以前 坂崎三四郎なる人 を書いた。 どうやらこの人は初代・清左衛門成方の男子らしい。この故をもって二代清左衛門成政(岡田修理・二男)を養子としたのではないか・・・私の推測である。バッドな話はまだつづく。
寛永十一年十二月十日、忠利は春日局宛(2755)・伊丹康勝宛(2756)・そして榊原職直ら四人の人物に銘々宛書状(2757)を発している。
その内容は坂崎左吉なる人物についてである。この人物は坂崎家二代・成政の甥だとされる。
いささか長文であるがご紹介する。
■春日局宛書状(2755)
(前二項略)
我等所より罷出らう人(坂崎左吉)僧正(南光坊天海)へそせう申 御かなえなくハ御庭をよこし
可申候ハんなとゝ申ニ付而 左様の悪人ハ十七日前にて候共からめとり 若何角申候ハゝ打す
てニいたし候へと被仰付候處ニ 其様子御尋候ハんとてよのものをよひニ被遣候ハゝ 其ぬし
参候て 被搦取 籠へ入申候由 我等所ニ居不申候へとも 御寺にていかやうの悪事仕候ハゝ
此方にて迷惑可仕候ニ 被仰付様能御座候て ぶしニろうしや被仰付 承候てあんと仕候 かの
ものハ惣別き村(気斑)成ものにて御座候 ○そもしさま御存知之坂さき清さえもんおいにて御さ
候を 清左衛門やしない申候へとも きちかひものにて八九年いせんに走 其後又我等ニわひこ
と仕候へ共 をやこ共卻而迷惑仕由申候間 さやうのもの他國にて何やうのとゝかさる儀も候ハ
んまゝ しんるい共所へめしよせ國におき候へと申付 豊前より肥後迄もおやこ共召つれ参候ヘ
ハ 又去年の八月親子共の手前をはしり罷下候 惣別一狂成ものにて御座候 南光坊へ御あひ
なされ候ハゝ 此よし御物語なされ候て可被下候 此度のおほせ付られニよつて御寺ニて之悪
事を仕いたさす 忝存 播磨(伊丹康勝)殿迄御宿老中へも御心得ニあつかるへきよしとて 使者
をさしくたし候
(以下略)
■伊丹康勝宛書状(2756)
態貴様迄以使者申入候 仍我等所ニ此前罷有候坂崎左助と申者 南光坊へ参 猥かハしく不届
儀共申候處 何も被仰付様可然によつて 不慮成儀を不仕出 安堵仕候 可然様ニ御心得候て可
被下候 右左吉と申もの ぬし如申 おやこ共もあまた御座候ものにて御座候 然所ニ寛永三年ニ
はしり申 其以後罷歸度候ニ申候へ共 おやこ共卻而迷惑仕候間 召返不申候 更共 他國ニ罷
歸有候ハゝ 氣違者にて候條 親の所迄召寄 國ニ置候て可然之由申ニ付 豊前より肥後迄おや
この内ニ置申候處 又親の手前を昨年八月ニ走申由ニ候 氣の揃不申者にて候間 左様ニ可有
御座と存候 能様ニ御心得可忝候 恐惶謹言
■榊原職直 并 片山宗琢 并 井岡孝賀 并 河野通幸 銘々宛書状
乍急便一書申入候 仍我等所ニ此前居申候者 南光坊(天海)へ参 色々不聞儀を申候由承候
八九年已然ニ走 其已後又我等所へ歸度申候へ共 親子共卻而迷惑仕由申候間 同心不仕候
更共 氣之不揃者にて候間 他國ニ居候而ハ親子迄迷惑仕事可在之候間 親類共所ね召寄 國
ニ置候而可然由申付候處 従豊前肥後迄参 去八月ニ又親子共手前を走申 事之外氣之不揃
者にて御座候處 被仰付様能候而 御寺にても無何事安堵仕候 惣別一(逸)狂成者にて御座候
つる (以下略)
十二月十日
榊飛騨様
尚々 彼氣違者ハ坂崎清左衛門おいなり やしなひ子ニ仕候處 不届も有之候ハゝ
中をたかひ罷有候 以上
家老職を勤める等の由緒の家であるが、こういう人物が出て当事者は頭の痛いことである。
成方・成政と系図上どうつながるのかよくわからない。この人物のそのごも遥として知れない。