吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2024:5:20日発行 第75号
本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑲~ 医局:西岡 暁
けふまでの日は けふ捨てて 初桜 (加賀千代女)
桜の季節はもう過ぎてしまいましたが、元「桜が池」=「お玉ヶ池」を随分前に後にしたというのに「本能寺からお玉ヶ池」への旅(の続き)
はだらだら続いています。ただその前に、この春は、江戸から遥か三百里・・・・・遠き寄り道をいたしましょう。
ほかうらちょう
【23】外浦町
日本初の医科大学の「創立」は1858年(安政5年)のお玉ヶ池種痘所の関所です。ただ実は、お玉ヶ池種痘所は、(最初ではなく)2校目の医
学校だったのでした。日本初の(近代医学の)医学校は別にあったのです。
そこでここでは、お玉ヶ池種痘所より半年早く始まったその医学校の話をいたしましょう。その学校は、江戸から西に遥か三百里の彼方・長崎
にありました。長崎は、キリシタン大名・大村純忠(1533~1587)が開いた国際港の町で、純忠が設けた町割りの中、その中心部が「外浦町」
でした。長崎が「東の小ローマ」と呼ばれる「キリシタンの町」だった頃、そこに「イエスズ海本部」(@長崎市江戸町2丁目)がありましたが、
1614年(慶長18年)徳川幕府の禁教令を受けて長崎の数多の教会と病院など関連施設が破壊されると、その跡には長崎奉行所が建てられました。
山上の 白き十字架の見えそむる
浦上道は 霜どけにけり (斎藤茂吉)
一方(?)、バイエルンの医家の出身でベュルツブルグ大学医学部を卒業したフイリップ・シーボルトは、1823年(文政6年)にオランダ商館医
として来日し、翌年、長崎口外・鳴滝に蘭学塾「鳴滝塾」を開きました。
「本能寺からお玉ヶ池」との関わりを言えば、肥前・島原生まれで後にお玉が池種痘所発起人となる三宅艮斎が長崎で入門した楢林栄建は、【4】
で述べたように、鳴滝塾でシーボルトに師事した蘭方医ですから、艮斎はシーボルトの孫弟子にあたります。
また、坪井信道は、自身シーボルトに師事することはありませんでしたが、広島の前野玄沢の同門だった岡研介(岩国藩医)にシーボルトに学ぶ
ことを勧め、実際1824年(文政7年)に鳴滝塾に入門した岡研介は、鳴滝塾の最初の塾頭になりました。
1859年(安政6年)に長崎が開港されると、長崎奉行所の「西役所」に「長崎海軍伝習所」が設置されました。
そしてここに、ユトレヒト陸軍軍医学校(現・ユトレヒト大学医学部)卒業のオランダ海軍軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールト(1829
~1908)が「医学伝習所」を開きました。
ここで、長崎大学医学部の公式サイトを見てみましょう。こう書いてあります。
「わが国の医科大学及び医学部の中の中で最古の歴史を有するのが長崎大学医学部です。1857年(安政4年)11月12日に勝海舟・榎本武揚らが学
んでいた海軍伝習所の医官だったオランダ海軍軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールトが長崎奉行所西役所(長崎県庁旧所在地)において日
本人に医学の講義を開始しました。これが医学部のはじまりです。」「わが国の医学のすべてのルーツは医学伝習所にあったと言っても過言では
ありません。」
長崎大学医学部は、創立の日を、その源流の医学伝習所の開所の日としています。と云うことは、長崎大学医学部の創立は1857年12月(安政4
年11月)になり、東京大学医学部のそれより半年ほど早かったのですから、長崎大学医学部が日本の医科大学として「最古の歴史を有する」こと
になるのです。
現在の長崎大学医学部は、ポンぺの次の言葉を「基本理念」としています。
「医師は自らの転職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、病める人ののものである。もしそれを好まぬなら、他の
職業を選ぶがよい」
「教育研究上の目的」はあっても「基本理念」がない東京大学医学部とは大違い(?ただ、東大病院や東京大学(全学)には「基本理念」があり
ます。)ですね。「大違い」と云えば、東京大学(全学)の創立は1877年(明治10年)なのに対し、長崎大学ではその創立を1857年(安政4年)
としています。
お玉が池種痘所(=創立時の東京大学医学部)は、2年後に(徳川幕府の)「西洋医学所」に発展しました。その2年後にに頭取に就いたのが
松本良順です。良順の義姉・さだの長女・藤は、三宅秀の妻です。【7】で「良順は、長崎海軍伝習所でポンペに師事した」と書きましたが、始
まりは海軍伝習所(内)だったポンぺの医学校は、1859年(安政6年)に海軍伝習所が廃止された後も「医学伝習所」として残り、佐藤泰然の養
子・尚中は1860年(万延元年)に大学東校初代校長になりました。大学東校は東大医学部の前身なので、尚中は東大医学部の第7代医学部長
(松本良順が第3代、医学伝習所同期の長与専斎が第12代、妹聟・三宅秀が第14代兼⦅?⦆初代)とされています。
先ほど東大医学部には「基本理念」が無い、と申しましたが、この医学伝習所と東大医学部との繋がりを思えば、「基本理念」として掲げてこ
そいませんが、東大医学部もまたポンぺの言葉に基づく教育研究に取り組んでいるに違いありません(と、信じたいものです。)
ポンぺ(前列右)、松本良順(同左)
出典:日本医事新報№.1739
ポンぺが始めた医学伝習所は、1869年「長崎県病院医学校」に、1871年「長崎医学校」に、1888年(明治21年)「第五高等中学校医学部」に
なりました。この「第五高等中学校」という学校は、(皆様ご存知ないでしょうから)解説が必要でしょう。
1866年(明治19年)に公布された「中学校令」によって全国を5つの学区に分け、各学区に「高等中学校」が一校ずつ置かれました。
第一高等中学校(通称・一高)が東京、第二高等中学校は仙台、第三高等中学校は大阪(3年後、京都に移転)第五高等中学校(通称・五高)は
熊本です。高等中学校は本科(2年制)と専門科(4年制の医学部・工学部)とからなり、五高の場合、医学部は長崎医学校を移管する形で長
崎(@長崎市西小島町)に開校しました。
1901年(明治34年)、第五高等学校医学部は「長崎医学専門学校」に発展(?)します。
【16】で述べたように、斎藤茂吉は、この長崎医専の第二代精神学教授です。そして1923年(大正12年)長崎医学専門学校は「長崎医科大学」
に昇格しました。
長崎医科大学(1930年頃)出典:ウイキペディア 長崎医科大学(旧制)
話は変わって、安土のセミナリヨの一期生・パウロ三木は、1597年(慶長元年)、西坂の丘(現・西坂公園@長崎市西坂町)で殉教し、1862年
(文久2年)に聖人に列せられました。
パウロ三木らの殉教の報に接したガラシャは、自分も長崎で殉教したいと望みましたがそれは叶わず、3年後に大阪の屋敷で「散りぬべき時」を
迎えることになりました。ガラシャの死は、世間では細川家(を介して徳川家にも?)に殉じたものと受け止められたようですが、本人の心持と
しては、細川家ではなくキリスト教に殉じたものだったに違いありません。
今から四半世紀ほど前に、熊本の郷土史家・徳永紀良はこう述べています。
「玉子の死は徳川家の繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。人の世を捨ててハライソへ帰って行ったのである。」(玉子はガラシャ
の本名。ハライソはポルトガル語・paraiso由来のキリシタン用語で天国の意)
また話は変わって、【20】の向井去来は長崎生まれです。1698年(元禄11年)、長崎に帰郷した去来は、尼だった叔母が庵を結ぶ田上山を訊
ね月見の集いを開きました。
名月や たかみにせまる 旅こころ (向井去来)
それから247年後の8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、長崎医科大学では、職員346名、学生440名という死者を出しました。
松江藩の医家出身で長崎医大を卒業して物理療法科(現・放射線医学)に入局し、1932年(昭和7年)に助教授(現・准教授)になった永井隆
(1908~1951)は、パウロ三木ら日本26聖人に捧げた「日本26聖人聖堂」(1953年国宝指定)として建てられた大浦天主堂で1934年に洗礼を受け、
パウロ三木から「パウロ」の名を戴いています。医科大学で診療中に被爆・負傷した永井隆は、被爆時とその後の活動の記録を著書「長崎の鐘」に
残し、「長崎の鐘」は歌謡曲や映画にもなりましたが、1951年、白血病(原爆症ではなく、戦前に発症した職業病)で帰天しました。
燔祭の炎の中に うたひつつ
白百合少女 燃えにけるかも (永井隆)
長崎医科大学 被爆門柱 出典:ウイキペディア 長崎医科大学(旧制)
長崎医科大学(薬学専門部)の物理学教授・清木美徳は、構内の防空壕を掘る作業中に豪内で被爆したため無事でした。
即死しなかった学生たちは、大学の東隣の穴弘法寺に逃れようとしますが寺の丘を登りますが、殆どの者は途中で絶命したそうです。
清木美徳の6女・順子は、九州大学卒業の内科医ですが、入学したのはかって父が在籍した長崎大学でした。
また、長崎医大卒業の産婦人科医・下村宏は、【10】の水原秋桜子の(俳句)の弟子でしたが、原爆に当たっては、永井隆同様被爆者の救援に奔走
したそうです。
汗涸れて 阿鼻の焦土に ゐしか吾 (下村ひろし)
原爆で壊滅状態に陥った長崎医科大学ですが、医学部(本科)は復興できたものの「医学専門部」は廃校になってしまい、生存学生は他校に転向し
なければなりませんでした。この「医学専門部」と云うのは、戦時中の医師不足対策として帝国大学と医科大学に併設された医学専門学校のことです。
東京大学医学専門部に転向した学生の一人が病理学教授だった三宅仁に叱られた話があります。
彼が「(原爆症で)どうせ永くはない」と云ったところ、三宅教授はこう戒めたそうです。
「医師というものは一日でも永く生きて、一人でも多くの患者のために働くものだ。努力するものだ。・・・・・どうせ若死にするのだと考えている
者に教えるような医学はない。さっさと長崎に帰った方がよい。」
まるで、長崎大学医学部の基本理念になったポンぺの言葉のようではありませんか。
三宅仁の曽祖父・佐藤尚中も(義)曽祖叔父(=尚中の義弟)・松本良順も長崎でポンぺに師事していましたから、もしかすると仁の三宅家にも、
ポンぺ(から長崎大学に継承された)の「基本理念」が伝わっていたのかも知れませんね。
(この回・了)