津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御鷹の餌

2017-03-31 07:12:49 | 徒然

 昨日自衛隊前の桜並木を散策していたら、数羽の鳩が盛んに餌をついばんでいる。
自衛隊と「桜」「鳩」、なかなか平和的な画ではないか。 

ものの本によると、上級武士のお遊びの鷹狩の鷹の餌は「鳩」であったようだ。
鷹匠は藩主に近侍するために、随分いばりくさっていた。
鳩は何故か作り酒屋に群れていたらしく、お餌差しの連中は作り酒屋の床に網を張って鳩を捕まえようとしたらしい。
困り果てた酒屋はこれを「止めて」もらえるよう藩に申し出、町奉行からもその旨の沙汰があったらしいが、聞く耳持たずで止むのも一時期の事であった。
いつの時代も横車を押す連中はいるものだが、鷹匠のご威光はいかんともしがたいものがあったようだ。

 

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■祖父雄山

2017-03-31 06:59:11 | オークション

                  途中、祖父雄山・・・・、あとわからず、105cmx14.8cm

 昨晩運よく落札した書状だが、誰が何方に宛てたものかもわからない。名前は両方とも写真ではカットされている。
興味は文中に見える「祖父雄山」の文字である。先に書いた「■定彦さん、順養子なるか・2でご紹介した書状の写真の中に、「雄山」の名前があり、これが如何してもわからなかったのだ。
米田家の何方かの隠居名だと推測しているのだが、さてこの書状は回答をくれるのだろうか。

 

 

 

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■図書館ではなく・・・本屋へ行く

2017-03-30 17:15:46 | 書籍・読書

         

 今日は暖かくて良い天気になった。自衛隊前の600mに及ぶ桜並木のつぼみの按配は如何と、ちょいと確認に出る。
一本の木に五輪でしょ・・・もう開花ですね。ここは歩行者天国になるのでさぞ賑わうことになるだろう。

ふと本屋さんが近いことに気づいて方向返還、ここで藤沢周平の「一茶」を見つけて購入。
私は田辺聖子の「ひねくれ一茶」を所蔵しているが、これが558頁の大部だがなかなか面白く読んだ。読み比べてみようという魂胆である。

つまり図書館へは行かず、そのまま帰宅と相成った。明日は雨らしい、図書館行きはいつのことになりますやら。 

 

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■松寿庵先生・第230講

2017-03-30 14:38:06 | 史料

                          外国人が見た幕末・明治の日本

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■綱利生母清高院没す

2017-03-30 10:20:44 | 歴史

細川綱利の生母・清高院の親について綿考輯録は、「たいこう(太閤)のそうせふ(曾祖父)様御内ニ而内海但馬と申候、此そうせふの儀ハ只今之広橋大納言殿御舎弟ニ而御座候」とし、於豊前小倉御侍帳においては父親・清水道是について「五十石 京都浪人御客分 清水大納言」とする。細川家家臣・清水氏
慶安三年肥後下向とあり、清高院の出産後のことである。道是の子・勝昌は合力米五千俵の御大身で御家門に連なった。(後御家門から外れた)

細川綱利の生母・清高院は、宝永七年三月二十九日死去江戸池上本門寺に埋葬された。
とかくの噂がある人物だがあまり芳しいものではない。92歳の大往生であり、清高院の晩年にあたって綱利はその病状を気遣い帰国を止めたり引き延ばしたり、再三掟破りをしている。正室ではないため細川家墓所には埋葬が許されなかったが、池上本門寺の墓所は代々の藩主夫人のお墓が見劣りするような、見事なお墓である。綱利公はマザーコンプレックスだったように思えてならない。
 

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■熊本県立図書館・再オープンに・・・

2017-03-29 19:51:39 | オークション

 今日は熊本県立図書館再オープンの日、午後からちょっと顔を出してみようと自転車で出かける。
1キロも走らぬうちに小雨が降りだした。このまま行くか帰るか思案して雨宿りできそうなところを見つけるがない。
公園の大きな樹の下にしばらくいて、帰ったがよさそうだと引き返す。
すっかり濡れネズミになって大くしゃみを連発、背中がゾクゾクしだして季節外れの暖房を入れる。
実は一昨日も同様のことをやらかしている。そして帰り着くと同時に雨は上がり、何とも間が悪い。
明日はどうやら天気も回復しそう、桜の開花状況も気になるので改めて出かけましょう。
 

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■熊本藩の社会と文化 「八代古文書の会会報」1~50号合冊 蓑田勝彦

2017-03-29 07:31:02 | 書籍・読書

熊本藩の社会と文化 「八代古文書の会会報」1~50号合冊  

価格(税込):¥6,480    熊本藩の社会と文化 「八代古文書の会会報」1~50号合冊  蓑田勝彦 

内容詳細

江戸時代の熊本では、「富講」=宝くじが大流行!藤崎宮など領内各地で富講が興行され、一等は1000両、今でいえば1千万円以上の賞金が出されていた!熊本藩で行われた銭貨を「匁」単位であらわすナゾの通貨制度=「銭匁勘定」を初めて解明!江戸時代の武士の身分は、基本的に知行取・中小姓・軽輩の三つに分けられていたことが判明…。多くの“めがね橋”を造った名工=岩永三五郎が最後にかけた“めがね橋”は、万葉集で知られる和歌の浦(和歌山市)の「不老橋」だった!藩の筆頭家老で知行3万石、八代の殿様=松井章之の自筆の江戸旅行日記をそのまま紹介、江戸で生活した住居の図面の掲載。

目次 : 鹿子木量平について(永青文庫「先祖附」による年譜)/ 細川幽斎画像の作者について/ 鹿子木量平と八代海の干拓新田/ 熊本藩の武士身分について(その2)/ 江戸時代の庶民と旅/ 熊本藩の御用絵師=薗井家について/ 熊本藩の「寸志」知行取(その2)/ 百姓の農業経営は原則赤字?/ 江戸時代の落し物について、御用絵史=薗井家について(補)/ 「八代の殿様」松井章之の江戸旅行日記(安政3年)〔ほか〕

(「BOOK」データベースより)
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■伊藤比呂美著「切腹考」

2017-03-28 18:39:05 | 書籍・読書
  切腹考
 伊藤比呂美
  文藝春秋

内容説明

鴎外を読むことが、生きる死ぬるにつながるのである。かつて切腹のエロスに魅せられた詩人は鴎外に辿り着く。侍たちの死生観をさぐりつつ語りなおす「阿部一族」。日本語を解さぬ夫を看取りながらの「ぢいさんばあさん」。誕生、離別、天災…無常の世を生きるための文学。

目次

切腹考
鴎外先生とわたし
どの坂もお城に向かう
先生たちが声を放る
弥五右衛門
マーマイトの小瓶
普請中
ばあさんとぢいさん
ヰタ・リテラーリス
山は遠うございます
隣のスモトさん
阿部茶事談(抄)
ダフォディル
地震
(森林太郎トシテ死)

著者紹介

伊藤比呂美[イトウヒロミ] 
1955年、東京都生まれ。78年、『草木の空』でデビュー。80年代の女性詩ブームをリードする。97年に渡米した後、熊本に住む両親の遠距離介護を続けていた。99年、『ラニーニャ』で野間文芸新人賞、2006年、『河原荒草』で高見順賞、07年、『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』で萩原朔太郎賞、08年、紫式部文学賞を受賞。15年、坪内逍遙大賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社内容情報

切腹のエロスに魅せられた詩人が『阿部一族』を自らの声で語り直しながら伴侶を看取るまで。熊本と異国の空を結ぶ新たなる文学誕生「世の中に切腹愛好家多しといえども、実際に生の切腹を見たことがある人は

なかなかいないだろう。わたしはそのひとりなのだった。」(本文より)



かつて切腹のエロスに魅せられた詩人は?外に辿り着く。

侍たちの死生観をさぐりつつ語りなおす「阿部一族」。

日本語を解さぬ夫を看取りながらの「ぢいさんばあさん」。

離別、誕生、天災……無常の世を生きるための文学。



熊本から異国の空へ、

新たな代表作の誕生!

伊藤 比呂美[イトウ ヒロミ]

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■上質厚紙・正保3年(後書)丹羽亀0、長岡勘0より長岡佐渡、監物様へ、途中殿様江戸後…と書付1枚、包紙と添書

2017-03-28 17:33:12 | オークション

     上質厚紙・正保3年(後書)丹羽亀0、長岡勘0より長岡佐渡、監物様へ、途中殿様江戸後…と書付1枚、包紙と添書 

                    上質厚紙・正保3年(後書)丹羽亀0、長岡勘0より長岡佐渡、監物様へ、途中殿様江戸後…と書付1枚、包紙と添書

 上妻文庫に「丹羽亀丞言上書上書」という三齋公亡き後の八代の動向の報告書がある。丹羽亀之允言上之覚・・扣

この文書もまさにその一部だと思われるが、上記報告書には記載がない。特に重要な内容にも思えないようで記載がないのかもしれない。
三齋公の生前の意を受けて、家老の長岡河内などが本藩の意に添わぬ独自の行動を起こし、若い藩主光尚は八代の動向を逐一報告させている。
その役目を負うたのが丹羽亀丞である。
 

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■定彦さん、順養子なるか・2

2017-03-27 10:09:59 | 歴史

 書き出しにある「朽木家の血脈」がどうも理解できないでいる。
「典禮殿御兄弟幷定彦方江有之之由」とあるが、典禮を名乗る人は松井分家(古城家)で二代・周之と六代義之、その子七代・武の三人である。
この書状は文化十二年のものであるから、典禮は義之であろう。
義之の実父は四代・賀之、賀之は松井本家の弘之(七代豊之の末弟)の嫡子であり、朽木家の血脈を伺わせるものがない。
朽木家の系図を詳細に眺めていると、朽木家六代昭直の女が七代昭恒と松井賀之に嫁いでいる。どうやら「朽木家の血脈」は女系に依っているようだ。

典禮=義之だと仮定すると、彼に弟がいるはずなのだが系図には見受けられない。ましてや定彦なる人物も典禮とどういう関係なのかが見えてこない。

この問題の発端は朽木内匠が義弟(先代の実子)定彦を順養子にしようという話である。
私は文化十二年に朽木家の当主であったと思われる昭久を内匠と比定した。ところが系図には定彦の名前が見えない。
思いあぐねた私は、昭久が当主になるまえに朽木家に入っていた、宇土細川家八代当主立之の伯父・昭信(左膳)についても当たってみた。
しかし、曾孫の国麿が朽木家に入ったという事実はあるものの、定彦に関係する情報はない。

ところが思いがけないところで定彦の名前を見つけた。
もうだめだと思いながら「細川藩・主要家臣系図」をぱらぱらめくっていたら、なんと細川刑部家の嫡流六代興彭(細川重賢弟)の分家筋の二代目に朽木定彦の名前を見つけた。
「某・朽木定彦 長岡定彦 与三郎 文政八・十名跡相続 七百石 中着座同列 番頭 用人 大目附 中老職 文久ニ・六没(64)」とあった。

調べ物は偶然を伴うことが良くある。まさにこの例もそうであった。「快感」としか言いようがない。
この書状の結果はすっかり見えてしまったが、後につづく書状の部分もまたご紹介しながら楽しんでいただこうと思っている。
 

 

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■ご同慶の至り

2017-03-26 21:40:16 | 徒然

 大相撲春場所の千秋楽は、稀勢の里の痛々しい姿が見ておれずTV観戦は止そうと思っていたが、時間が近づくにつれて負けてもいいから健闘をたたえようと思いスウィッチを入れた。本割で勝って、ご苦労さんここまでやればもう十分と一度は思ったが、決定戦も奇跡が起こるかもしれないと祈る気持ちで観戦。
照ノ富士も固くなったのだろう、足が痛んでいたのかもしれないが鋭さが伺えない。
よし勝てると確信、すばらしい勝利の瞬間は奥方と二人手をたたいて大喜び、偉大な勝利を祝福した。名実ともに日本の名横綱が誕生した。
全国津々浦々大歓声が響き渡ったことだろう。まことにご同慶の至りである。
我慢という言葉が死語になりつつある昨今、たゆまぬ努力がこのような大輪の花を咲かせることを改めて知らされた気がする。
モンゴル勢三横綱にも力の衰えが見えてきた相撲界、稀勢の里の時代がしばらく続くことだろう。
今日は焼酎の量が少々多いが、酔いそうにもない。 

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■お花見を兼ねてお出でまっせ

2017-03-26 11:20:13 | 展覧会

                         パンフ両面 - コピー.jpg

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■松井分家(古城家)・三渕家・郡家の複雑な養子話

2017-03-26 09:39:38 | 歴史

 先日のブログ「■定彦さん、順養子なるか」を書く中で、上妻文庫の「肥後風刺文学」中にある記事のことが頭をよぎった。
それがこの記事だが「定彦さん」とは少々時代が異なるが、全く関係ないとも言えない。
細川家血縁のお宅の縁組に関わる複雑さが透けて見える。
この記事の内容は、郡織衛の二男・衛三郎が松井家の分家の松井典禮の養子になっていたが、典禮の死後は典禮家は、衛三郎が居るにもかかわらず松井土岐に相続せられ、「衛三郎は侮られた」というのである。土岐は松井本家七代豊之の末弟である。
土岐の実兄直武も養子で郡家の三代当主、郡衛三郎の父親である。土岐と衛三郎は「叔父・甥」の間柄となる。
そこで落書が出回った。
     四千石(松井家の家禄)ゑ さむらうとはきょくもなや じつにまつゐ(松井)の とき(土岐)もあらふに 
そして松井家で「侮られた」衛三郎は又々三渕志津摩の養子にせられた。
松井家は四千石だが三渕家は五千石である。「被仰付」とあるから、衛三郎の養子先の変更には藩主(重賢)の意向が働いている。

松井家は忠興公の末子・寄之が興長の養子となって、細川家の別家のような存在である。典禮は分家(古城家)の二代目である。
三渕家は幽齋公室・麝香夫人の実家、郡家は三渕家の分家筋である。

五千石三渕家の養嗣子となった衛三郎は家督未相続のまま21歳で亡くなっている。 

 

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■「土佐の龍馬肥後の小楠」展

2017-03-25 09:27:19 | 展覧会

                         土佐の龍馬、肥後の小楠

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■定彦さん、順養子なるか

2017-03-25 08:04:29 | 徒然

 先日ヤフオクで一通の文書を落札した。これは長岡(米田)監物から三渕永次郎・松井典禮・坂崎忠左衛門に宛てた書状の文案らしい。
控書に「 文化十四年七月十日典礼へ差越扣」とある。出品された折の紹介写真から、某家の養子話のもつれらしいことが推察された。
下世話な話が大好きな私にとっては何とか入手したいと思い、頑張って落札した。
米田家に関する書状類が大量にオークションにかけられているが、代々家老を務められた家であり、公私さまざまな文書が見受けられる中、
今回落札した書状はまさに「私」の部分で、養子縁組や婚姻による複雑な家の成り立ちを窺い知ることができる。
かなりの長文で読み下しには相当な時間がかかるが、順次ご紹介できたらと思っている。

「定彦」なる人物が主人公だがこれが何方かとんと判らない。
内匠なる人が言うには、定彦を順養子にすることで内決したが本人が「得心無之」、隠居の方からも「追々勧メ」たが同様だというのである。内匠とは文化十四年の朽木家の当主であれば八代・昭吉だと思われる。この人物は婿養子であり実は長岡(松井)営之の末子である。隠居とは七代当主で養父の昭恒、この人も養子で郡織衛の四男である。
「順養子」とは 弟が実兄の養子となること。また、その養子。
       2 ある家の養子となった者が、その家の弟を自分の養子とすること。また、その養子。
つまり朽木昭吉(内匠)は養父の実の子である弟に跡を継がせようと考えたのであろう。実父である隠居も説得したが得心しないというわけである。そこで長岡監物にも直に諭して欲しいというわけである。
ところが「細川藩・主要家臣系図」で朽木家の系図をみても、この「定彦」なる人物が見受けられない。
但し、同じく養子で病身のために実方に引き取られた細川和泉守伯父「昭信(左膳)」と、「某・右七郎」という兄(これは七代の実子らしい)が記載されている。

内匠昭吉は八代・長岡(松井)営之の末子だが、松井家分家五代当主・直記も営之の子であり、いろいろな人間関係が複雑に入り混じっている。

次の項の書き出しには「朽木家之血脈者典禮殿御兄弟并定彦殿方江有之由・・・」とあり、どう展開していくのか興味が尽きない。 

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