八七六
一濱町様當春被遊御出京、夫より御國え御下り、暫御逗留 濱町様→細川齊茲のこと、隠居後は少将様と呼ばれていたが
被遊候筈候、依之御下國之節少ニても御出方輕様被遊度 濱町屋敷に居住しており、後濱町様と称した。
思召ニて、可被遊御船中旨被仰出候處、御病後之御事ニも
被為在旁以御船中之儀は太守様甚御不安心ニ被思召上、
中國路御旅行之儀強て被遊ぶ御願候付、其御旨ニ被任、中
國路被遊御治定候、尤所持彌以御手輕被遊筈候、此段為
被奉承知申達候條、觸支配方えも可被申聞置候、以上
文政三辰二月十一日 御奉行中
一濱町様御國許御湯治御暇之御願書御差出被置候處、太守
様正月廿六日依召御登城被遊候處、御湯治被仰出、巻物
御拝領、先月廿ニ日江府可被遊御發駕旨被仰出候段御判
來有之、奉恐悦候、此段觸支配えも可被相知候、以上
三月朔日 奉行所
一四月十四日植木より御着、本山御屋形、尤此節御目見麻
上下着之段達有之候事
八七七
口上書
一嘉千代様先月十九日被成御逝去候、依之御國中被數十日
諸事穏便可仕旨、従江戸被仰下候條奉得其意、繕仕事は
來ル七日迄可被相止候、此段觸支配方えも可被相觸候、
四月三日 奉行所
嘉千代様御逝去ニ付、御國中諸事穏便ニ可仕旨、御觸ニ
相成候通ニ候、依之御家中幷町在共吹貫竿等立候儀は用
捨可有之事候得共、猶為年一統可及達旨候條、左様可被
相心得候、以上
四月三日 御奉行中
八七八
口上書
一本山御屋形外御圍、御堀端四方下馬下乗可被仕候、尤家
來末々迄堅可被申付候、此段觸支配方えも可被相達候
以上
文政三辰四月十二日 奉行所
八七九
口上書
一長岡圖書殿隠居刑部殿病氣之處、養生不相叶今夕死去ニ 長岡圖書→細川刑部家8代・興礼か?
て候、依之明日諸事穏便相心得、觸支配方えも可被達候、
以上
四月廿一日 奉行所
八八〇
一濱町様御出之節幷年頭御禮等之儀、此前之御在國之節之
通達有之候事
八八一
一太守様益御機嫌能被遊御渡海、去ル九日大里御着、來ル
十五日植木より熊本御着座之段、御達有之候事
御川支ニて同十七日、御着座ニて候事
八八二 コノイ
一清心院殿病氣之處、養生不被相叶去六日死去之段申來 清心院→細川重賢側室・此井(細川治年・生母)
候、依之今日より比數三日諸事穏便相心得、觸支配方え
も可被達候、以上
六月廿二日 奉行所
八八三
一本山御屋形御近火之節、太守様御出之節御道筋左之通
表御門より木村次郎左衛門屋敷前通・再春館前・慶徳
堀・長六橋・本山御屋形表御門
右之通ニ付、一統為心得可及達置旨、御用番被申聞候條、
左様御心得、觸支配方えも可被相達候、以上
文政三辰七月廿五日 御奉行中
八八四
一濱町様、白河筋ニて長六橋下縄場等漁為御覧、有折被遊
御出筈ニ付、聲取坂下船渡場二十間上より本山村船渡場
下迄之間、當月より九月中網漁留被仰付、杭木をも被建
置筈候
右之通一統可及達旨候條、左様相心得、觸支配方へも可
被相達候
八月十九日 御奉行中
八八五
口上書
一於宇土細川哲之允殿病氣候處、養生不被相叶今晝死去ニ 細川哲之允→宇土細川家6代・興文の五男・興章(濱町様細川齊茲・実弟)
付、今日一日諸事穏便可仕旨被仰出候、尤太守様・濱町 一時期朽木家の養子となるが病気のため実家に戻る。52歳。
様來ル十二日迄御忌中ニ付、其内は諸事慎可被罷在候、 太守(齊樹)からすると叔父にあたる。
此段觸支配方えも可被達候、以上
九月三日 奉行所
八八六
一武具見分之儀、當年より以前之通見分可致との儀、去年八
月申達置候處、年内御用多日短ニも有之候ニ付、御家老中
は來春以後御用之透々、追々ニ見分有之筈ニ候間、拙者共
儀も右之通相心得可申旨候條、左様可被相心得候、以上
文政三辰十月晦日
八八七
一御切米取両先渡之儀、是迄假切手渡候處、當重場前渡よ
り本切手を以被渡下候條、切手仕出様之儀は御勘定所承
合有之候様可被相達候、以上
八月廿三日
八八八
一金銀之儀元文之度吹替之儘ニて、小判・壹歩判は先達て
吹直し被仰付候處、銀之儀も年を經候ニ付、折銀・焼
銀等之儀は追て可及沙汰候、右之趣國々えも可觸知者也
六月
一右之銀同七月廿日より引替被仰付候、銀座等引替之達、
此口貮歩判同断