津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■複雑な「熊本藩表彰規定」

2024-05-31 06:46:37 | 史料

 

 片付けものの中から以前「熊本藩表彰規定」という一枚資料を見付けだしている。
身分を12段階に分け、それが一等から六等に分けられているから72種に細分されている。
最高位「1の一等」は、「紋付裏付上下一具・同 長上下一具・同 半上下一具・同 時服一」と云ったものだが、最下位に当たる「12の六等」になると「鳥目300文」とある。
非常に興味深いのは、「4」医師・茶道等のくくりになると、たとえば「4の三等」になると、「紋付時服一+銀二枚」とお金が添えられているし、「4の五等」になると「白銀三枚」といった具合である。
添えられるものも多様で先の「銀二枚」「白銀三枚」に加え、「白銀二枚」「同一枚」「銀二枚」「金子三百疋」「同弐百疋」「同百疋」「銀五両」そして「鳥目」が「壱貫文」から「八百文」「七百文」「六百文」「五百文」そして最下位の「三百文」といった具合である。

 実はこの一枚ものの資料の出所がどこなのか判らないままであったのだが、これが先に古書籍店から購入した「熊本歴研・史叢」の第8号、先にご紹介した蓑田勝彦氏の論考「江戸後期熊本藩における通貨制度-藩札の流通-」に掲載されたものであった。
表の左の算用数字並びに朱線は筆者が書き加えたものである。
朱線部分の( )書は、蓑田先生が、先にご紹介した「白銀」「疋」等を銭(貫文)に換算して記入されたものである。

「白銀」は銀43匁の小判状のもので、贈答用に白紙に包まれて「白銀〇両」と書かれている。
「疋」とは「金・1分(1/4両)=100疋」と規定されているから、400疋が1両だと理解している。
「銭一疋」というものもありこちらは「=10文」だという。
これについては、私はまだよく理解ができていない。

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■本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑲~

2024-05-31 06:45:26 | 歴史

      吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2024:5:20日発行 第75号      
           本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑲~         医局:西岡 暁 


  けふまでの日は けふ捨てて 初桜 (加賀千代女)

 桜の季節はもう過ぎてしまいましたが、元「が池」=「お玉ヶ池」を随分前に後にしたというのに「本能寺からお玉ヶ池」への旅(の続き)
 はだらだら続いています。ただその前に、この春は、江戸から遥か三百里・・・・・遠き寄り道をいたしましょう。

    ほかうらちょう
 【23】外浦町
 日本初の医科大学の「創立」は1858年(安政5年)のお玉ヶ池種痘所の関所です。ただ実は、お玉ヶ池種痘所は、(最初ではなく2校目の医
 学校だったのでした。日本初の(近代医学の)医学校は別にあったのです。
 そこでここでは、お玉ヶ池種痘所より半年早く始まったその医学校の話をいたしましょう。その学校は、江戸から西に遥か三百里の彼方・長崎
 にありました。長崎は、キリシタン大名・大村純忠(1533~1587)が開いた国際港の町で、純忠が設けた町割りの中、その中心部が「外浦町
 でした。長崎が「東の小ローマ」と呼ばれる「キリシタンの町」だった頃、そこに「イエスズ海本部」(@長崎市江戸町2丁目)がありましたが、
 1614年(慶長18年)徳川幕府の禁教令を受けて長崎の数多の教会と病院など関連施設が破壊されると、その跡には長崎奉行所が建てられました。

     山上の 白き十字架の見えそむる
        浦上道は 霜どけにけり   (斎藤茂吉)

 一方(?)、バイエルンの医家の出身でベュルツブルグ大学医学部を卒業したフイリップ・シーボルトは、1823年(文政6年)にオランダ商館医
 として来日し、翌年、長崎口外・鳴滝に蘭学塾「鳴滝塾」を開きました。
 「本能寺からお玉ヶ池」との関わりを言えば、肥前・島原生まれで後にお玉が池種痘所発起人となる三宅艮斎が長崎で入門した楢林栄建は、【4】
 で述べたように、鳴滝塾でシーボルトに師事した蘭方医ですから、艮斎はシーボルトの孫弟子にあたります。
 また、坪井信道は、自身シーボルトに師事することはありませんでしたが、広島の前野玄沢の同門だった岡研介(岩国藩医)にシーボルトに学ぶ
 ことを勧め、実際1824年(文政7年)に鳴滝塾に入門した岡研介は、鳴滝塾の最初の塾頭になりました。
 1859年(安政6年)に長崎が開港されると、長崎奉行所の「西役所」に「長崎海軍伝習所」が設置されました。
 そしてここに、ユトレヒト陸軍軍医学校(現・ユトレヒト大学医学部)卒業のオランダ海軍軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールト(1829
 ~1908)が「医学伝習所」を開きました。
  ここで、長崎大学医学部の公式サイトを見てみましょう。こう書いてあります。
 「わが国の医科大学及び医学部の中の中で最古の歴史を有するのが長崎大学医学部です。1857年(安政4年)11月12日に勝海舟・榎本武揚らが学
 んでいた海軍伝習所の医官だったオランダ海軍軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールトが長崎奉行所西役所(長崎県庁旧所在地)において日
 本人に医学の講義を開始しました。これが医学部のはじまりです。」「わが国の医学のすべてのルーツ医学伝習所にあったと言っても過言では
 ありません。」
  長崎大学医学部は、創立の日を、その源流の医学伝習所の開所の日としています。と云うことは、長崎大学医学部の創立は1857年12月(安政4
 年
11月)になり、東京大学医学部のそれより半年ほど早かったのですから、長崎大学医学部が日本の医科大学として「最古の歴史を有する」こと
 になるのです。
  現在の長崎大学医学部は、ポンぺの次の言葉を「基本理念」としています。
 「医師は自らの転職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、病める人ののものである。もしそれを好まぬなら、他の
 職業を選ぶがよい
 「教育研究上の目的」はあっても「基本理念」がない東京大学医学部とは大違い(?ただ、東大病院や東京大学(全学)には「基本理念」があり
 ます。)ですね。「大違い」と云えば、東京大学(全学)の創立は1877年(明治10年)なのに対し、長崎大学ではその創立を1857年(安政4年
 としています。
  お玉が池種痘所(=創立時の東京大学医学部)は、2年後に(徳川幕府の)「西洋医学所」に発展しました。その2年後にに頭取に就いたのが
 松本良順です。良順の義姉・さだの長女・藤は、三宅秀の妻です。【7】で「良順は、長崎海軍伝習所でポンペに師事した」と書きましたが、始
 まりは海軍伝習所(内)だったポンぺの医学校は、1859年(安政6年)に海軍伝習所が廃止された後も「医学伝習所」として残り、佐藤泰然の養
 子・尚中は1860年(万延元年)に大学東校初代校長になりました。大学東校は東大医学部の前身なので、尚中は東大医学部の第7代医学部長
 (松本良順が第3代、医学伝習所同期の長与専斎が第12代、妹聟・三宅秀が第14代兼⦅?⦆初代)とされています。
 先ほど東大医学部には「基本理念」が無い、と申しましたが、この医学伝習所と東大医学部との繋がりを思えば、「基本理念」として掲げてこ
 そいませんが、東大医学部もまたポンぺの言葉に基づく教育研究に取り組んでいるに違いありません(と、信じたいものです。)

                                       
                                                        ポンぺ(前列右)、松本良順(同左)
                    出典:日本医事新報№.1739

 ポンぺが始めた医学伝習所は、1869年「長崎県病院医学校」に、1871年「長崎医学校」に、1888年(明治21年)「第五高等中学校医学部」に
なりました。この「第五高等中学校」という学校は、(皆様ご存知ないでしょうから)解説が必要でしょう。
 1866年(明治19年)に公布された「中学校令」によって全国を5つの学区に分け、各学区に「高等中学校」が一校ずつ置かれました。
 第一高等中学校(通称・一高)が東京、第二高等中学校は仙台、第三高等中学校は大阪(3年後、京都に移転)第五高等中学校(通称・五高)は
 熊本です。高等中学校は本科(2年制)と専門科(4年制の医学部・工学部)とからなり、五高の場合、医学部は長崎医学校を移管する形で長
 崎(@長崎市西小島町)に開校しました。
 1901年(明治34年)、第五高等学校医学部は「長崎医学専門学校」に発展(?)します。
 【16】で述べたように、斎藤茂吉は、この長崎医専の第二代精神学教授です。そして1923年(大正12年)長崎医学専門学校は「長崎医科大学」
 に昇格しました。

                          
            長崎医科大学(1930年頃)出典:ウイキペディア 長崎医科大学(旧制)

  話は変わって、安土のセミナリヨの一期生・パウロ三木は、1597年(慶長元年)、西坂の丘(現・西坂公園@長崎市西坂町)で殉教し、1862年
 (文久2年)に聖人に列せられました。
 パウロ三木らの殉教の報に接したガラシャは、自分も長崎で殉教したいと望みましたがそれは叶わず、3年後に大阪の屋敷で「散りぬべき時」を
 迎えることになりました。ガラシャの死は、世間では細川家(を介して徳川家にも?)に殉じたものと受け止められたようですが、本人の心持と
 しては、細川家ではなくキリスト教に殉じたものだったに違いありません。
 今から四半世紀ほど前に、熊本の郷土史家・徳永紀良はこう述べています。
 「玉子の死は徳川家の繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。人の世を捨ててハライソへ帰って行ったのである。」(玉子はガラシャ
 の本名。ハライソはポルトガル語・paraiso由来のキリシタン用語で天国の意)

  また話は変わって、【20】の向井去来は長崎生まれです。1698年(元禄11年)、長崎に帰郷した去来は、尼だった叔母が庵を結ぶ田上山を訊
 ね月見の集いを開きました。

     名月や たかみにせまる 旅こころ  (向井去来)

  それから247年後の8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、長崎医科大学では、職員346名、学生440名という死者を出しました。
 松江藩の医家出身で長崎医大を卒業して物理療法科(現・放射線医学)に入局し、1932年(昭和7年)に助教授(現・准教授)になった永井隆
 (1908~1951)は、パウロ三木ら日本26聖人に捧げた「日本26聖人聖堂」(1953年国宝指定)として建てられた大浦天主堂で1934年に洗礼を受け、
 パウロ三木から「パウロ」の名を戴いています。医科大学で診療中に被爆・負傷した永井隆は、被爆時とその後の活動の記録を著書「長崎の鐘」に
 残し、「長崎の鐘」は歌謡曲や映画にもなりましたが、1951年、白血病(原爆症ではなく、戦前に発症した職業病)で帰天しました。

      燔祭の炎の中に うたひつつ
         白百合少女 燃えにけるかも  (永井隆)

                                         
            長崎医科大学 被爆門柱 出典:ウイキペディア 長崎医科大学(旧制)

  長崎医科大学(薬学専門部)の物理学教授・清木美徳は、構内の防空壕を掘る作業中に豪内で被爆したため無事でした。
 即死しなかった学生たちは、大学の東隣の穴弘法寺に逃れようとしますが寺の丘を登りますが、殆どの者は途中で絶命したそうです。
 清木美徳の6女・順子は、九州大学卒業の内科医ですが、入学したのはかって父が在籍した長崎大学でした。
 また、長崎医大卒業の産婦人科医・下村宏は、【10】の水原秋桜子の(俳句)の弟子でしたが、原爆に当たっては、永井隆同様被爆者の救援に奔走
 したそうです。

      汗涸れて 阿鼻の焦土に ゐしか吾  (下村ひろし)

 原爆で壊滅状態に陥った長崎医科大学ですが、医学部(本科)は復興できたものの「医学専門部」は廃校になってしまい、生存学生は他校に転向し
 なければなりませんでした。この「医学専門部」と云うのは、戦時中の医師不足対策として帝国大学と医科大学に併設された医学専門学校のことです。
 東京大学医学専門部に転向した学生の一人が病理学教授だった三宅仁に叱られた話があります。
 彼が「(原爆症で)どうせ永くはない」と云ったところ、三宅教授はこう戒めたそうです。
 「医師というものは一日でも永く生きて、一人でも多くの患者のために働くものだ。努力するものだ。・・・・・どうせ若死にするのだと考えている
 者に教えるような医学はない。さっさと長崎に帰った方がよい。

  まるで、長崎大学医学部の基本理念になったポンぺの言葉のようではありませんか。
 三宅仁の曽祖父・佐藤尚中も(義)曽祖叔父(=尚中の義弟)・松本良順も長崎でポンぺに師事していましたから、もしかすると仁の三宅家にも、
 ポンぺ(から長崎大学に継承された)の「基本理念」が伝わっていたのかも知れませんね。

                 (この回・了)

 

 

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■飯田山が消える

2024-05-30 16:04:38 | ご挨拶

 近所でマンションの2棟の建設が進んでいる。
12~14階建てで、出来上がれば随分我が家のベランダからの景色が変わってしまう。
我が家から南東方向200~300mのところだが、ほとんど同時に着工した。
進捗状況は、右手は8~9階、左手は免震構造の基礎とフロアの戸数が多いようで6階くらいか?
その左手の工事の工程があと1フロア進むと、遠望できていた飯田山の独特の姿が見えなくなる。
我家は南東角に位置しているし、平面がかぎ状になっていて、お隣のフロアが1.5メートルほど後退していることもあり、展望240度あって
毎日外の景色を楽しんでいるが、山が視界から消えるとは思わなかった。
あと半月ほどの期限ある展望をカメラで記録しながら、工事の進捗にあわせて一喜一憂している。

                                ⇩飯田山(下の建物は県職員住宅)              自衛隊通り⇩

           

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■けしつぶの中くりほぎて・・・・・・・

2024-05-30 06:58:25 | 人物

  先にご紹介した宝暦期の大奉行志水才助は、師である片岡朱陵の塾においてある日朱陵の講義も聞かずに縁側で寝こんでいた。
この様なことに意を介さない朱陵も、講義が終わると共に寝ころんだ。突然才助は「学校を作りましょう」と言い出した。
「それは良い」と朱陵とその門人たちは、計画書をこしらえて江戸にある秋山玉山に知らせた。
江戸では秋山玉山が藩主・重賢から学校建設の計画を持ち掛けられており、玉山は余りの偶然に驚き重賢に報告し計画は一気に実現へと向かった。
これが藩校時習館建設の逸話として語り継がれている。
秋山玉山が時習館の初代教授になった。ところが朱陵には不満があったようだ。
開講習討論という一文のさいごには「縦令賜由同此席、大息焦心應失明」とある。
そして次のような歌を作った。
    けしつぶの中くりほぎて館立て 一間/\に細注を讀む
    時習館きうりかづらのはびこりて 十三經の置所なし

 朱陵はもともとは、細川家直臣・藪氏の家来であった。重賢はこれを召し出したわけだが、時習館の二代目教授は藪孤山が就任している。
朱陵は重賢の侍講に任ぜられるが、その時間を忘れるほどの異風者であったが、重賢はそんな朱陵を愛したという。
孤山(茂次郎)が若くして江戸へ遊学してきた折、「聖賢の學は、身を修るを大切と仕る」と諭すと、「此朱陵は片時も身を修むると云事は出来ませぬ」と答えたという。茂次郎としては、旧主として朱陵の放埓な行動が心配であったのだろう。

 宝暦の改革に尽力した人々の中には、朱陵門下の人が多い。
堀平太左衛門の後大奉行についた志水治兵衛(才助)や、村山九郎次郎、蒲池喜左衛門、吉海市之允などを輩出している。

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■「熊本歴研・史叢」第8号

2024-05-29 06:32:46 | 書籍・読書

 先に古書籍店に注文した「熊本歴研・史叢」第8号が手元に届いた。2003年7月号とあるが、じつはそれまでは熊本歴研の冠はなく「史叢」だったようだが、同名のものが日本大学史学会に存在したため、変更方の申し入れがあったという。
熊本歴史研究会はこれを受け入れ、まさにこの号から「熊本歴研」を冠するようになったある意味記念するべき号となった。
                                   

 ここに蓑田勝彦先生が、銭匁勘定について初めて触れられた(?)論考「江戸後期 熊本藩における通貨制度-藩札の流通-」が掲載されており、是が読みたくて購入したものである。
この会誌が2003年7月であるから、ほぼ20年前のことになるがそんな時期蓑田先生はこの問題の理解のために奮闘されていたことが判る。
先生は私とほぼ同年代だと思うが、この問題については私は関係資料をできうる限り読んで、今ようやく理解の途についている。熊本の藩札は「1匁70文」で流通している。
よく例に取り上げられる通潤橋の工事費は「319貫406匁余」であるが、実質「銭」ではその70倍の22,358貫420文ということになる。
いわゆるびた銭を、319,406枚準備しなければならないことになる。それゆえ工事費の支払いなどは藩札で支払うという事になる。
すべてが藩札で支払われたのかどうかは、資料を見出せないから良くわからない。
藩からの借入金はともかく、人夫賃などは会所官銭などにより現金で支払われていたのかもしれない。
藩札を貰っても換金の手間がいり、日当払いには向かないであろう。
蓑田先生には、「熊本藩の社会と文化」という御著があるが、ここでも詳しく取り上げておられる。
最近、理解が深まり感謝申し上げたい。

ある方が藩札をたくさんお持ちだと聞及んでいる。お見せしますという事だから、何とか近いうちに拝見したいと思っている。

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■御恵贈御礼「家系研究・第77号」

2024-05-28 18:28:43 | 書籍・読書

 家系研究協議会から会誌「家系研究・第77号」をご恵贈給わった。厚く御礼申し上げる。

                   家紋「丸に五本骨扇に三つ巴」 

 目次をご紹介しようとおもい、スキャンしたが鮮明さに欠けるので、以下の如く目次をご紹介する。
   一、紀州湯浅氏の一族と祖系
   一、苗字と地名の関係について(下)
   一、清和源氏上野里見氏の系譜に迫る
   一、楠木氏後胤・慈光寺
   一、越前国の平泉寺の恵秀
   一、墓を訪ねて(4)山口県の大名墓
   一、薩摩刀匠 浪平正国一千年秘話 刀鍛冶の里(十三)
   一、表紙家紋について/あとがき

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■切り取り強盗

2024-05-27 13:30:18 | 人物

 昨日の■細川幽齋公と宝暦の改革でご紹介した大奉行・志水才助という人物は、豪放な性格で知られるが、そのことを示すような発言をしている。
学問の師・片岡朱陵が「藩の御扶持を離れることになったら、どうして渡世をするか」と尋ねたところ、それぞれの人が手習いの師匠とか句読を教えるとか答える中、才助は「何の覚えもない人間なので、切り取り強盗をして渡世する」と応じた。
そして朱陵もまた、「吾等も至極同意」と膝を叩いたという。
才助は大奉行になったある時、重賢と酒肴の席に列し、大いに酩酊してあろうことか重賢の妾にもたれかかったという。
史料を見てみると才助は大奉行を罷免されている。しかしながら、しばらくして復帰を仰せい出された。
その間は謹慎でも言い渡されたのであろう。重賢はこの大酒のみの豪放な奔馬を、見事に操る御者であった。
重賢の元で宝暦の改革という事業を成し得たのは、このような「かぶき者」とも思える人たちが活躍したのだが、それらの人がほとんど片岡朱陵の門人であったという。
片岡朱陵は「徂徠学」の人だと言われる。細川家家臣藪家に仕える又者(陪臣)であった。
時習館二代目教授は、朱陵の主筋である藪孤山が就任したが、重賢は朱陵を召し出して侍講として遇した。
 宝暦の改革は、このような成り上がりとも思える人たちが大いなる能力を発揮した。
三卿家老を初め、それまでの政を一手に握っていた勢力は埒外に於かれて憤懣を膨らませていく。
有吉家の家臣の呪詛事件などがその最たるものであろう。
かれらは、「座班」において高位に座して、ただこの鬱憤を晴らしたのであろう。

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■細川幽齋公と宝暦の改革

2024-05-27 06:26:12 | 歴史

 細川家の歴史を見る時に、まさに中興の祖ともいうべき細川重賢公の出現は、兄・宗孝公の江戸城中における不幸な死がもたらしたことを思うと複雑な気がする。
歴史とはめぐり合わせだと感じるところだが、重賢公の側近と言われた堀平太左衛門や志水才助といった人物は優秀な用人・竹原勘十郎(玄路)の真心からくる推挙であったことを思うと、私は勘十郎こそが一番称えられてしかるべき人だと思うのである。
時代のいたずらは、阿蘇家の家臣であった竹原氏を薩摩の嶋津氏に臣従せしめていた。
阿蘇家の家督争いに負けた一方の阿蘇氏が、嶋津家を頼ったからである。
或る時幽齋は秀吉の命により薩摩に派遣され検地をおこなっている。その時幽齋公は、この竹原氏に出会っている。
幼いながらものその能書ぶりに、嶋津氏に乞うてもらい受けて連れ帰っている。
忠興が豊前に入国し、忠利が肥後へはいった。細川家に臣従した竹原氏はくしくも父祖の地・肥後へ帰国したことになる。
そして、阿蘇氏の覇権を争った阿蘇氏も武家としての存在を失い、社家として残された。
そんな竹原氏が勘十郎の時代に至り、重賢に任用され、その推挙により堀平太左衛門・志水才助という曲者をして宝暦の改革を遂行せしめた。
巡り合わせの不可思議を思わざるにはいられない。

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■ご近所のMさま

2024-05-26 09:36:14 | 熊本

 今のマンションに引っ越してきてからあと20日ばかりで一年になる。
まだ、マンションの住民の皆さんと面識ができた方はあまりない。エレベーターの上り下りでたまに挨拶を交わす程度の交流しかない。
そんな中で回覧板が回ってきて、押してある印鑑や、記名などでご近所様のお名前を知ることになる。
上の階にMさまがおられることを知ったが、細川家のご家臣のご一族であることは間違いない。
変わった名前というわけではないが、そうそう御見受けする名字ではない。
お邪魔してお話を伺おうかと思うが、どうやらお若い方が済んでおられるようだ。
幼い子供が床を踏み鳴らして走り回っているのが聞こえる。

もう何年前になるか、熊本が台風に襲われ電柱が倒れ、住まいも大被害を受けた折、熊本建築士会は被害状況をしらべるために駆り出されたことがある。
ある保険会社のお手伝いをしたりしたが、その保険会社にM氏がおられた。
お互い大多忙にしていたから、挨拶をかわすひまもなかったが、ひょっとするとその方のご親戚ではないかとふと思った。
親子かもしれない。歳恰好からするとそんな感じである。
このM家の史料は、熊本県立図書館に収められていて、貴重な史料である。
私もその中のいくつかを、写真撮影をさせてもらった。
そういう意味からすると、お手元には史料はお持ちではないかもしれないが、いつかお声がけしてみようと思っている。
散歩のコースには同じアルファベットのM家を見つけた。こちらもお名前を明かせば何方もご存じの方である。
「殉死の家」といえばお判りだろう。こちらもいずれお声がけをしたいと思っている。
散歩に出ては、表札ばかり気にして歩いているから、不審者と思われるかもしれないなとも思っている。

           

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■銭に紐を通す

2024-05-25 08:01:48 | 歴史

 Youtubeを見ていたら、「ひたすら磨く」というテーマで流している作品があったが、その中に「畠でひろった一文銭」があった。
如何にも専門家の仕事で、いろんな研磨剤などを駆使してこれでもかと磨き上げるが、銅鏡など本当にピカピカになり昔はこんなだったのかと感心させられる。
さて先の一文銭、いつもくたびれ果てた姿を見ているから、全く別物を思わせる代物になる。
ふと、一文銭には鉄製のものがあるが、是を磨いたらどうなるのだろうと思ったことだった。

 幕末、鉄製の一文銭二枚で銅製一文銭を大阪で買い占めようという話があったらしい。
贋金つくりの話である。鉄銭も銅銭も一文は一文であるから、大阪中の銅銭を集められると考えたらしい。一方大阪では鉄銭一文銭が二倍になるという儲け話である。
これは集めた銅銭を鋳潰して、天保銭を作ろうというのである。
贋金づくりと言えば薩摩が知られるが、上記の話は土佐である。いずれも公式の記録が残るわけないから、真実のほどは判らないが、岩崎弥太郎傳によると幕府の許可なくニ分金などを私鋳したと記している。
つまるところ、薩摩や土佐の贋金が明治維新の大切な資金の一部になっていることが伺える。

 考えてみると、三貨制度の中で「銭」という貨幣がいかにも庶民的だが、これとて一般の商取引で使われていたが、大きな事業はやはり、「金」「銀」決済なのではないかと思うのだが、例えば「通潤橋」の35億円といわれる建設費が、銭匁勘定で決済されているのが非常に興味深い。
穴あき銭に紐を通す苦労がいかばかりかと思うのである。96銭(貫文緡)は100文として通用しているが4文は「緡」を作るための手間料だとされる。
このままだと貫文だが、ばらしてしまうと96文になるという、一種江戸時代のおおらかさを感じてしまう。

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■雑損100円

2024-05-24 17:18:08 | ご挨拶

 先日、熊本歴史学研究会の会誌「熊本歴研-史叢」の8号を熊本の J 古書籍店に注文をした。
「銭匁勘定」に関する記事が掲載されているらしいからである。郵便局から振り込んだのだが、しばらくしたらお店から30円不足だと電話が入った。
しまったと思って、汗が引っ込む間もなく再度30円を振り込みに出かけた。30円でも手数料は100円である。
自分の失敗だから致し方ないが、たかが100円でもこれはくやしい。
それはともかく、熊本に於いて「銭匁勘定」の研究に先鞭をつけられた論考らしいから、届くのが待ち遠しい。
しかしこの一種の商習慣ともいえる不思議な制度については、いろいろ疑問に思うことが多い。
郵便料金がビックリするくらい値上がりするようだが、配達についてもずいぶん時間がかかるようになった。
あすは土曜だし、週明けまで待たねばならぬのだろう。

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■猿木四兄弟と城義核

2024-05-24 16:55:23 | 人物

 熊本史談会のN君が、先の史談会の後本妙寺を訪れ東光院で城家のお墓の写真を撮って送ってくれた。
城義核は私の母方の祖母の義弟にあたる。祖母は猿木宗那の娘だが、宗那には三人の兄弟があり、西村家・小堀家・城家に養子となりそれぞれが古式泳法・小堀流踏水術の宗家となった。
     猿木宗那・西村宗系・小堀平七・城義核

猿木家の墓地は、本妙寺の花園墓地にあるが、城家については承知していなかった。
N君のお陰で墓地の所在を知ることができて感謝である。子飼の細川刑部邸の隣に江戸時代からの屋敷があって、私も幼いころ祖母の後について義核翁にあったことがある。
ヘビースモーカーだったのかもしれない。ピースだと思うが銀紙の包み紙を幾重にもかぶせて3~4センチのボール状にしたものを貰った覚えがある。
いろいろ逸話が残る四兄弟だが、私も古式泳法の勉強をしておけばよかったと悔やんだ時期もあった。
久しく本妙寺も訪ねていない。楼門下に新しい道路が通ったと聞くから、そのうちにその確認もかねてお墓参りをしてみようと思う。N君に感謝・・

              

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■5月→6月へ切り替え

2024-05-24 06:36:54 | 熊本史談会

 熊本史談会の例会の話である。
5月例会は18日に開催されて阿田俊彦講師の「論語、そしてその変遷」をお聞きしした。
先にも書いたが当日は腱鞘炎の痛味が激しく、先生のお話が身に入らなったことは申し訳ないことであった。
日本における「論語、そしてその変遷」をお聞きしたいと考えて、事務局とも話し合いスケジュールの変更をして今年度中に何とか第二弾として開催したい。

 さて6月は、山都町の郷土史家・田上彰氏の「布田保之助翁よもやま咄」をお聞きする。
布田保之助翁の偉大な足跡と共に、その第一に挙げられる「通潤橋建設」の話も当然触れられると思うが、少々質問をしたいこともあって予習を始めた。
色々な史料を見るとその工事費は38億円に相当するとある。
私の疑問は、工事費の約46%にのぼる藩からの借り入れ金の返済についてである。
完成が1854(嘉永7・安政元)年8月であり、廃藩置県が1871(明治4)年7月、返済は完了していたのだろうか。

    町在 ・関連資料 に見 る通潤橋架橋 に よる関係 町村 への政治 ・経 済的背 景 と効果 につ いて
    通潤用水の維持管理の変遷とその実態の明示
    通潤用水の維持管理における利用者の役割に関する研究
    平成新訳「通潤橋仕法書」

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■細川頼春書状

2024-05-23 11:48:45 | オークション

     【模写】頼春 康永元年 南北朝時代 書状 消息 マクリ 細川頼春 花押 

           

 細川家の祖は、足利流・細川義季だとされる。
義季ー俊氏ー公頼ー頼春ー頼有ー頼長ー持有ー教有=常有ー政有=元有ー晴員=細川藤孝と続く。
細川頼春は正安元年(1299)生・正平七年(1352)戦死、54歳(49歳トモ)であるが、この書状の康永元年(興国三年)(1342)では44歳である。
その翌年に四国平定を成し遂げている。四国管領・阿波守護などに任じられた。そんな時期の書状でありその内容が興味深い。

嫡男が細川頼之、足利3代将軍義満を補佐し、天授5年迄管領職を勤めた。弟・頼有が頼春の後を継いでいる。

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■川端康成・藤島泰輔そして今東光

2024-05-23 08:20:31 | 人物

 「酒」と作家たちというエッセイ集がある。「酒」とは、佐々木久子が編集長を務めた雑誌「酒」のことである。
私は今でも、昭和52年発刊の佐々木氏のエッセイ「酒縁歳時記」を大事に書棚に残している。
酒縁の人たちが、佐々木の死後文章を寄せあったエッセイ集が「酒」と作家たちである。
この中に、藤島泰輔氏の「川端康成氏の思い出」という一文がある。(藤島泰輔の内縁の妻とされるのが、世間を騒がせている旧ジャニーズ事務所の故・メリー喜多川氏である)
藤島氏は酒は飲まないが酒席好きという、川端康成の付き添い役を務めていたそうだが、川端先生もミニスカートの女性を侍らせてご満悦だったというからなかなか面白い。
そんな川端のことを、盟友・今東光が気づかい「みみずくは夜寝ているか」と藤島に尋ねたと書いている。
川端が「みみずく」に似ているからと、今がそういっているのだが、まさか本人の前では言わないのだろう。

 私はそんな毒舌家で洒脱な今東光という人が好きで、いろいろ著書に親しんだ。
つい最近も「お吟さま」を読了したところだが、お吟さまが生きた時代の会話というものはこのようなものであったのかと、今先生の力量のすばらしさに感嘆させられるのである。
作家であるとともに、政治の世界にも足を踏み入れられたこともあった。(川端先生も御同様・・)
天台宗の座主に就任され、天台宗大僧正となって法名 春聽を名乗られた。瀬戸内寂聴は法妹であり、寂聴の名は今東光大僧正の法名からきている。
随分以前東光先生は奈良本辰也氏と「南北朝」について対談しているが、その模様がある方のブログ「南北朝についての日記?」で公開されていることを承知していた。
久しぶりにググってみたら健在であった。ここに引用させていただき、御紹介申し上げる。
非常に得るところがある対談である。

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