先に■松井寄之の遺書を書いた。光尚の死去後細川家の跡継ぎである六丸(綱利)が幼少であるため、肥後五十四万石の継承が危ぶまれた。
二分割案や三分割案などがささやかれ、どうなるのか予断を許さぬ状態であった。
そこで幕府に対しての説得役として派遣されたのが松井家の養嗣子寄之(忠興末子)である。以下はその折、養父興長へ宛てた寄之の遺書である。
まさに命がけの使命であり、ことが成就しない時は死を覚悟していたことが判る。
興長殿へ寄之殿遺書
江戸江罷越候付書置申候
私儀せかれの時分より御家へ参私儀にて候へハ嘸御心に不被 嘸=さぞ
為叶事のミにて可有御座候処諸事有之處被 仰付
如此今迄御奉公相勤参存候 此段具不及申上候
一御家へ参候上ハ御家へ對何そ一ツと松井之御家をおはれ候様ニと
昼夜奉存候 其上被成御存知大臺雲様差物なと被為
拝領様之其節御懇之御諚に御■候間常役御用ニ立申私ニ而
無御座候間責而折を得候刻ハ御奉公申上度念願ニ而御座候
此段 段々存様子とも御座候へ共其段ハ此已前佐渡様御隠居
可被成との儀ニ付
太守様へ御理申上候時委曲書立懸御目候間際唯今省
略被候右之心中ニ而罷立候事御条此度江戸江罷越
御六様江之御奉公聊諫意を可存覚悟ニ而御座候へ共無十方
私事に候ヘハ御奉公之道と存儀却而御奉公ニ不被成事も可有
御座候豫所に申仕合ニ御座候間私身を挨申段努々心ニ懸り不申
候条然上ハいか様に成行申候共右之心中ニ而罷在候と被思召
可被下候返々嶋原ニ而存儘之御奉公を不申上候処御指物を
被為 拝領候儀最と可申哉迷惑と可申哉世上之者のおもハく
何共難弁奉存候 就其若むさと誠身ニても成行候儀千萬
残多奉存候
佐渡様不被成御座候而ハ御家之果初ニ而御座候と奉存候条
何卒被遊御養生 御六様御守立被成候儀乍憚御尤ニ
奉存候
母ニて候人江も私儀之内々御奉公一念ニ奉存罷在候列ニ相
替て可申置儀無御座候ヘハ各別ニ書付不仕通可被仰下候
せかれともの儀成行次第ニ被遊可被下候 御奉公可成様ニ生
立候ハヽ御奉公仕候様ニと奉存候 吉松儀御奉公仕候様ニ御座候
共廿ゟ内ハ御見計被成押立御奉公ハ不仕様二と奉存候 扨又
若私指物を吉松に被下候事御座候共御理申上候様に
仕度候 身躰を果候共御指物拝領不仕様ニ被仰聞可被下候
此段吉松ニ為被仰聞候奉存候 吉松をも當所に仕候乍去吉松
何そ御奉公をも仕つとめ御座候ハヽ其段ハ何様ニも沙汰仕候
様ニと奉存候 左膳儀ハ尤不及申候 彼せかれの儀ハ幼少之時分
より證人ニ遣置せかれの心ニも無是非存儀と可有御座哉と
不便に存候条可然様ニ奉願候
一娘共之儀如何様共 佐渡様御はからひ次第ニ而御座候