織田信長の二男信雄の五男である。綿考輯録は長岡信友を、藪内匠の娘壻と紹介している。労を惜しまず紹介すると、慶長十六年(1611)項に次のようにある。
「今年長岡主膳信友御家を被立退候 信友ハ織田信雄の二男(ママ)也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城御預被被置候処、今度御立退、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従四位下ニ叙任、二万石被下候・・」
藪内匠は藪伊賀守の子、中村一氏に仕え六千石を領していたが致仕、後豊前にて忠興に召し出されて一万二千石を領した。藪家系図は「女・長岡主膳信友嫁、織田出雲守再嫁」と記している。信友及び出雲守とあるが、同一人だろう。
信友(高長)は天正18年(1590)生まれとあるから、豊前を放れたときは21歳である。父信雄から呼び戻されたのだろうか。兄信由がなくなった(寛永3年-1623)後、その子信昌の後見を信雄から命ぜられている。そして、寛永6年(1629)、父信雄の隠居領・大和宇陀松山31,200石を相続することになる。ウィキペディアによると、正室はいないとされるが、五男六女があり、二男が宇陀松山藩を相続、三男は寄合交代衆、四男は上野小幡藩主と枝葉は栄えている。さて藪内匠女、信友の嫁となり、出雲守に再嫁したというのは、どういう事情があってのことだろうか。どなたかご存知であればご教示いただきたい。
ちなみに父信雄は一時期北畠(木造)具教の婿養子となり、義父を殺害して北畠家を乗っ取ったとされる。信長亡き後三法師の後見を務め織田に復姓したとされる。具教女との間の子が信由、信由の正室は下津棒庵女である。高長は信由とは異腹である。
熊本における、このような事情はウィキペディアも御存知ない。