沼田延元が寛永元年八月十三日亡くなった知らせは、八月ニ十日小倉にもたらされた。これを受けて藩庁は、その跡式を仕置きしている。九月十八日付「日帳」に次のように在る。
沢村大学(吉重)殿登城、平野九郎右衛門(長氏)被指上候時、長岡十五郎(沼田延之)殿へ被成御書候、然ハ、勘解由(沼田延元)殿知行不相替十五(ママ)殿へ被遣候、十五郎殿千石分ハ仁平次殿三百石の内、百五十石平野九郎右衛門御加増ニ可被遣之御書、此地御奉行衆へも御書見せ可申旨、被仰下候条、被得其意候へと、大学被申候ニ付、御奉行衆頂戴被仕候而、田中猪兵衛(氏久)ニ則被申■渡候事
1、亡くなった延元の知行は息・沼田十五郎(延之)が相続
1、延之の別禄千石は差上げ、仁平次に与えられた。尚、仁平次の旧禄の内の半分百五十石は、平
野九郎右衛門加蔵分に宛てられた。
ここに登場する仁平次とは、松井康之の姉・松林院(角田因幡守藤秀室)の子・松井二平次と推察される。この記事からこの時期三百石であったことが分かる。そして延元の死に伴う仕置きに於いて、千百五十石の大身になったことが窺がえる、貴重な資料である。九郎右衛門もこの加増を以って千石の家禄となった。
松井二平次の嫡男は松井外記元勝、二男湘雪院西堂、三男角田団兵衛勝貞、四男松井庄次郎友好(沢村大学養子)、娘は志水悪兵衛息・加兵衛(松井式部)に嫁いだ。
沢村大学(吉重)殿登城、平野九郎右衛門(長氏)被指上候時、長岡十五郎(沼田延之)殿へ被成御書候、然ハ、勘解由(沼田延元)殿知行不相替十五(ママ)殿へ被遣候、十五郎殿千石分ハ仁平次殿三百石の内、百五十石平野九郎右衛門御加増ニ可被遣之御書、此地御奉行衆へも御書見せ可申旨、被仰下候条、被得其意候へと、大学被申候ニ付、御奉行衆頂戴被仕候而、田中猪兵衛(氏久)ニ則被申■渡候事
1、亡くなった延元の知行は息・沼田十五郎(延之)が相続
1、延之の別禄千石は差上げ、仁平次に与えられた。尚、仁平次の旧禄の内の半分百五十石は、平
野九郎右衛門加蔵分に宛てられた。
ここに登場する仁平次とは、松井康之の姉・松林院(角田因幡守藤秀室)の子・松井二平次と推察される。この記事からこの時期三百石であったことが分かる。そして延元の死に伴う仕置きに於いて、千百五十石の大身になったことが窺がえる、貴重な資料である。九郎右衛門もこの加増を以って千石の家禄となった。
松井二平次の嫡男は松井外記元勝、二男湘雪院西堂、三男角田団兵衛勝貞、四男松井庄次郎友好(沢村大学養子)、娘は志水悪兵衛息・加兵衛(松井式部)に嫁いだ。