先の史談会例会では、熊本の街道シリーズ・第二弾として、「薩摩街道・豊前街道、日向往還」を取り上げた。
講師をお願いした会員のN氏はこれらの道をたどり踏破した人だから、使用させてもらったサイト「豊前街道・薩摩街道、旧街道地図」の一部ルートの間違いを指摘されるほどの達人である。
大変好評を得た企画となり、史談会事務局8年の大役を終えた。
さて、かってのNHK大河ドラマ「天璋院篤姫」では、鹿児島をはなれ江戸大奥へ入る篤姫は、鹿児島を海路出発したとしている。
これは原作者の宮尾登美子氏の「海路→木曽路」説に由来するものだが、実際は薩摩街道→豊前街道→西国(山陽)街道→東海道(一部・姫街道)と陸路を二カ月かけて参府している。
随分難儀な旅であったろうと思われるが、その手始めがが熊本南部の「赤松太郎峠」「佐敷太郎峠」「津奈木太郎峠」の三太郎越えの旅であったろう。
幅一間ほどの山道であったというから、宮尾登美子氏の提案の如く船旅が楽であったかもしれないが、船旅も又初めてことであれば難儀なことでもある。
200人以上の大行列があの山道を歩いたのだから、大変なことであったろう。
「あの」と書いたが、私はいわゆる薩摩街道も、一部道筋を同じくする明治国道37号線も通った経験はない。
国道3号線が開通するのは昭和40年のことである。
水俣でうまれた徳富健次郎(蘆花)は、その著「死の陰に」で、大正二年九月二日から、妻と養女、養女の家庭教師の三人の女性と共に長い旅に出て、詳しく記録にとどめている。
東海道を汽車で下り、大坂から汽船で別府に入り薩摩を目指している。薩摩からは人吉を通り日奈久へ帰り、日奈久から海路水俣に入っている。その後この三太郎峠越えをして日奈久に戻り、熊本へ向かっている。
その後福岡へ出て、大陸に渡るという旅であった。十一月三十日に東京に帰る大旅行は終了した。
父祖の地である水俣入りについては、次のように記している。
日奈久温泉から余の祖先墳墓の地且は余の誕生地たる水俣までは、南へ十里。陸路は三太
郎の峠を越すが、海には小蒸気が通ふて唯二時間餘でつい往かれる。余は日露戦争中鹿児
島から歸途、菜の花にしとしと春雨の降る日、薩摩の大口から馬車で峠を越えて水俣に一
泊し墓参もしたが、妻も鶴子もまだ一度も其土を踏んだことはないのである。何を措いて
も往つて見なければならぬ。そこで日奈久に着いた翌日、九月二十九日の午後、埠頭から
艀に乗り、沖で小蒸気に移乗し、葦北の海を南に向ふ。
北と東一帯は肥後の本土、西は天草諸島、南は薩摩と其島にぐるり取りかこまれた東西六
七里、南北二十餘里、一寸琵琶湖大の此内海は、景行天皇以来大分古い歴史を有つて居て、
殊に其南部は古来葦北の海と稱へられ、「葦北の野阪の浦に船出して」など歌にも詠まれ
て可なり歌枕にもなつて居る。(中略)
日奈久から水俣まで十里の海岸は、所謂三太郎の屏風を延べた様な山つづき。處々或は浅
く或は奥深く狭い入江が陸に喰ひ込んで、江の頭には屹度川が流れ込み、川の造つた地面
に町または村が沖から隠れて住むで居る。松や雑木の茂る磯山つづきに、砂浜と云ふもの
は絶えてなく、其かはり盆景に欲しい様な小島や岩が磯近くちらばつて居る。日奈久沖か
ら汽船はずつと陸近く寄つて、磯山松の影ひたす碧潮を分け、此處其處で鱸釣る舟を其餘
波に盪かしつつ、田の浦、佐敷、津奈木と寄るたびに汽笛を鳴らして三人五人艀の客を上
げ下ろしつつ、南に駛せて早くも水俣に来た。此處は西北に向ふてやや打開け、人家が大
分、煙突なども見える。
ここで四人は親族や旧知の人達と再会を喜び数日を過ごしている。健次郎は19年ぶりの水俣入りである。
次回は熊本へ向かうための「三太郎峠越え」についての記述をご紹介しよう。