「慶長大名物語・日出藩主木下延俊の一年」を読んでいる。
これは二木謙一氏が翻刻された「木下延俊慶長十八年日(次)記」を題材とする同氏の著で、その解説書といったものである。
大坂の陣の前の年の日出藩主・木下延俊の一年間の行動を記した日記だが、本人ではなく右筆の手になるものである。
豊臣秀吉の正室・高台院の甥(兄・木下家定の三男)であり、長兄は木下長嘯子(勝俊)、同母兄弟に木下利房、小早川秀秋がいる。
延俊の室は細川幽齋の女・加賀である。
忠興とは義兄弟であり、延俊の日出藩主としての取立等には忠興の尽力が大きかったし、日出城の建設などにも大いに力している。甥にあたる忠利とは随分仲が良かった。
さてこの著の中に、加賀の姉・千の書状が紹介されている。延俊が暑い盛りに体調を崩し、そんな中領國・豊後日出に帰国するという話を得て、彼の叔母(高台院姉)に当たる長慶院に対し、帰国を諫めてほしい旨の書状である。この書状は大阪城の天守に保管される書状であるとされ、二木氏は慶長十八年にも延俊が体調を崩していることから、この書状をこの年のものだろうと比定しておられる。
この千なる人は加賀の姉とされているが、妹だとするものもある。これは加賀の生年がはっきりしていないためである。
(加賀の生母は伊丹康勝女=加藤重徳妹だとされる。)
中院道勝が天皇の勅勘を蒙り、田邊に十九年の長きにわたり流刑された中で、幽齋の庇護を受けるとともに、幽齋の養女を娶り、子を為している。その子・長岡孝以にこの千が嫁いでいる。男子一人(細川藩士・嵯峨氏)を為したが孝以が21歳でなくなったため、細川家の家臣小笠原長良に再嫁している。
長良はガラシャ夫人に殉死した小笠原少齋の三男である。長兄が小笠原備前家・長光(5,000石)、次兄は切支丹として棄教をこばみ一族十数名と共に殺された与三郎長定である。
この手紙を慶長十八年のものと比定されているが、この時期延俊室の加賀はすでに亡く(慶長九年十二月没)、九年が経過しており、義姉として延俊の健康を気にしているのは尤もと思うが、延俊の叔母である長慶院にたいして書状を送ることが出来る状況が在ったのかを考え合わせると、私はこの年代の比定には少々首をかしげざるを得ない。
中院通勝の息・孝似室の時代であれば、幽齋の庇護の許京に住んでいた可能性は考えられ、長慶院の甥嫁の姉という事での交流は考えられようが、そうであれば時代は延俊室・加賀存命の時代までさかのぼるのではないか?
この書状はもともと秀頼の室・徳川千姫のものだと考えられていたのだという。
ある研究者が延俊の姉に千なる人物が居ることを知り、今ではそう理解されているらしい。
年代の比定が正しいとすると、私は案外、徳川千姫そのままではないかと思ったりしている。
孝以の生没年や千の再嫁の年などを知ることが不可能な中、推測の域を出ないものではあるが、二木氏の御説にいささかの異論をさしはさむものである。