という一冊に仕上げられたが完成は一年ほど伸びた。
あとがきには過分の御紹介をいただいたうえ、見事に作り上げられたその冊子をご恵贈いただいた。

ただ、この「異例中の異例とも思われる相続」が、どの様な経過を以てどう決済されて成立を見たのかは査として知れず、未だ闇の中である。


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■内藤濯と竜北のわらべ唄

2023-09-13 15:55:25 | 先祖附

 サン・テグジュベリの「星の王子様」の翻訳者・内藤濯は、横井小楠に薫陶を受けた医師・内藤泰吉の三男である。妹が一人いた。
その妹は八代郡話鹿島村(1954年竜北町になる、現在八代市)の素封家・内田家に嫁いだ。
濯は晩年、この妹が歌っていたという「わらべ歌」を諳んじていて、「私の読書遍歴」にその歌詞を紹介している。竜北の方々でご存知の方が居られるだろうか。

    向えのザボンは梅の花 朝はしぼんで昼ひらく 晩はしおれて門にたつ
      門に立つのは千松か万松か まぁだ七つにならんさき お馬の上から飛びおりて
        具足の袂に矢をうけて 姉からもらった笙の笛 弟からもろうた小刀(むしゃがたな)
     姉御のお部屋においたれば まま母さんから探されて おお腹立ちや腹立ちや
       そのよにお腹が立つならば 紙と硯を引きよせて 思う事を書きつけて
         紫川に泳がしてみれば 浮いては沈み浮いては沈み アラ面白の浮き草やぁ浮き草やぁ

このわらべ歌にどのような曲が付けられていたのだろうか?
その地方独特の俗謡が次第に失われていく。内藤濯の没年は昭和52年(1977)だから録音などの資料が存在しているのかもしれない。

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■横井小楠・木下韡村往復書簡ーその(二)

2023-09-06 06:12:48 | 先祖附

    天保10年(1839)、藩命により江戸に遊学中の横井小楠(21歳)は、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年(1840)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された
その直後、また墨田川で酒をすごし過ぎて木下宇太郎と何やら口論となり、三度書簡のやり取りをしているが、どうやら喧嘩を仕掛けたものの筋違いの感がいなめず、上げた拳の治めどころがなく絶交を言い出したように思える。小楠先生の酒は相当癖が悪い。
文久2年(1862)12月19日「士道忘却事件」に至る22年前のことである。

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天保十一年二月二十五日
 ■木下宇太郎へ
   墨田川御同行以來御隔意無之候處私より御疑惑仕儀有之、只今通りの交にては氣遣敷有之御切磋等御

   互に仕不申方却て可然と一昨夜及御相談、昨日尚御取遣申候處疑惑可仕筋御存黨御座、其通に御心得
   被成旨御返書承知仕候。然處疑惑之節御承知無之と申ては私主意相立不申候間箇條相認差上申候。
                                  時習館訓導浅井廉次
   一 藤田虎之助方舊臘参候歸に私過酒に及候唱御座候て御耳に達し、浅井先生へは御咄有之、跡經候
     て東遊六ヶ敷に至り御來臨御尋被下候段交際無腹蔵打明被成候筋合に御座候哉、疑惑之一條にて
     御座候。
   一 名札遣候儀は無音晴しに向方に参候知之為にて、縁家朋友親敷間に可仕事柄にて無御座候。然處
     舊冬二度名札参り、よそよそ敷御仕方如何之思召にて御座候哉、疑惑之一條に御座候。
   一 東着以來一體御疎遠にて御座候處、墨田川御同行御咄合に及候後と申候ても彼是御往來等も不相
     替御疎遠に御座候。必竟私心得は兎角被打明候御様子に存不申候間、龍ノ口御屋敷へは追々参り
     御小屋まへ踏通候て遠慮仕切々御尋不申罷在申候。右之次第は親友之間には何程に御座候哉、此
     段為御承知如此御座候。已上。
         二月廿五日                  横井平四郎
           木下宇太郎様

 ■木下宇太郎より(返事)
   昨日御取遣之儀に就き尚又華墨被成下奉拝見、御疑惑之筋被仰下夫々承知仕候。強て御主意に戻候に
   ては無御座、一應鄙情相陳申候。
   一 舊臘藤田虎之助方御歸途御過酒に被及候唱私承浅井先生え咄候との儀、事宜に寄候ては左様之事
     も難斗候得ども此儀は御間違と奉存候。彼方御聞取之筋私え御咄に相成候儀は有之候。右之儀直
     に御噂に及不申、先日迄差控候は少し様子御座候て疎外之事にて無御座、ケ様之儀は申譯に一分
     之振舞斗仕候様に成候ては交際之本意にても無御座、前條之御間違無之候はゞ御不審之筋とも不
     奉存候。
   一 名札之儀は當地詰込之習し寒中年始回勤之節御留守にて両度程相用時候佳節之一禮を納候迄にて、
     平日御留守に参候節終に左様には致不申、餘所々々敷姿にも有御座間敷、白金當親敷中にも相互
     に同様に仕候事に御座候。
   一 御往來之儀當月に入候ても毎も御在宿に参合、舊冬より正月に懸候ては御閉に相成居候事多く、
     名札も納不申候へば御承知不被成は御尤に奉存候。其に付御疑に成行可申とは不奉存、日も記ふ
     申候へば跡以御噂にも及不申其姿には無之儀と奉存。私小屋え御尋被下候儀、少御座候とて、是
     迄御遠慮之筋とは氣付不申候。右之通に御座候間乍憚左様御聞取被成置可被下候。以上。
         二月廿五日                  木下宇太郎
           横井平四郎様
          
     

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■横井小楠・木下韡村往復書簡ーその(一)

2023-09-03 06:16:52 | 先祖附

天保十一年二月二十四日
 ■木下宇太郎へ
   昨夜は酒坐にて私もよ程酔ひ候ての御咄合心中盡不申かと考、尚書呈仕候。御互之御交は居尞以來別
   て打明しつゝ親敷御座候處、去夏此許着以來何角と御疎遠に相成、仲冬墨田御同行之節其迄之事抔御
   互にうち出し、私心得等御教示承り古之通りに無腹蔵御咄合可申と御盟申候事は御覺と奉存候。然處
   其後とても不相替被打明候御様子に見受不申、昨夜不斗其咄合に及び候處御了簡有之ての事之由、將
   又私事には御腹蔵之儀も有之段承り、御互氣質替り候より合兼候と存じ、只今通にては交情とても面 
   白無御座却て妨に相成可申、左候へばお互切磋等は以來仕不申方可然と及御咄合申候。右之通に御聽
   取に相成候か、自然申違ひの聽き違ひ等有之候ては不相濟事に付為念尚得貴意申候。已上
        二月廿四日                 横井
          木下様
       尚々御書物は返上仕候。已上。

 ■木下宇太郎より(返書)
   御紙表被成下奉拝見候。昨夜座間被仰聞候儀に付 猶又 御委細致仰示被下御多念之儀奉存候。御書中
   通に昨夜も拝聞仕候。尤御事に付腹蔵仕候と申事にては無御座、時宜に寄候ては直に御咄に及兼候儀
   は不免事も御座候て、何ぞ御隔意に奉存候ての事御座候。墨田道上にて段々御咄合之儀於私心事御疑
   之筋も有御座間敷と奉存て追々之通昨夜も不遠慮之戯譃放論、不都合之儀も御恕容可被下と奉存候處、
   私御交際に付て打明不申様に被思召、且流儀違にて於御自身御氣遣被思召との事に御座候へば罪過存
   當り候迄は御断之申上様存不申、御相談通に相心得可申と御返答仕候通に御座候。此段御報簡如斯御
   座候。以上。
        二月廿四日                 木下宇太郎
          横井平四郎様
       尚々別裁一帙、慥に拝受仕候。已上。
   
   

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■文政三年八月十九日御達

2023-08-19 05:40:27 | 先祖附

        一濱町様、白河筋ニて長六橋下縄場等漁為御覧、有折被遊
         御出筈ニ付、聲取坂下船渡場二十間上より本山村船渡場
         下迄之間、當月より九月中網漁留被仰付、杭木をも被建
         置筈候 右之通一統可及達旨候條、左様相心得、觸支配方
         へも可被相達候
            (文政三年)八月十九日    御奉行中

 日にちがはっきりしないが、濱町様(齊茲公)が白川での川漁をご覧になるので、声取坂下の船渡し場の20間(約36m)上流から(現・大甲橋あたり?)、本山村の舟渡場(旦過の渡し?)の下流部までの間、九月半ばまでの間網漁はやめる様にとの達しである。

 齊茲は文化七年に隠居、濱町御屋敷に居住したため、濱町様と呼ばせている。文化十三年病気療養のための湯治と称して御暇をいただいて帰国した。
そのために本山に新しく屋敷が建てられた。文政六年にはこの本山屋敷で耈姫が誕生した。三年十ヶ月で夭折すると齊茲は再び江戸へ下り、天保六年(1835)十月廿三日白金邸で死去した。享年81とされるが、実は77ともありこちらが正しい。文政十年以降は少将様と呼ばせている。
宇土支藩藩主から宗家を継ぎ、以降宇土支藩家の血が続いた。

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■水道町・日限地蔵の行方・・・

2023-08-11 15:52:06 | 先祖附

 昨日、ご厚誼いただいている F 様のブログ「徒然なか話」に観音坂地蔵菩薩のゆくえが紹介されていた。
こういうニュースを聞くと、ほっとさせられる。
それというのも、過日熊本史談会の若い友人N君が、「水道町の日限地蔵堂が解体されて亡くなっていますよ」とわざわざ電話で連絡をくれた。
その日限りの願い事が叶うといわれて、少なからずの参拝者があった。十月くらい前に水道町を歩いていて、別段お願いすることはなかったがふと思い出して道を替えお詣りしたことがあった。
これは民間人の所有地にあった立派なものであったが、何かご事情あってのこととは思われるがお地蔵さまには安住の地が訪れることを願っている。

           

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■400年前の記録・他

2023-08-07 06:48:32 | 先祖附

 元和八年(1622)閏八月七日(雨天)の日帳につぎのようにある。
         

  知行高弐百石
一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事

じつはこの人物は、我が家の先祖附によると初代・磯部庄左衛門の兄であり、兄弟揃って召し出されたとある。
同時期数名の御小〃性衆がお目見えした事が奉行所が知らなかったのであろうか?
後の記録では、長五郎は「御毒見役」を仰せつかっている。毒見の為に殿様の食事を事前に食したのかと思っていたが、細川家の毒見は御料理番が直接行ったらしく、どうやら立ち合いをしていたようだ。
そして三斎公が亡くなられた後、殉死した蓑田平七の介錯役を務めた。長五郎には男子が居らず、女子一人が有りある記録によると「忠利公の御寵愛を受けた」とあるが、父・長五郎も我が先祖の庄左衛門も八代に居り三斎公の間違いではないかと考えている。その証拠にその女子・熊は(のち龍源院)、八代に於いて塩屋観音の復旧に尽力したりしている。
またその後熊本に於いて女ながら宗嚴寺を創建しているが、このことはかって熊本史談会のN氏がもたらしてくれた情報である。宗嚴寺
それ故、長五郎の磯部家は後継ぎが居らず絶家したものと思われる。

 当家の祖・庄左衛門は先祖附によると病身となり出自の地・周防国下松に帰国したい旨を奉願したが、三斎公から八代の地で養生するようにとの御意でこの地で死去している。
ある時、図書館で歌手財前和夫氏に関係する平川氏の史料を探しているうちに、誠に偶然だが全く関係ない平川氏の史料を発見、このお宅が庄左衛門の長男の家系であることが判った。何故平川氏を名乗られたかはよく判らない。
我が家は、二男で母方の苗字を継ぎ今日に至っている。

 いろんな偶然が重なり、先祖附では限りある情報を得て大方の事情が判って来た。どうやらこれ以上の情報を得ることは不可能ではないかと実感している。400年前の貴重な記録である。

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■明治維新と言う言葉の初出

2023-08-05 09:27:50 | 先祖附

 ふと「明治維新」と言う言葉の初出はいつだろうと考えた。私のつたない記憶力の中では明治8年ごろを覚えていたが・・・
のまんま「明治維新と言う言葉の初出」で検索してみると、OKWAVEというサイトに同じような疑問を持った方の質問「明治維新」という表現はいつ頃から。」が有り、これに対する答えが掲載されている。
これを拝見すると誠に信用に値する見事なものである。これによると「国立公文書館アジア歴史資料センター」の資料を検索すると186件がヒットし、「明治八年江華島事件善後處置 日米間難破舩救助費償還條約/1明治八年江華島事件」に関する史料が初出であろうとされる。その他膨大な資料をチェックされているが、通常使用の状態になったのは明治30年代以降が顕著であるという。
私の明治8年というのが何を根拠にそう覚えたのかは判らないが、当たらずとも遠からずである。
それまでは「御一新」であったらしいが、明治13年生まれの祖母はまさしく「御一新」の言葉で通した。

 「維新」と言う言葉自身は随分古いものようだが、明治の大改革に関して「維新」の言葉を使ったのは熊本の横井小楠で、それは万延元年に成立した問答形式の「国是三論」だという話がある。(松本健一著・明治天皇という人p80・下段)
これは原文を読んでみたいという気持ちを湧き立たせた。講談社学術文庫に熊本大学教授・花立三郎氏の解説の「国是三論」がある。
古書でもいいから購入しようと思ったら、Amazonで4,718円とある。発行当時の定価:1,265円(本体1,150円)がこのように高騰しているのには日本の古本屋でも見かけられない貴重本になっているからだろう。
図書館にはある。しかし1冊しかなく「禁帯出」本である。さあどうしたものかと思案中である。

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■幽齋と竹原市蔵の出会いがなければ、宝暦の改革はなかったかも

2023-07-14 06:54:36 | 先祖附

 豊肥本線阿蘇‐宮地の間に、その線路と国道53号線を挟んで南北に細長い竹原という地域がある。ここが細川家家臣・竹原氏の父祖の地である。
その祖は阿蘇家家臣だが、丹後の細川家に仕官し、細川家の豊前→肥後移封によって父祖の地肥後へ帰ったという不思議な因縁がある。これは昨日書いた野田喜兵衛と共通する事例である。
細川幽齋が秀吉の命で文禄四年(1595)六月薩摩に下った折出会った、島津氏に仕えて書記などを勤めた聡明な若い家臣(9歳)をもらい受けて連れ帰った。田邊城籠城では幽齋の身近に近侍した。これが竹原氏の租・市蔵惟成である。

    市蔵・惟成(庄右衛門・玄可)
        * (藤孝君)文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、
                            (中略)
          御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日
          連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に
          応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に
          叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
             市蔵は阿蘇家の庶流にて、宇治の姓也、竹原村に住する故竹原と云し也
             阿蘇六十五代惟種の代に、不足の事有、安芸・上総・紀伊と云三人のもの
             薩摩に来て、島津家に仕へ、大友と合戦のとき、紀伊は討死、安芸ハ高名
             有、九千石を領、其子孫ハ段々知行分り小身にて、一門広く何れも阿蘇何
             某と名乗候、上総も高名して、感状三通有、上総嫡子市蔵惟成と云、幽斎
             君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小姓被召出、知行百石被下、後に庄
             左衛門と改候、三斎君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付候
             能書なるを以、幽斎君御代筆被仰付、書札の事、故実をも御伝へ被成、吸
             松斎へ御相伝の御次并写本も仕り、一色一遊斎へも仕付方の弟子に被仰
             付候、三斎君よりも御口授等被遊、御両君御卒去後も猶稽古不相止、隠居
             名を墨斎玄可と云                    (綿考輯録・巻四)
        * 田辺城籠城 始終御側ニ罷在候故、働無之候                           (綿考輯録・巻五)

元々は阿蘇家の家臣だが市蔵が薩摩の島津氏の許に在ったというのは、肥後に於ける阿蘇家の対立の中で、心ならずも薩摩へ逃れた阿蘇一族に随伴し薩摩に住み着いた。
市蔵は、偶然にも幽齋により丹後に誘われ細川家の臣となり、忠興・忠利の働きにより父祖の地熊本へと凱旋した。
誠に数奇な運命をたどっているが、父祖の地の肥後入国時は感慨深いものがあったろう。

 時代が下り細川家が8代・重賢の時代に竹原勘十郎(玄路)なる人物があり重賢の側用人を勤めている。
財政面で岐路に立たされていた重賢は後に大いなる評価にいたる「宝暦の改革」に手を付ける。
その為に有為なる人材の発掘が当面の課題となった。宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門を重賢に協力に推挙した竹原勘十郎は、この市蔵の六代の孫にあたる。
初代市蔵が薩摩での幽齋との邂逅がなければ、宝暦の改革における堀平太左衛門の活躍は見られなかったかもしれない。




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■野田家は忍者?何時から、どうして・・・

2023-07-13 07:24:17 | 先祖附

 熊本史談会の最長老K様は93歳、まだまだお元気で次回の例会にもご出席のご予定である。
そのK様のお祖母様の御実家は熊本藩士の野田家、その祖・野田喜兵衛は「忍者です」と仰る。(奥様の御実家と勘違いしていたが?こちらは雑賀氏だった)

「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として七人の名前がはっきりしている。

              拾五石五人扶持     吉田助右衛門
              同           野田喜兵衛
              知行五十石       沢 吉右衛門
              拾石二人扶持      福川小右衛門
              同           松山小兵衛
              同           下川嘉兵衛
              同           上野又右衛門


細川家の資料は上記のように記しているから間違いないのだろうが、私は少々疑問を持っている。
というのは、野田家の遠祖は、天草家の家老職であったとされる。
何故か丹後の細川家を頼る様にとの遺言で細川家と接触したというから、誠に不思議な縁である。

綿考輯録には次のように記されている。ここに喜膳という名があるのが喜兵衛である。

         天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、
         丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月
         迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをお
         めすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候
         ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様
         子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
         三斎様御詠歌
            天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
         右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり      (綿考輯録・巻ニ十六)

細川家の「忍びの衆」は、森田誠一氏の「伊賀・甲賀資料」調査から細川家には18家の忍者が存在していたとされる。
朝倉・浦・牛島・岡村・栗原・沢・沢村・坂井田・下川・花田・藤村・福川・松田・村田・森川・山内・吉村・笠ETCである。すでにこの資料では野田氏の名前はない。

例えば(寛永七年三月)廿日の奉行所日帳には
一、対馬殿(宗義成)下関へ御着之由候間、高麗人参壱斤御用候間、才覚仕、上々をかいよせ可申旨、被 仰出ニ付、御買物奉行

  野田喜兵衛参候而、かい候へと申渡候、銀渡人ニ御鉄炮衆一人付遣候、
とあり、お買い物奉行を勤めている。
「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」は、三斎隠居後から肥後入国の間のものだが、沼田勘解由(延元)が寛永元年に死去していることから、寛永元年以前のものだろうと推察されている。
つまりその間は「忍びの者」、寛永七年に至ると「御買物奉行」、出世をされたと言えばそれまでだが、野田家がいわゆる忍者の伊賀・甲賀の家系だとは思えないし、なんとも理解に苦しんでいる。
「お前、忍者をせい・・」といわれて「はい畏まりました」とすぐにできるものでもなかろうし・・・
K様にそのことをどうお考えかお伺いしてみたいと思っている・・

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■明和六年七月十日、坪井報恩寺にて

2023-07-10 06:36:55 | 先祖附

 「手討達之扣」という史料が上妻文庫にのこされている。
その中に「久武権之助仝金吾手討宜敷御賞詞」という一文がある。

   明和六年七月
     上田夘助組
                 久武兵助嫡子
                  久武権之助
                 右同人二男
                  久武金吾
     右両人儀一昨晩報恩寺於寺内寺本無右衛門
     支配之御長柄組新右衛門と申者色々過言慮
     外之躰難■通兄弟ニ而討果申候段相達申候
     依之兄弟共ニ先相慎兵助儀心を付候様申聞
     置昨日右之趣御奉行所江罷出相達申候処兵助
     并ニ子供慎居候ニ不及候段御奉行所ゟ申来候事
       七月十二日

     上田夘助組久武兵助忰共間於報恩寺御長柄
     之者討果候仕形年齢ニ者精悍敷儀共有之候
     畢竟平日教育宜敷故と被存候以後共ニ
     心を附教育可仕旨兵助可申聞旨御家老間於
     列座助右衛門殿被申聞候間私宅ニおゐて兵助
     江右之趣申渡候事

 大変寛容な処分と言うより御賞詞を頂戴する異例さに驚かされる。
この事件の詳細についてはかって「潜渓先生書簡」に記録されている一文を御紹介したのでご覧いただきたい。

久武家は我が家、及び母の実家にも連なる親戚筋である。久武権之助は綺石という俳名をもつ俳人としても知られる。

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■御扶持方御切米御帳(19‐了)

2023-06-22 05:28:11 | 先祖附

   御町奉行江御付衆
一 貮拾人 壹人ニ付貮人扶持 御切米七石宛
            田中兵庫・貴田角右衛門組
〇御扶持方合四拾人扶持
〇御切米合百四拾石

   御飛脚番・御鉄炮衆
一 拾五人 壹人ニ付貮人扶持 御切米八石完
            堀江勘兵衛組
一 右同断 右同断
            道家七郎右衛門組
一 右同断 右同断
            町 市丞組
〇御扶持方合八拾八人扶持
〇御切米合参百五拾弐石    人数四拾五人

   御留守居御鉄炮衆
一 六拾九人 壹人ニ付貮人扶持 御切米四石宛
            豊岡理助・矢野勘左衛門組
一 四拾人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石宛
            上林次郎左衛門組
〇御扶持方合貮百拾八人扶持
〇御切米合四百七拾六石    人数百九人

   御掃除之衆
一 三拾人内 六人ハ壹人半扶持四石宛
       貮拾余人ハ壹人半扶持三石宛
            上林次郎左衛門組
〇御扶持方合四拾五人扶持
〇御切米合九拾六石

   御花作
一 貮人   扶持八石 小堀長左衛門
一 四人内  壹人ハ壹人半扶持五石
       三人ハ壹人扶持三石五斗完
            同人組
〇御扶持方合六人半扶持
〇御切米合貮拾三石五斗    人数五人

   所々御蔵帳付・御蔵子
一 六人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石完  熊本御蔵帳付
一 拾貮人 壹人ニ付貮人扶持 御切米三石完  同所御蔵子
一 貮人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石完  河尻御蔵帳付
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米四石完  同所御蔵子
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石   高瀬御蔵帳付
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米四石   高瀬御蔵子
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石   鶴崎御蔵帳付
一 参人内 壹人ニ付貮人扶持 御切米五石   同所御蔵子
      壹人ニ付壹人扶持 御切米四石     同
〇御扶持方合五拾参人扶持
〇御切米合百八石       人数貮拾七人

   御荒仕子
・上御臺所夫
一 参拾五人 壹人ニ付壹人扶持半 御切米七石宛
            矢津少兵衛・長常茂左衛門組
・正 二年之拘高
一 百九拾九人
     内
    百四拾壹人ハ壹人半扶持七石宛
    六人ハ   壹人半扶持四石宛
    五拾貮人ハ 壹人半扶持三石宛
            戸田惣右衛門・南野九郎兵衛組
  但此荒仕子ハ毎年入次第吟味仕召拘申ニ付依年人数多少御座候

・御鉄炮ノ薬はたき
一 拾貮人 壹人ニ付壹人半扶持御切米四石宛
            宇田長門・渡邊平左衛門組
〇御扶持方合参百六拾九人扶持
〇御切米合千四百六拾石    人数弐百四拾六人

   新地御鉄炮
一 百六拾九人   壹ヶ月五日宛御役仕候付壹
          人ニ付御扶持方五升宛被遣
            上林次郎左衛門組
一 百六拾人    右同理り
            緒方甚左衛門・西田惣右衛門組
〇米合拾六石四斗五升  壹ヶ月分也 
                人数三百貮拾九人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     〇御扶持方五千八百四拾六人扶持
     〇御切米壹万七千七百壹石四升
     〇金大判四枚
 揔合  〇金小判百六拾四両貮歩
     〇銀子拾壹貫百拾壹匁
     〇大豆拾八石
     〇小豆七斗貮升
     外ニ
〇銀子七拾五匁    御賄銀壹ヶ月分
〇米七斗       御賄米壹ヶ月分
〇同拾六石四斗五升  新地鉄炮御扶持方壹ヶ月分
     人数合貮千四百八拾四人
      此外ニ寺社方御合力・女中方者此人数内ニ不入候

   正保貮年正月十一日    沖津作太夫印・判
                瀬戸五兵衛印・判
                阿部主殿助印・判

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (2)

2023-06-16 05:18:12 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和九年

373、八月十六日書状(於、吉田)
 ・英山座主忠有ノ僧正昇任ヲ擧申ス   日野大納言輝資の次男の玄賀を細川忠興の猶子とし、舜有座主の孫女.・昌千代と婚姻

374、八月廿日書状(於、吉田)
 ・坊丸(後・細川立孝)ヘノ鷂贈与について

375、(七・八月頃カ)廿日書状(於、吉田)
 ・松平忠政ヨリ鷹

376、八月廿三日書状(於、吉田)
 ・家光伏見還御、西国衆暇乞参上ノ日限ヲ報ズベシ

377、(八月)廿三日書状(於、吉田)
 ・明日西国衆伏見参上

378、八月廿八日書状(於、吉田)
 ・伏見城ニ家光将軍職補任ヲ賀
 ・忠利ノ帰国ハ土井利勝招請ノ後随意タルベシ
 ・浅野長晟ニ鷹ヲ贈ル
 ・戸田氏銕へ贈与ノ鷹ノ処置ヲ忠利ニ任ス、大鷹ヲ遣フ意ナシ

(閏八月一日、忠利京都ヲ發シテ帰国、三斎モ次イデ帰国)

379、閏八月十七日書状(於、中津ゟ小倉へ)
 ・忠利室病ム、少峯并ビニ永勝院ヲ遣ス
 ・廿日比立花宗茂小倉到着

380、閏八月廿日書状(於、小倉)
 ・戸田氏銕ニ贈与ノ鷹ヲ忠利へ届ク

381、八月廿八日書状(於、小倉)
 ・来年江戸・京・中津作事ノ為、家中借米ノ取立ヲ求ム
 ・小倉祇園能ノ為下向中ノ小鼓打ヲ借リタシ
 ・咳氣ノタメ喜齋ノ薬ヲ用フ
 ・松井右近女ト山路太左衛門ノ縁談、太左衛門同心     松井右近、細川興秋介錯後行方不明

382、九月五日書状(於、小倉)
 ・重陽ノ祝儀、令祝着

383、九月八日書状(於、小倉)
 ・筑後蠣・御所柿ナド給満足

384、九月十三日書状(於、小倉)
 ・梅若六郎下向
 ・役者・太鼓打等ニ付テ

385、九月廿日書状(於、小倉)
 ・烏丸光賢(忠興女萬姫聟)下向ノ予定

386、九月廿一日書状(於、小倉)
 ・大阪牢人赦免ノ京都所司代達写ヲ見ル、小河四郎右衛門・熊谷権太夫・長屋安左衛門等ノ召抱タシ
(閏八月廿六日、幕府、慶長元和大坂合戦ニ籠城ノ新参牢人ヲ赦免ス)
 ・嶋津家久宛書状ヲ依頼ス

387、九月廿三日書状(於・小倉)
 ・四年前隠居ノ前、小河四郎右衛門・熊谷権太夫・長屋安左衛門等ノ召抱ヲ約ス
 ・借銀千貫目アリ新規召抱困難ノ由、(上記三人ハ)三斎無役ノ隠居領ニテ知行ヲ遣サン

 

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