津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■花園祐氏の「甲斐宗雲」

2019-09-30 11:59:15 | 人物

 主君のために息子も殺す!甲斐宗運の忠烈無比な生涯」という、花園 祐氏(中国在住ジャーナリスト)の一文が 「JBpress」のサイトで紹介されている。
いつまでYahoo画面に掲示されるか判らないので、消される前に当ブログでご紹介しておこうと思う。(その節は同上サイトへどうぞ)

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 筆者の学生時代、ある日、友人とNHKの大河ドラマで誰を主役にしたら面白いかという議論をしたことがあります。お互いひと通り候補を挙げた後で、友人が「僕、甲斐宗運(かい・そううん)だったら全話録画して見るよ」とポツリと呟き、「俺も」と筆者がうなずいたところで議論は決着をみました。

【表を見る】甲斐宗運が粛清した人物のリスト

 甲斐宗運とは、戦国時代の九州肥後(現熊本県)に勢力を敷いた阿蘇家の家老で、政治に外交に軍事にと三面六臂の活躍を見せた、文字通り阿蘇家の柱石となって支えた武将です。また、その忠義ぶりには狂信的なものがあり、他家へ内通(敵に味方の情報をもらすこと)した実の息子を誅殺するほどでした。

 そこで今回は、熊本県民と、筆者を含む某歴史シミュレーションゲーム経験者以外にはあまり知名度が高くないと思われる、甲斐宗運の忠烈無比な生涯について紹介しましょう。

■ どの戦でも鮮やかな勝ちっぷり

 甲斐宗運こと本名、甲斐親直(かい・ちかなお)は、阿蘇家重臣の甲斐親宣(かい・ちかのぶ)の子として1508年(もしくは1515年という説も)に生まれます。父の親宣は、阿蘇家が兄・惟長(これなが)と弟・惟豊(これとよ)の間で当主の座を巡り御家騒動が起きた際、惟豊を支えて当主の座に就けた功によって阿蘇家家老となった人物でした。

 この父の後を継いだ親直の名が歴史の表舞台に出るのは1541年、薩摩(現鹿児島県)の島津家に内通した阿蘇家家臣・御船房行(みふね・ふさゆき)の討伐戦でした。阿蘇家家老として御船家の居城、御船城を攻め立てた親直は巧みに敵軍を打ち負かし、首謀者の御船房行を自害させることに成功しました。

 この功によって親直は、阿蘇家からそのまま御船城の城主に任じられます。またこの頃に出家して、「宗運」と名乗るようになります(以下、「宗運」で統一)。

 それから少し時を経た1546年(時期については異説あり)、今度は宗運の娘婿でもある隈庄守昌(くまのしょう・もりまさ)が、島津家へ内通していたことが判明します。この報を受けるや宗運は、相手が娘婿だろうがお構いなしに攻め立て、3年後の1549年には居城の隈庄城を攻め落として守昌を一族もろとも誅殺しました。

 どの戦でも鮮やかな勝ちっぷりであったことから宗運の武名は轟き、他家からも大いに恐れられ、島津家からは「宗運がいる限り、肥後への侵攻はできない」とまで評されたと言われます。後にこの言葉は、そっくりそのまま現実となるわけですが。

■ 息子であっても誅殺

 この時期の九州地方では、肥前(現佐賀県)の龍造寺家、豊後(現大分県)の大友家、薩摩の島津家の三強が勢力を競う状況にあり、その他の諸勢力は三強のいずれかの傘下につくことで存続を図っていました。特に阿蘇家の地盤である肥後は、ちょうど三強に挟まれた地域であっただけに、各勢力からの肥後国人への内通工作は盛んに行われていたといいます。

 大友家寄りの外交を続けていた阿蘇家内部でも、こうした内通工作が頻繁に起きていました。そして内通が発覚する度に、宗運は相手が旧知の間柄であってもことごとく誅殺することで、阿蘇家内部の動揺を抑え続けていました。

その厳しさは、身内であろうと容赦がありませんでした。ある日、宗運の息子(次男、三男、四男の3人)が他家への内通を図っていたことがわかります。その際に宗運が取った処置とは、まず次男を誅殺し、逃げようとした三男も追って殺し、なんとか追手を免れた四男だけが落ち延びられたそうです。

 さらにはこの苛烈な処置に恐怖し、父を排除しようとした長男・親英(ちかひで)も、宗運は捕縛し、そのまま処刑しようとしました。ただ周囲から「嫡男なんだし」と止められたことで、二度と逆らわないよう誓わせてから許しています。

■ 島津の北進に対抗

 三強が拮抗していた九州地方でしたが、1578年の「耳川の戦い」で大友家が島津家に大敗して以降、パワーバランスは大きく崩れ始めます。大友家の肥後への影響力が弱まったことで、1580年には隈部親永(くまべ・ちかなが)をはじめとする龍造寺家、島津家寄りの肥後国人が連合軍を組み、大友家寄りの阿蘇家へと襲いかかってきました(且過瀬の戦い)。

 しかしこの戦いにおいても宗運率いる阿蘇家は、果敢にも降雨中に川を渡って相手の意表を突き、見事大勝利を収めています。

 しかしこの時期には、もはや大友家の衰退に歯止めはかからず、時局を見た宗運は翌1581年、阿蘇家の同盟相手を大友家から龍造寺家へと鞍替えさせています。

 一方、この時期、阿蘇家と長らく同盟関係にあった同じく肥後国内の相良家は島津家の軍門に下っていました。その相良家の当主である相良義陽(さがら・よしひ)は1581年、島津家の命令で阿蘇家へと侵攻することとなります。

 宗運と義陽はかねて親しい間柄であったとされます。島津家の命令とはいえ、阿蘇家への侵攻は相良家内部でも深い葛藤があったと言われます。そのせいか、この「響野原の戦い」で義陽は、宗運率いる阿蘇家に攻め立てられながらも撤退しようとせず、座して死を待つかのように陣地内で討たれています。このような義陽の最後を聞いた宗運はその死に涙するとともに、「これで島津に対する防波堤(相良家)を失った」と阿蘇家の行く末を案じていたと伝えられています。

■ 天下統一の時局を正確に読む

 相良家との戦いに勝利した後、肥後への圧迫を続ける島津氏に対して宗運は和睦を申し出ます。ただこの和睦は時間稼ぎが目的で、宗運はわざと和睦条件を間違えたり、交渉中にもかかわらず和睦成立祝いの品を送ったりして、意図的に交渉を長引かせていました。

 というのも宗運は、京都周辺の中央政局における織田家(後に豊臣家)の躍進ぶりから、天下統一は近いと予測していたからです。このまま天下人が九州にやって来るまで島津を抑え、持ちこたえさえすれば、阿蘇家を存続できるという展望を持っていたようです。

 結果論で言えば、その後の歴史は宗運の読み通りとなります。1586年には豊臣秀吉が九州征伐に赴き、このとき秀吉に従った九州各地の領主はそのまま土地の領有権が安堵(あんど)されました。

 しかし宗運は時局を正確に見据えながらも、秀吉の到来を待つことなく1583年(1585年という説もあり)に没します。そして臨終の際は上記展望に従い、「島津家には決して阿蘇家から仕掛けず、守りに徹し続けよ」と、後継者の親英に言い含めたそうです。

 なおこの宗運の死については、かつて内通のかどで実父を宗運によって誅殺されていた親英の妻が、娘(宗運の孫)を使って毒殺したという説があります。

■ 思いは実らず阿蘇家は滅亡

 宗運死後の阿蘇家ですが、当主の惟将(これまさ)が1583年に亡くなり、跡を継いだ弟の惟種(これたね)も翌1584年に亡くなりました。惟種の子の惟光(これみつ)がわずか2歳で継ぐことになり、連続の代替わりの上に幼少の当主とあって、阿蘇家では不安が大いに高まっていたことでしょう。

 こうした中、甲斐家を継いだ親英は1585年、宗運の遺言を守らず島津家に攻め込んでしまいます。攻める口実を得た島津家は肥後へと進軍し、阿蘇家は当主の惟光が逃亡したことで、その大名としての歴史を終えます。豊臣秀吉の九州征伐(1586年)まで、あと1年を控えての出来事でした。

 その文武両道ぶり、外交センスもさることながら、主家のためには実の息子すら刃にかけた宗運の忠節ぶりは、日本史全体で見ても際立ったものがあります。なにより、実質的に島津家の北進を防ぎ、九州統一を阻んだ張本人でもあるだけに、その歴史への影響力も決して小さくはないと思える人物です。

花園 祐

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■元和拾年 萬覚書(34)

2019-09-30 06:35:26 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)廿四日

         |               (晴)   
         |一、廿四日 道倫 助二郎 当番 清天
         |
         |   (忠有)          細川三齋
彦山座主ノ郡役免 |一、彦山座主ゟ、知行郡役 先御代ゟ御免之儀ニ候条、今以、其通ニ被仰付被下候様ニと使札、残
除ニツイテノ使札 |  る奉行衆、皆そろわれ候ハヽ、談合仕候て、返事可仕候条、罷帰、ひる時分ニ尚登城候へと、助
奉行等惣談    |  進申され候而、罷帰候事                        〃
         |                         金梃子
鉄炮ノ制作ニ鉄炮 |一、かぢ奉行登城、昨日御渡被成候鉄炮、壱丁ニてハ、かなてこちいさく候てハ、いかゝと申候、竹
一挺ニテハ見本ヨ |  村弥右衛門へ、本ゟハちとちいさく候ても苦間敷、別ニ古かねも可有之哉と、尋ニ遣候へハ、御
リ小サクナラム  |  本ゟちいさく候ても不苦之由、被申付候事
         |
金山奉行登城万事 |一、八つ過迄、金山奉行佐藤安右衛門・春木與吉登城ニ而、万事金山之儀被申渡候事
ヲ指示サル    |
奈良鍛冶     |一、和田伝兵衛登城ニ而、ならかち借銀、仕事ニ指次候而、不足可有之と存由之事
         |
長崎へ持参道具ノ |  (加兵衛)(少内)
注文       |一、石寺・飯銅登城、長崎へ持参候道具ノ注文、被上候事
         |                           (ママ)
金山奉行万事仕置 |一、左藤安右衛門・春木與吉登城、御金山万事仕置之書付参持候て、談合相極り、肩書被仕候事
ノ書付ニ肩書ス  |
         |一、堀江半兵衛半兵衛登城、御郡参相済、然ハ明日大坂へ可罷上候由候へ共、唯今罷帰候間、今一両
         |  日被指延被下候へと之儀、廿七日ニ出船候へとの事
         |    (可政)
         |一、加々山主馬ゟ使、入江三丞小者壱人、江戸へ遣候御船、御乗可被下之由、則、廿七日ノ舟ニ可上
         |  せ候事
         |
到津ノ宮建立遷宮 |一、到津ノ宮御建立相調候条、廿八日に御せん宮ニ而御座候条、御名代之儀、申来候事
式ニ名代     |

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■ミーハーな私

2019-09-29 13:05:05 | 徒然

 私の散歩コースは自衛隊西部方面隊を一周するのがAコース、今日はその西部方面隊の創立67周年の記念行事が行われている。
数日前から隊員総出で式典の会場設営や、戦車?をはじめとする精鋭装備が展示の為に運び出されていた。
音楽隊も列をなして演奏や行進のけいこをしている。

股関節の痛みがあって、昨日は散歩をさぼってしまったが、今日は11時ころからAコースの方へ歩いてみる。
我家から至近(500mほど)の自衛隊の西北角まで出てみると、ちょうど戦車をはじめ精鋭装備の行進にであった。自衛隊の四周の道路を回るのであろう。
日頃は中々御目にかかることのない装備が列をなして轟音を立てて目の前を進んでいく。
巨大な地対空ランチャーや移動式のレーダー装備などが進んでいくが、子供たちのお目当てはやはり巨大な戦車だ。
宮崎の新田原から飛来したと思われる、11機のヘリコプターがV字形の編隊で頭の上を通り過ぎる。偵察機?2機がそのあとに続き、しばらくすると戦闘機2機も飛来、子供たちの嬌声で一段と盛り上がりを見せる。                                        (P3C) 
         ( F15)

私も30分ほどミーハー気分で拝見、パラ/\と雨が落ちてきたので退散、散歩とは言えない散歩であった。

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■御侍帳・家紋から考える(14)

2019-09-29 10:46:30 | 家紋

                                                                   

太田善九郎は「太田弥平家(南東14-11)」の6代目、名は勝雅、善九郎と称す。藩に仕へ食録百石、犬追物の師範となる。
 文化十一年正月十六日没す。享年七十八。横手四方地に葬る。
 家紋は「石持丸に酢漿草紋」である。
太田吉大夫は「太田新蔵家(南東59-7 茶・鷹・馬)」の2代目である。
 家紋は「丸に三本矢」「丸に五つ柏」か????
小坂仙八は「小坂小三郎家(南東13-10)」の9代目である。
 家紋は「丸に釘抜き?」「檜扇」である。
小篠(オザサ)角大夫は丹後以来の「小篠宗平家(南東13-7)」の8代目である。
 家紋は「丸に十五枚笹紋」「?」
 明治に至り10代千次郎の四名の男子が神風連志士として散った。(墓所・本妙寺雲晴院)
小栗九十郎常盤小栗氏の一族、「小栗半十郎家(南東13-16)」の 5代目・仁蔵(九十郎)である。
 初代は越後騒動の松平越後守の家来小栗兵庫の子・九十郎(初名・六十郎)である。七人兄弟の内四人の男子が細川家にお預けとなり、
 40年の長きにわたり城内に拘束された。後細川家家臣となるが、この一家のみが明治に至った。
 家紋は「丸に立浪」紋である。
小原勘右衛門は「小原大作家(南東13-14)」の6代目か。
 初代は細川忠利に殉死した小原無楽である。
 家紋は「隅切り角に小文字紋」である。
小川安左衛門は「小川源次郎家(南東14-24)」の7代目と思われるが5代目に同名人物が居り特定できない。
 家紋は「丸に小文字紋」である。
小川源右衛門は「小川次郎家(南東14-23)」の11代目・忠八(兵大夫・源左衛門)である。孫娘が横井小楠室である。
 家紋の記載はないが源次郎家と同族と考えられる。家紋も同様か。
小野吉大夫は「小野次平太家(南東14-4)」の2代目・吉大夫(左平太・次平太)か?
 家紋は八段鞠挟みを上下二つに切って左右にずらしたようなデザインとなっているが、正式な名称を知りえない。

小川彦作は「小川次郎八家(南東14-25)」の7代か?
 家紋はとんと見当がつかない。中にあるのは抱き茗荷か?
小川玄益の「小川玄益家(南東63-82 *)」は、代々当主が玄益を名乗って居り、何代目であるのか特定できない。
 家紋は二重丸に二重線で「工」の文字が描かれている。正式な名称を知りえない。
小野平八は「小野平八家(南東14-7)」の5代目か?
 家紋は「八つ丁子紋」である。
小野茂八は「小野 傳家(南東14-2)」の7代目か?
 家紋は「隅切り平角に変り切竹笹紋」????
小野弥八郎は「小野又蔵家(南東14-1)」の6代目。
 家紋は「隅立て角に平角」
小野祐喜は「小野敬蔵家(南東14-6)」の5代目であり、綿考輯録の編者小野武次郎の三男である。
 家紋は「丸に地紙」紋である。
小野孫八郎は「小野長四郎家(南東14-3)」の5代目である。遠祖は阿蘇家分流・男成伊勢守である。
 その由緒を以て家紋は「丸に違い鷹の羽紋」今一つは「?」
小山門喜は「小山門喜家(南東15-11)」の5代目であろう。
 家紋は「隅切り角に鷹の羽紋」である。 


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■元和拾年 萬覚書(33)

2019-09-29 06:18:10 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)廿三日

         |   
新銭       |一、廿三日 甚左衛門 道倫 当番 道倫新銭之義ニ付而、米田與右衛門殿へ参
         |  朝ゟ風少はげし               朝登城不仕候、其理を申、人を奉行所進候事
         |
竹屋喜兵衛中国買 |一、竹屋喜兵衛、御かい物ニ中国へ参候、相司横目ノために、有馬角右衛門被申付候事
物ノ相司横目任命 |
中津領へ人戻シノ |一、中津へ人戻シ之帳目録、野田小左衛門ニ言伝申筈ニ而御座候へとも、帳横目仕立候義、山田次右
帳目録ノ仕立   |           (次)
         |  衛門能存候条、重而治右衛門可遣由、被申付事
速見郡蔵納ノ諸百 |
気随ニテ収納ハ |一、宇野七右衛門登城、速見郡御蔵納故、諸百性きずいニ見え申候、ぬるく申付候而、万事はかまい
カドラザシム   |  るましきと存候由、申候事
         |       (布脱)
湯布院ノ穂蓼ヲ植 |一、御奉行衆、湯院ほたで見事ニ候間、根ヲ植候而可然候哉、実ヲまき候而可然候由、是へよせ、う
エシム      |  へ可申旨、被仰付候間、急度可被取出由、被申渡候事
         |
惣奉行等諸矢倉見 |
分帰途同行者ヲ振 |一、御奉行衆同道ニ而、諸矢倉見廻り、七つ時分清右衛門宅ニ而振舞
舞        |
         |    (元信)
南条元信ノ肥後ヨ |一、南條左衛門殿内、京町二郎兵衛登城、肥後ゟ南條召遣候女ばう達、根本、百性之むすめニ而御座
リ召連レシ女房ノ |                                    (小笠原長元)(村上景広)
交替       |  候、其親、肥後ゟ人替りヲ召連、参候条、被後へ返し申候、御川出切手之儀、彼民ア殿・八郎左
川出切手ノ許可  |  衛門殿へ申候へ共、今度は如前々と、御奉行衆を以而被仰出候ニ付而、他国■へ人出候義、不得
         |                            (横山重嘉)
         |  御意候条、奉行衆之口を被相尋候而、此方か申入由御申候、助進・形ア人ノ出切手、両人へ被仰
         |                               (西郡清忠)
         |  置候儀は、他国との義ニ候条、如此ニ候、其通、今一度被相尋、御合点不参候は、我等罷出可申
         |  候と、被申渡事、二郎兵衛被申候ハ、はやく人替り召連、罷越候ニ、此埒不明候へバ、迷惑ノ由
         |  被申候事
         |           (河田)
上り馬ノ代価   |一、井上六右衛門馬乗、八右衛門、銀子参拾目ニうり申候事
         |         〃
         |           


  

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■元和拾年 萬覚書(32)

2019-09-28 10:24:44 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)廿二日

         |   
         |一、廿二日 甚左衛門 助二郎 当番 清天
         |
鉄炮足軽等小頭中 |一、河田八右衛門登城、御鉄炮衆・御弓衆・御昇衆・御長柄衆小頭中飯米之儀、今ほと指立御普請も
へ普請ナキ故飯米 |  無御座候間、ひかへ可申哉と申候、尤、可然之由候、又、御普請も候ハヽ、可遣由之事
ヲ給セズ     |    (幸長)                       (之)
野田幸長中津へ参 |一、野田小左衛門、明日中津へ御算用ニ可参之由、尤□由候事
用ニ赴ク     |
物書使番ヲ同行ス |一、同人、中津へ御物かきノ庄村加左衛門・使番之者弐人、召連可参之由申候、召連参候へのよしの
         |  事
         | (加々山可政)
中津使者門司狩ノ |一、主馬・宇右衛門・牛介登城、御詰衆中津へ御使ニ参候、又、門司御狩時、役人引ノ事被申候、又、
時役人引  番頭 |    (松井友好)  
等百石宛ノ役引  |  番頭衆百石宛役引可被下 御諚之通、指帋被出候事
         |
桶奉行ノ算用ナラ |一、深野新介・財津久七登城、桶奉行算用何とゟ帳面埒不明候間、御算用聞届可申様無御座候、いかゝ
ズ        |  可仕哉と申候、不成儀ニ候ハヽ、其まゝ置候て、余之御算用を被聞候へとの事
         |                                          (馬)
田辺作介狩ノ時足 |一、田辺作介事、山田次右衛門を以、先日之御狩ニ足損シ、中々家之内ノ行歩も不叶候間、有間へ湯
ヲ損ウ      |                                        (摂津有馬郡)
         |  治仕度候、次右衛門見候様ニ、灸を明所なきやうニ仕候へとも、よくも無御座候由、御奉行衆灸
不許可      |  いへ候ハヽ、足も能候へく候間、先湯治ハ無用之由候事
         |
中津領へ人戻シノ |一、小左衛門、明日中津へ参候ニ、 三斎様御蔵納被指帰候人戻シノ帳目録、中津御奉行衆へ被言伝
帳目録ヲ渡サシム |  候事
         |     

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■平野家ニ代?

2019-09-28 08:08:44 | オークション

 平野太郎左衛門を祖とする家が七家程ある。細川家家中でも珍しく枝葉を広げている一族である。
 万五郎(太郎左衛門)~百助・太郎左衛門(同一人物)の二代のものか?
 それにしてもめずらしく高額になっている。多くの人が応札しているのも目的がどこにあるのか面白い。

        元和元年九月 日  平野万五郎宛・忠興宛行状

 

                  
                寛永拾年九月朔日 平野百助宛・忠利宛行状

 

                
                         寛永拾八年八月朔日 平野太郎左衛門宛・光貞(光尚)宛行状

 

          

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■元和拾年 萬覚書(31)

2019-09-27 06:33:30 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)廿一日

         |   
         |一、廿一日 道倫 助二郎 当番 朝雨 五つ時分ゟ雨霄 曇
         |
         |          牧嶋玄蕃殿家・
槇嶋昭光等ノ空家 |一、家奉行両人登城、村上伝内家之儀、如何可被仰候哉、窺候へバ福満預りノ御門番六人之内、弐
ノ番ヲ門番ニ命ズ |                              
         |  人ハ御門塞り候とも、其儘罷有、残四人之内ニテ、右両所之番仕候へと、被申候事
家中町人屋敷ヲ請 |
取ルモ家ヲ建テザ |一、奉公人・町人共ニ、屋敷請取、家不立者穿鑿可仕由、被申渡候事
ル者ノ詮索    |                                       (松本)
小物成検地ノ命  |一、御郡中、請薮・茶ゑん、其外小物成検地可仕旨、被仰置候間、給地衆被仰付可然由、彦市被申事
         |                      (慰英)
樹木ノ売払方   |一、樹木、当郡ニ而計ニ而うり候而可然由、仁保太兵衛申出、談合之事
         |       〃〃
         |
嶋村九市郎家台所 |一、嶋村九市郎台所、一昨日之風雨ニたおれ候間、冣前之代付ニハかい申間敷候条、代を少さげられ
風雨ニ倒レシ故売 |                        (仁保慰英)(横山重嘉)             壱  
価ヲ下ク     |  候而可然由、御家奉行申候へバ、其分ニ仕候へと、太兵衛・助進被申渡候、同其屋敷ニ梅弐本・
庭木売却     |                 (元明)                                     〃  
         |  桃一本・なつめ弐本御座候ヲ、住江甚兵衛かい申度由申候へバ、うり候へと披申渡候事
         | (規矩郡)
薪ノ売価     |一、蒲生ニ切置薪御座候ヲ、銀弐匁ニ八束ニ直立仕候へ共、高直ノ由ニ而、かい手無之候、如何可有
         |  哉と、彦市被申候へバ、十束ニもうり候て可然由、被申渡候
         |                          (元五)
屋敷交換願    |一、夏間少三郎、今之屋敷ニ而ハ、煩候而無是非候間、志水伯耆内市丞と申者と、家かへ仕度候、如
         |  何と相尋候へバ、談合可有之由之事
         |
伊佐源七空家ヲ望 |一、伊佐源七屋敷無之、井谷兎右衛門屋家被下候へかしと、申候へバ、兎右衛門と談合可有由之事
         |
飯銅少内長崎買物 |一、飯銅少内登城、去年、長崎へ御かい物ニ罷下候時、御銀百目、曽弥勘介加判請人ノ借被成、借下
ニ借銀ノ返済ナラ |  候、返上不罷成候、いかゝ可仕哉との勿論無足ニ而被居儀ニ候へ共、勘介請人之儀ニ候ヘハ、彼
ズ        |  手前ゟ、返上被仕候ハて不叶儀と、被申渡候事  
         |
粗相ニヨリ誅伐  |一、吉田少右衛門登城、菅村藤兵衛内ノ者、今度与相を仕ニ付、今度御誅伐被成候、彼町やとニ、道
誅伐者ノ道具ヲ闕 |  具少御座候を改置候、如何可仕ノ由、注文持参、則、御けつしよ奉行へ相渡候へと、被申渡候事
所奉行へ渡サシム |                              (是次)
宿主ヲ釈放セシム |一、同宿主を籠被仰付候、彼者儀如何と申候、少右衛門申候ハ、米田左兵衛物語、宿主ハ不苦と、御
         |  諚之由候、左候ハヽ、別条無之候間、籠ゟ被■出可然候由之事
         |
         |一、神西與三右衛門・小崎與次兵衛登城、大坂へ役人を、来廿八日に被指上せ候へと、被申渡候ヘハ、
         |  来月五日迄被指延候へと、色々申され候へ共、とかく廿は知日ニ被上せ候へと、堅被申渡候事
         |

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■昨今些難儀致居候

2019-09-26 16:45:58 | 徒然

 五六年前、くらやみの石段を踏み外して転倒してしたたか左ひざを打ち、医者にもいかずにいたら膝痛は慢性化してしまった。
その後血圧や血糖の対策に散歩を始めたところ、痛みが薄れて今日に至っている。
処が二週間くらい前から、椅子に座っているのがつらいような臀部の痛みが生じ、また左足の脛の外側あたりのしびれるような痛みに悩ませられている。
最近では左足の股関節が痛くて、椅子に座っていることが苦痛になり、食事中に急に立ち上がったりするから、奥方がびっくりする有様である。
大いに難儀しているが、これは病院行きが必要かな~とさすがに思い始めた。
痛いからと言って運動を怠ると体重が増えてまずいらしい。散歩は欠かさず続けていこうとは思っているが・・なんとも腹立たしい限りではある。


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■路面電車、延伸

2019-09-26 11:25:19 | 些事奏論

 昨日熊本市議会の交通委員会?において、凍結されていた健軍電停から新築オープンする市民病院までの路面電車延伸の調査費を認める決定がなされた。
これで延伸が現実味を帯びてきた。
熊本市役所の建て替え問題も有り、熊本市議会は膨大な事業費に懸念を示しており、大変健全なチェック機能を果たしている。
桜町再開発というビッグプロジェクトが、ひとまずは好感を持って迎えられ、市中心部の人の流れも変容を見せている。
一息もつかずまた多大な予算をつぎ込もうというのだから、「それいけどんどん」とはいかぬだろう。
どういう進展を見せるのか興味深い。

                        

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■北の関事件の主役・三渕家の相談相手

2019-09-26 08:34:45 | memo

 以前「北の関事件、藩主の裁定」を書いたが、事件の主導的立場にあった三渕家当主の山名十右衛門重澄が、決起にあたって相談した人たちがどういう縁戚関係であるのかを知りたいとのお話しが在った。
それ等の人物は「細川綱利家譜」に名前が記されているが、十右衛門との関係には触れていない。
藤田助之進の娘との縁談のもつれが原因で起こった事件だが、その主・前川勘左衛門は山名十右衛門とは従兄弟の関係である。

ご質問にご返事を差し上げたところだが、朱書きがそのことを示している。当ブログでもここにご紹介しておく。
「前川与三兵衛重民(従兄弟)、其外縁家の長岡佐渡直之(義父)・津川次郎左衛門長房(義弟・十左衛門妹婿)・藤崎作右衛門直治(義弟・十左衛門妹婿)并、細川修理直(尚)房(光尚弟、室松井寄之女、十左衛門相聟)・長岡左門興知(室松井寄之女、相聟)此各江申談候」

ちなみに細川藩三渕家は、初代好重(細川幽齋末弟)が母方の姓を名乗っている(山名氏)が長岡の姓を給わっている。
2代之直、3代之政、4代重澄までは長岡姓を名乗っているが(本姓・山名氏)、傍流は前川氏を名乗っていた。
5代は傍流からの養子だが山名氏をなのり、6代目の及び三渕家を本姓としている。6代目澄定は朽木昭重(本姓三渕氏)男であり、山名・朽木両家の本姓三渕氏に戻したものと察せられる。

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■元和拾年 萬覚書(30)

2019-09-26 06:44:07 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)二十日

         |   
         |一、二十日 米田甚左衛門国遠道倫当番 朝曇・土用ノアキ 終日雨 夜ニ入 風少々はげし
         |
         | (小笠原長元)
薮政三役儀    |一、小民ア殿ヨリ、藪三左衛門役之儀、中洲ゟ申来候様子申■上候、御奉行茂判形候而、可然由ニ
         |  而、状ヲ被越候ニ付而、則、判形候而、被遣候事、但、上り衆ハ中村茂助・猿木源太夫、両人
         |  也
         |   (沢村吉重)
谷主膳室ノ様子  |一、沢大学殿ヨリ、谷主膳殿御内儀様子申候而、状上せ候条、被遣可然由之事
         |                        
石見牢人等堪忍ナ |一、若松口之御門番、村田半右衛門登城ニ而、平松ニ平松見ゟ之牢人来り候が、当初ニ堪忍難成候、
リガタク筑後へ行 |                        〃〃    
ヲ望ム      |  筑後ニ親類御座候条、参度由申候、如何可仕候哉、苦間敷候間、民ア殿へ相尋候而可然由、内両
内二人ハ居留ヲ望 |               (  )
ム        |  人之牢人忠左衛門・小右衛門小右衛門ハ、当所ニ堪忍仕候由之事
         |            浦河内
金かけ出来    |一、鹿来久左衛門、京都郡うらがうちゟ、金かけ出来候、十人てまニ而、四分御座候、其儘置可申哉、
         |  又、人ヲよせ可申哉と、窺候へバ、先其儘置候へと、被申付候事
刀屋竹屋喜兵衛他 |
国へ行クニ相司ヲ |一、竹屋喜兵衛登城候而、近日被仰付候他国へ参候相司、可然者ヲ 仰付可給由、申来候事
願ウ       |
         |

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■■御侍帳・家紋から考える(13)

2019-09-25 11:44:47 | 家紋

                    

大嶋久左衛門は「大嶋五郎八家」の五代目久左衛門か?。大嶋家については「細川藩家臣略歴」には見当たらない。
 家紋は「丸に柏紋」である。
大村久兵衛は「大村半弥家(南東15-16)」の6代目・右馬次(久兵衛)「御番方・杤木内匠組 二百石」か。
 家紋は「六角に大文字紋」及び「五つ瓜?」
大野小平太は「大野傳作家(南東55-4)」の6代目である。
 家紋は「?」今一つは「丸に三階松」である。
大野要助は「大野要八家(南東55-5)」の4代目か。
 家紋は「四角に桔梗」紋?
大石十郎左衛門は「大石(ススム)家(南東13-11)」の7代目、寛政四年九月~寛政五年十二月 阿蘇南郷郡代を勤めた。
 家紋は「?」今一つは「組合せ角に浜洲紋」
大矢野門兵衛は本家「大矢野十郎家(南東55-9)」の 6代目・太源太(門兵衛)か?
 大矢野次郎八は(分家)「大矢野次郎八家(南東55-10)」において、代々次郎八を名乗る人が多く何代目であるかは不明。
 大矢野家は元の天草五人衆の一家である。(武家家伝ー大矢野氏)その祖は渡来人東漢氏だと伝えられる。
 家紋の「帆掛け船」は名和氏に由来するものと思われる。大矢野家は「蒙古襲来絵詞」を伝えてきた家柄だが、これは名和氏女が
   大矢野家に嫁いだ折にもたらされたものだと伝えられる。
 本紋は「五七の桐紋」だともいう。
大竹甚兵衛は「大竹甚平家(南東13-12)」の6代目か。
 家紋は文字紋であろうが名称を知りえない。ご教示いただければ幸いである。
大宮運之進は「大宮勘也家(南東55-8)」の6代目で、時習館句讀師を勤めた。
 家紋は「丸に隅切り角」?
大洞源太郎は「大洞長十郎家(南東55-2)」の6代目である。
 家紋は二重丸に二重の線で十文字?が描かれているが、正式名称は知りえない。ご教示いただければ幸いである。
大洞五右衛門は「大洞典太家(南東55-3)」の5代目で長十郎家の分家筋である。家紋は本家に同じ。
大河原次郎九郎は「大河原次郎九郎家(南東13-8)」においては、次郎九郎を7・8・9代が襲名しており人物の特定ができない。
 中小姓頭や奉行・番頭などを代々務めた。家紋は「下り藤」である。
大河原三太夫は大河原家の分家筋「大河原実次家(南東13-9)」の5代目、三大夫(儀右衛門)、この家は代々儀右衛門を名乗っている。
 家紋は本家に同じ。
大橋伊右衛門は「細川家家臣略歴」では名前が見いだせない。この「家紋付侍帳」にのみ登場している。
 家紋は「隅切り角に違い丁子」
大里右金吾は「大里角次家(南東15-15)」の5代目である。その祖は阿蘇大宮司家である。豊臣秀吉により阿蘇惟光が12歳にて殺され
 阿蘇家没落後、年を経て惟光の弟が惟善が加藤清正の助力を得て阿蘇家を再興が許された。その惟善の弟・惟直が大里家の初代である。
 故に家紋は阿蘇家の「違い鷹の羽紋」である。阿蘇家に継嗣がないときには大里家から養子が入り、阿蘇家を継承している。
大里八太夫は大里家の分家「大里八郎家(南東15-23)」の2代・文太(八大夫・八左衛門)か?
 家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
大田左平次は「太田九十郎家(南東14-9)」の7代・安大夫(左平次信友)か?
 太田家の祖は旧・加藤家臣、初代小十郎・正直は細川忠利に殉死したことで知られる。
 家紋は「左巴紋」である。
太田七郎助は「太田善内家(南東14-8)」の5代目である。上記太田家とは血縁ではない。
 家紋は線引き「武田菱」紋である。

                                            家紋の名称其の他、情報がありましたらご教示ください。

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■元和拾年 萬覚書(29)

2019-09-25 06:09:34 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)十九日

         |   
         |一、十九日 甚左衛門〇 助二郎 当番 清天
         |
鍛冶奉行     |一、桑方猪助かぢ奉行仕候ニ付、 御印頂戴被仕候、守田又兵衛男材木奉行ノ御印頂戴被仕せ候事、
目安箱穴狭少故仕 |一、公叓ノ目安箱出来、穴今少せはき故、直シニ遣候、
直シ       |                                (矢野)
薩摩ノ馬ノ代銀廿 |一、平井加右衛門登城、薩摩へ、馬ノ代銀何ほと可被遣哉と申候ヘハ、矢利斎も御奉行所ニ居合、銀
枚        |  廿枚ほと被遣可然候ハん、御諚も右之通ニ而候と覚え申由候、廿枚分ニ而かい候へと、被 仰置
         |  之由候事
松ノ丸中火ノ用心 |                     
(中村新助室・忠興乳母)
ノ配備 大局ノ家 |一、利斎申候ハ、松丸中火用心人わり、御馬屋・大御つほね家いかゝと申候ヘハ、松ノ丸ニハ御物か
ハ団左兵衛へ貸与 |  き衆、御馬屋ハ御中間衆・同頭衆、大御つほね家ハ団左兵衛ニかし申候之事
         |
山田喜斎中津ノ方 |                 (烏丸光賢室・三斎女)
ノ供シテ上洛出府 |一、山田喜斎登城、明日、中津へ参、 御万様御供仕、中津ゟ直ニ罷上、それゟ江戸へ参候由、同中
セントス     |  津へ参候古キ御乗物、御かし被成候、返し被申候事
         |
忠興留守中牢ノ鍵 |一、鍵かき、御留守中ハ、御奉行衆御預り候て可然之由、竹村弥右衛門申候、矢利斎も同前ニ申由、
ノ保管  用アレ |  御預りなく候ハヽ、御使はかりニ而ハ不成候間、御用ニ候時ハ、指帋ヲ給候へとの事
バ差紙ニテ願ベシ |
松下掃部ノ合力米 |一、冨田十太夫ゟ、中川四左衛門ヲ使、松下掃ア方御合力米、御扶持方ニ直シ被遣候指帋、二月と御
ヲ扶持方ニ直ス  |  座候、正月ゟニ被成可被下之通ニ候、 御肩書ニも、如前々被遊候間、正月ゟと書被直候事
         |
小笠原長元ノ知行 |               (小笠原長元)                   (形)
根付ノ触状ニ郡奉 |一、矢利斎ゟ、御奉行衆へ書状、小民ア殿知行根付ノ触状ニ、御郡奉行衆判刑無之候由候、民ア殿ゟ
行等ノ判ナシ   |  節々便有之儀ニ候間、其御状ヲ給候へ、民ア殿御座候而、判可有御取とのよし、申越候事
         |
片山示庵ノ船ノ用 |             (津川辰珍
意        |一、片山示庵被上候舟之儀、津四郎右衛門殿ゟ御申候、何時成共、舟ハ示庵次第ニ可申付之由候事
         |
片山十二郎ノ「本 |一、同人子十二郎ゟ、本ぞうかうもくの儀ニ付、四郎右衛門殿へ書状、御奉行衆へ御見せ候、于今、
草網目」     |                  (国遠)              (矢野)  
         |  示庵へ不参候哉と、奉行衆被申候、道倫ゟ先日持せやられ候と、助二郎覚候
         |
宮部権三郎吉山福 |一、宮部権三郎と吉山福万と下女出入之儀、権三郎登城ニ而申候、是ハ去年以来之儀候、福万かつ
万下女ノ出入   |  てん不参候間、竹村弥右衛門ニ異見させ可申との事
         |

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■元和拾年 萬覚書(28)

2019-09-24 13:18:33 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)十八日

         |   
         |一、十八日 道倫 助二郎 当番 清天
         |
薩摩へ船破損ノ報 |一、薩摩之舟波損ニ付、従民ア少、御長柄衆一人、薩摩へ飛脚一人遣候事
知        |
沼田延元樹下寿斎 |一、平井五郎兵衛所ゟ使、勘解由殿ゟ寿斎へ戻り申候女、中津へ遣候間、伝馬之儀、御申付可有哉と
ノ女ノ出入    |  申候、乍去、此女ハ、やかて又、勘解由方へ帰儀ニ候間、馬ハ勘解由ゟ可被申付儀との惣談候事
         |
大橋足代ノ蹴転木 |一、河田八右衛門登城、大橋足しろノけころ木かいニ、北前へ可被遣通申候へ共、御加子共、近日罷
ノ仕入方     |  付儀ニ候間、御国の山ニ而、きらせ可然哉と、道倫申候ニ付、荒瀬八右衛門・日田鹿之助、両人
         |  を見せ遣、其上之儀ニ可申付との惣談候事
         |
船蔵ノ修繕ニ船拵 |一、元田長兵衛・入江勘三郎登城、御舟蔵損シ候間、つくろひ仕度候、竹三十束歩と入可申候間、可
奉行等惣談    |  被仰付之由、則、河田八郎右衛門登城候而、被引合候事
         |
上野清兵衛加増地 |一、上野清兵衛男加増之地、彼者抱之内ニ而、可被遣 御印ニ而候、乍去、上中下不知儀ニ候条、今
ノ決メ方     |  更、御印を取返候事、いかゝニ候条、御郡奉行衆ニ割符可申付之事、
         |
河向藤左三百石分 |一、河向藤左衛門知行之内、三百石分役人可引哉、七月中ハ其まゝ御普請可仕儀か、談合不極候、御
ノ役引      |  借米ハ不借候事
         |

  

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