厭な季節になりました。どうやら花粉症に罹ったようです。眼窩の水分が飛んでしまったという感じで、眼がシパシパして不愉快極まりません。
起きているあいだじゅう、頻繁に目薬の点滴が欠かせないということになりそうです。
今のところ鼻水は出ませんが、こちらも朝散歩を続けているとその内には確実に症状がひどく成る事でしょう。
皆様もお大事にと申し上げたいところですが、予防の使用がありませんものね・・・サイクリング用ゴーグルでもつけますか? お気をつけて・・・
散歩をしていると春の陽気に緑色が増してくるように思える。なんとなく「美しき緑よ~」と口に就いたが、そのあとの歌詞が全く思い出せない。
メロディーは覚えているから口笛でごまかして進む。帰宅後気になって調べてみたら、昭和17年の2月にできた曲らしい。
まさに今の時期にふさわしい歌だ。そして私と生年月がほとんど変わらない。御年80歳の曲だ。
歌詞を見つけ出して眺めてみたが、「鳥居をつつみ、わら屋をかくし」などというフレーズは全く思い出せない。
時代を感じさせるし、いわゆる唱歌というものだろうが、いいな~と思う。80歳にしては若々しい歌だ・・・
「若葉」 松永みやお作詞・平岡均之作曲/初等科音楽(二)・昭17.2
あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ
鳥居をつつみ、わら屋をかくし
かおる、かおる、若葉がかおる。
さわやかなみどりよ、ゆたかなみどりよ、
田はたをうずめ、野山をおおい、
そよぐ、そよぐ、若葉がそよぐ。
かってNHK熊本放送局の建物が建っていたのが千葉城の跡だが、既に取り壊されている。
この跡地はどうなるのだろうか。
現在では熊本市役所前から京町台へ抜ける道(かっての国道3号線)で熊本城域とは切り離された形になっているが、もともとは茶臼山の一角であったのだろう。
「茶臼山ト隈本之絵図」をみると、右端に小高い山が見えるがこれがそうであろうか。
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熊本城研究の第一人者・富田紘一氏は、堀切をもって尾根線を切断し独立させたとその著「熊本城・歴史と魅力」で書かれている。
南北朝時代、今川了俊が藤崎城に入り、菊池氏が熊本城で対峙したとされるが、その熊本城がどこであったのかはいまだ特定されていない。
わが熊本史談会の会長・毛利氏は本山城がそうではないかとされる。
私は案外この千葉城もその候補として良いのではないかと思ったりしている。
茶臼山の北西部に藤崎宮があり、藤崎城はこの周辺砦をきずいたものであろう。すぐわきの官道をもって動いている。
一方千葉城は東南部に茶臼山の尾根戦を掘り切って独立しており下を大蛇行する白川が流れ、坪井川が連絡している。
水運をもってすれば兵の補給も容易であったろう。
戦場は詫麻ヶ原に移つて菊池軍の勝利となったが、千葉城からここへ移動し、菊池方面からの軍と合流し今川軍を迎え撃ったというシーンは想定できないだろうか。
昨晩から頭痛がしていたが午前中TVでマラソン観戦しているうちに、なんとなく良くなっていた。
ならばと昼食後散歩に出る。今日は最高気温15℃の予想、上空では少し風が舞っているらしくビニール袋が50mは有ろうかと思われる高さで舞っていた。
しばらく歩くとウインドブレーカーが邪魔になってくる。
折り返し後、自衛隊正門左側の3本目の桜(4本目だったものが1本目が切り倒されて昇格した)を見上げたら、小さなピンクのつぼみが見えた。
去年は確か20日に咲いたように記憶する。数百本の桜並木で毎年一番に花をつける木だ。
明日は気温が今日以上になりそうだから、まだまだ桜が膨らむ事だろう。
平成元年(1989)に発行されたこの本、すでに33年経過しているが、その内容は決して古びてはおらず当時の関係者の熱い思いが見て取れる。
随分長く熊本の歴史を勉強してきたつもりだが、知らないことが多く綴られておりまた改めて精読したいと思う。
得るものが多い佳書である。
この本の購入は現在では難しくなっているが、幸いにもNPO法人・熊本トラストがPDFで全文が紹介されている。
パソコンの画面でお楽しみいただきたい。
第一部 第二部 第三部(最終)
お詫び:大変な勘違いをしており上記「歴史回廊くまもと魅力発見の旅」と、上記三部にわたるPDF「歴史回廊都市くまもと」は全く内容が異なるものでした。
お詫びして訂正いたしますが、どうぞPDFの方はお楽しみ下さい。 3月1日訂正
御所様・若御所様御由緒・内実御縁続 久我建通・通久御由緒 家系 久我家文書 和本 古文書
久我家と細川家の縁は非常に深いものがある。ここのある「御前様御由緒」の御前様とは久我建通の事をさす。
御母については「細川越中守治年女」とあるが、これは久我前内大臣通明廉中の美子のことである。細川家に於いては「就姫」(ナル、ナリ)と呼んだ。
天明七年(1787)熊本花畑館生まれ、文化四年(1807)久我家入輿、弘化四年(1847)薨去61歳。
のちの女優・久我美子はこの久我家の出身だが、「こが」の名乗りを許されず「くが」としたが、「美子」についてはここからきているものと思われる。
こちらは「御前様御内実御縁續」とあり、御母として細川越中守齊樹妹とある。
これは一條関白忠良に嫁いだ細川齊茲女(齊樹妹)の邰姫の事である。寛政五年生まれ、文化十二年忠良に嫁し、文政七年32歳で薨去。
その男子建通が、久我通明の養子になったことを「内実」として記してある。
細川重賢ーーー治年ーーー+===齊茲ーーー+ーーー齊樹====齊護ーーーー韶邦
‖ | | ‖
‖ | +ーーー 邰 ‖
‖ | ‖ーーーー+ーーー忠香===峯(実・三條氏、実美実妹)
‖ | 一條忠良 |
‖ | +ーーー建通
+ーーー由婦 +ーーーーーー 就
| ‖===========建通
久我惟通ーーー 通名ーーー+ーーーーー敏通 ===信通=== 通明
‖ ‖
細川利重女 利致女
一昨年は10匹ほどだったメダカが、昨年の増殖で17・8匹になっている。
容器はと言えば、荷物を運ぶときに使うプラスティック容器で深さ約12㎝ほどの水が入っている。
少々人口過多かもしれない。
赤玉土を敷き水道水を入れて一日於いて最初のメダカを入れてから、3年ほどまったく放りっぱなしである。
熊本の水道水はすべて阿蘇の伏流水の湧き水が使われていて、少々消毒はしてあるのだろうが、APの高架水槽から各家庭に届き、浄水器から水を取ると、
水槽の水位が下がるとこれをすぐさま使っている。カルキ除去剤など使ったことがない。
苔が繁茂していてこちらは時々は除去しなければならない。
というのも、過日の朝メダカが死んだように横を向いていた。箸でつまんで取り除こうとしたら、元気に泳ぎ出した。
私は初めて、メダカは藻の中に入り込んでこれに身をゆだねて寝ているということに気付いた。
それから数回同じ状況を見て、メダカが寝床にするのは良いが、泳ぐのに藻が邪魔をしていると思い、藻の掃除を始めた次第だ。
網を張る様に細く長い藻が大量に張り巡らされていて、時々これに頭を突っ込んでもがいている。
エアポンプを入れ、照明もつけているから水中植物の繁茂も勢いがよい。
餌の食い残しを処理してくれる小さな水生動物も動き回っているから、これを殺さぬように水槽を掃除するにはどうしたものかと思案している。
部屋の中に置いているから冬眠ということもなく泳ぎ回っている。今年も繁殖が楽しみである。
左:戸田敏夫著「戦国細川一族-細川忠興と長岡与五郎興秋」
中:高田重孝著「細川興秋の真実-ガラシャの信仰を受け継いだ人々」
右:細川興秋系「天草長岡氏系図」
今年ある方の年賀状が呼び水になって、高田重孝氏の私家版「細川興秋の真実」出版の事を知り、松の内はその入手方を調べるために奔走した。
手にしてみると、20年にも及ぶという高田氏の研究の成果が網羅されており、感慨深いものであった。
それまでの興秋に対する私の認識は、戸田敏夫氏著「戦国細川一族」から踏み出せず、ただ「天草長岡氏系図」を入手するに及んでまたその存在も気になって仕方なかった。
闇の中にあったこれらの疑問は、熊本県立美術館が所蔵する一枚の文書「長岡与五郎宛内記(忠利)書状」により、まことにすっきりと晴れ渡る事になった。
興秋も又、不運な人である。祖父・明智光秀の謀反に伴い、母ガラシャは忠興の命により山深い味土に幽閉されることになる。そんな中天正十一年(1583)与五郎興秋はこの地で生まれた。希望の見えない生誕と言ってもいい当時の情勢であった。その後の母・ガラシャの不幸な死なども乗り越えた興秋であったが、慶長10年(1600)弟・光千代(忠利)に代り父・忠利より江戸證人を命ぜられた。この途中興秋は出奔したのである。
興秋は祖父・幽齋の許に身を置いたのであろう。
そして、興秋付の家老とも言われた、長岡肥後とその父飯河豊前が誅伐されるという忌まわしい事件が起きた。
また、三卿家老の家柄である米田是季は妹が長岡肥後室である事から、この事件に対して大いなる不満を抱えて細川家を退転した。
是季の母は雲仙尼といい、明智光秀の姪だとされるがその父真賀法院は、坂本の西教寺の関係者ではないかと思われる。
是季はその縁を頼りここに身を置いたのであろう。そして興秋と是季は連絡を取り合う間柄であったと考えられる。
大坂の陣の勃発に当たり、興秋も是季も大阪城に入城し西軍として徳川方に抗した。
西軍の敗退後はそれぞれ身を潜めていたが、訴人があって興秋の身にも不穏な情勢が迫ってくる。
父・忠興は興秋に対して自刃を命ずる。徳川家を慮っての事である。
そして、元和元年六月六日、興秋は松井家の菩提寺だとする東林院で自害した。
これが細川家の正史が伝えている処である。
今般の高田氏の長い研究により、興秋は生存しており豊前に密かに入国していた。
米田是季は興秋のために色々奔走していることが判る。切支丹の弾圧が強まると捜索の手も強まり、興秋の身にも危機が迫る恐れがあり、密かに豊前を離れ天草の地に逃れたのである。
其の後の事は細川興秋系「天草長岡氏系図」に精しい。今般この系図の信用性が証明された。
必ずしも幸せな人生ではなかったが、その晩年は穏やかなものであり、天草の人々と共に過ごしたのである。
佐藤雅美著「千世と与一郎の関ケ原」
細川忠興の嫡男・忠隆の悲劇は、絶世の美女であったという前田利家の七女・千世との結婚であったろう。
時勢のなせるわざとはいえ、細川・前田両家にとり二人の間に破綻の時が訪れるとは思いの及ばぬ事であったろう。
忠隆は天正八年(1580)四月廿七日(八日とも)青龍寺生まれ、秀吉の取り持ちによって忠隆は千世を妻に迎える。
慶長二年(1597)のことである。しかしながら二人の幸せな生活は長続きしなかった。
慶長五年(1600)七月十二日、石田三成は細川忠興・忠隆父子の関東出陣中の留守をねらって細川家の玉造りの屋敷を襲い、母ガラシャは自害して果てたのである。
その折、千世は細川屋敷を脱出し、実姉の嫁ぎ先である小早川秀秋の屋敷に逃げ込んだ。
そのことが忠興の怒りをかい、忠興は忠隆に千世との離縁を言い渡す。
千世に未練を残す忠隆は忠興の意に反してこれを拒み、千世の実家・前田家を頼った。
この年、前田家は利家夫人・芳春院を、細川家は三男・光千代(忠利)を徳川家に證人(質)として江戸へ遣わしている。
徳川家との関係を憂慮してか、前田家は忠隆の受け入れに難色を示す。
再び京に戻った二人に対して、父忠興は廃嫡を申し渡す。これとて徳川の顔色を見ての事であったろう。
忠隆はこれを受けて隠居し休無となのった。その後の二人の行動については詳しい史料が見当たらない。
それゆえ、内膳家においては、長女・トク(西園寺実晴廉中)、二女・キチ、三女・フクを忠隆と千代との間の子とされている。それぞれ、慶長10年、13年、14年の生まれである。牢人身分で約9年以上二人の夫婦関係は続いていたということだろうか。その後千世は前田家に帰っている。
戦国の世の悲しい話ではある。
内膳家の「細川忠雄記」によると、父・三斎の晩年、忠隆は八代に赴き久闊の日々を過ごした。そんな中で三斎は八代領を譲ると語ったらしい。
また忠隆は旗本として徳川家に仕えることを願っていたらしく、忠利が尽力し、光尚も又これを受け継いだらしいが、願いが果たされることはなかった。
寛永六・七年頃の熊本府中を網羅した絵図は「加藤家屋敷割絵図」といわれるものだが、「熊本城跡歴史資料編第2分冊」においては、
「屋敷割下絵図」として紹介されている。
大変見事な絵図であり、加藤家時代の家臣の屋敷割が見て取れる。
加藤家の改易に当たりこの絵図は幕府に提出されたものと思われ、その後細川家の入国に当たり家臣団の屋敷割に使われた。
絵図の上にそれぞれ「上々々」「上々」「上」などと記入されている。
三卿家老以下重臣の屋敷の割当てが見て取れる。立派絵図がなんだか雑に扱われていて切なくなってしまう。
以降いろいろな絵図が作られていくが、府中すべてを網羅した「全図」としては最高級である。
そのスケール感もかなり精密で、現在の地図にもそん色ないように思える。
複製をつくって販売してもらえないものだろうか?「みうら折り」にして城下町を散策するのも良いではないか。
一ト月ほど前だったと思うが、ヤフーオークションに「熊本城史梗概」が出品された。
私も密かに狙っていたが、次第に値段が上がり「日本の古本屋」に出ているものよりずいぶん高値になった。
こうなるとオークションの意味がなくなりいっぺんにその気を亡くしてしまった。
内容もさることながら、四枚の絵図がついており、こちらの方が欲しくなってしまう。
その内容の方は、熊本城顕彰会の会誌「熊本城」の第3号から、鈴木喬先生の解説で連載が始まり26号まで19回に及んでいる。
書き始めの冒頭に、この「熊本城史梗概」が昭和2年の発刊以来、再販がなされておらず入手困難になっていると書かれている。まさにヤフオクに出品されたものや、日本の古本屋に在庫として登録されている数冊の本が現在入手できる数少ない本だということである。
会誌「熊本城」は、鈴木先生の「註」もあり大変ありがたい。本が増殖し奥方の機嫌を損なわせている昨今、この本に限っては購入を見合わせている。
国土交通省・熊本河川国道事務所のHPより引用
■清正公は大蛇行時代に白川の流れに大橋(長六橋)を懸けるように指示している。つまり旧白川の河道は長六橋の上流に入り込んでいなければならないことになる。
数年前、ある小さな会合で熊本の歴史をお話したことがある。講演というより雑談という感じであった。
精しい方があるかと思えば、「歴史は門外漢」という方も居られる。そんな中で「白川の大蛇行」の話が出ると皆御存知であった。
「むか~し新聞に出とりましたもんな・・」と仰った。調べてみると、その前に熊本城顕彰会の会誌「熊本城」の、平成7年(1995)8月発行の第19号に「白川・坪井川流路考」という記事で発表されている。
つまり27年も前のことになる。この記事に驚いた熊本日々新聞社がこれを取り上げ、新聞の読者は「たまがった(驚いた)」のである。
慶長国絵図をみると白川は大きく蛇行しこぶ状の流れはお城下に迫っている。
「むかしゃ(昔は)追い回し田畑の処は段(高低差)のついとったもんな、あるが(あれが)白川の跡だったったい」と、私より年上の方は首をひねりながら語っておられた。
「こん(この)先生は大したお人ばい・・」と富田先生を称賛しておられた。
大蛇行はその河岸が竹之丸に及んでいたようだし、お花畑は大蛇行のふくらみの突端部に在ったものと思われる。
熊本市役所はまさに旧河道の真中に位置していたことになる。
最近の一部資料を見ると、その白川の大蛇行を古城(第一高校)の敷地に入り込ませているものがある。これはいただけない。
古城の完成はそれ以前のことである。白川は古城の城壁下を流れていて、大蛇行が埋め立てられた跡は坪井川の小さな流れとなって、熊本城と共に内堀の役目を果たしたのである。
宝暦の改革は人と人との出会いから始まった。兄宗孝の死により細川家8代当初となった重賢と、用人として仕えた竹原勘十郎と竹原が推薦した堀平太左衛門の三人である。
竹原の先祖をたどると、阿蘇家の対立の中で矢部にあった阿蘇惟豊を亡ぼさんとした惟長・惟前である。惟長・惟前が攻撃を仕掛けたが敗北して薩摩へ逃れた。薩摩に定住した惟前の子・内記惟賢は文学の才能が豊かで墨斎玄与と名乗り「玄与日記」を世に残した。これはちょうどその時期、薩摩に流されていた近衛信尹が許されて帰洛する折、旅のお供をして随伴した折の日記である。
時代が下って細川幽齋が秀吉の命で薩摩に下った折、島津氏に仕えて書記などを勤めた聡明な若い家臣(9歳)をもらい受けて連れ帰った。これが竹原氏の租・市蔵惟成である。
田邊城籠城などでも幽齋の身近に近侍した。忠興の豊前入りにあたってはこれに随伴し、忠利の肥後入りで父祖の地熊本に帰った。
感慨深いものがあったろう。宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門を推挙した竹原勘十郎(玄路)は、この市蔵の六代の孫にあたる。
重賢のドテラを着て炬燵に手を入れ暖を取る有名な圖はこの竹原玄路の作である。
不思議なめぐりあわせが国を捨て薩摩に身を置き、偶然にも幽齋により細川家の臣となり、忠興・忠利の働きにより父祖の地熊本へと凱旋した。誠に数奇と言わざるを得ない。そして宝暦の改革は為されたのである。
(綿考輯録では、竹原市蔵をして隠居名を墨斎玄与としているが、これは時代が異なり明らかな間違いである。)
市蔵・惟成(庄右衛門・玄可)
* (藤孝君)文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、
(中略)
御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日
連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に
応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に
叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
市蔵は阿蘇家の庶流にて、宇治の姓也、竹原村に住する故竹原と云し也
阿蘇六十五代惟種の代に、不足の事有、安芸・上総・紀伊と云三人のもの
薩摩に来て、島津家に仕へ、大友と合戦のとき、紀伊は討死、安芸ハ高名
有、九千石を領、其子孫ハ段々知行分り小身にて、一門広く何れも阿蘇何
某と名乗候、上総も高名して、感状三通有、上総嫡子市蔵惟成と云、幽斎
君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小姓被召出、知行百石被下、後に庄
左衛門と改候、三斎君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付候
能書なるを以、幽斎君御代筆被仰付、書札の事、故実をも御伝へ被成、吸
松斎へ御相伝の御次并写本も仕り、一色一遊斎へも仕付方の弟子に被仰
付候、三斎君よりも御口授等被遊、御両君御卒去後も猶稽古不相止、隠居
名を墨斎玄可と云 (綿考輯録・巻四)
* 田辺城籠城 始終御側ニ罷在候故、働無之候 (綿考輯録・巻五)
熊本城の北側の花岡山から石神山、それにつらなる京町台地・熊本城地に囲まれた部分は縄文海進により削られて形成されたであろうことは、その地下を探ってみるとよく理解できる。
私の生業は建築の仕事であったから、この周辺の建築に携わった時、いくつかのボーリング調査の結果に触れたことがある。
地表下約40mほどは沖積層である。深層部からは貝殻が出てくる。その間はまったく地耐力がなく、くい打ち工事に多大の予算を費させる厄介な地層であった。
一方いわゆる熊本平野を見てみると、大変興味深いのが貝塚の位置である。水前寺や江津湖周辺まで入り込んでいる。
つまり、かっての熊本城地は海の中にその姿を見せていたことになる。
海の満ち引きはまだ広く海面高く広がっていたであろう大地を長い年月をかけて削り、また、川から土砂が流れ込み、後退していく海面を押し戻すように土地を広げていった。壮大な叙事詩を読む思いがする。
有史時代はそんな叙事詩の中の米粒のような一こまだが、そんな歴史の中で、この地に壮大な熊本のシンボルが建設されたことは、必然中の必然であったように思える。
B7168 細川忠利【和歌懐紙 大倉好斎極札 熊本藩初代藩主】
いい歌だなと感心致しました、お茶掛けに佳いですね。
署名(花押)がないのが残念・・・
くみあぐる
志俱みあく類
つるべの
つる遍乃
なわの
縄の
くるくると
くる/\と
心の
こゝろ乃
水の
水乃
底ぞ
底そ
知らるゝ
志らるゝ