津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■優雅な家紋「花散里」

2024-04-24 06:51:46 | 家紋

                  Amazon.co.jp: 家紋シール 佐竹義宣 源氏香・花散里 15cm x 15cm ...
 今年の大河は見逃さないようにと大いに気を付けている。それと共に「源氏物語」も第11帖「花散里(はなちるさと)」まで読
み進んだが、この条はいかにも短かくて呆気なかった。
さて、この「花散里」は当然ながら源氏香の「香の図」に54個が存在するが、これを家紋とするお宅がある。
このデザインは香道からきているが、五ッの香を聞き五ッの縦線に同じ香があれば頭を横線でつなぐ。
上の図からするとニ種類の香が二回と一種類の香が一回出されたこと、
つまり五回の内に三種の香がたかれた事を示している。
そしてこれが「花散里」である。

 家紋としてはなんでも「香の図」の内、八つしか使われていないと聞くが、代表的な家に、佐竹氏・佐々氏・堀田氏・竹本氏がある
そうだが、細川家家臣にニ家ある。過去に御侍帳・家紋から考えるでご紹介してきたが両家とも「花散里紋」である。

森崎喜左衛門は、(南東64-101 *)
 森崎杢大夫家並びに(南東24-12)森崎萬五家に同名の人物が有り特定できない。家紋は「三つ鱗紋」「源氏香(花散里)紋」か

■冨田小左衛門は「冨田新三郎家(南東10-4)」の何代目に当たるのかは、代々が小左衛門を名乗って居り特定しがたい。
 家祖は福嶋家牢人・冨田与兵衛・重冬、三卿家老・3代有吉立行の女婿で、この冨田家は四男の家系である。すぐ上の兄(重時)
 は5代有吉英貴の養子となり有吉別家を興した。
 富田家の家紋は「丸に源氏香・花散里」「隅立て角に源氏香・花散里」である。

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■あるお位牌の家紋

2023-04-17 10:22:40 | 家紋

                 

 コロナ前からあるお寺様に在る、何方の者か判らない立派なお位牌の主を調べているが、とんと判らない。
お位牌の両側に三つずつ、六個の家紋が刻まれている。
中央にはなんと五三の桐紋が彫られ、上下には九曜紋とこのような家紋が重なった形で確認できる。
九曜紋をつぶしてこの紋が彫り直されているのではないかと思われる。
この名前が判らない家紋を今朝から写真を見ながら、スケールを取りながらスケッチをしてみた。
丸の中は「梅」ではないのかと考えたが、紋帳をいくら探しても出てこない。ご存知の方がおられたらご教示いただきたい。
細川家御一族が関係するお寺で、忠利公のお位牌なども飾られている中、そのお位牌に負けず劣らずの立派なお位牌だが、主が見つからずに数年たつ。
この度専門の写真家によって、70数カットの写真撮影をしていただき、二重家紋(九曜紋+この紋)が鮮明に浮かび上がった。
この家紋が判れば、お位牌の主に一歩でも近ずけるのではないかと、淡い期待を持ちながら朝の数時間をこんな作業で費やした。

追記:4月18日 6:54
この家紋は「丸に中陰横見梅紋」だろうと推測いたしました。 津々堂

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■御侍帳・家紋から考える(67-了)

2022-12-15 06:51:45 | 家紋

      

             新・肥後細川藩侍帳【す】の部

鈴木彦兵衛は、有名な天草代官鈴木重成の子孫、(南東54-15)鈴木傳太郎家、彦兵衛名乗りの人が多く人物の特定が出来ない。
      家紋は「下がり藤紋」「丸に■■紋」

鈴木三郎左衛門は、豊前時代の有名な船頭頭・南喜右衛門を祖とする、御船頭(南東58-23 船)鈴木芳策家、同名名乗りの人が多く人物の特定が出来ない。
      家紋は「中陰丸に繋ぎ三つ目紋」   

栖本内藏次は、天草五人衆・栖本家の末裔、阿部一族の屋敷の隣に居住し、誅伐事件の折塀越しに押し入り奮戦した栖本又七郎の子孫。
     (南東54-9)栖本精一郎家の7代目。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」

杉山安之丞は、(南東54-19)杉山理平家の6代目・安之允(平四郎)。家紋は「松皮菱紋」

杉谷左大夫は、(南東54-20)杉谷圭太家の4代・左大夫(貞之進)か。家紋は「 不詳 」
杉谷伊兵衛は、(南東54-10)杉谷平七郎家の8代・虎次(養子 伊左衛門・伊兵衛・久兵衛)か。
      名は經武、武技を善くし、槍術師を命ぜらる。曾て郡尹となり、頗る治績あり。家紋同上

杉浦角介は、(南東54-24)杉浦清右衛門家の5代目。家紋は「丸に三つ柏紋」

杉本仙右衛門は、(南東54-11)杉本亀格家の5代目・平太郎(仙右衛門)。家紋は「丸に本文字紋」

杉原五大夫は、(南東54-23)杉原芝平家の5代目・只喜(五大夫・瀬兵衛)。家紋は「隅切り立角に蔦紋」「左三つ巴紋」

杉村大助は、(南東54-17)杉村大八家の8代目、御鉄炮廿挺頭を勤めた。家紋は「剣唐花紋」

杉村千三郎は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。

杉野和次郎は、(南東54-21)杉野大作家の6代目。家紋は「三つ扇紋」

杉 十郎右衛門は、【青龍寺以来】(南東54-3)杉 角次家の8代目・吉十郎(十郎右衛門・形右衛門)。家紋は「六角に剣片喰紋」 

杉 清次は、(南東54-6)杉 八郎助家の5代目。家紋は「丸に三つ矢筈紋」

                   (了)

             今回を持ちまして完了の運びとなりました。           

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■御侍帳・家紋から考える(66)

2022-12-13 07:21:45 | 家紋

         

           新・肥後細川藩侍帳【せ】の部


関 惣左衛門は、(南東24-21)関 慎三家の5代目・寿太郎(惣左衛門)。家紋は「隅きり平角に橘紋」

関 左市は、(南東55-22)(南東24-24)関(大津山)孫弥太家の7代目・左市(孫兵衛)。家紋は、「九目紋」「   」

関 郡馬は、同上分家か、(南東55-23)(南東24-25)関(大津山)安家の5代目・群馬 名は經貴、九郎左衛門と称す。各種の武技に通達す。
      藩に仕へて故実師役となる。家紋は「九目紋」「丸に三つ鷹の羽紋」

瀬戸角右衛門は、(南東24-18)瀬戸充太平家の7代・万平(養子 角右衛門)。家紋は「替り唐花・三弁紋」?

瀬川長左衛門は、(南東24-26)瀬川麟次郎家の7代目。家紋は「違い垂れ角紋」

瀬崎伊右衛門は、(南東24-19)瀬崎猪一郎家の6代目・右衛門か。家紋は「陰の桝紋」

薛 三蔵は、(南東64-112 *)薜(セツ)長蔵家の7代目、初代は明国人の薛少峯で医家であった。家紋は書かれていない。

           新・肥後細川藩侍帳【す】の部           

須佐美十右衛門は、(南東54-1)須佐美源五家の8代目。家紋は「毬挟み紋」「  」
須佐美は、 名前がなく不詳
須佐美は、 名前がなく不詳
                              讃岐国小豆島領主 
       須佐美紀伊守---+---甚太郎---権之允---+--半大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・→太能家
              |          |
              |          +--源左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・→源五
              |
              +---弥吉---九郎兵衛 ---+--清右衛門 ===九大夫・・・・・・・・・・→素雄家
                         |        ↑
                         +--四宮傳兵衛---九大夫

須崎伴太夫は、【丹後以来】(南東54-12)須崎休十郎家の7代目・伴大夫(伴助)で楠流軍学師範。家紋は「丸に二つ鷹の羽紋」「丸に中陰武田菱紋」   

住江次郎右衛門は【丹後以来】(南東54-4)住江甚兵衛家の10代・次郎吉(次郎右衛門)、長く番頭を勤めた。家紋は「丸に違い櫂紋」「松笠に折れ松の葉紋」   
住江角大夫は、同上分家、【丹後以来】(南東54-16)住江又八家の8代目直記(角大夫)、家紋は同上・  

住谷常之進は、御馬方(南東59-24 茶・鷹・馬)住谷一角家の5代目・冨記(常之進)。家紋は「三つ違い沢潟紋」「 不詳」     

末藤新右衛門は、(南東54-13)末藤新二家、同名乗りの人が多く人物の特定に至らない。家紋は「丸に唐花紋」

末松金助は、(南東54-18)末松勘次家の6代目。家紋は「中陰丸に片喰紋」

水津武内は、(南東60-29 一代御中小姓)水津彦之允家の5代目。家紋は「中陰丸に隅切り立角に水文字紋」

菅村七大夫は、【丹後以来】(南東54-14)菅村泉二家の6代目・権之進(七大夫・藤兵衛)、家紋は「梅鉢紋」

菅屋作大夫は、(南東54-22)菅屋又十郎家の5代目・兵助(作大夫・九右衛門)、家紋は「三つ丁子右巴紋」

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■御侍帳・家紋から考える(65)

2022-12-09 06:52:29 | 家紋

     

        新・肥後細川藩侍帳【も】の部

森田角兵衛は、(南東24-11)森田一郎家、数人が角兵衛を名乗り人物特定は不可能である。家紋は「丸に片喰紋」

森脇小兵衛は、(南東24-14)森脇錠次郎家の3代目、家紋は「丸に橘紋」

森下儀太夫は、森本儀太夫の誤植か、加藤清正十六将の一人・儀大夫を祖とする(南東24-13)森本儀十郎家の4代目・森本一瑞 名は昌栄、
      儀太夫と称し、致仕して一瑞と号す。食禄百五十石、藩の軍学師範たり。文武に通達す。藩内を廻歴して肥後国誌三拾巻を著す。
      家紋は「」「隅切り立角に本文字紋」

森崎喜左衛門は、(南東64-101 *)森崎杢大夫家並びに(南東24-12)森崎萬五家に同名の人物が有り特定できない。家紋は「三つ鱗紋」「源氏香(花散里)紋」か

森井惣右衛門は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「丸に武田菱紋」

森 十左衛門は、(南東24-10)森 四郎家の7代もしくは8代目、人物の特定は出来ない。家紋は「違い角紋」

森 小平太は、(南東60-25 一代御中小姓)森 弥十郎家の8代目。家紋は「丸に六曜紋」

森 角右衛門は、御馬方 (南東59-23 茶・鷹・馬)森 角右衛門家の7代目・喜兵衛(角右衛門)。
       2代目四郎次郎は【田辺城籠城】した。家紋は「隅切垂れ角に六つ星紋」「陰の隅切垂れ角に六つ星紋」

門司源七郎は、(南東24-9)門司源七郎家の6代目。家紋は「   」

守田藤兵衛は、(南東64-107 *)守田孫之允家の8代目。家紋は「毬挟み紋」

        新・肥後細川藩侍帳【せ】の部
        新・肥後細川藩侍帳【し】の部

妹尾寛太は、(南東24-23)妹尾寛太家の7代、奉行副役を務めた。家紋は「違い矢筈紋」

小代平之丞は、本来は【し】の部にあるべきだが、当時は「せうだい」としたことにより【せ】の部に分類されている。
      小代氏は蒙古襲来を契機に肥後国野原荘に移住・定着したとされる。肥後の国衆として活躍した。
      (南東52-16)小代八郎家の6代と8代が同名、人物の特定は出来ない。家紋は一族の「団扇紋」
小代清兵衛は、同上分家、(南東52-17)小代常勝家の初代。家紋は同上。

千場八郎右衛門は、(南東24-22)千場次郎家の6代目、玉名郡郡代を勤めた。家紋は「隅立角に蝶紋」「二つ丁子丸紋」

関根俊助は、(南東24-20)関根 左五郎家の4代・関根叢蘭 名は之玄、俊助と称す。武道諸技に通じ、刀剣甲冑陶器を自製し、
      キュウ工に巧なり。又墨蘭、隷書を善くす。家紋は「隅立平角に違い鷹の羽紋」

関野万悦は、「細川家家臣略系譜」に名前が見当たらない。家紋は「七宝に花角紋」

関 角之進は、(南東24-16)関 角三家の7代目・新左衛門(角之進)。家紋は「丸に隅立一つ目紋」
関 素兵衛は、(南東24-17)関 繁家の5代目、託麻・飽託・山鹿・山本郡の郡代などを勤めた。家紋は同上。

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■御侍帳・家紋から考える(64)

2022-12-03 07:19:54 | 家紋

                     

                             新・細川藩侍帳【ひ】の部

平井左大夫は、(南東53-6)平井太郎八家の8代目・左大夫(典助)。用人などを勤めた。前回(63)に登場した平井氏の一族、家紋は「陰丸に五つ木瓜紋」

平井伝十郎は、【丹後以来】(南東53-21)平井甚十郎家の8代目か。家紋は「隅立角に三つ引き紋」 

平山亘理は、(南東53-18)平山伊一郎家の5代目・藤五(亘理)。家紋は表示がない。
       このお宅の家祖は、豊臣秀吉室・高台院の兄・木下家定系の足守藩主・木下家の分家である。
       以前、この事実を発見して
細川藩士平山氏の出自は足守藩主木下氏を書いた。

平川伝左衛門は、(南東53-22)平川貞四郎6代目・傳吉(傳左衛門)、家紋は「鬼菊紋」?「亀甲紋」

平川丈助は、(南東53-17)平川弥丈家の5代目・名は惟延、武勇にして忠孝を心とし邊幅を修めず、気象灑然、桜花を絶愛し咲花居士と号す。
       頗る狂歌を善し、口を衝いて出づ。嘉永五年二月二十日没す。年七十八。家紋は「丸に■文字紋」「舵紋」

平塚孫四郎は、(南東53-15)平塚孫四郎家の7代目。家紋は「陰隅切り角に■■紋」

東 尉左衛門は、(南東53-12)東 太郎平家、同名名乗りのものが多く人物の特定に至らない。家紋は「六つ丁子紋」「蕨桜紋」

日隈助之進は、(南東53-8)日隈次雄家の7代目、北条流兵法師範を勤めた。家紋は「隅切り平角に浜洲紋」

樋口元貞は、御医師 (南東57-36 医)樋口立卓家の6代目、家紋は「壽文字紋」か

久武喜内は、(南東53-16)久武白川家の8代目、家紋は「三つ茶の実紋」「鬼浜洲紋」
       喜内の父が久武綺石 名は兼者、権之助と称し、致仕して綺石と号す。藩に仕へ小姓組を勤む。
       禄二百廿石。叉俳諧を善くし其流を汲む者頗る多し。  
久武太郎右衛門は、同上分家、(南東53-14)久武卓爾家の4代目大助(太郎右衛門)、家紋同上

久光八助は、(南東53-23)久光善太家の6代目、家紋は「丸に一文字紋」

東 英助は、(南東53-35)東 英四郎家の6代目か、家紋は「子持ち隅切り平角に丸紋」 

平野源左衛門は、平野甚兵衛家の6代目・源左衛門(甚兵衛長金)、家紋は「一つ左巴紋」

久野立玄は、御医師(南東57-34 医)久野主敬家の7代・太郎次(玄碩・玄立)。家紋については表示がない。  


        新・細川藩侍帳【も】の部

元田尉大夫は、【丹後以来】(南東24-7)元田貞太家の8代目・尉太郎(尉大夫・八右衛門)、家紋は「隅立角に登り藤紋」 

元田弥一兵衛は、【丹後以来】(南東24-7)元田岳人家の5代目。家紋は「隅立角に登り藤紋」「子持ち隅立角に剣唐花紋」

諸井景淳は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は不表示。

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■御侍帳・家紋から考える(63)

2022-12-01 08:44:09 | 家紋

                               一時不手際にて説明文が削除されておりました 。お詫び申し上げます。12:11再掲

                           

            新・肥後細川藩侍帳「し」の部

生源寺助之允は、樹下氏一族【青龍寺以来】(南東51-5)生源寺 市家の9代目・角平(助之允)。
     初代は田邊城に籠城した樹下大炊介である。家紋は「丸に山の字紋」「隅切り立角に左巴紋」 

庄村五郎右衛門は、【丹後以来】(南東51-9)庄(荘)村省三家の8代目・新平(五郎右衛門)か?、家紋は「四つ石紋」

重田九一郎は、御船頭 (南東58-22 船)重田九一郎家の6代目。家紋は「梅鉢紋」     

嶋永重蔵は、       不詳          家紋は「三つ菱紋」

            新・肥後細川藩侍帳「ひ」の部

平野九郎右衛門は、北條氏、相模二郎時行を遠祖とする(南東53-1)平野九郎太郎家、代々九郎右衛門の名乗りで人物の特定は出来ない。家紋は「三つ鱗紋」
平野七兵衛は、同上分家、(南東53-2)平野七角家の4代目、家紋は同上。
平野作大夫は、同上分家、(南東53-7)平野弥平家の6代目、作大夫(善左衛門)。家紋は同上。

平野太郎右衛門は、太郎左衛門の誤植か?、(南東53-13)平野 大家、代々太郎左衛門を名乗り人物の特定は出来ない。家紋は「陰隅切り立角紋」
平野軍次は、同上一族(南東53-25)平野嘉門家の4代目、家紋同上
平野太源太は、同上一族(南東53-20)平野甚九郎家の6代目、家紋同上
平野源吾は、同上一族(南東53-24)平野角蔵家の4代目、家紋同上
平野藤助は、同上一族(南東53-9)平野太郎四郎家の4代目。家紋は「三つ角紋」?  

平野十郎右衛門は、(南東53-19)平野膳内家の7代目・傳太郎(養子 十郎右衛門・十郎)。家紋は「蛇の目紋」  

尾藤多賀丞は、尾藤知宣の息を初代とする(南東53-3)尾藤閑吾家の7代目・波枝(多賀丞)。家紋は「違い鉞紋」「桔梗紋」 
      比着座、留守居番頭、番頭、佐敷番頭、留守居大頭を勤めた。

尾藤市左衛門は、同上分家、(南東53-4)尾藤九平家の8代目。家紋は同上。

尾藤九郎兵衛は、【丹後以来】(南東53-10)尾藤友雲家の7代目。家紋は「隅入り平角に六曜紋」  

平井貞之允は、(南東53-5)平井清九郎家の7代目で400石、何が理由か判らないがこの代に御家断絶10代目に至り再興し五人扶持、家紋は「丸に■文字紋」「五つ木瓜に桔梗紋」  
平井丹左衛門は、同族、(南東53-26)平井井平家と思われるが該当年代に名前が見えない。家紋は「丸に■文字紋」「竹輪に■紋」

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■「朱三」とは何・・?

2022-11-30 06:13:29 | 家紋

 先に■下津家-有吉家-加々山家を書いたが、これに関連する加賀山家の史料「奥田権左衛門家由来記」を過日図書館でコピーしてきた。
下津家女が三卿家老・有吉家の養女となり、加賀山家流奥田家に嫁いだが、5代目当主が家来を殺害して絶家となった。そのことを知りたいと思ったが故だ。
その他「加賀山家由緒略記」「加賀山氏画傳」も併せてコピーしてきたが、その一族でキリシタン(初代の長兄)として誅伐され殉教した加賀山隼人正興長などにも触れられている。
その隼人正興長の家紋は「隅立平角に三つ星」であることがスケッチされている。
                                                               
その後、奥田姓を名乗る家もでたが、この加賀山家の史料や、細川家の切支丹関係を詳しく調べられ、膨大な記録を上妻文庫として残された上妻博之先生は、この奥田家の血を受け継がれていることによる。 

 加賀山家に嫁いだ有吉家養女はこれらの記録からすると。隼人正の三弟・権左衛門家の3代目に嫁いでいるようだ。
三代目夫婦に就いて若干の記述がある。
2代目権左衛門には男子がなかったとあるが、3代目がどこから来られたのかは記されていない。
「岩越惣右衛門宅にて魚毒にあたり即死」とあるから、フグにでも当たられたのだろうか。
奥方は元文2年に疱瘡で死去されている。62歳。高麗門外長國寺に葬られたとあり、墓石には「紋は朱三と四ッ目結の二ッ付有之」とある。
四ツ目結紋は有吉家の定紋だが、前者の「朱三」で考え込んでしまった。これは難問である。

 「重三」という言葉がある。三つ重なり、つまり三月三日とか、さいの目二つ振ったらぞろ目になったとか、縁起が良いことに例えられる。
加賀山家の家紋の三つ星もそのような縁起を担いだものと思われるが、上記家紋からするとこの家紋を指していると思われるが「朱」がよく判らない。
まさか「朱」を「じゅう=重」と読ませての事ではなかろう。いつか長國寺に出かけて確認しなければならない。

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■御侍帳・家紋から考える(62)

2022-11-28 06:54:57 | 家紋

                                  
                                              新・肥後細川藩侍帳【し】の部

■白石又助は、(南東51-23)白石 忠家の4代目、家紋は「隅切り平角に三つ引き紋」

■白杉庄助は、(南東50-10)白杉(杦)少一家の、3代目少助、家紋は「丸に剣付片喰紋」「子持ち隅入り立角紋」

■白井紋右衛門は、「細川家家臣略系譜」に名前が確認できない。

■白井喜三右衛門
は、(南東51-17)白井喜三家、同名の人が二代続き人物特定できず、家紋は「毬挟みに右一つ巴紋」

■白木平右衛門は、白木五三家、同名人が多く人物特定できず、家紋は「隅立角に木の字紋」「揚羽蝶紋」
■白木貞七は、(南東51-13)白木弾次家の人物と考えられるが貞七の名前が見えない。家紋は同上

■志賀源右衛門は、(南東51-26)志賀平十郎家、同名人が多く人物特定できず、家紋は「杏葉紋」

■首藤才喜は、首藤十次郎家の6代目、家紋は「丸に■■紋」「梅鉢紋」

■重見仙右衛門
は、(南東51-27)茂見(木原)治三郎家、同名の人物が多く人物の特定が出来ない。家紋は「丸に桔梗紋」「子持ち隅切り立角に三文字紋」

■神西金右衛門は、(南東11-3 ち)神西敬三郎家の6代目、家紋は「鶴紋」「隅入り立垣に丸紋」

■城 権兵衛は、(南東51-14)城 市郎家の5代目か、家紋は「丸に高文字紋」「丸に大文字紋」

■城 茂一郎は、(南東51-15)城 安太家の6代目の茂三郎(誤植か)家紋は「丸に鷹の羽紋」

■嶋 又左衛門は、【丹後以来】(南東52-14)嶋 伸士家、殆どの人が又左衛門を名乗り人物特定できず。家紋は「五つ木瓜紋」  
■嶋 小右衛門
は、同上分家(南東52-15)嶋 庄作家。殆どの人が小右衛門を名乗り人物特定できず。家紋は同上

■嶋田正進は、(南東51-8)嶋田徳十郎家の5代目・八郎兵衛(嘉津次・正進)、家紋は「蛇の目紋」

■嶋田伝之允は、(南東51-3)嶋田九郎次家の3代目か。家紋は「丸に左巴紋」「丸に違い山形紋」

■樹下団之允は、【青龍寺以来】(南東51-6)樹下一平家の10代目、家紋は「桔梗紋」 

■下田才兵衛は、(南東51-24)下田源五右衛門家、5・6代目が同名で人物特定できず。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」

 

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■下津家の幕紋「錠紋」

2022-11-27 06:57:20 | 家紋

                                                           
    先に■御侍帳・家紋から考える(61)を書いた。ここに下津家が登場している。
そして「竜胆紋」と共に紹介されているのがこの家紋である。私は四冊の家紋関係の本を持っているが、いずれにも紹介はない。
これをみて即座に正解される方は相当の家紋通と言えそうだ。
正解は以前に書いた、■下津久馬殿・政之助殿で幕紋として紹介されており「錠紋」とあった。
偶然の事だが、一昨日は■細川家家臣「下津氏」「津田氏」「松山氏」「八木氏」系図をご紹介した。
そして11月15日には■下津家-有吉家-加々山家を書いている。
                                                                            
 下津家の祖としての棒庵という人物は、鹿苑寺金閣の僧侶であったがのちに還俗、加藤清正の熱心な乞いに応じて家臣となった。
その時期についてははっきりしないが、天正年間清正の書状として棒庵を「鹿苑寺殿」と呼ぶ書状が有り、深い交流があったことが伺える。
熊本城築城や城下町の形成に多大な尽力をしている処を見ると、慶長の初め辺りには熊本にも来ていると思われる。
先にご紹介した「御大工棟梁善蔵ゟ聞覚控」にもその名前が挙がっている。
その尽力に対して熊本城には「棒庵坂」の名が残った。一方清正亡き後の内紛の引き金となった「牛馬騒動」の発端を作ったのがこの棒庵であり、皮肉な事ではある。
慶長8年に死去しているが、加藤家没落の前年であり肥後国は細川氏が治めることとなった。
息・下津将監が細川忠利に仕えた。

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■家紋「折墨紋」

2022-11-26 15:51:26 | 家紋

                      

 随分以前私が書いた加藤清正の「折墨紋」、ある方が発見されてメールを頂戴した。
良く探し出されましたねと御返事をしたが、熊本城を訪ねられてどこかにないかと随分探されたらしい。
以前、この「折墨紋」が裃に描かれた肖像画を発見した???と、ある方が興奮気味にブログに書いて居られたのを思い出す。どうもこれは怪しい。
探して見たらまだ存在していた。ついに「折墨紋」の画像を発見!

 これを家紋として紹介しているサイトがあるようだが、いわゆる紋服に使用するという事があったのかどうか定かではない。
什器などの絵柄として使用されている。
お尋ねを頂いたのでまた陽の目を見た感じである。約7年前の手遊びである。

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■御侍帳・家紋から考える(61)

2022-11-24 13:10:03 | 家紋

                                 

                                                  新・肥後細川藩侍帳【し】の部

志水孫七郎は、(南東52-5)志水源八家の7代目、父は才助清冬、後治兵衛。藩に仕へ家老職となり、禄千五百石。宝暦の改革に力を致して
       其功著大なり。家紋は「林文字紋」

志水藤七は、同上分家、(南東52-6)志水三弥家の5代目。名は清穆。藩に仕へ食禄四百石、小姓役、郡代、用人、八代番頭、奉行職などを勤む。
       又学を好み大義に通じ武技に長ず。斎藤境野等の犬射を起すや與りて力あり。家紋同上
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志水新之允は、蒲生氏郷流
【青龍寺以来】志水伯耆清久(入道宗加)を祖とする志水一族5家の本家である。     
      (南東52-3)志水新九郎家の10代目・夘納(新丞)か。家紋は「   」「浜洲紋」 
■志水権之助は、同上分家、(南東52-7)志水隼太家の5代目・兵次(権之助)、郡代・用人・小姓頭など歴任。家紋は「   」「四つ浜洲紋」
志水流助は、同上分家、【青龍寺以来】(南東52-8)志水源九郎家の6代目、御歩頭などを勤めた。家紋は権之助家に同じ。 
志水九左衛門は、同上分家【青龍寺以来】(南東52-2)志水 凍家の5代目・九兵衛(九左衛門・武膳)、鶴崎・八代などの番頭を勤めた。家紋は「七宝紋」  
志水一学は、 (南東52-4)志水一太家の7代目・仙助(嘉兵衛・小左衛・一学)、家紋は「三つ七宝紋」「四つ浜洲紋」

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志方半右衛門は、
【丹後以来】(南東52-9)志方逸次家の10代目・蘭八(半右衛門)か。家紋は「矢筈」「三つ矢筈」
志方半兵衛は、同上分家【丹後以来】(南東52-11)志方仙太家の5代目・左内(半兵衛)。家紋同上
志方十兵衛は、同上分家【丹後以来】(南東52-10)志方軸人家の6代・又勝(十兵衛)。家紋は「四つ矢筈紋」
志方玄常は、同上分家 御医師 【丹後以来】(南東57-33 医)志方柳臺家の5代目。家紋は「三つ矢筈紋」  
志方小左衛門は、同上分家
【丹後以来】 (南東52-12)志方 半家の7代目。家紋は「四つ矢筈紋」
志方は、       名前の記載なく不明
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志賀太郎助は、祖は大友一族豊後岡城主の志賀氏、(南東51-19)志賀太郎家の7代目・太郎助親信。家紋は大友一族の「杏葉紋」「三つ引き紋」

下津久馬は、公家・久我右大臣道堅の三男・下津棒庵を祖とする(南東51-1)下津縫殿家、代々求馬を名乗り人物の特定は不可能である。
     家紋は「錠紋」「笹竜胆紋」

下河部熊之助は、(南東51-2)下河邊次郎太郎家の8代目。家紋は「丸に抱え柊紋」か?。

■下田万五郎は、(南東51-25)下田平三家の6代目。初代は忠利公に殉死した与左衛門正定。家紋は「井桁に一文字紋」

塩山孫大夫は、(南東52-18)塩山成海家の6代目・孫大夫(十内)。家紋は「六曜紋」
塩山仁左衛門は、同上分家(南東52-19)塩山騏三郎家、同名人が多く人物の特定が出来ない。家紋は同上

白石清兵衛は、(南東51-18)白石傳太家の6代目・右源(清兵衛・傳太)か。家紋は「亀甲に鷹の羽紋」

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■御侍帳・家紋から考える(60)

2022-11-19 07:22:22 | 家紋

                           

                新・肥後細川藩侍帳【み】の部

■右田庄之助は、(南東50-10)右田 徹家の7代目、弘化四年一月(小姓役)~嘉永五年八月(病死)用人。家紋は「丸に五つ木瓜紋」

■右田三郎助は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「丸に扇紋」
■右田源太郎は、             同上

■水野駒之助は、(南東50-18)水野 傳家の7代目・駒之助(善左衛門・久左衛門)。家紋は「寛永通宝紋」「細丸紋」■水野八左衛門は、(南東50-20)水野治平家の8代目・八左衛門(九左衛門)。家紋は「寛永通宝紋」「違い角紋」

■水野清左衛門は、(南東50-19)水野傳作家、5代・6代が同名で人物の特定が出来ない。家紋は「三つ二階菱紋」

■水野養庵は、御医師(南東57-29 医)水野大有家の5代目。家紋は「丸に沢潟紋」   

■水足勘助は、(南東49-20)水足勘十郎家の5代目・左太吉(左助・勘助)。寛政十二年八月(御側取次)~文化九年十二月 用人。
       家紋は、「隅切り平角に七宝紋」

■水足五郎兵衛は、(南東49-10)水足五市家の5代目、名は至房、黒石村の人にして、藩に仕へ物頭列となる。山林仕立方を以て功績あり。
       家紋は、「名前不詳」

■水谷数太は、(南東49-14)水谷三郎平家の7代目・数太(孫右衛門)。家紋は、「鉄炮角に三つ引き紋」「下り藤紋」  

■水橋五郎大夫は、御船頭 (南東58-18 船)水橋亥熊家の5代・もしくは7代目、同名で特定できず。
       家紋は、「丸に三つ引き紋」「木瓜紋」

■蓑田祐吉は、【丹後以来】(南東49-3)蓑田軍八家の10代目・祐吉(甚之允)。家紋は「矢筈紋」   

■美濃部亀平は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」

■三浦太郎左衛門は、(南東49-21)三浦九郎家の5代・もしくは7代目、同名で特定できず。家紋は「丸に三つ引き紋」

■三苫茂助は、(南東49-17)三苫苫三家の5代目、家紋は「隅切平角に丸紋」

■南 両右衛門は、(南東49-16)南 斎家の2代目。家紋は記載なし。

              新・肥後細川藩侍帳【し】の部

■清水縫殿は、細川綱利の生母・清光院の父・清水道是を祖とする、(南東52-1)清水九郎家の6代目か。4,000石、
       文化七年十二月~文化九年十二月 備頭大頭、文化九年十二月~文政五年一月 大御目付、文政五年一月~文政五年八月 備頭大頭を勤めた。
       家紋は「隅切り平角に井桁紋」

 

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■御侍帳・家紋から考える(59)

2022-11-17 07:19:28 | 家紋

                               
                                                     新・肥後細川藩侍帳【み】の部

溝口蔵人は、細川忠利室保壽院(徳川秀光養女千代姫)弟・小笠原忠眞家臣溝口美作貞康養子式部政房を祖とする、小笠原多宮家分流の
      (南東49-2)溝口三五家、代々が蔵人を名乗り人物の特定は出来ない。家紋は「丸に井桁紋」

宮村典太は、(南東50-3)宮村典太家の7代目。家紋は「隅切り立角に宮文字紋」。
       10代目同名半之允(典太)は、雑撰録、吹奇与勢、盤桓随筆、塩藻草など膨大な古記録を残した。
宮村新兵衛は、(南東50-4)宮村七五三家の7代目・久治(新兵衛・三之允)。家紋は同上。

宮部市郎右衛門は、【青龍寺以来】(南東50-15)宮部市象家の6代目、家紋は「隅立角に■■紋」
宮部久右衛門は、【青龍寺以来】(南東50-16)宮部玖一郎家の7代目、家紋は「丸に隅立角に■■紋」「違い角紋」

宮本伝右衛門は、【丹後以来】(南東49-5)宮本傳蔵家の5代目・傳太兵衛(傳右衛門)。天明四年~文化二年・各地郡代、~九年まで副奉行、
       九年~十一年迄奉行職を勤めた。家紋は「丸に片手蔓柏紋」「丸に隅立小角紋」  

宮本五郎助は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「蛇の目紋」

宮川金右衛門は、(南東50-5)宮川 仲家の8代・八郎兵衛(養子 金右衛門)。家紋は「丸に■■紋」
宮川幸之助は、同上分家、(南東50-6)宮川庄兵衛家の3代目。家紋同上
宮川九十郎は、同上分家、(南東50-8)宮川兵吉家の6代目か?家紋は「寛永通宝紋」「 同上 」

宮川加平太は、(南東50-7)宮川幹次家の6代目。家紋は「組み合わせ角紋」

■宮脇彦左衛門は、(南東49-7)宮脇源作家の6代目。家紋は「   」

■宮原平右衛門は、(南東49-11)宮原 平(ヒトシ)家の3代目・次郎大夫(平右衛門)か。家紋は「隅立平角に蔦紋」

■宮崎円次は、御馬方(南東59-22 茶・鷹・馬)宮崎敬次家で、5代・7代が同名で特定できず。家紋は「   」    

■宮前宗磧は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「   」

■南 彦兵衛は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「南文字紋」
■南 漸は、御医師(南東57-31 医)南 元方家の5代目・名は直、大方と称し、冠山と号す。軒技の術を修め當世に名あり。其の治療効験
      人口に膾炙せり。再春館句讀師より師役医学吟味副役より本役となる。天保五年九月朔日没す。年七十五。
      家紋は同上。 

■南 驪斉は、御医師(南東57-30 医)南 李斎家の5代目・名は棣、萬年と称す。村井家の出にして良庵の養嗣子となり、次局医員たり。
      浜町様(齊茲)の御匕役を勤めた。家紋は同上  

 

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■御侍帳・家紋から考える(58)

2022-11-12 08:53:48 | 家紋

                       

                                  新・肥後細川藩侍帳【ゆ】の部

■弓削平八は、(南東48-30)弓削 新家の7代目、番頭などを勤めた。家紋は「隅切り立角に風車紋」

■弓削勘十郎は、同上分家(南東48-31)弓削友助5代目。家紋は「隅切り立角に三つ星紋」  

■弓削太郎右衛門は、同上分家(南東48-32)弓削文吾家の9代目。「隅入り平角に■■文字紋」「隅入り平角に左三つ巴紋」

■湯池龍彦は、(南東48-33)湯地一二家の6代目。家紋は「丸に■■紋」「   」

■幸(ゆき)円助は、(南東48-34)幸 準蔵家の3代目・圓助。家紋は「隅入り立角に三つ星紋」

                                  新・肥後細川藩侍帳【み】の部

■宮島丈助は、(南東49-22)宮嶋平三家の2代か。家紋は、「隅切り平角に左二つ巴紋」

■三渕栄次郎は、細川幽斉実弟・長岡伊賀守好重を祖とする(南東49-1)三渕永次郎家の10代目・永次郎・澄瑞(実・八代澄盈子 志津馬・十左衛門)
      5,000石で備頭大頭・中老などを勤めた。家紋は石に鶺鴒紋「撞木十字紋(桛久留子)紋」 

■三宅栄蔵は、明智光秀の女婿・弥平太秀満(明智左馬之助・光昌)を遠祖とする、初代はガラシャ夫人の甥・藤兵衛、(南東50-1)三宅平太郎家の8代目・英蔵。1,500石で番頭を勤めた。家紋は「丸に三つ引き紋」「剣細桔梗紋?」  
■三宅八郎右衛門は、同上分家(藤兵衛二男家)、(南東50-2)三宅新十郎家の8代目。家紋は「丸に三つ引き紋」「隅切り立角に丸に三つ引き紋」?

■三野嘉右衛門は、(南東49-6)三野新弥家の6代目・次郎(嘉右衛門・四郎左衛門)。家紋は「五ケ木瓜に左三つ巴紋」「隅立平角に竜胆紋」

■三池善大夫は、(南東50-13)三池丈平家の7代目・貞八(善大夫・仁左衛門)。家紋は「組み合わせ角に杏葉紋」
■三池源十郎家は、同上分家(南東50-14)三池丹治家の6代・勇之進(源十郎)。家紋は「隅切り立角に杏葉紋」

■三牧小仲は、(南東49-12)三牧孫七家の5代目。家紋は「隅切り平角に■■」

■三井新助は、(南東49-9)三井弥内家の5代目。家紋は「隅切り平角に梶の葉紋」

■三浦新五兵衛は、(南東49-4)三浦平衛家の6代目・大八(新五兵衛)。家紋は「丸に三つ引き紋」

■三重平大夫は、(南東49-8)三重 茂家の初代が平大夫を名乗っているが、該当年代に該当者がいない。(再考)
      家紋は、「隅切り立角に二つ石紋」

 

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