津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(278)寛永五年・日帳(四月九日~十日)

2020-06-30 14:11:19 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正四月)九日~十日 

         |
         |    九日         
         |                           (菊野)
         |一、阿部主殿ものニ、御飛脚一人付、石見へ可遣由、一昨日伊織助方ゟ被申越ニ付、御船ニて被遣候
         |  哉、又便船ニ而被遣候哉、如何可申付哉と、塩津三人を以、伊織方へ相尋候ヘハ、主殿もの次第
         |  ニ可仕候、いかよう共被 仰付無之由、被申ニ付、御小人壱人、主殿もの引合申候事、
龍王ノ石川里兵衛 |一、宇佐郡龍王ニ居候石川里兵衛ニ、今日ゟ十人ふち被遣候、則 御印出申候を、里兵衛ニ頂戴さ
ニ十人扶持ヲ給ス |  せ、豊岡甚丞へ 御印渡申候事、
入牢ノ弥へ投薬 |一、下毛郡ノ弥薬を、北村作雲薬を取ニ遣、則御籠へ持せ遣候事、
大工新兵衛子初見 |一、大工新兵衛子千徳、今日 御目見え仕候事、
中津ニテ演能ニツ |一、今度中津ニ而御能御座候ニ付、御折廿被進之候、此御奉行ニ、吉谷平太夫・速水長三郎両人申
キ折ヲ進上ス   |  付、加々山主馬方へ引渡申候事、
三斎ト継飛脚ノ往 |一、三斎様ゟ次飛脚にて、御書被進之候、則 御返書出申、次飛脚にて、持せ遣申候事、
返        |

         |
         |    十日         
         |
         |    (長元)
小笠原長元忠利ノ |一、小笠原備前殿、去年被仰請候 御袖判請届戻上可申との、備前殿請状ニ、我々裏判有之を、御袖
袖判ヲ請戻シ上ゲ |                    〃
御印ノ段     |  判請届戻上、則 御前ゟ被成御出シ候をうけ取、 御印之段ニ入置候也、 御袖判御やふり被成
忠利袖判ヲ破ル  |    〃
         |  候をも、同前ニ入置候也、
走リシ小者ノ取替 |一、岩男嘉入小者、去年江戸にて走申候、就夫、かの請人ニ御乗物かきノ内立申候、右小者取替米之
米ノ返弁済サズ  |  儀ニ付、去年江戸以来、嘉入ゟ御乗物かきの頭衆へ色々理申候へ共、于今埒明不申候間、竹原小
請人乗物舁へ弁済 |  太夫ニ如請状、急度可被申付通申渡候、御国之御法度之儀ニ候間、左様ニ無之候ヘハ、さたのか
ヲ命ズ 国ノ法度 |  きりにて候間、可申上通申渡候事、
         |一、門川阿心被罷下候事、
鍋島勝茂へ端午ノ |一、肥前へ端午之御帷持参仕、歩之御小性松岡九太夫也、
祝儀ノ帷子    |
在郷ヘノ賜暇願  |一、宇野五郎左衛門儀、十四五日ノ逗留ニ在郷へ参度由被申候、可被参由、申渡候事、
忠利ノ陣鎌ノ鞘小 |一、御陣かまの■さや壱つ、白井兵介所ゟ持せ差上、御小早之内を御掃除申付候処ニ、御小早之内ニ
早ニ遺留     |                                 さや
         |  御座候由にて、差上被申候、則皆川治ア丞を以差上申候、 殿様之御かまにて有之由、治ア被申
         |  候事、
         |

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■女優・鶴田真由のご先祖様

2020-06-30 07:35:31 | 歴史

 NHK「ファミリ― ヒストリー」の前宣伝で、女優・鶴田真由のご先祖様が「新選組」の隊員だったとのことで、昨日の本放送を拝見した。
父方は臼杵藩で遠見番を勤める侍だったらしい。藩の機密事項を知り殺されたというが詳細は不明だそうな。
二人の男子は出奔、別府へ出てのちには網元となり成功し、代が変わると旅館業で成功し地元の有力者となったらしい。

母方のご先祖様に桑名藩の公用人を勤めた森弥一右衛門(陳明=つらあき)が後に函館新選組に加わつたという。
公用人時代の京都での活躍を示す資料が一瞬画面に見えて、思わず「あっ」と声をあげてしまった。
高祖父・上田久兵衛が京都留守居時代、各藩の留守居や公用人が一堂に会して宴を張っている図である。

    

 一瞬のことで定かではないが、左の方に二人立っているどちらかが弥一右衛門である。(左の白羽織の人)
久兵衛はというと右のほうに裸で立っている肥満の男がそうである。これには驚いてしまった。
久兵衛は公武合体派の会津・桑名藩との接触は日常茶飯のことであったらしく、彼の伝記ともいえる宮地正人編の「幕末京都の政局と朝廷」をみると、弥一右衛門の名前が日記の記載や書簡のやり取りなど、人名索引に56回も登場している。
弥一右衛門は捕えられ投獄されると、藩主に罪が及ばぬよう一身に罪を受け処刑された。
嫡男は森姓を名乗るのを憚り「若槻」を名乗ったという。その子は三木太郎と名付けられているが、森の姓を想い「三木(森)太郎」としたのだという。
この人が吉村家の養子となりその孫が真由さんの母親である。父方・母方とも波乱万丈の幕末・明治期を過ごされている。
しかしそんな境遇に立ち向かい夫々が凛とした生き方をされ、真由さんに結実しているように思える。

 上記の絵のどちらの人物が弥一右衛門であったのかを確かめるため、再放送を見てみようと思っている。
幕末・明治の回天期、心ならずもともに罪を得て死んだ弥一右衛門や上田久兵衛の霊安かれと願うばかりである。

               

~ 
         
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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(43)

2020-06-30 06:24:26 | 史料

       

                                  

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■昭和28年水害の写真

2020-06-29 09:01:04 | 古写真

 史談会の若い友人中村君は師匠ともいうべきDr高田先生の遺品の整理に力を尽くしている。
数万枚ともいわれる写真やネガもその中の一部だが、今となっては貴重な史料だ。
その中から昭和28年当時の水害の写真を送ってくれた。
Drのクリニック兼住居は、通称「歩小路」、現在の南坪井4丁目にあったが、昭和28年当時どこにお住まいであったかは承知していない。
                  久留米大学の医学生でたまたま帰省中だったらしい。(24歳)
この当時は高校生ではなかったかと思われる。上の写真には橋の上を路面電車が走っているのが見える。大甲橋だ。
だとすると、手前の橋は安政橋だろう。
上流側から撮影すると、大甲橋を奥にしてこのように至近に橋が重なって写ることはあり得ないから、下流側から撮影されている。
また上の写真の下に見える建物は、下の写真の上の方に写し込まれていて写真が縦方向に繋がっていることが判る。
そして安政橋は流失しているから、大水害直前の撮影であろう。撮影場所はこれも流失した銀座橋の上からだろう。

白川の河川敷には当時この様なバラックが多く建てられていたが、これらも全て押し流された事は間違いない。
終戦から8年という時期、それぞれが必死に生きていたころ、自然は無情にも大きな試練を与えた。

私と同じくらいの子供たちの姿が見える。自分の姿を見る思いだ。無事で有ったろうか。
カンナの花が咲いている・・・・・暗くて淋しい見ていて辛くなる風景だ。

                

                

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■細川小倉藩(277)寛永五年・日帳(四月六日~八日)

2020-06-29 08:30:56 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正四月)六日~八日 

         |
         |    六日         
         |
         |               古保、松井興長室、三斎女)    (南条元信室、細川興秋女
忠利東茶屋ニテ古 |一、今日は、ひかしの御茶屋にて、御こほ様、御かね様、おなへ様被成御振舞候事
保かね鍋三人ニ振 |                     筑紫重門室、細川幸隆女
舞ウ       |
                                                                            南条元信
                                    ‖
                                                +-----興秋---------なべ
                           |
                           | 松井興長
                           |  ‖
                           +-----こほ
                           |
                  +----三齋忠興-----+----忠利
                  |        |
                  |        +---- 
                  |           ‖
                  |          烏丸光賢
                  |
                  +-------  幸隆 ---------- かね
                              ‖
                             筑紫重門
         |
佐藤久右衛門発狂 |一、宇佐郡之御郡奉行衆ゟ被申越候ハ、佐藤久右衛門尉狂気被仕、昨日女房衆と下女壱人さしころし
刃傷放火シ切腹ス |  被申候、又主小者壱人・魚住木工百性之小者壱人つき被申、手負居申由候、其身ハ家ニ火をか
         |  け、腹をきり被相果候、子供両人ハおもてにふせり居、火事出来と心得、はしり出候ニ付、何事
         |  も無之由、被申越候事、
         |         (金太夫)(吉右衛門)
金山ノ様子ヲ奉行 |一、小山之様子尋ニ、春木・沢治所へ之状、上林甚介与之新介ニ持せ遣候事、
ニ尋ヌ      |
         |一、上方ゟ御小早下り申候、御船頭は福嶋八兵衛也、先度大坂御普請ニ、被成御上せ候御年寄衆へ
忠利東花畠ニアリ |  御書被成候、其御請持下申由、被申候事、右之御請とも、ひかしの御花畠ニ被成御座候ニ、すく
         |  ニ持参仕由申候事、
長崎へ蜜蜂請取ノ |一、岡田■茂兵衛、長崎へ明日ミつばち取ニ被遣候、罷戻候時、海上二日参候へとの儀ニ御座候由、
帰路ヲ急ガシム  |  被申候、成ほと急キ可被申由、申候事、
         |

         |
         |    七日         
         |
         |             (塩田)
佐野某捕縛町籠ニ |一、佐野九兵衛と申もの、浜助ニとらへさせ、町籠ニ入置候事、
入牢       |
忠利佩刀ノ鑑定ニ |一、御腰物御わきさし・御太刀ノ身調ニ、竹や喜兵衛被遣候、御横目ニ宮部権三郎可被遣候との 御
竹屋ヲ遣ス    |  意之由、喜兵衛申候、則権三郎をよひ、申渡候事
         |      (恵重)(豊後速見郡)
木下延俊ヘノ使者 |一、先度、志水新丞日出へ御使者ニ被遣候時、日出にて小袖壱つ拝領仕由、被申候事、
大工脇差ヲ進上ス |一、大工之新兵衛上申候わきさし、今日熊谷九郎兵衛を以、 御前へ上申候、わきさし上申子細、則
ソノ理由ヲ尋ヌ  |  九郎兵衛を新兵衛やとへ被遣、被成 御尋候事、
         |

         |
         |    八日         
         |
宇佐善光寺ノ茶屋 |一、上野文左衛門、うさ善光寺の御茶屋繕仕廻、罷帰由にて、登城仕候事、
修繕完了     |
佐野某捕縛ノ様子 |一、佐野九兵衛をとらへ申候時ハ、先兵助取付申候処ヲ、田辺作介左ノ手ニ取付由、其後松岡久左衛
         |  門与之池部七兵衛と正斎と取付申候、其後上林甚介与之田崎與兵衛取付申候由、田辺作介と池部
         |  七兵衛、此両人申候事、
         |                      (北村)
入牢ノ百姓病ニ薬 |一、下毛郡伊原村之弥市煩申ニ付而、御くすしの作雲明日脉ニ被参候、左候而、今晩薬を遣被申候
師派遣      |  事、
佐野某成敗    |一、佐野九兵衛御成敗被 仰付候事、
         |                               壱歩二つ
買物奉行町ニテ壱 |一、壱歩判弐つ、坂崎一角所ゟ御かり被成候を、則買物奉行町ニ而、〇拾四匁宛ニかい候而、上ヶ候
歩判買入ノ価   |  を、御銀奉行ニ、徳永市兵衛ニ相渡申候事、
銀奉行      |
         |  (大里、規矩郡)
忠利大里辺ニ鹿狩 |一、内裏ノわきの山ニ鹿弐つ見こめ有之付、被成 御座候事、
り        |
         | 烏丸光賢室、三斎女供之者・御扈従与也「藤」三百石(於豊前小倉御侍帳)
烏丸万ヲ出迎   |一、御様御迎、小崎四郎左衛門被遣候、下津井ニて、当五日ニ懸 御目、直ニ中津へ御使ニ被遣
         |  ニ付、中津へ参、中津ゟ罷帰候事、
鹿狩不猟莵ヲ獲ル |一、右分ニ御鹿狩ニ被成御座候へ共、鹿一つも居不申ニ付、被成御帰候、うさき大小三つ、被成御取
         |  候事、
         |   (宇治屋)                                         小倉北区馬借一丁目4番、
宇治屋茶助歿ス  |一、うちや茶介今夜相果申由、上林甚介申来候事、但、茶介つね/\泰岩寺たんなの由ニ而参候つる
泰厳寺      |  間、右之寺へ、桶ニ入、可遣由申候、又茶介銀子少在之通、やしないむすこ申候間、是も相当可
         |  遣由申候、其分可然由申候事、
         |

                

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■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 36(原文42分)

2020-06-29 06:34:48 | 史料

42           一大坂ゟ左門殿忰御下候を伊豆殿被仰候ハ百生
           と申候ても身を捨たる物ニて城をもこしらへ
           居申候を不見して是ゟ之御差圖御無用
           御着之上見及御談合ニて可然様ニ可被仰付
           と被仰候へ共左門殿忰を御下候由申候事
          一左門殿爰元ニても一くわはして見せたてと
           被仰せ候へ共伊豆殿被仰候ハ左様ニしてミはた
           多被打候ヘハ異国まて之御外聞如何ニ御座候
           と被仰候由申候 何事ニ而も伊豆殿被仰候に
           遊申由申候事
          一薩广之御人数天草へ壱万五千に而渡り申
           筈之由申候 嶋原へも御人数渡候へとの儀ニ
           御座候は御息式ア大夫殿壱万五千被召連御
           渡海之はすと申候 嶋津下野も上使衆へ之
           御使ニ一両日中ニ嶋原へ着被申由三原左衛門佐
           被申候 左衛門佐 上使衆之前ニて申候ハ薩广ゟ
           打立申候ヘハやらふやらふニて御座候故下知法度を聞
           不申所めいわくの由申ニ付 上使衆も嶋原へ

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■細川小倉藩(276)寛永五年・日帳(四月四日~五日)

2020-06-28 15:29:13 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正四月)四日~五日 

         |
         |    四日
         |
         |     (規矩郡)
忠利鹿狩     |一、今日門司山へ御鹿狩ニ被成御座候、
         |                                     (浅山)
池田忠雄ノ飛脚ニ |一、松平宮内様ゟ御文箱壱つ、飛脚持参候事、此飛脚ニ銀子一枚被遣候、御使ハ修り、
銀子ヲ給ス    |
鹿狩ノ獲物四   |一、今日ノ御狩ニ、鹿四つとれ申候、内男鹿二、女鹿二つ也、四つ共ニ皮をはかせ、弐つ分は明寰ニ
肉ハ明寰三官ニ賜 |                         (八木) 医師并伽之者 百石(於豊前小倉御侍帳)
与ス       |  可遣、弐つ分ハ三官に可遣、はらごミハ子袋共ニ慶閑ニ可渡、ふくろづのハ、きりて上ヶ候へ
腹籠ハ医師ニ渡ス |  と、被仰出候事、
         |           (尾カ)
鹿頭袋角睾丸等ヲ |一、慶閑申候ハ、鹿頭・ヲ・ふくろつの・腹籠・きん、此分を取、慶閑ニ請取置候へとの 御意
慶閑ニ請取ラシム |  旨、慶閑被申候事、
         |                  (へ脱)
兎ハ隼ノ餌    |一、うさぎハ隼ノ餌に可成候間、山本二介可渡由、慶閑を以被 仰出候事、
         |                                   (白井)(鏡)
六十丁立ノ伝馬舟 |一、六十丁立之てん舟ま舟・九端帆・五疋立之御馬舟、新敷作り申度由ニ而、兵介・善右衛門書付を
九端帆ノ船五頭立 |         〃
ノ馬船新造ノ忠利 |  上申候処、作り可申由、 御自筆之御裏書出申候を、此方に取置、兵介に 御意通申渡候事、
自筆ノ裏書    |

         |
         |    五日
         |
         |一、野原善太郎、今朝下着被申候事、御船頭ハ石井又左衛門也、
小笠原長元請戻セ |一、小笠原備前殿、去年被仰請候 御袖判御請戻候て、今日之便宜ニ、式ア少殿へ被成御下候由に
シ袖判ヲ届ク   |  て、式ア殿被成御持参候、請取置申候事、
玖珠郡年貢ノ大豆 |一、玖珠郡御年貢大豆・小豆、山移ニ津出仕置候を、今月十五日ゟ内ニ、上毛・下毛・宇佐郡ゟ御
小豆ノ山移ニ中津 |  郡夫にて、中津へ津出可被申付通、ふれ状を調、玖珠郡ゟ参候百性ニ遣候事、
へ郡夫ニテ津出シ |
         |一、右備前殿被仰請候 御袖判、飯田才兵へ・奥村少兵衛を以、相渡申候事、
小遣方ノ銀買懸ノ |一、小遣方ノ御米銀、かいかゝりの分、深野二郎右衛門・栗野伝介・金子喜左衛門惣談にて、御米銀
分ノ払ノ惣談   |       〃
         |  にて急度被相払筈ニ、相究候事、
小人長柄持筒草履 |一、今度御小人・御長柄・御筒持、御さうり取衆ニ、もめんニて道服単物そめ被遣、御奉行富田十太
取ニ木綿道服単物 |  夫与大久保太左衛門・同与村上伝左衛門申付候事、
ヲ染メ着用セシム |
築城郡上毛奉行花 |一、沢少兵衛所
ゟ、花色々持せ被上候、御用ニ御座候は、ほらせ上可申由、被申上候、則吉田古平を
ヲ種々進上シ移植 |  以上申候処ニ、よく持せ上候、併、此方ニたくさんニ御うへさせ被成候間、不被為入旨被 仰出
ノ可否ヲ伺ウ   |  候事、
ソノ要ナシ    |
         |                    (野原)
家具入ノ長持下ル |一、御家具十五人前入申たる長持三つ、今日善太郎持下候、則熊谷九郎兵衛を以、懸 御目申候処
木綿袋ニ入レシム |  ニ、もめんにて、それ/\ニ袋を申付候へと、被 仰出候事、
植毛ノ虎皮ノ鞍覆 |一、うへ毛ノとらのかわの御鞍おゝいも持下被申候事、
         |                                      (政直)長崎代官・貿易商
長崎へ蜜蜂ヲ求メ |一、長崎へ、ミつはち取ニ被遣候歩之御小性、もとり被申候、かちにてハ成申間敷通、末次平蔵所ゟ
         |                       (成政)
小早ヲ遣ス    |  申越ニ付、又小早を遣可申旨、 御意之通、坂崎清左衛門被申候事、
唐人ノ少峯蘭進上 |一、少峯所ゟ蘭一鉢上申候、道倫取次、上被申候事
         |

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■沢潟

2020-06-28 07:08:40 | 徒然

                   

 一昨日近所の園芸店でメダカのために「アマゾンフロックピット」とか、「ウォーターコイン」という水草ミニポットを購入した。
一気にビオトープがにぎやかになった。

ビオトープ用には「うりかわ」が沢山出ていたが小さな株が1,000円弱で店頭に並んでる。
我家にはいま「うりかわ」の本家筋の「沢潟(面高)」が写真のような具合で成長している。
10年ほど前家紋の「沢潟」のデザインのすばらしさをブログに書き、栽培したいが球根が園芸店では手に入らないことをぼやいたら、東京のT Y様がわざわざ送ってくださった。(当時Amazonで簡単に購入できることに気づかなかった・・・)
以来この時期になると、このように一斉に芽を出す。
不思議な形の葉っぱだし「沢潟」という字面も不思議ではある。どう考えても日本語的には「沢=おも、潟=だか」とは読まない。
しかしなんとなくそんな場所に植生している事は伺える。これは中国由来のネーミングのようだ。
日本の「面高」も判らぬではないが、何やら面白くなく、「おもだか=沢潟」が格調高くていいようだ。
そのうちに「うりかわ」同様、可愛い花を付けてくれることだろうと思っているが、少々栄養不足が心配。
めざし」を1本埋めておくと良いとの事だったが、最近「めざし」は食べないからな~

 

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(42)

2020-06-27 20:32:44 | 史料

               

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■一休み

2020-06-27 14:44:35 | 徒然

              

 今日の熊本は一日雨模様らしい。未明の雨はまさにバケツをひっくり返したようなもの凄さ、朝方はやや落ち着いていたが、私が散歩に出ると途中で大雨、折りたたみ傘が役に立たないほどの風雨+雷でずぶぬれになってしまった。
そんな中我家のベランダに来客あり、6㎝ほどの「カミキリムシ」である。
雨と風の中、コントロールを失ったのだろうか。しばしの休憩といった風情である。
今又激しい雨が降り出した。ベランダを覗いてみるとカミキリムシは挨拶もなしにお帰りになったようだ。

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■細川小倉藩(275)寛永五年・日帳(四月朔日~三日)

2020-06-27 06:43:13 | ご挨拶

                      (寛永五年正四月)朔日~三日 

         |
         |    朔日
         |
         |一、生源寺市兵衛被申候ハ、岩崎五郎介儀、明日親知行所へ罷越、万事こしらへ罷出度由、申通被申    
         |  候、一段可然由申候事、
         |  (米田是季)    (長元)     (沼田延之)     (元五)
諸方へ書状    |一、長岡監物殿・小笠原備前殿・長岡勘解由殿・志水伯耆殿へ 御書箱壱つ、
大坂城普請奉行へ |
         |         (職直)
         |一、御書箱壱つ、榊原左衛門殿へ、
         |一、御書箱壱つ、生嶋玄番殿へ、
京三人衆へ    |一、御書箱壱つ、小野九右衛門・佐藤少三郎・黒川甚左衛門かたへ、
江戸留守居へ   |一、御書箱壱つ、松野織ア・小篠次大夫・町三右衛門所へ、
         |   以上 御書箱五つ、堀平左衛門・岩崎太郎兵衛ニ渡候、
         |  右之 御書共、幷大坂・京・江戸へ、我等等ゟ遣状も何も相渡候、又女も弐人つれ上り被申候、
         |  田中忠介・荒木兵四郎も同船に而上り被申候事、
嶋正次へ借用ノ唐 |一、嶋又左衛門ゟ、御絵本に唐ゑ五枚御かり候を、両人ゟ書状相添、返し申候、慥弐請取候由、又左
絵ノ見本ヲ返却ス |  衛門方ゟノ返事見届申候、
         |   (延俊)
木下延俊ヨリノ書 |一、木下右衛門大夫様ゟ御文箱参候を、式ア殿ゟ持遣、被差上候を、永良長兵衛を以上ヶ申候、則
状        |           (直正)
         |  御返書出申候、寺本八左衛門与有永少九郎弐持せ、式ア少輔殿へ遣候事、
         |       (屋脱)
百姓科人ヲ宿セル |一、上毛郡犬か岩村之三郎左衛門、中川内膳殿御内中川加賀所へ御詫言に付、今度科人ノ宿仕候へ
モ赦免サレ口入ノ |                 (坂崎成政) (松井友好)  
礼二中川加賀へ参 |  共、御免被成忝由申候而参候二、清左衛門・宇右衛門所ゟ状遣候返事取、三郎左衛門帰候事、 
ル        |
         |  (規矩郡)
漁猟中腐リ米ヲつ |一、東長浜之れうニ参、米一俵つき出申候、併、くさり米之由、如何可仕哉と被申候、下直ニ成共、
き出ス  浦奉行 |  うり付可被申由、百留忠左衛門ニ申渡候事、
ニ下直ニ払ハシム |
         |

         |
         |    二日
         |
         |一、入江勘三郎儀、此中相煩居申候由、金津助二郎を以、被申聞候事、
出府ニ付無利子ノ |一、堀平左衛門・岩崎太郎兵衛・田中忠介・荒木兵四郎、江戸へ被遣ニ付、当年当り前之米銀利なし
米銀貸付ノ切紙  |  ニ被借遣とのきりかミ、上林甚介与ノ池内勘介ニ持せ、彦・甚所へ遣候事、
         |
三斎へ進上ノたて |一、三斎様へ被進之御用ニ、たてかい三十ほと被取上候へと、百留忠左衛門ニ申渡候へ共、西平松ゟ
貝        |  廿一はい持来候、則熊野平左衛門ニ渡させ申候事、但、四はいハ悪敷ニ付、もとし候て、十七は
         |  い中津へ上ヶ候由、永良長兵衛被申候事、
使ニ食ヲ給サル  |一、西沢文右衛門与手嶋作兵衛、中津へ御使ニ遣候処、よい朝共ニ御めしを被下候由候事、
         |

         |
         |    三日
         |
忠利有吉英貴邸ニ |一、今朝ハ頼母殿へ被成 御成候事、
臨ム       |
         |                   (松井興長)(津川辰珍)  (出田)
本丸ニテ晩ノ数寄 |一、今晩ハ御本丸ニ而被成御数寄候、人数式ア殿・四郎右衛門殿・采女・松や九郎兵衛之由申候
         |  事、
         |
鷹師姉病死ニ賜暇 |一、御鷹師冨田彦右衛門姉、石見国浜田ニ御座候つる、彼姉病死仕由申来候間付、御暇被申上、昨日
願        |  九日之書付ニ、今日 御印被成下候、明日可被参由、野村吉兵衛取次ニ付、松崎弥兵衛被罷帰
         |  候、此段吉兵衛ニ被申候而可給由、申遣候事
三上宗於後家ノ上 |一、三上宗於後家京へ上り申度由被申上、則 御印出申候、かへ切手相調、藤田宗利ニ渡申候、宗利
洛願       |  請人ニ被立ニ付、如此候事、
         |
 

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■御侍帳・家紋から考える(18)

2020-06-26 17:31:33 | 家紋

                                                 久しぶりに「御侍帳・家紋つき」を取り上げます。

             

■片山寛助の名前は「片山傳四郎家(南東16‐15)」の6代目寛助(傳九郎)である。 家紋は「五つ鐶に左巴紋」
■片山九郎兵衛は「片山一千家(東南17‐21)の7代目か。100石の外、御役料100石ともある。
 家紋は「    」
■片岡吉之丞は、「片岡宗善家(南東16-14)」の7代目、「御知行被召上候・文化五年十二月十九日」という記事が残る。 家紋は「糸輪」もしくは「細輪」である。
■片山文寿は代々の医家である「片山三哲家(南東56-9 医)」の7代目、「外様御医師触役」を勤めた「本道」の医師である。家紋は「井筒」
■神谷十兵衛は「神谷矢也家(南東19-2)」の6代目である。
家紋は「    」今一つは「下り藤紋」
■神足(こうたり)格介は青龍寺以来の「神足勘十郎家(南東18-6)」の5代目である。
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔とされ、その家紋は「丸に隅立て井桁紋」であるが、肥後神足氏は嫡家をおもんばかって、「石持隅切り平角、切り抜き丸に隅立て井桁」としている。今一つは「石持隅立て角、切り抜き丸に入れ子菱」である。 
■神足又兵衛は同じく青龍寺以来の神足家本家筋である「神足少五郎家(南東18-5)」の6代目左源次(又兵衛)である。
家紋は同上。
■神山忠兵衛は「神山 譲家(南東17-4)」の8代目・又彦(忠兵衛)で菊池郡代、野津原・鶴崎郡代などを勤めた。
家紋は「隅切り平角に桔梗」?

■鎌田軍助は「鎌田 泰家(南東18-8)」の6代目で1,100石取の大身である。
家紋は「抜梃子釘抜」今一つは大変珍しく家紋名はよく判らない。
■鎌田勇は「鎌田源次郎家(南東18-10)」の6代目で、御番方・遠藤関内組 百五十石。
家紋は「三つ輪違いに串」?
■鎌田左一兵衛は「鎌田平十郎家(南東18-9)」の6代目、左一兵衛(新兵衛)で御側御取次 百五十石外百五十石御足。
家紋は「隅立て子持ち角」
■河方宇太夫は「河方九平家(南東19-11)」の8代目・安大夫(宇助)だと思われる。(宇ー安の誤植か?)五百石
 文化六年二月~文化十年十月 用人を勤めているが、その祖は従五位下・松下民部少輔述久であり、三代目半四郎から河方を名乗る。
家紋は「丸に松皮菱」
■河喜多 

                        妙見龍王城預
    ガラシャ夫人殉死         飯河豊前誅伐仕手・討死          
 河北石見---+---藤平(石見)--- +--五郎左衛門 ---+--助兵衛 ・・・・・・・・・・・・・・・・ →(列蔵家)
      |         |        | 
      |         |        +--勘左衛門 ・・・・・・・・・・・・・・→(助三郎家)
      |         |        |
      |         |        +--角左衛門   ・・・・・・・・・・・・・・→(一二家)
      |         |
      |         +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(和学家)
      |         (父)石見相果候砌出生仕候  熊本城源之進櫓に名を遺す 
      |  細川休無忠隆家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出                               
      +--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ →(治部右衛門家)

河喜多九太夫は【青龍寺以来】「河喜多治部右衛門家(南東18-12」の7代目・九大夫か、御鉄炮廿挺頭六百五十石、
 寛政五年正月(三拾挺頭)~寛政十年八月(依願免)鉄炮五十挺頭
 家紋は「丸に中柏」及び「一文字紋」である。
河喜多郡兵衛は同じく【青龍寺以来】「河喜多列蔵家(南東18-13)」の 11代・浅右衛門(郡兵衛)御側御鉄炮十五挺頭・御中老支配 二百石
 家紋は「丸に中柏」は一族の共通紋、今一つは「丸に花形釜敷紋」か?。
河喜多一太夫は【青龍寺以来】「河喜多助三郎家(南東18-14)」6代目・一大夫(藤平)二百石当時百五十石
家紋は「丸に中柏紋」
■河喜多角太夫は【青龍寺以来】「河喜多和学家(南東18-16)」の7代目である。2代・源之進(角太夫)が熊本城に「源之進櫓」の名を遺した。
家紋は「丸に中柏紋」もう一つあって「轡紋」(キリシタン由来か?)
■河喜多角左衛門は【青龍寺以来】「河喜多一二家 (南東18-15)」の5代・式九郎(角左衛門)又は 6代・角助(角左衛門)いずれか断定しがたい。
家紋は「丸に中柏紋」
■河部仙吾は「河部章十郎家(南東17-8)」の 4代目・仙吾で百五十石・内五拾石御足高 学校方御奉行所触・時習館訓導(文政三年・士席以上名録)、いわゆる「河部仙吾事件」の被害者である。
被害者ではあるが事件により時習館訓導を罷免された。
家紋については不詳
■川添傳之允は「河添猛家(南東17-7)」の 5代目・傳之允 御備頭御留守居大頭組御小姓頭支配御奉行触物頭列・薮組
 百五十石内五十石御足高 剣術居合師役并組付師役
家紋については不詳
■河田平吉は「河田和気太家(南東16-17)」の養子で5代・平吉(南可愛)
家紋は「丸に違い鷹の羽」
        

 

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■「熊本大水害」67年前の今日

2020-06-26 14:50:33 | 熊本

 昭和28年6月26日、私は小学六年生・10歳でしたがまさに命を拾った運命の日でした。
数日続いた雨は急激に白川の水位を押し上げ、御昼過ぎには緊急下校の措置が取られました。
私は、出水校区から越境入学、1時間以上かけて帰宅してしばらくすると床下に水が入り始め、思わぬスピードで水位が上がり避難できなくなりました。
白川のあちこちの堤防が決壊、熊本市の6割強が被害を受けました。
我家は床上6尺鴨居の上まで水位が上がり、水没状態で財産のほとんどを失いました。
命あっての物種と云いますが、母は19年夫や舅姑の三人の葬式を出し、終戦を迎え、ホッとしているときにこの仕打ちですから、相当のショックを受けたようです。
我家の前の二三軒の家は流失しました。翌日水が引いた跡には、清らかな湧水がコンコンとわきだしているのを見て、涙したことを思い出します。
まさに町の名前の「出水」を思い知らされました。

学校では多くの同窓生が亡くなり又未だに行方不明者がいます。
その年の9月大江小学校の校庭の「おおえのき(大榎)=大江の木」の下で慰霊祭が行われましたが、数年前台風の被害であの巨木が倒壊してしまいました。
学校に電話を入れお聞きしたことが有りますが、今では慰霊祭のようなものも行われてはいないようです。
今日は先程から、熊本日々新聞社の「熊日写真ライブラリー」で当時の写真を眺めて居りました。
改めて幼い命をなくした同窓の人達を偲び我家の仏壇に手を合わせました。

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■細川小倉藩(274)寛永五年・日帳(三月廿八~廿九日)

2020-06-26 06:53:35 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正三月)廿八~廿九日 

         |
         |    廿八日
         |
         |    大里
、規矩郡
忠利大里ニ赴キ花 |一、今日ハ内裏表へ、花幷御路地石為被成 御覧被成御座候事、
幷路地石ヲ見分  |
         |       有ア(ゆうべ)  (重政)
逸レシ巣隼ヲ探索 |一、御巣隼一居〇それ候て、続亀介うへごミニかゝり居申候を、御中小性衆十人斗たつねさせ可申
セシム      |    (三淵之直)
         |  旨、左膳殿事ニ而被 仰出候ニ付、申ふれ、今朝未明ゟ出し見せ申候処、又からす弐つより候
         |  て、うミノ方ニつきをとし申候、其後うミ方へ舟を廻申候へ共、一切見え不申由候、いよ/\た
         |  つね可被申由、申渡候事、
         |一、深野二郎右衛門快気仕由ニ而、登城被仕候事、
         |一、山崎伝左衛門も快気仕、登城仕候事、
         |      (米田是季)
逸レ巣隼ヲ居上グ |一、右之御鷹長岡監物殿やしきニ而、すへ上ヶ申候事、
         |                                       (可政)
長塩源太郎切米  |一、長塩源太郎御切米之儀、江戸ゟ 御印無御座候て、御切米不相渡由、申来ニ付、加々山主馬方へ
         |                                   (松野親英)(町)
         |  も切かミを以相尋申候処、登城候て、直ニ被申候ハ、江戸御上洛之前之夜、織ア・三右衛門被
         |  得 御意候ヘハ、源太郎儀ハ仕着せニ而、御台所食、又小性小者ノ為給分、拾五石宛可被遣旨、
         |  織ア・三右衛門ニ被 仰渡を、慥聞申由、被申候事、
         |
鉄炮足軽百人召抱 |一、上林甚介、■今度百人抱申候御鉄炮衆百人ノ内、林甚右衛門と申もの■ノ北方ニ而すへ上候由ニ
逸鷹ヲ居上グ   |  
鷹匠預リノ鶴   |  而、はいたか一居すへ来候、則横沼権八をよひ、見せ申候処ニ、上野太郎兵衛預ノ御鷹ノ由申候、
         |  則様子申上げ候事、よくすへ上申由、被 仰出候事、九郎兵衛を以申上候処、右之 御意ニ候事、
         |

         |
         |    廿九日
         |
忠利谷助兵衛邸ニ |一、今朝ハ谷助兵衛所へ被成 御成候事、
臨ム       |
大坂ヨリ音信ノ覚 |一、大坂ゟ田辺長介罷下候事ニ、持下物之覚
         |            〃
         |     (直時)
         |  一、嶋田越前様ゟノ御返書 一通、
         |     (秀成)
         |  一、生嶋玄番所ゟ言上状 一通、
         |    みぼく
茶師上林味卜書状 |一、上林味卜所ゟ、 三斎様へ差上ノ文箱、持せ差上ヶ申候事、
門番駕舁ノ女房ヲ |一、中嶋御門番ノ女房・御乗物かき助五郎女房、江戸へ被遣ニ付、闕所ノ内ニ女房ノ道具有之分ハ遣
江戸へ遣ス    |  申候、今一人煩女房ハ残シ置申候事、
闕所ノ女ノ道具ヲ |
与ウ       |
筑前ノ人質    |一、八木吉右衛門尉子を筑前へ人質ニ取参候時、境目へ参候物共ノ書物、式ア少輔殿被懸 御目候
         |  処、二郎左衛門・三右衛門・久右衛門ヲ呼寄せ可申旨、被 仰出候付、五郎右衛門・半左衛門・
         |  清兵衛ニ被 仰渡候、つれニ参候事
         |一、岩崎太郎兵衛・堀平左衛門・荒木兵四郎・田中忠介、四人明日江戸へ被遣ニ付、 御前へ被 召
出府ニ付貸米無利 |  出、四人共ニ当御借米利無之ニ被借遣との 御意、奉道倫、其上皮道服壱つ宛被遣候、内忠介斗
子  皮道服賜与 |  とろめん也、
サル 兜羅綿   |

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■肥後の手永と村(4)宇土郡

2020-06-25 16:16:53 | 史料

                                       熊本藩領・手永図

宇土郡

 1、松山手永(手永会所・松山村)
   ・大江村 ・大見村 ・松合村 ・永尾村 ・高良村 ・御領村 ・柏原村 ・小曽部村 ・伊無田村 ・下松山村
   ・松山村 ・堺目むら ・善道寺村 ・古保里村 ・立岡村 ・曽畑村 ・三日村 ・佐野村 ・上古閑村 ・布古閑村
   ・岩熊村 ・馬瀬村 ・大松原村 ・小松原村 ・江部村 ・築籠村 ・城神山村 ・馬場村 ・笠原村 ・下網津村
   ・上網村 ・笠原村 
  宇土町並 ・下町 ・新町

 2、郡浦手永(手永会所・郡浦村)
   ・手嶋村(本村、底江村)・里浦村(本村、御家、古場)・郡浦村(山田、船津、馬場、打越、矢嶋)・中村(金桁、小田良)
   ・前越村(本村、新地)・戸馳村(本村、内潟、田井浦)・波多村(浦、古永、塩屋、宮崎、際崎)・三角村 ・大田尾村
   ・赤瀬村 ・下網田村 ・戸口浦村(東寺登、引花、田平)・網田村(上床、西原、辺田、塩原)
  御給地村 ・長浜村(本村、浦、笠瓜) ・恵里村 ・椿原村 ・飯塚村 ・神はら村 ・栗崎村(打越村)・浦上村
  宇土御領村 ・網引村(小舟、白鹿、猪伏、馬立、迫)・城塚村(本村、中尾、新村)・下新開村(本村、今村)
        ・新開村(本村、中島)・伊津野村 ・鶴見塚村 ・下恵里村 ・長崎村 ・下椿原村(和田、寺尾、泰雲寺、宮庄村、三蔵谷)
        ・神山村 ・石橋村 ・下長崎村

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