2月16日のブログ「已矣哉」を書いた処、わざわざ現地に出向かれ22日に当ブログにコメントをいただいた。ところが何の手違いかそのコメントと、御礼の当方コメントが消えてなくなってしまった。お詫びを申上げその内容を再掲する。
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この話が気になり、昨日、江戸城本丸へ行き再現実験をしてみました。大広間辺りかと思われる一角に、万治期城内図面のプレートをはめ込んだ石(恐らくかつての石垣の一部)があったので、現在地を確かめると、そこが、まさに旧大広間三之間、四之間の位置。そこから時間を定めて出発し、二の丸を抜けて、梅の花が見頃の梅林坂下まで一旦北上、平川門を出て内堀沿いを大手門辺まで南下し、永代通りを、旧龍口邸のあった丸の内オアゾ前に辿り着くまで、ちょうど30分かかりました。実際には、当時は三の丸の方から大回りしなければならなかったのではないかと思われ、直線距離で10分程の所を3,4倍の時間をかけて帰ったようです。
「定め通り」とは、“亡骸は平川口より送り出す”という決まりごとかと思いますが、宗孝公はまだ存命である、という建て前ながら、江戸城内の規則は破るわけにはいかなかった家臣達のつらい胸中がなおさら思いやられました。
世はあたかも、赤穂浪士礼賛の風潮が高まっていた時期(ほぼ1年後、8月13日に「仮名手本忠臣蔵」初演)。幕府としては、吉良殿と縁戚関係にあった大御所吉宗が健在でもあり、同じような混乱を繰り返さないため、慎重に事を運んだことでしょう。伊達公の「細川公は未だご存命」の言葉は、その後の全ての対応に好影響を与えた大ファインプレーだったように思います。
P・S 尚、津々堂さんには直接の関わり無き事ながら、「熊本城公式ホームページ」、細川九曜についての説明にある、事件の発生日が、16日になっているようです。
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本日再度次のようなご報告をいただいた。合わせてご紹介し御礼申上げる。
平川門が死者・罪人を送り出す、不浄門の別名を持つ門であることは、講談社学術文庫「江戸城(村井益男著)」他、江戸城に関する書物で確認できる事で、間違いはありません。27日のコメントに付け加えるなら、通常この門を使用できたのは、大奥女中の他、御三卿、表の定められた役職の者、ということが分っており、そこからお帰りになった、ということは、やはり特別なことであった、と言う他無いものと思います。
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この話が気になり、昨日、江戸城本丸へ行き再現実験をしてみました。大広間辺りかと思われる一角に、万治期城内図面のプレートをはめ込んだ石(恐らくかつての石垣の一部)があったので、現在地を確かめると、そこが、まさに旧大広間三之間、四之間の位置。そこから時間を定めて出発し、二の丸を抜けて、梅の花が見頃の梅林坂下まで一旦北上、平川門を出て内堀沿いを大手門辺まで南下し、永代通りを、旧龍口邸のあった丸の内オアゾ前に辿り着くまで、ちょうど30分かかりました。実際には、当時は三の丸の方から大回りしなければならなかったのではないかと思われ、直線距離で10分程の所を3,4倍の時間をかけて帰ったようです。
「定め通り」とは、“亡骸は平川口より送り出す”という決まりごとかと思いますが、宗孝公はまだ存命である、という建て前ながら、江戸城内の規則は破るわけにはいかなかった家臣達のつらい胸中がなおさら思いやられました。
世はあたかも、赤穂浪士礼賛の風潮が高まっていた時期(ほぼ1年後、8月13日に「仮名手本忠臣蔵」初演)。幕府としては、吉良殿と縁戚関係にあった大御所吉宗が健在でもあり、同じような混乱を繰り返さないため、慎重に事を運んだことでしょう。伊達公の「細川公は未だご存命」の言葉は、その後の全ての対応に好影響を与えた大ファインプレーだったように思います。
P・S 尚、津々堂さんには直接の関わり無き事ながら、「熊本城公式ホームページ」、細川九曜についての説明にある、事件の発生日が、16日になっているようです。
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本日再度次のようなご報告をいただいた。合わせてご紹介し御礼申上げる。
平川門が死者・罪人を送り出す、不浄門の別名を持つ門であることは、講談社学術文庫「江戸城(村井益男著)」他、江戸城に関する書物で確認できる事で、間違いはありません。27日のコメントに付け加えるなら、通常この門を使用できたのは、大奥女中の他、御三卿、表の定められた役職の者、ということが分っており、そこからお帰りになった、ということは、やはり特別なことであった、と言う他無いものと思います。