びわ湖毎日マラソンがその歴史を閉じるという今回、大いなる期待をもってTV観戦した。
最近の高速マラソンはペースメーカーがラップを見事に刻みながら進み、好記録が期待されるが、今回も25キロまでの3分を切るよ見事なラップは新記録が予感された。
そして、びわ湖マラソンは有終の美を飾るような、見事な記録が出た。2時間04分56秒世界に通用する見事な記録で鈴木健吾選手が栄冠を得た。
オリンピックの出場は出来ないが、今度世界に羽ばたく一人が誕生した。
こういう試合を観戦すると、本当にスポーツのすばらしさを共有できることをうれしく思う。
コロナが終息して、オリンピックが開催され、いろんな種目で世界のアスリートがこのような素晴らしい仕合を展開されることを望みたい。
ワクチン接種が現実問題で見えてきた今日、何とかなるのではないかという一縷の望みが出て来たのではないのか??
オリンピック委員会の醜態は、政治問題も絡みなんともいただけないが、さてどうなるのか・・・
アスリートが夢をつむぐことの出来るような方向で頑張ってほしいものだ。
ご厚誼をいただいている、細川家家臣・高見家の御子孫YT様からメールを頂戴し、ブログ「ルーツ探訪」を正式にUPされたご報告をいただいた。
いやはや見事なブログで恐れ入ってしまい、当方ブログなどは足元にも及ばない素晴らしいものである。
これは又、沢山の資料が今日まで残されてきたことも幸いしている。
さきにその膨大な資料は、熊本大学付属図書館に収められたが、ちょうど一年になる。
コロナが騒がれ始めた時期だったが、ご子息とご一緒に来熊された折、御目にかかり食事を共にさせていただいたが、余りのうれしさに、飲みすぎて大いなる酔態を晒してしまった。
それからわずか一年である。見事なブログのスタートをお喜び申し上げるとともに、新たな切り口でいろいろ発信していただけるものと期待をしている。
うれしいの一言に尽きる。
日帳(寛永七年五月)廿八日~晦日
|
| 廿八日 加来二郎兵衛
|
| (水鶏)くいな
鷹師水鶏ヲ次飛脚 |一、高瀬瀬兵衛所ゟ、水扎壱つ取せ上候、次飛脚にて指越候、休心ニ持せ、御本丸へさし上候事、
ニテ上グ |
|一、真下七兵衛ゟ、寺嶋所へ銀少つゝミ入候状一つ、幷京衆へ御用之儀被申上せ候状一つ、被相届候
| へと申渡、岡六左衛門ニ相渡候事、
上方僧衆出迎船ニ |一、明日御出家衆御迎船被成御上せ候御奉行ニハ、岡六左衛門尉・瀬崎猪右衛門・入江二兵衛也、御
奉行台所人賄人等 | 台所衆ハ大野孫市・石原二郎作・関少介・安田市介・坂田九兵衛、此五人也、賄人ニハ三そうノ
ヲ乗セ上ス | 御鉄炮衆
| 御舟ニ〇六人、手伝ニハ御長柄衆十三人上せ候、内弐人ハ御鉄炮衆也、
薪ためしノ奉行 |一、薪ためし申奉行ニハ、河野七左衛門尉・山河惣右衛門尉組大岐徳左衛門尉、此両人申付候事、
上野焼ノ奉行 |一、上野焼ノ奉行ニハ、黒木三太夫・奥村市左衛門尉、此両人申付候事、
| (細川立允)
細川立允ヘノ音信 |一、明日 立允様へ為御音信、ほし飯五袋・御花入壱つ被進之候、御使者ニ、かちの御小性赤尾茂兵
干飯花入 | 衛に 御書箱壱つ、又右ノ二色相渡申候事、
| (振)火振り漁
忠利松井興長邸ニ |一、今日は、式ア殿へ被成御座、夜ニ入、式ア殿にて御能被成候、それより夜ふりニ御舟にて被成
御
臨ミ演能ス | 座候事、
|
| 廿九日 奥村少兵衛
|
上方僧衆出迎ノ船 |一、御出家集御迎舟、今日出船仕候ニ、
出帆ス | (秀成)
忠利書状等京大坂 | 生嶋玄蕃殿へ之 御書壱通、
諸方へ | 井上源三郎へ之 御書壱通、
| ソノ外、京・大坂へ御用之状とも不残、入江仁兵衛・瀬崎猪右衛門両人ニ相渡申候事、
| (定芳)
菅沼定芳築山兵庫 |一、菅沼織ア様へ被進御書壱通、築山兵庫殿への御返書ノ御文箱壱つ、京衆への御文箱壱つ、以上三
京詰ヘノ書状 | つ、岡六左衛門ニ渡也、
忠利鷹師へ鷹ノ鳥 |一、高瀬勘兵衛かたゟ、けり壱つ、御鷹ニ取せ候而、差上申候、則上申候処、度々ニ壱つ宛越候ヘ
ノ上ゲ方ヲ指示ス | ハ、炎天ニ鳥茂損シ申候間、三つ四つかさなり申候時、能塩を仕置、一度ニ差上可申旨被 仰出
| 候、則其通勘兵衛へ申遣候也、但、生嶋平三郎奉りにて被申聞候也、
| (成政)
鳬再ビ上ル |一、高瀬勘兵衛ゟ、重而けり壱つ、とらせ候而差上候、則坂崎清左衛門披露にて上ル也、
|
| 晦日 安東九兵衛
|
誅伐者四人ノ罪状 |一、今日御誅伐もの三人在之也、但、林隠岐召仕候下女を盗申仁右衛門、女は被成御助候、又筑前ゟ
下女ヲ盗ミシ小者 | 女を盗候而参候瀬ノ助、但、女は筑前へ御もとし被成、壱人ハ御加子、大坂にて御米ぬすミ申候
筑前ヨリ女ヲ盗ミ | (和郎)
来ル者 大坂ニテ | 喜太夫、此参人也、外ニ壱人、当町にて、巻物をぬすミ申候大工わろふ、以上、此四人御誅伐也、
米ヲ盗ミシ加子 |
巻物ヲ盗ミシ大工 |
| (雲嶽霊圭)
圭首座ノ上ゲシ阿 |一、圭首座上方へ被上候時、被上置候あみだノ絵一服、箱弐入候を、慥ニ請取申候、
弥陀ノ画像ノ請取 | 永蔵主(花押)
今回をもちまして「福岡県史 近世史料・細川小倉藩(ニ)」は終了いたしました。
次回からは引き続き(三)をご紹介してまいります。
高祖父・上田久兵衛の書簡を読むと、「上通」という言葉が度々登場している。京都留守居をしていたころの書簡には、度々のように「上通によろしく」等とある。
「上通」とは久兵衛の奥方の実家・沼田家(分家)の事で、屋敷が上通筋にあった事に由来する。
上通から歩小路に入る右角に位置する。この敷地は数件の店舗と130年の歴史があるMホテルがある。
もう地元では周知の事だからM=丸子ホテルであると明かしても良いだろう。
コロナ禍の中で、客足は8割減になったという。修学旅行などの団体客が多かったようで、大いなるダメージとなったのだろう。
現在では「歩小路」といえば小洒落た飲み屋さんなどが多くみられ、若い人たちには人気の街である。
かっては「歩之者」が住む長屋が立ち並んだ街であった。まだ古い木造家屋も見られるが、うまく改造をして雰囲気ある御見せも見られる。
突き抜けると国道3号線、道向こうは中央警察署である。
日帳(寛永七年五月)廿四日~廿七日
|
| 廿四日 安東九兵衛
|
| (鏡)
|一、加々見善右衛門尉被申候ハ、御船頭原茂介、昨日病死仕由、被申候事、
上方出家等ノ迎船 |一、今度御出家衆御迎舟、五十丁立弐そう・十たんほ一そう・四丁立小早一そう、此分上せ申候由、
| 加々見善右衛門・白井兵介被申候事、
| (規矩郡)
瓜 |一、修理ヨ渡辺う兵衛、黒原まて状持せ遣、但、うりノ儀に付、遣候状也、
判はんじ久兵衛 |一、判はんじ久兵衛参候事、
もめん鞦変色ス |一、小林久介被申候ハ、もめんしりがい大分被 仰付候、御納戸衆被請取候所ニ、百ノ内にて三ケ
不良品ハしま屋ニ | 一ほとも色かハり申候ニ付、悪敷分ハしまやニ返し、仕直させ申候、当津にてハかやうニ申付
仕直サシム | (干 懸)
| 候、江戸・上方へ持せ被成候時、色かハり申候は以外ニ御座候、干かけと被 仰付候へ共、先
| 出来候分ハ其分、残分ハ御持せ被成間敷やと、被申候事、
|
|
|一、井浅無風、清水寺ニ着、田山ニ届ニ付、呼せ候也、則書也
|
| 廿五日 加来次郎兵衛
|
|一、今朝、夜明ゟ雨ふり申候也、
遠坂某等紀州へ使 |一、遠坂四郎三郎・藤井権兵衛両人、今日紀州へ参候由、被申候事、
ス |
求菩提山ヨリ光尚 |一、求菩提山ゟ 御六様御祈祷之御札之由ニ而、中坊持参被仕候、林隠岐ニ被請取置候へと、申渡候事、
ノ祈祷札ヲ上グ |
|一、京都へ御使ニ被遣候御鉄炮衆、佐分利兵太夫与礒井勘十郎罷下候、御返書とも式ア少輔殿へ相渡
| 候へと、申渡候事、
柄巻革下ル |一、今日、大坂ゟ御舟下申候、御船頭は岐木九兵衛也、御柄巻革ノ由一箱、又、井上源三郎ゟ上り申
京摂津河内洪水 | さばの由ニて、一箱持下申候、右御船頭申候は、京都ニハ、去廿日・廿一日ニ大水出申候、摂津
淀城内は舟行ス | 国・河内ニハ河端ノ土手堤之分も壱間も無御座候由申候、又淀ノ御城ニハも水つき、城内をかち
| にてもありき申儀不相成、舟ニ而ありき申候由申候、
中間頭病死ス |一、御中間頭與九郎、去ル十九日ニ病死仕候由、山田五郎兵衛申候事、
| ( 狐 釣 )
狐釣某病死ス |一、芦田與兵衛組ノきつねつり竹内勘太夫、是も去ル十九日ニ病死仕由、小頭申候事、
| (智忠親王) (秀成)
生嶋秀成書状 |一、殿様へ、八条様御内生嶋玄蕃ゟ上申状壱通、幷平野権平様ゟ 殿様へ上り申状壱通、式ア殿ゟ持
平野長勝書状 | せ被下候を間、上申候事、
| 〃
| (田川郡)
岩石ニテ松葉採集 |一、岩石へ松葉取ニ遣候御鉄炮衆罷帰申候、松葉を四拾壱俵取、持来候由申候也、
|
| 廿六日 奥村少兵衛
| (築)
大坂ヨリ小早下ル |一、大坂ゟ御小早下申候、御船頭ハ井上十右衛門、つき山兵庫ゟ言上ノ文箱壱つ、真下七兵衛ニ当り
ソノ行程四日 | (湘雲守沅)沢村大学の子
| 参候、則七兵衛方へ相渡候へと申渡候、其外沅西堂へ之状とも持下候事、右ノ御舟、大坂を廿三
| 日ニ出舟仕、今日下着候也、
| 右ノ言上、治アを以、我々ゟ上申候事、
| (宇)
鷹師鳬ヲ上グ |一、高橋勘兵衛ゟ、けり壱つ、御鷹ニ取せ申よしにて被上候、則松井う右衛門を以、上ル也、
|
| 廿七日 安東九兵衛
|
| (曽根、規矩郡)
忠利曽根迄鷹狩ス |一、今日、そねまて御鷹野ニ被成御座候事、
|一、曽根ゟ、夜ニ入、被成御帰城候也、
今日は風雨の一日となり、散歩も取りやめとしました。
花粉も少しおさまっつているのでしょう、目のかゆみは相変わらずですが、くしゃみ・鼻水は小休止の状態です。
あすの史談会の会場で、大きなくしゃみを連発するのはまずいなと思っていましたが、何とかなりそうです。
処が花粉症の替りに、少し気温が下がったせいで、胸が痛くて仕方ありません。少々左手がしびれています。
本人には自覚症状みたいなものは全くないのですが、CT検査の結果として、過去に軽い脳梗塞の疑いがあるとドクターに言われ、ニトロの処方を受けています。
そのニトロを服用してみようかと思っていますが、そこまでの心配もなかろうとも思い様子見状態です。
あすはPCを持ち込んで、プロジェクターで史料の投影をしなくてはいけませんから、荷物も重くなりそうで・・・
私の史談会でのお世話も今月・来月の二回のみとなりました。本当に最後の御奉公といった感じです。
明日はニトロを以て出かけることにしましょう。
「寒いのが心臓に悪いのなら暖房を入れなさい」と奥方がうるさく言っています。
今日取り上げた「■細川小倉藩(501)寛永七年・日帳(五月廿日~廿三日)」に大塚喜兵衛とその弟二人の召出しに関する記述がある。
親の仇である従兄弟を殺害し、これが忠利の感動するところとなっての兄弟三人の召出しである。
そして喜兵衛に300石、二人の弟にそれぞれ100石があてがわれている。
まるで戦場において首を上げたことを讃えるような大判振舞である。
いかにも「寛永」という時代背景と、忠利の嗜好みたいなものを感じさせる。
殺害された父親の禄高がどの程度のものであったのかはよくわからないが、その知行は四歳になる遺児に渡されている。
その経過は次のようなものである。
寛文七年六月「日帳」より
6/8:田川郡木代村之甚右衛門尉子供走候而、筑前之内ニ居候つるか、木代村へ参、
いとこノ久左衛門尉を、去ル六日ノ夜打果候而、いずくとも(なく)参由、郡奉行より
申来候、仁躰ハ見届不申候へ共、定而、右ノ兄弟(喜兵衛、五郎、仁右衛門)参候
而可仕と存由、いのひさ(猪膝)太郎左衛門尉申候由ノ書状ニ候也
6/9:河喜多五郎左衛門尉并猪膝太郎左衛門尉罷出候、木代村之久左衛門尉を打果申
候ものハ、いとこの喜兵衛ニ相究候、昨日かの喜兵衛状を調、猪膝太郎左衛門尉ニ
立置申候、文躰は久左衛門尉儀ハ親之かたきにて候ゆへ、夜前一刀うらミ申候、乍
去、夜中之儀ニ候ニ而候故、果申たる儀ハ不存候、もはや本望ハとげ申候間、然上
ハ、御間悪敷国へ参居申候も、公儀を憚さるにて御座候間、ニ三日中ニ其地へ罷越、
如何様ニ成共、御意次第ニ可仕とかき候而、文をたて置申候由ニ而、右両人持参被
仕候、御年寄衆へ被申候へと、申渡候事
6/22:
■木代村ノ喜兵衛、兄弟三人ともニ被成御赦免、一命扶被下候事
■右喜兵衛ニきられ申七(久)郎右衛門尉せかれ、四つニ成申ニ、喜兵衛親甚右衛門
知行其まヽ被下候事
■木代村ノ喜兵衛ニ御知行三百石、弟両人ニ百石宛被為拝領候、左候而御前ニ被
召出、喜兵衛さかつきを 殿様被 召上、御帷子弐つ宛・御肩衣・袴弐下宛被為拝
領候、左候而、忝 御意ともヽヽ御前之衆いつれもかんるいをなかし申候事
■右喜兵衛重而被 召出、御腰物壱腰被遣候、左候而、御感状被遣候事
さてその喜兵衛、忠利の没後殉死に及んだ。これは万人の納得する処であったろう。
三人兄弟を代表した形であった。
他人を殺害し、その行為が讃えられて殉死に及んだ人としては、忠利代の寺本八左衛門や、三斎に殉死した興津弥五右衛門などがある。
日帳(寛永七年五月)廿日~廿三日
|
| 廿日 奥村少兵衛
|
中津廻リニテ瓜ヲ |一、山村三丞、中津まハりにて瓜弐拾買調、次夫にて持せ差上申候間、則御掃除坊主祐甫を以、御本
調達本丸へ上グ | 丸へ持せ上申候、
惣奉行等升ノ試シ |一、昨日、舛のためしニ中嶋御蔵へ、修理・兵庫・粟野伝介・加藤新兵衛・豊岡甚丞・浅井五左衛門
ニ中嶋ノ蔵へ赴ク | 尉、此衆被参候事、
| (太夫ヵ)
|一、杉新右衛門尉幷御鉄炮衆二人、其外御物四駄ほと、明日つミ上り候御船頭三木清兵衛と申候也、
| (広高)
寺沢広高使者来ル |一、寺沢志摩殿ゟ使者被参候、岡三介と申候仁也、
大坂ニテ金小判五 |一、新右衛門尉、明日被罷上候ニ付、大坂ニ而、金小判五百両調被渡候へとの切手壱枚、又京都ニ而
百両調達ノ切手 | 御買物ノため銀子弐拾貫目、京衆へ被渡候へとの切手相渡申候、又大坂衆・京衆・江戸御留守居
京ニテ買物用ノ銀 | (自徳院、松井康之室、沼田光長女)
子二十貫ノ切手 | 衆へ之状とも、新右衛門ニ渡申候事、又式ア殿ゟしとくゐん殿へ四角成あまかミ包ノ箱、同人ニ
松井興長ヨリ自徳 | 渡
員ヘノ箱 |
|
| 廿一日 加来二郎兵衛
|
|一、今日、江戸へ為御使杉新右衛門尉・吉田十介、御鉄炮衆弐人被遣候、御物色々相渡、上せ申候、
| 乗せ上り候御船頭ハ三木清太夫と申者也、
浅見某父餓死後ノ |一、浅見八兵衛申候ハ、親五兵衛相果候以後、見廻不申候、かつゑ死申候間、ちと見廻参度由申候、
見舞ヲ願ウ | 与わキ片岡新兵衛も同前ニ被申由申候事、
|(ママ)
|一、
|
| (ママ)
| 廿二日
|
| (田川郡)
仇討セシ大塚喜兵 |一、木代村ノ喜兵衛、兄弟三人ともニ被成御赦免、一命扶下候事、
衛兄弟赦サル |
| (久)
討タレシ者ノ伜ニ |一、右喜兵衛ニきられ申七郎右衛門尉せかれ、四つニ成申ニ、喜兵衛親甚右衛門尉知行其まゝ被下候
喜兵衛親ノ知行ヲ | 事、
与ヘラル |
|
仙石政俊使者来ル |一、仙石兵助様ゟ御使者御座候由、吉田縫殿ゟ被申聞候、御やと奉行ニ、かちノ御小性塩津勘兵衛申
宿奉行 | 付候、御使者ハ上下ノ由也
|
| 廿三日 奥村少兵衛
|
|三斎様へ被進候御書箱弐つ幷奉行所ゟノ状壱つ、御飛脚ニ渡候也、
江戸へ俄ニ早飛脚 |一、今日江戸へ、俄ニ早飛脚として御鉄炮衆両人、神西與三右衛門尉与永田う兵衛・桑原与村上甚右
忠利書状三斎宛 | (ママ)
| 衛門尉、此両人被遣候也、但
|一、右ノ御飛脚乗上り申候御舟ニ、仙石兵助様ゟノ御使者も乗せ、上せ申候事、
|一、上方ゟ、遠山長五郎親罷下候ニ、京ノ三人衆ゟ言上、言伝被差下候を、長五郎小性ニ持せ被差越
| (飯田)
| 候を、九兵衛ニ持せ、才兵衛ニ渡申候事、
忠利父ノ仇ヲ討チ |一、木代村之喜兵衛ニ御知行三百石、弟両人ニ百石宛被為拝領候事、左候而御前ニ被 召出、喜兵衛
シ大塚喜兵衛兄弟 | さかつきを 殿様被 召上、御帷子弐つ宛・御肩衣・袴弐下宛被為拝領候、左候而、忝 御意と
へ罷業ヲ与ウ | も/\御前之衆いつれもかんるいをなかし申候事、
召出シテ自ラ盃ヲ |
受ケ衣料ヲ与ウ |
何レモ感涙ヲ流ス |
| 近藤
三斎付台所人筑前 |一、三斎様御台所人〇三右衛門尉、筑前へ走り居申候処、筑前ゟとらへ、今日渡申付、横田権佐・続
へ走リシヲ捕へ渡 | (敦行)
サル | 平右衛門両人受取ニ被遣、左候而、彼囚人乗物ニ御乗せ候而、中津へ被遣候、但、御奉行ニは星
中津へ送ル | 野半太夫・大塚忠兵衛両人被遣候也、
仇討ノ喜兵衛再ビ |一、右喜兵衛重而被 召出、御腰物壱腰被遣候、左候而、御感状被遣候事、
召出サレ刀感状ヲ |
給ウ |
| (高瀬) (鳬)
鷹師鳬ヲ上グ |一、御鷹師勘兵衛、けりを壱つ、右馬ケ岳にて取せ申候由にて、持せ差越候、則玄知ニ持せ、当番ノ衆
| ニ渡候へと申付、遣候也、
最近すごく御抹茶をいただきたいという願望が、沸々としている。
それもちょっと気に入った平茶碗を手に入れて、自ら立てて飲みたいという願望である。
それも大好きな高麗手か三島手の茶碗を手に入れたいと思っているのだが、あまりこだわらずに効果でなくとも気に入ったものを求めたいと思っている。
最近はお茶会に出かけることもなく、御抹茶をいただく機会がない。
昨年末、ある料亭で忘年会をした折最後に出てきた御抹茶が、私の脳みそを刺激したようだ。
釜ならぬ古い鉄瓶があったが、地震のおりのことか姿が見えない。これも整えたいものだ。
茶杓はあるから、新しく御抹茶と茶筅と柄杓を、御茶屋をしている友人のお店で手に入れよう。
来年の傘寿の自祝までに、なんとか気に入ったものを準備したいと思っている。
日帳(寛永七年五月)十五日~十九日
|
| 十五日 加来二郎兵衛
|
| (田川郡)
|一、香春ニ被 召置御家具、請取ニ参候次夫ノ状調遣候也、
町奉行盗人ヲ捕へ |一、吉田縫殿被申候ハ、当町ニ盗人御座候を、京とらへ申候、せんさく仕候へは、主人御座候間、
ソノ主人ニ渡ス | 盗人主人ニ相渡申由、被申候事、
忠利西ノ溜池ニ月 |一、今晩、西ノため池へ、月見の御慰ニ被成御座候也、
見ヲ催ス |
|
| 十六日 安東九兵衛
|
|一、永良長兵衛、今晩火罷下候事、
|
| 十七日 奥村少兵衛
| (松井興長)
京大坂ヘノ音信 |一、今日、罷上候御船頭徳嶋八兵衛ニ、式ア殿ゟ京都へ被成御上候文箱弐つ、幷しふかミ包ノ四角成
忠利書状烏丸光賢 | (光賢)
| 小箱、又、京・大坂へ之状ともゆいつけ御座候を、八兵衛ニ相渡申候、又、烏丸宰相様へ 殿様
宛 | (加々山可政)(坂崎成政)
| ゟ被進候御書箱壱つ、主馬・清左衛門尉ゟノ状共、相そひ申候を相渡申候事、
本阿弥光益ヘノ返 |一、本阿弥光益ゟ参候状ノ御返事、式ア少殿ゟ被仰上、御返書被成遣候、光益状は祐甫ニ持せ、山崎
書 | 伝左衛門へ渡させ候也、
|
| 十八日 加来次郎兵衛
|
忠利東花畠ニ津川 |一、今日は殿様東花畠ニ被成 御座、休閑様被成御振舞候事、
休閑ヲ饗ス |
| 浅井長政孫(万菊丸直政の子) (怡土)
清水社縁日ハ諸門 |一、浅井五左衛門尉しうと、筑前糸郡ニ牢人仕居候、今日清水ノゑん日ニ而御座候ニ付、御門茂自由
出入自由 筑前住 | ニ在之由、承及候而、五左衛門尉為見廻、五左衛門所ニ参候、如何可有御座やと五左衛門尉登
ノ牢人聟ノ浅井某 | 城ニ而申候ニ付、則其段立 御耳候処、奉公を茂不仕牢人一扁之ものにて候ハヽ、不苦由被 仰
ヲ訪ネントス | 出、其通五左衛門尉ニ申渡候也、
忠利牢人一扁ノ者 |
故支障ナシ |
|
| 十九日 安東九兵衛
|
| (譜)
小者ソノ主ノ譜代 |一、林隠岐守召仕候小者、隠岐普代之下女をつれ出シ、昨十八日清水参りのものニ紛候而、筑前ノ様
ノ下女ヲ誘ヒ筑前 | (規矩郡)
へ走ラントス | ニ参候所を、今村ノ又左衛門・仁右衛門・助・善蔵、此四人としてとらへ参、隠岐ニ渡候也、
百姓ニ捕へラレ主 |
人ニ渡サル |
| (沢村吉重)
大坂ニ立置ク厩ノ |一、大学殿ゟ、大坂ニ御馬弐疋立申候御馬や被 仰付儀ニ付、寺嶋主水・佐野嶋平兵衛所への 御意
建築ニツキ奉行加 | ノ書状被相調、我等共にも判形可仕由候間、我等共ニも加判を仕、差上可申 御意ニ御座候ハ可
判ノ諾否 | 仕候、其わけも無御座候而、御心得にて判形可仕との儀ニ御座候は、仕間敷通返事仕候、弥大学
| 殿へ被相尋、我等共ニも同前ニ可申遣由、■御意ニ御座候は、重而可被仰聞候、判形可仕候通、
| 使ニ申渡候事、
厩建築ノ令状ハ沢 |一、重而此方ゟ書状を以、大学殿へ申入候ハ、冣前御使ニ申入候ことく、大坂へ御馬やの儀被仰上せ
村吉重一判ニテ済 | 候御状ニ判形仕儀、 御意にて御座候は判形可仕候、左も無御座候は、御一判にて可被仰上せ通
スヲ申入ル | 申入候処、 御諚ニ而ハ無之候へ共、か様之儀は存候而可然候、若御尋之時も、大学同前ニ申上
| せ候と申上ためにて候由、被仰聞候間、冣前申候ことく様子之段ハ承届候、御尋之時ハ承届候段
| 可申上候、御一判にて、可有御上せ候通、申入候事、
眼の痛みに、鼻水・くしゃみそれぞれがひどい状態で大いに難儀しています。
一両日内には雨が降るという予報が出ていますから、その時はすこしは落ち着くかもしれません。
予防のため散歩にも出ないで、窓も開けないで一両日過ごそうかと思いましたが、少々用事もあって軽い散歩をしてきました。
症状は相変わらずで、ティッシュの山が出来初め、赤鼻のトナカイになりつつあります。
眼は一日に何度も目薬を差しますから、瞬く間に水位が下がってきました。
余り大きなくしゃみを連発して、奥方の「骨折するヨ」とはいかないまでも、胸が痛くて仕方ありません。
以前「ぽつんと一軒家」を見ていて、現在杉の苗木の養植は「実生」ではなく、元気な杉の枝に発根剤をぬって苗木を作るということを知り、花粉をとばす「実」は必要ないじゃないかと思わず口走りました。
「実」がならない杉の木を作るなんて出来ないんでしょうか・・
とにかく「爺様はつらい」の一言です。下の写真のようなものが飛んでいるかと思うと、ぞっとしてしまいます。
allergy insaiderサイトから引用
日帳(寛永七年五月)十三日~十四日
|
| 十三日 安東九兵衛
|
忠利休閑ヲ本丸ニ |一、今朝、休閑様を御本丸にて被成御振舞候事、
饗ス |
| 伊与(長沢顕長室、沼田清延女)
いよ京ヨリ帰着ス |一、今朝、いよとの御下着候事、
佐藤将監敷松葉ヲ |一、佐藤将監方ゟ、路地の松葉拾五俵被差上候也
上グ |
加々山正慶預リノ |一、加々山権左衛門尉登城にて被申候は、私預りの御持通ノ小頭八右衛門尉と申者、大分御借米等
持筒ノ小頭借米借 | 仕、其上わきかり身ニあまり、借銭ニうづもれ居申、内々走可申覚悟と聞付申ニ付而、請人を
銭ニ埋モル | 立、書物仕候様ニと申付候へとも、請ニ立申ものも無御座ニ付、彼者せかれ十ヲ斗ニ成候を、権
伜ヲ質ニ取リ女房 | 左衛門所ニ質ニ取置、女房ハ奉公仕せ置候、女房母壱人、八右衛門やとニ置候而、めしなと焼せ
ハ奉公セシム | 候様ニ仕せ置申候処、彼八右衛門女房煩申ノ由にて主やとニ戻り居申候を、昨日、八右衛門女房
伜ヲ連出ス | をつれ出し、其まゝ権左衛門所へ参候而、主せかれを茂つれ出し申候を、権左衛門内ノ女見届候
| 而申候ハ、何と而召連出候やと申候ヘハ、八右衛門申候は、せかれニかたひらを仕候而きせ申
| 候、母寸方なとを忘申候間、母ニあわせ候て、やかてつれ可参由申候を、権左衛門下女申候は、
| 案内なしニハ無用ニて候、待候へ、小性衆へ其通可申とて、内ニ入候隙ニ、せかれを八右衛門つ
小頭女房ヲ連レ走 | (元明)
ル 諸門ヲ固ム | れ出し参候を追懸ヶ、住江甚兵衛前にて追付、せかれを取もとし申候、八右衛門尉ハ直ニ女房を
| めしつれ候而走申候、方々境目ニ追手をかけ、御門/\をかため置候へとも、ゆきかた知不申候
小頭ノ母ハ相聟ノ | (浅山)
| 間、八右衛門女房の母を相尋候へ共、是茂やとニ見え不申候ニ付、八右衛門相聟斎佐内久左衛門
家ニ潜ム | にて候、彼ものゝ所に居可申と存候手、使を遣候ヘハ、此方ニハ居不申候との返事仕候へとも、
| 夕べ(ア=部)
| ふしんニ存候而、夕ア久左衛門ニ人を付置申候処、彼母久左衛門所ゟ出候を見届、其時とらへ、
伜ヲ見セシメニ成 | 権左衛門所ニ参申候八右衛門せかれ、以来見せしめの為ニても御座候間、成敗可仕やと被申候、
敗スルノ可否ヲ伺 | 能々御分別候てノ儀ニ被成候へ之由、返事申候事、
ウ |
| (沢村吉重)
地震屋ノ継延ノ檜 |一、大学殿ゟ被仰聞候は、御地震や御次延の檜木御材木、ふしなしにて候処、大分ふし在之様ニ承届
材ニ大分節アリ | 候ハヽ、
沢村吉重価等ノ吟 | 候、左候〇直段以下万事御吟味可在之候、大坂ゟ書付下シ申候材木、直付ニ相違茂無御座候哉、
味ヲ命ズ | 左様成儀能々御吟味可然由、被仰越候、此方ゟ申候は、御材木請相之ものとも手前はやせんさく
已ニ詮索ヲ遂グ | 仕、詰置申候、就其、内々御談合仕度儀共御座候、何も左様成所せんさく仕置申候間、可有其御
内々ノ談合ヲ申入 | 心得由、申候也、
ル |
忠利中嶋ノ普請場 |一、今晩、中嶋の御普請場へ被成御出候也、
ヲ見分ス |
|
| 十四日 奥村少兵衛
|
町奉行例ノ如ク元 |一、吉田縫殿被申候ハ、元安国寺ノ橋ノ下しほふせき、いつものことく仕度通申候間、可仕由被申候
安国寺ノ橋下ノ防 | 間、可然由申候事、
潮ヲ施ス |
いよノ随行者ニ其 |一、いよ殿ニ付、京へ上せ候黒瀬善右衛門・深水惣右衛門・御長柄衆弥六・荒仕子一人、此四人ノも
母ヨリ帷子給与 | の共ニかたひら壱つ宛、いよ殿御袋ゟ給候由申候事、
明屋敷ヲ鬮取ニテ |一、池上加兵衛元家、野田権兵衛・阿部加兵衛・山田善兵衛・森八兵衛・神の佐左衛門・松岡七左衛
渡ス | 門・波多兵左衛門・北村甚十郎・南野九郎兵衛、此九人にてくし取仕候処ニ、野田権兵衛くしを
| 取当り候ニ付、明渡候事、
|一、真玉半右衛門元家、長や二郎介・同才三郎・益永太兵衛・浅見八兵衛・同伝蔵、此五人にてくし
| 取仕候処ニ、太兵衛取当り、相渡候事、
物師賄奉行奥方台 |一、御奥方御台所ニ付置申御荒仕子、今迄之分にてハ不足仕、不罷成候間、荒仕子弐人御まし候而被
所付ノ荒仕子ノ増 | (九郎右衛門)
員ヲ願ウ | 下候様ニと、黒瀬・大嶋申候間、其段ハ松の丸衆へ申候へと申候ヘハ、松之丸衆被申分ハ、御荒
| (喜左衛門)
内裏之台所ニモ荒 | 仕子を被召置候ヘハ御損立申候間、御長柄衆なとを付置可然と、秘申候由、此方ゟ申候ハ、内裏
仕子ハアリ 長柄 | ノ御台所ニも荒仕子と申ものハ有之ものニ付、御奥方御台所なとへ御長柄衆・御小人衆なと付候
足軽小人ヲ付置ク | 而ハ、世間ノひはんもいかゝニ候、其上御長柄衆なと、荒仕子ノ代ニつかわれ候事、忝ハ存まし
ハ世ノ批判アラム | く候、たとへ御損立候とても、ふかしからさる儀候間、御あらしこ被付置可然由、申渡候事、
足軽等ハ忝クハ思 |
ハザラム |
健軍自衛隊前の1,500メートル程(両側共)ある桜並木、正門横の毎年一番に花を咲かせる木が、今年も変わらず一番乗りで開花していた。
今日は良い天気で20℃越えする中を散歩したが、花粉のせいで途中でくしゃみを連発し、鼻はグズグズになるし、眼は大いにかゆいし、途中で退散してしまった。
杉花粉があとひと月ほど、その後は檜花粉が飛散するのだそうで、二月ほどは付き合わなければならない。
史談会に於いては二月・三月の二回にわたり、会員のN氏にお願いして「近世熊本の交通路・街道と往還」をお話ししていただくことにしている。
粗方の資料は準備したが、その道筋についてはプロジェクターで地図を投影しながら説明をしていただくことにした。
そこでここ一両日、「国土地理院」の地図や、「Google」の地図などをながめて、どちらにしようか等と思案している。
「Google」の地図をスタートさせたら、熊本城周辺に「行幸坂」という表示が出た。
「えっ、ここ何処?」と頭を混乱させる。画面を縮小して全体像で確認すると、古町から城内に入るルートに「行幸坂」と書き込まれていた。
監物台植物園脇の坂道だった。「えっ、この坂も行幸坂?、間違いでしょ」とクローズアップしてみると、これが何と、新堀橋から城内に入るその坂から、監物台植物園前~北大手門跡~加藤神社前~頬当御門前~南大手門横~行幸坂~行幸橋に及ぶルートすべてに「行幸坂」の書き込みが25か所にわたっていた。
ただこれだけの話・・なのだが、こんな話どこえ持っていけば訂正してくれるのか見当もつかない。
まあ実害もないから放っておくことにするが、「地図散歩」をしていると、こんなことにも出くわす。
本来の「街道散歩」はストップと相なったが、今日は今から「朝散歩」の後、また「Google」で地図散歩である。
日帳(寛永七年五月)十一日~十二日
|
| 十一日 奥村少兵衛
|
忠利休閑ヲ本丸ニ |一、今朝、津川休閑様御本丸ニ而被成御振舞候事。
饗ス |
煙草煙管ノ用 |一、塩田正斎ゟ、御小人ノ三介を以申越候ハ、たハこ・きせる入申候間、可被下候由申候間、右三介
| ニ渡申候事、
道休ニ銀子給与 |一、道休ニ被遣銀子弐枚、我等請取申候、明石源十郎方ニ相渡可申候、 卜雲(花押)
上リ屋敷ノ下渡シ |一、歩之御小性益永太兵衛上ヶ申屋敷を杉宗也望申候、別人ハ望不申ニ付、宗也ニ可被相渡由ノ肩書
ノ肩書ヲ明屋敷奉 | 仕、中山左次右衛門方へ渡候事、
行へ渡ス
船頭ノ上リ屋敷ノ |一、御船頭村上半左衛門屋敷、西四間・入拾五間家御座候、村上七左衛門尉望申ニ付、可被相渡由、
下渡シノ肩書ヲ船 | かた書仕候而、加々見善右衛門方ニ相渡候也、
頭惣奉行へ渡ス |
惣積奉行等ニ物書 |一、粟野伝介・才津惣兵衛両人をよび、今度被 仰出候御物かき・御算用者、江戸番又ハ大坂・京都
算用者ノ江戸大坂 | ニ居申候ものゝかわり、被成御抱にて可有之哉と申候処ニ、伝介被申候ハ、大坂ニも物書大勢不
京詰ノ替ノ召抱ヲ | (沢村吉重)
問ウ 沢村吉重 | 入由、江戸へも物書衆不参候共、歩之御小性衆ノ内ニて御用御調候は可成儀と、大学殿被仰候つ
ハ不要トノ意見 | (必)
| る、併、秘定ハ不存由被申候、但、此段ハ二郎兵衛ニ伝介物語被仕候、御奉行衆ハ御本丸ニ御上
| り候間ニ、右之分被申候也、
|
| 拾弐日 賀来次郎兵衛
| (之房)
筑前へ返セシ女ニ |一、筑前へ被成御帰候女之儀ニ付而、御家老衆ゟ井上道柏所へ御状被遣候、其御返事、只今筑前ゟ持
ツキ井上道柏ヨリ | 来候由にて、人留御番西村善兵衛持参申候、則 御家老衆へ被参、状を渡候へと申渡候、
ノ返書 |
| (水町村、規矩郡)
早稲米上ル |一、水町の加右衛門尉、早稲米上申候也、
鉄炮組ヨリ登用ノ |一、御鉄炮衆ノ内ゟ上り衆ニ被 仰付、御山奉行ニ成申候大塚孫兵衛・岩下弥次右衛門尉・山下孫兵
山奉行任地ヲ選バ | 衛、此三人いつれの御郡ニ被遣候共、御山奉行可仕候や、左候ヘハ、当年ゟハ一人宛ニ被 仰付
ズトノ誓紙ヲ提ス | 候間、仕るこなし候ヘハよく候、以来仕損候ハヽ、御成敗可被成候、其御の心得を能仕候へと、
| 〃
| 才津惣兵衛を以申渡候処、いつれノ御郡ニ被遣候共、可仕との書物仕由にて、惣兵衛書物持参被
| 申候、其方ニ被取置候へと申渡候事、