津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(八-了)

2021-04-23 17:52:31 | 沼田家文書

          一御手に付候佐治長兵衛ハ勘ケ由殿従弟にて候 山口三郎
           右衛門・同権兵衛・井口甚五兵衛同三歩此四人ハ庄林隼人
           牢人にて候 外壱人山場与左衛門ハ長岡休斎様牢人ニ而
           御座候事
          一御親次連より頼にて戸嶋左傳次殿熊谷助之進
           殿被参候事
           軍師・
          一肥後守様御下之上にて小田原夕庵 子孫小田原武兵衛于今被勤居候 御意被
           成候者今度長崎にて勘解由舩備兵具之飾様古法ニも
           有之事かと御尋夕庵御請に惣而軍法と申ハ今度

           勘ケ由仕たる様子至極之儀大将被成たる古来乃
           儀を法る定め置たる事に聞へ申候由被申上候 御前
           を被仕舞候て如此申し上候由被申候叓
          一御組小平野哉時右衛門殿同茂左衛門殿同三郎兵衛殿同四郎
           右衛門殿同作右衛門殿被召加候叓

                後合飛騨守殿       
         一鍋嶋殿    舩弐珀艘余   一立花左近殿   舩大小六拾余艘
         一松平筑前守殿 舩後拾艘余   一小笠原信濃守殿 舩大小弐拾五六艘
                            一日根野織部殿 舩弐拾艘余   一寺沢兵庫頭殿  舩大小五拾余艘
         一松平美作守殿 舩大小六拾余艘 一高力摂津守殿  舩大小廿五六艘
         一長崎舩四端五端六拾余艘
                                   右合千百七拾壱艘
                                御家人数六千四百五拾人      舩大小四百三拾弐艘
                                    内
          六拾三ハ  早舩七端ゟ十三端まて 四拾五 小早四たんゟ五端まて
                               百八拾四艘 荷舩七端ゟ拾四端まて
                               船頭加子四千百九拾六人
                                   合
                               壱万千三百壱人
                               右之通ニ而カリアン御出陳之始終明白に相知レ申候叓

                    (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(七)

2021-04-22 06:36:23 | 沼田家文書

          一勘解由殿御手之舩繫り被仰候様は舩を陸地之備立の
           如く袖をならへ■に碇を入舩之間は互に催合を
           とり何程の風にても浪にても舩振り直不申候様に
           つなかせ敵舩に舳を一面に並へ弓鉄炮も舳之武者走り
           ■横に■をいわせ筒先を敵にむけ立奈良へ鑓さし物も
           ■之間に立物急に舩ヲ出す時は■の碇綱に大明キ樽
           をゆひ付其樽に書付をし碇をくり上不申樽のきわより
           切間の催合も切即時に押出す筈ニ被究候て御家
           の跡勢諸手松平隠岐守殿御舩を常々舩牌り之ことく
           ■具を初め常々舩飾の如ク兵具を手作りに飾り申候
           御家之跡勢参り候時勘解¥家由殿一手之舩かゝり武具
           の立様之如く皆御仕置候叓
           但此時は御家之は鴈行敵前を過るに従イ舳を敵
           舩に向け申候叓
          一跡勢木鉢勘ケ由殿陳場と一所に御越候跡勘ケ由殿

           備之頭小笠原備前守殿備にて御座候 勘ケ由殿右之手
                   〇是ゟ備前守殿組之御鉄炮頭御並ヘニなしニ新九郎殿
           先キ山田新九郎殿舩と同並に舳を並へもあいとらせ候事
           不成候 此方之舩より舩丈ケ下ケ此方之■綱を其方
           之舳の催合に取可被申候 此争イ六ケ敷終にハ新九郎殿
           理に叶舩丈ケ下ケ催合とられ候事
          一勘解由殿二拾丁の小早にて諸手往来被成候 此定供
           村越傳兵衛・佐伯宇左衛門・坂井奥左衛門三人に御定置
           諸手之勤三人之者仕候 其外中小姓歩之者乗合に
           拾丁立小早壱艘下々に拾挺立壱艘にて供相勤
           申候叓
          一敵舩帰候被も弐拾丁に召御押通り被廻候手下知
           被成候 弐拾丁に乗申候者元舩之かひの口に御自身
           御建て壱人宛御差圖にて御乗せ候村越弁兵衛・佐

           伯宇左衛門児小姓に高月権兵衛・坂井奥左衛門差物役
           に古川次郎兵衛此五人御乗せ其外ハ壱人も御乗
           せ無之候 甚御氣色悪く御怒り候而御座候 此とき
           戸邊兵太夫と申歩之者覚悟を極メ弐拾丁に届
           たる様子勘ケ由殿御覧届候てにこ/\と御笑兵太夫
           事諸方に御使者御申付可有之間十丁立ノ小早に
           乗弐拾丁にさし添可参よし御申付候時参と申
           拾丁立小早に乗申候小早のかこの内に病氣ものか
           色悪敷物壱人御座候己ハ早色ヲ失ヒ居候敵舩に
           舩押叓ハ成間敷候間元舩之かこと代り候へと替へ
           可申と平太夫仕候時元舩之御船頭八左衛門と申仁申分
           法に違たる儀ハ不成と替仕を不申平太夫ハかへ可申と
           既に御船頭と諍論におよひ申様子に付伊藤源之允間

           に入様々八左衛門頭を云ひかこを替させ申候叓
          一自分馬乗冨田少助・坂井半左衛門・伊東源之允・村越
           八左衛門・浅利九郎左衛門・原喜太夫・中村左次右衛門・逸見■
           之允親権之允名代庄司一郎兵衛親作右衛門名代坂井
           半右衛門子
           奥左衛門具足を御着せ御仕上げ申候 同手傳仕候者ハ村越
           傳兵衛・高月権之助都合ハ馬乗分十弐人にて候事
           光利公
          一肥後守様御下着に付候三かい栖楼舩壱艘二かい栖楼舩一
           艘此二艘渡邊作之允裁判かこい舩壱艘完宇多長
           門同甚助・三好権之助同半右衛門・志水太郎兵衛・在間次左
           衛門・江藤太郎兵衛・渡邊平左衛門合k人皆御船頭之

           面々御手に付被申候叓
          一肥後守様江戸より長崎江監物殿勘解由殿方へ
           御書被遣候 御両人江當り申物其通銘々へ被遣時ハ監物
           殿へ如此比仰遣候と御案文を勘ケ由殿へ被差下候叓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(六)

2021-04-21 06:21:30 | 沼田家文書

          一藪市正殿事最初より勘ケ由殿組に加り御越候に付
           是も元組頭米田監物殿御越候ゆへ元組へ御返シ候 跡
           勢戻り申に成り候得は市正殿も清田石見守殿組之
           明石源左衛門殿も御残り又勘ケ由殿組に加り被居筈
           に候源左衛門殿ハ其上御横目ゆへ其首尾を被知候て
           石見守殿へ御尋候得ハ勘ケ由殿組に戻り被申候
           市正殿も監物殿江被相尋候得ハ右は勘ケ由に加リ
           被申候得共我等参り被帰候上は同前に被帰筈
           候と監物殿被仰候 市正殿氣に不入候間勘ケ由殿へ
           無御尋組之舩にも戻り候との下知もなく被帰候
           其後勘ケ由殿御聞付候て市正は戻被申筈には
           無之候 即跡呼返シに被遣候得と監物殿へ被仰連候
           に付監物殿ゟ呼返しに使者舩被遣候得共藪市
           正殿不被聞入被帰候に付亦監物殿家来真隅

           瀬兵衛に一々被仰含め追懸ケかば嶋まて七里余り
           様々事を分ケ瀬兵衛申連候得共無同心熊本へ
           被帰候 監物殿御立腹にて市正組大事之侍頭無
           しに仕筈にて無之候 然上は監物残り市正組之裁
           判か有とて御残候 勘解由御横目明石源左衛門殿権太
           夫殿を御使にして監物殿去迚は御分別違にて候今度
           肥後守家来之内長岡監物・勘ケ由左衛門と四方に聞へ
                       御番方之事
           可申候組之下知を仕損し監物残り馬廻り之頭に
           成り勘ケ由下知に御入候と相聞候而は自分之外聞
           は其通り 殿様之御為ハいゝか可被成哉市正ハ我等
           呼に遣可申候 市正参り候間は組中私之候 下知可仕候
           監物殿は無兎角に早々御帰候へと被仰遣 監物殿
           然上ハ伺御差圖可申とて御帰り候 扨市正殿へ勘ケ由

           より御帰り筈にて無之候 早々御越候へと呼に被遣候 市正殿
           熊本へ前番着翌朝勘ケ由殿より呼飛脚着申候ニ付
           勘解ケ由殿より御呼候ハヽ可参とて朝五つ過に熊本打
           立即跡長崎江御越候事
          一跡勢戻り候跡歴々衆余之舩に咄に参被居我舩
           にも不帰咄しかゝりの舩より被帰候衆も御座候に付
           肥後守様御下知之上にて長崎一巻に迷惑被仰付衆
           あまた有之候得共左候而ハ頭々も御通難被成に付御穿
           鑿不被仰付候 兼々御意被成候由之叓
          一敵舩御助御返被成候旨諚渡候 然れとも若高
           わこより内にて石火や打申候ハヽ御踏潰可被成旨被仰
           渡候高ほこようちうの入口にて諸手の陳所より凡
           壱里餘り間有之候 石火矢打候とき中々懸合不申

           方に之可有之と勘ケ由殿思召候に付政所江御出
           明日敵舩御返し被成候前高わこ近所にて石火矢
           打候ハヽ御踏潰し可被成と被仰渡萬一打申候とき諸手ゟ
           かけ合不申敵舩逢で候手は異国之聞へもいかゝに存候其
           御用心に 肥後守人数を分ケ高わこに被遣被下候得と
           御届候得は政所之御衆其儀不思召寄所にて候尤之
           届にて候間左様に被仕候得と被仰渡候 明ル未明に舩
           とも分ケ被遣筈之処に筑前守殿御聞付政所江御出御届
           候は肥後守人数を分ケ高ほこ江被遣わ候由我等儀ハ請

           取前之叓に候敵舩出浮き候得は我等陣場は一入わと遠く
           成り候条高わこへ我等人数を被遣候得と御届候 政所衆
           御申分に其段は勘ケ由届之不申先に被仰聞叓に候間
           御人数を可被遣候 肥後守殿人数は加勢之儀に候間

           差留可申との儀にて御座候 其段勘ケ由殿差留
           来り候 平野弥次右衛門殿早く高ほこへ御越御聞付候間可備
           哉と勘ケ由殿に尋に参り候態も御家の人数之内遣
           ■に候事幸にて候間其まゝ高ほこへ御座候様との事
                            にて松平筑前守殿御家の手を心許なく思召けり
                            乗舩に編笠を御着左候而御家の備之間を■両度御
                            見廻其後筑前守殿人数乗候早舩五十挺六十挺程之
                            大舩五艘敵舩と御家の備之真中に取切かゝり仕候
                            舩の中を見に侍斗乗り兵具も不見鑓斗武者走
                            に伏置舩之屋形之戸障子まてはつしひそまり申候
                            必両度乗込覚悟まてに見へ申候事

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(四)

2021-04-18 07:55:00 | 沼田家文書

          一此高同ニ縄場普請之内に 殿様御人数陳所土居之前に
           て御座候わんとう入込敵舩に間遠く候に付此所より
           間近き木鉢之瀬戸へ勘ケ由殿御届候に付舩かゝり
           直し候刻敵舩より咎メ不申候様に一艘二艘完物静

           かに遣シ其舩数ふゝ時分跡より右之通に段々可遣旨
           政所御衆被仰渡候 勘ケ由殿ハ高不この縄場御見
           繕故此舩直りの下知も平野弥次右衛門殿に御申付
           候へと度々被仰含候 左候間勘ケ由殿高わこへ
           御詰居候処小舩直り右之被仰付何連も守り不
           被申手々に舩を乗出し舩せり合に乱見へ候に付
           勘ケ由殿以の外御咳 公儀之首尾はてたる仕合
           御もた■弐拾丁小早にて急き御帰候に右之先手
           乱れたる御陳所之様子鍋嶋殿先手鍋嶋七左衛門
           被見候而二拾丁小早に而御陳所に見繕に被出候所に
           勘ケ由殿高ほこより帰りに七左衛門被申候ハ御備さ
           たち申候を見及申候に付様子可承と存是まて罷
           出候と被申候 勘ケ由殿返答に少しも別条之儀無

           之候 木鉢江陳所を直し候に様子を申含候処に若き
           もの共舩せり合を仕と見へ候ニ付高わこより帰り
           申候相易叓に候ハヽ互に可申合と御申七左衛門被帰候
           何と御下知候哉 公儀之首尾はてたる仕合にて候と
           御申候へは弥次右衛門殿返答に私儀も左様ニ存再三
           留メに遣し候得とも何連も聞入不被申候に付ケ解由殿
           御申分貴様元ト舩に有なから大事之下知使たてに
           て何としてきけ可申哉なせ弐拾丁にて乗廻り御
           下知無之候哉と御申候へは御尤と斗りの返答にて
           勘ケ由殿御申分は物馴たる弥次右衛門なと是程
           下知不届之筈にて無之と御申候叓
          一政所の御評定に筑前人数少ク有之候付隣国へ加勢
                             長岡御免        正斎息ク又正斎ヵ
           を被仰付と定り申来り候 米田監物殿・小笠原備前殿
                  後号立白
           清田石見殿・細川刑部殿此四人御越候 高わこ縄場出来
           之相■ニ而候 監物殿高ほこ江御越勘ケ由殿江も對面にて
           被仰候は高わこ波荒く間違之処に縄を御引せ候事
           悪敷御座候木鉢の内瀬戸にて波もなく間も近く
           御座候 是は船橋を被仰付候得は御心安儀と監物殿
           御申候 元より政所の御衆も木鉢に御心付御口出候得共
           右よりの諸而の大将/\■みを含ミ不聞入様子無
           余儀と思召不被仰付候故監物殿御申分幸木鉢に
           舩橋可然思召と被仰渡候 就夫諸手ゟ舩橋之普
           請之叓勘ケ由殿へ申含候得共勘ケ由殿御申分我等
           儀高わこの普請申付候 舩橋之儀は監物裁判迄

                    本ノママ
           答にて御構イなく候監州世話仕候間私は不存候間
           監物可被仰談と返答にて御構イ少しも無之候 其後
           鍋嶋七左衛門勘ケ由殿に被逢監物殿御申分にて舩
           端で氣最早帯をとき心安仕合と被申候叓
          一勘ケ由殿御壱人の時は毎日長崎江彦左衛門殿御出候
           監物殿御越候而より一日代りに御出候事
          一去時監物殿長崎より御帰りに勘ケ由殿御舩に御寄
           長崎表替叓も無御座候 政所三人衆貴様へ御傳言之由
           心得可申すと被仰候に付勘ケ由殿昨日罷出候刻御禮
           可申と御申候 翌日勘ケ由殿御出御對面ノ上にて昨日
           監物参候に御傳言被参候得とも内談事にて逢不申候
           と御申候ゆへ勘ケ由殿御當惑被成候 天野屋所江御帰候

           て如此ノ仕合なり昨日之首尾ハ如何と御尋左右尋申候ハ
           昨日監物様御出候得共御逢不被成候 終日私所江昼寝を
           被成御帰候 惣而御前様御出被成候には一度として御逢
           不被成事無御座候 監物様御出には三度に二度ハ何
           角被仰御逢不被成と申候事

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(三)

2021-04-16 07:42:09 | 沼田家文書

            長崎黒舩一巻之叓 此儀光尚公御代之内      参考:正保四年長崎警備の図 
                    (ニ) 

          一七月朔日之朝夜明に肥前之内茂木と申所に御上り
           長崎江壱里真中に茂木峠と申大きなる坂御座候
           明石源左衛門殿組二十挺に候得とも足軽居合不申漸
           十人被連御鉄炮十挺持せ先立御押候 長崎町江入口にて
           勘ケ由殿御装束道服立付にて御出立被成直に政所へ
                       延武
           御出供之人数ハ同苗御息三左衛門殿被召連長崎御宿
           平戸町にて平戸屋助左衛門と申者之処へ御着勘ケ

           由殿政所江御出馬場三郎左衛門殿・日根野織部殿
           高力摂津守殿御對面此三人之衆より思召之外早ク
           御越之由にて段々被仰渡壱万三千の人数連レ参
           候よし御申候 舩場先土居之首に可被居候由にて夫より
           平戸屋助左衛門所へ御帰り政所御衆江御付人寺本
           八左衛門殿奥田藤右衛門殿御付候よし之事
          一阿蘭陀舩作り様大方黒舩に似候由に付様子御覧
           有度と政所江御届候に相叶政所付之与力衆一人
           通詞壱人天野屋佐太郎被召連候得と差圖にて
           阿蘭陀舩御覧其晩暮自分に土居之首に舩とも着候
           注進有之御乗候御組衆夜に入り追々着舩之事
            其比左近
          一柳川立花飛騨守様御家老十時三弥其時分高木
           之湯に入滞留之内に柳川勢も御出し候得と有之候付

           三弥高木より直に長崎江被越候 勘ケ由殿御越候
           其次に三弥被参候 柳川勢は家老矢嶋主水と
           申仁大将にて跡より着舩之事
          一政所江諸手の大将/\伺公一座頭に勘ケ由殿其次に
           平野弥次右衛門殿次に肥州之家門鍋島山城此仁ハ鍋
           島信濃守殿之国腹之御息之由家老ハ多久美作先手
           に鍋島七左衛門此仁は源塘代々之地頭 次に十時三弥矢
           嶋主水 寺沢兵庫頭殿より御家人守津縫殿之介並河
           太左衛門 松浦肥前守殿は松平筑前守殿後陳ゆへ諸事
           小笠原信濃守殿家来小笠原次郎兵衛番頭長岡
           久兵衛此久兵衛は勘ケ由殿伯父にて有之ニ付勘ケ
           由殿舩に見舞其後家老小笠原次郎兵衛も見舞被申候
           稲葉能登守殿よりも使者被参勘ケ由殿舩に見舞

           嶋津修理太夫殿より大身の使者長崎之津に大舩弐艘
           にて被参候 苗字は三原と申名は不知嶋原江も此仁
           親被参候由其時は三原左衛門と申由沙汰仕候 此方江
           通路は無之候事
          一右大将/\寄合之上ニ而政所衆被仰候ハ黒舩之儀
           江戸江被伺候其内に順風を見敵舩出候事も可有之候
           其用心に諸手より瀬戸へ大綱を引かけ當候様に
           可被仕候 木鉢と申候内瀬戸にて間も狭く是も政所衆
           被仰付度御口振にて候得とも左候ては當番前松平
           筑前守殿陳所斗此内に成加勢之諸手は大網
           はり切外江成候に付何連も不被聞入諸手の外よう
           ちうの入口高同こと申瀬戸口六十餘有之をはり切
           可申と一同に届被申相叶政所衆諸手之大将無余儀

           届所と思召被仰付候由扨一家中切に海上に大舩を
           まくはり其上に大綱を引帆柱を立中にも大綱を引
           渡申候 御家のハ勘ケ由殿下知にて大舩を間近く懸
           ならべ其上に横弐間余にむらなく大綱を引キ其
                   スガキ
           上にて丸太木を簀■の如くかき付ケ間壱間合宛に
           合掌を左右より立棟木所にても大綱平五通り
           二枚竹のことく大綱を引せすかきの上に人数何程もかけ
           通り防申候様にと被仰付出来仕陸地へ不相変様子
           にて御座候事

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(ニ)

2021-04-15 06:22:07 | 沼田家文書

            長崎黒舩一巻之叓 此儀光尚公御代之内      参考:正保四年長崎警備の図 


          一正保三年ニ長崎へきどう外どう舩可参風聞仕候ニ付
           光尚公
           肥後守様御上り前に被仰出候は御人数被出筈ニ候ハヽ
           米田監物・勘ケ由可被遣候 一組被遣程之儀に候ハヽ勘ケ由
           可参候 監物組より藪市正・谷内蔵之允加り可参候 平野
           弥次右衛門・同茂左衛門・同四郎左衛門・同作左衛門勘ケ由組ニ入可参候
           鶴崎より御舩を呼置勘ケ由組之足軽役人共遠役
           等不遣熊本外曲輪内之普請を申付候へと御意にて候

           其年は黒舩参不申別条無之候事
          一翌四年其前に勘ケ由殿より殘る御老中へ被仰断候は
           長崎表之儀去年は舩不参候 當年は参る事も可有
           之候 去年御意之通に御手當被仰付可然由寄/\
           御催促候得とも何も御聞入無之候間靏崎より御舩も
           御呼寄無之勘ケ由殿組之足軽役人等も鶴崎方々へ
           遠役へ被遣居申候 然處に六月廿八日に長崎表へ南蛮
           舩二艘見へ候由入津之葡萄舩共申候由廿八日之晩方
           加勢之御人数被出候得と長崎政所衆より被仰趣ニ付
           俄に長岡式ア少殿・明石権太夫殿一同に御出勘ケ由殿
           も御出にて被仰候は如此可有之と存度々相届候に何連も
           御聞入なく候 監物殿へ貴様先御越之筈にて此勘解由ハ

           跡に残り居候ハヽケ様にハ仕間敷と 殿様御身躰にて
           隣国之叓ニ二千三千御出し兼延引候而は天下之御外聞
           不可然候 先年私儀御相役に被仰付候刻 殿様御意被成
           候は存寄之叓候共大方の儀ハ多分に付候へと被仰付候
           に付何事も不言候て聞入居候得共伯父子の或ハ家老之子
           のとて御脇の■なる仕合にて何角有之か若き
           殿様を家老奉行として欺シ申候 我等は罷越打死
           仕候 御横目衆御為を被候ハヽ此一々可申上候跡々之御為
           と存数年之鬱憤不残申置候 唯今相果て候而も存残
           す叓無之早参候と御立候得は式部殿玄関まで御老
           中不残御送り出御暇乞にて候 監物殿被仰候ハ一向に打死
           を可被仕候 扨も惜敷叓殺したむなき仁と涙を御流し候由
           金ノ間を近来唱
           扨火ともし候時分に御帰り候 御組中は杢之間座敷に御寄合

           候處に御帰り候て右之一々御語り早何も被帰候而随分
           急き御打立候得と追参在々ゟ人数参候を御待受夜
           五ツ時分に熊本を御打立沢村宇右衛門殿御壱人壱丁目
           勢屯迄御出迎暇乞蓮臺寺の渡り中程にて向之塘に
           松明熊本之方へ急き候を御覧候て川尻ゟ之注進に出迎
           承り候へと御申佐伯宇右衛門と申手廻りの頭走向ひ承り候に
           飛脚ノ者申候は勘解由様へ興津作左衛門殿ゟ之状を持参仕候
           と申候に付宇右衛門請取上申候川中にて灯烑を寄御覧
           候に御舩拵出来仕候間御急き被成候得と申来候付夫ゟ
           壱人御馬を早メられ御急き候 夜の内に河尻へ御着町口ゟ
           直に御舩可召候間乗舩之居所を見て参候さまにと見せに被遣候
           舩場御舩一艘も見へ不申候に付立帰り其段申上候處ニ御舩
           も乗申候御舩頭苗字は失念八左衛門と申仁紺之帷子

           葉大根ちらしたるを着いたし私は御召舩に乗申候
           御船頭何之八左衛門と名乗申候 直に御乗有之候間御
           先へ乗り候へと被仰候 御茶屋之前になり申候間川向ひを
           御覧候得は松明万燈之如くにて御舩おろし申候が御召
           舩はどれがにて候やと御尋八左衛門申候は只今向に御誘し
           申候が御召舩にて御座候と申候に付以之外立腹にて
           御茶屋に御入り候玄関前まて興津作太夫殿御出迎存之外
           早く御越被成候と被申上候得ハ舩拵出来之左右急き
           参候様にと注進被申候 直に可乗候間舩は何連にて
           候やと御申候得ハ作太夫殿返答不成候 そこにて勘ケ
           由殿刀を被押直扨々作太夫不届に候不出来之舩を出来
           候と被申注進被仕たるハ我等に難を付か申ため舩拵ハ
           出来被急候へと注進申候得とも勘ケ由速ク参り候と

           可申ため僞を被申越候 勘ケ由ハ早く参候得とも作太夫
           油断にて舩拵不出来仕合故勘ケ由は御茶屋ニ大■を      ■寝か
           仕居り候と言上いたし切腹すへき由御叱候て夫より御
           引籠り御しん成候 其後御用事候得共作太夫殿直に
           御出夫被成候間取次を以被仰達仕合御舩拵暁迄漸々
           五ツ過ぎニ出来候間勘ケ由殿召舩四拾六町・御嫡沼田三左衛門
           殿御舩四拾弐丁結舩四拾弐丁余米横目明石現左衛門殿舩
           四拾弐丁此四艘漸々出来合二十町小早其外ハ小早共
           にて出舩被仕候叓
           但南蛮船可参哉と風説御座候へつるハ正保二年
           之由御座候泉水之間に御具足櫃なと出居申候由
           然とも参り不申候 其年之十二月於八代 三斎様被遊
           御卒去勘解由殿八代江明ル秋まて御座候得共三年に

           何之物音も無御座年々過正保四年六月廿八日
           唐舩参り候由申来候 且又此出舩之刻丹羽龜
           之允殿より川尻御茶屋ニて暇乞之使者参り
           龜之允殿拝領之九曜御紋附御帷子二ツ御紋付
           肩衣斗熨斗を添追付御帰陳可被成よし
           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記2・延元様御一代諸事御勤一帳(一)

2021-04-14 06:40:50 | 沼田家文書

                                                 延元(延之)様御一代諸事御勤一帳   延元は寛永元年に死去しており、以下の内容は息・延之の事跡である。

            御家御代々御出陣之時分御留守居役御断之事
          一先代加藤忠廣公落去之刻肥後陳と申候時分長岡

           佐渡殿ハ豊後杵築領地肥後筋にて候間被召連候
           勘解由延之小倉ノ御留守を被仰付候て兼て天下へ
           被召上置候は国本之儀長岡佐渡守・長岡勘ケ由ニ申
           付置候得は氣遣成事無御座候 御自身は何国にても
           御旗本へ馳付御奉公可被遊と被仰上置候間左様に被得
           可申旨被仰付候 勘ケ由御留守居之断被申上候内に無程
           肥後国無事に成 忠利公御拝領勘ケ由御留守居と
           有之候を心外ニ思召借銀に事寄小倉江御座候内弐知
           行一国ニ差上られ百人扶持被下候様にと御届候
           忠利公之御意に勘ケ由此申分にてハ定而馬乗共
           咄出し可申候 久敷家来共に候熊谷右馬之允・永井惣右衛門

           冨田小助各別の者共ニ候間知行其侭に御自分より
           被為拝領其外之馬乗とも當前の扶持方従
           公儀各別に可被為拝領候由之事

              嶋原陣之時之事    
            本ノママ永ノ誤
          一寛十四年嶋原陳之時分御城御定法に御人数
           出候叓有之砌は勘ケ由に御留守居被仰付と御極置候
           忠利公近日御下り被成由に付御詔訴可被仰上と御待

           候処に熊本へ御寄不被成白川鹿来瀬を勅に川尻へ
           御通御出舩被遊候付兎角之無了簡夫より嶋原へ
           以使者御詔訴一番に冨田杢之允右杢之允帰り不申
           居留り居申候訳ハ寛永十五年二月廿七日本丸に乗
           込本陳石垣下にて討死仕候 二番に伊東源之允・村越
           惣左衛門事
           傳兵衛・加来八郎兵衛段々被遣候 光尚公間に御入御扱

           此度は伺御意可申候重てハ 光尚公御談合被成候と
           被仰遣候得共承引無御座候 其後之御断にハ石井清兵衛
           を被遣候 早二月廿八日落城之跡に参着仕候事
          一嶋原御帰陣之上にて御家中御侍中御働之程御吟味相極
           候後江戸へ御参勤明る六月爰元へ御下着被遊候
           七月の時分より勘解由方御留守居之御断取極被
           仰上候之取次之衆津田三十郎殿・松山権兵衛殿・田中又
           助殿・明石権太夫殿・熊谷九郎兵衛殿・丸山左京殿此節
           此六人衆を為御取次之御談合にて勘ケ由存分之
          一筋之御紙面故右之衆中餘り無艶御文体に候間私とも
           可通リ調見可申由にて両方を被兼繕たる帋面故勘ケ由
           同心無御座候 然上は馬乗中江二通之紙面被見せ候とき

           坂井半右衛門・取井見候而勘ケ由殿帋免ハ餘り無艶御座候
           又各様へ被成候共急ぎたる御帋免此一大事之詔訴ケ様之
           儀にては中々埒明申間敷候由申候得とも然は半右衛門
           存寄に調へ見せ候様にと御座候に付相調懸御目
           候得は勘ケ由殿御心に叶此紙面可然とて其通に
           御書物調被差上候事
          一御書物上り候上にて然ラハ一陳にハ可被遣と被思召御同心
           無之に付其刻奈良より西源院と申出家下り被居候を
           御加へ御扱せ候得とも勘解由方合点不仕候 其後隔番に
           可被仰付旨御免ニ候得共是も御合点無之候 兎角御留守
           居と御座候儀何ケ度も御断可申上よし一筋に
           極被仰上候 ■ハ御讃談決不申候事
          一去夜長岡佐渡守殿ゟ呼に参勘ケ由殿も御出被成候

           大叓之場に極り候故詰に参り者共覚悟を極メ一左右
           を今やと待居候処に伊東源之允刀を取裏玄関より
           出跡より佐渡守殿御屋敷へ参候 其様子冨田十左衛門
           坂井半右衛門目を見合兎角不申候処に浅利九郎左衛門・原
           喜太夫両人刀を取可出と仕候時十左衛門・半右衛門両人を押留
           申聞せ候は各不心得にて候 跡より何十人参候共旦那
           之あたりへも不寄佐渡殿玄関前にて闇々とはて
           申事に候 最早旦那は捨り者に御成り行候 一左右次
           第に御嫡十五朗殿を押立云合置候如く熊本中を
           引請はたはりなき心得と申に付浅利・原至極仕留り
           申候 其夜も御別条無御座候叓
           其後重長岡佐渡殿より呼に参り御出候座席に坂崎
           内膳殿御一座ニ而勘ケ由殿申分を被聞候而然は勘ケ由

           殿御意を御背キ候哉と被申時勘ケ由殿返答に推参成ル
           被申様出頭をかさに着てか佐州の聟と被存左様に
           被申候哉あたまより御意を背き御断申候と氣色を
           変し御申候時佐渡守殿間に御入勘ケ由殿其訳にて
           無御座候 内膳も兎角被申間敷候と御取持にて無別条
           御帰候に門を打せ可申旨御申付候 扨馬乗り中泉水の間
           に被召出段々を被仰聞ケ様に有之迚殿様へ少シも御恨ミ可
           申上訳にて無之候 如斯申候とて妻子をかはひ申にては
           少しも無之と大誓言を御建て我等不仕合久敷其方共一日
           とても心あき叓に不逢不及是非候得共其方共我等一人
           切腹可有由御申候 冨田十左衛門座順に居申候か立破り申候
           に付何連も進出仕候 次の間に出十郎左衛門申候は皆ともへ
           對し可有御切腹よし空虚を御つくし候と申候時半右衛門

           申候は名誉を御申氣か違たるものにて可有之と申を
                                 〇御花畑へ聞エ
           たく/\御聞ふこと御笑にて候 扨門を御打せ候事当番之
           勘ケ由殿取籠り被申と
           御小姓頭丹羽龜之允殿詰被居候ニ付冨田十郎左衛門・坂井半右衛門          
                                  セキ・本ノママ関ヵ
           処へ手帋ニ而勘ケ由殿御申付候共各乍在門を打せ被申
           筈ニ而無之候 急き被備候へと申来候得共両人聞入不申候 然処に佐
           渡守殿御出何と仕たる仕合にて候哉此佐渡有間ハ勘ケ
           由殿此難に可逢哉と御高声にて■両度涙を被拭御通
           り候 勘解由殿奥江御はつし候て氣色悪しく奥に
           罷在候間不懸御目候由御断被仰候 左候ハヽ常々奥様江も
           懸御目佐渡にて候間夫に通り可申と御申に付了簡な
           く御出御相對候 佐渡守殿毎々被仰分候間此佐渡参候而
           取持候上は御難に成申間敷候私に御任せ候と被仰門を
           明させ御帰候叓

                     (続く)                                                                        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記(1)‐延元様玄也公御一代之御儀覚書(四・了)

2021-04-13 06:52:40 | 沼田家文書

                                             延元様玄也公御一代之御儀覚書(四)
          
評議に不参     一延元様一比大備之頭被仰付御裁判被成候中に 忠興様御
           在国之時分筑前と御出入御座候而御城江御家老中御
           備頭中其外歴々被召集御評儀御座候節御老中御出候
           御座敷へ 延元様も御はいり被成候様にと御意御座候江共
           延元様一切御請不被成御様体にて其間江も御入不被成候 就夫
           被成御意候は惣而勘解由が我等申候儀は氣に不相と相見

           申候 心安不被存何ともすまぬ人にて候 向後何事も不頼候と    
           御意に御座候由之事
備頭を断る     一其後 延元様御組御断被仰上候趣は私儀不調法に御座候て
           組の裁判仕候儀致めいわく候間私組を長岡右馬助ニ御願
           可被下候 私儀も右馬助組に罷在り談合指引きは可仕との
           儀に御座候 此御断り如何可有御座哉と及異儀申候得
           とも 忠興様何事も御頼被成間敷と被仰候上は御六ケ
           式儀御さいばん被成訳にて無御座と御中被成御組被差上
           延元様を右馬助殿組に被成御座候叓
延元すねる     一忠興様御念比に御座候江共 延元様ハ何とそ被思召候
           御内存も御座候哉御一代 忠興様へ御す祢被成在故君
           臣之御中不可然よし御座候 されとも 忠興様御儀頼
           にても諫にも不被仰御崇敬はッ結構成儀にて御座候

           よしの事       
           光尚様御代正保二年之比 延元様八代之御仕置に
           被成御座候節熊川之上だんと申所へ川狩に御出被成
           候刻八代之御侍衆も御同道にて御座候 衣笠平兵衛
           殿被申出候は肥後へ御入国之後 三斎様京吉田より
           初而八代へ被遊御入城候刻小倉道中被成候時門司江被寄
           御舩古城御順見被成右之備共被仰出此城を願置候
           大名に被成あの水の手を本丸へ取込候程之身体に可被
           仰付と被思召時分を御伺被成候得共生得異風仁ニ而終に
           左様に被仰付時節も無之御志も空成候由御意候旨
           御物語にて御座候事
大坂城普請場での  一同五年大坂始之御普請 延元様も御登り被成御普請
喧嘩仲裁       中御勤労被遊候 大頭衆長岡佐渡殿・有吉頼母殿・長岡

           右馬助殿・牧左馬允殿尤 延元様を右馬助殿組に被成              
           御入御登り被成候 此御普請之刻 忠興様数ケ条之御
           掟出申候内九州衆之内若喧嘩出入りなと御座候刻は御一門
           中之儀は不及申嶋津殿・加藤肥後殿なとハ見頃か申又
           関東衆と九州衆喧嘩御座候ハヽ黒田甲斐守殿御中悪
           敷候共筑前江見頃可申旨被仰渡由に御座候 然處に

           或とき加藤肥後殿家中と黒田甲斐守殿衆と於御普
           請場喧嘩仕出騒動いたし候節 延元様ハ御小屋に被成
           御座候時分にて右之様子被成御聞弓鑓之矢具御持せ
           被成大勢被召連早速御普請場へ御出肥後殿方に被成
           御座候 何も杖棒にて御座候処 延元様武具を御持せ
           御出被成候に付様子相見へ申候其刻
           公儀御普請御奉行衆も楼の御紋に御座候而 延元様御出

           被成候を御見届け喧嘩之時荷擔ハ 公儀御法度候処に■之
           衆にて候哉と被仰候得共 延元様一段御尤に奉存候 何之

           家中衆にて候哉御法度を被背候と御鑓横に被成御下知
           被遊候振に御もてなし無前条御普請場へ御通り被成候
           されとも喧嘩無事に相済申候 其後御普請場御奉行衆
           より佐渡殿・頼母殿御呼被成今日於御普請場喧嘩之
           刻越中殿衆と相見へケ様之容躰之仁 公儀御法度之
           儀を被相背候其後石之上に被上杖をつかれて威儀事々
           敷様子にて被居候何と申仁にて候哉と御尋に付御両人
           ご迷惑被成佐渡殿被申候ハ長岡勘解由と申 越中守不遁
           ものにて門司之城に召置申候 惣して氣張に御座
           候て 越中守申付候儀も氣に相不申候得ハ不承候
           様成る生得之者に御座候 何とも迷惑仕候由被仰分候

           得は御奉行衆も如何様勘ケ由殿にて可有之と存候        
           常之仁体とハ見へ不申候由被仰何之相替儀も無御座
           其分にて御座之由申候事
           此喧嘩之刻 延元様見事成御作法に付而肥後殿
           家中衆致太慶 延元様を称美仕頼母敷存其後何事
           も御家中と申合せ一味之ことくに御座候由其刻
           木村宗賀も先代飯田覺兵衛致供大坂に罷立
           肥後殿家中之取沙汰承り候よしに御座候
延元逝去の事    一寛永元年 忠利様御代ニ番目之大坂御普請御
           座候 此時分より 延元様少々被成御煩なり 然とも
           為御養生御登り被成御氣色も能御座候 されとも
           御氣色■と御座候に付御上京被成相国寺之脇寺

           を御借被成御養生被成候 通仙院馿庵御薬被差上其後   
           大醫衆被成御服用候 延元様も従 公儀被進御■御上京
           被成様々御療治に御座候得とも終に御快氣無御座
           同年八月十三日に御遠行被成候 御年五十三相国寺門
           前にて御葬り被成相国寺之峯長老引導奉号
           永源院殿道号ハ鉄山玄也大居士相国寺守家林光院
           に御頼御石塔等今有之
           林光院は御先祖より之お寺にて玄也様御一門
           中様も御住持被成候儀も御座候由申候左様之故に御座
           候哉林光院住持替り申候時は 延元様御代に

           也候而も被伺之後住定まり申候 肥後へ御越被遊候以後
                本ノママ脱字か
           之儀も絶申候由と御座候
          一孝子 延元様高野山普賢院にも御位牌安置に罷

           成月々御茶湯怠慢無御座様に御追善被成候     
           真光寺御位牌御石塔御座候を承應之比肥後へ
           御引取被成安国寺得被成安置候事

             以上
           寛文十二年九月日

           右沼田家記之内延元様玄也公御一代之御儀覚書一篇十弐葉
           宮村氏雑撰録牧弐拾七所載也(上妻博之氏写)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記(1)‐延元様玄也公御一代之御儀覚書(三)

2021-04-12 06:51:11 | 沼田家文書

                                             延元様玄也公御一代之御儀覚書(二)      

延元留守居を命ぜらる    一元和元年五月大坂御陣之節 忠興様 権現様之御味
            方を被成御手廻り迄にて被成御上り 忠利様ハ惣御人
            数を被召連陸路を御越被成候時 延元様江小倉之御留守
            居被仰付候間門司には 延元様を被召置小倉へ被成御出
            候得との御意に付 延元様被仰上候ハ小倉江罷出候得
            との儀ハ随御意可申候 御留守居之儀は迷惑仕候 此段ハ
            幾重にも御断被仰上候 其外之儀は何事にても可畏
            入候 御留守居役被成御免ケ様にと強而被仰上候に付如御届
            成申候所之御断 忠興様御意に不参故に御座候や
            延元様江豊前一国之山奉行被仰付御さはき被成候 其後

            御国中取遣之舛之判をも被遊候様にと被仰付候 舛之判ハ     
            何とそ異風なる御判被成度と御意之由に御座候 いまに豊
            前よりの小舛御座候に菱之下に一文字の焼き印御座候ハ
            延元様御判にて御座候叓
一国一城令      一此時節天下一国一城之御仕置に付門司之御城も割
            申候に付 延元様も小倉へ御引越被成候叓
宮本武蔵の決闘    一延元様門司に被成御座候時或年宮本武蔵玄信豊前へ
            罷越二刀兵法之師を仕候 其比小次郎と申者岩流之兵法
            を仕り是も師を仕候 双方之弟子共兵法之勝劣を申立
            武蔵小次郎兵法の仕相を仕候に相究豊前と長門の間
            ひく島に出合後岩流嶋と云ふ 双方共に弟子壱人も不参筈に相定仕
            合を仕候処小次郎被打殺申候 小次郎方ハ如兼弟子壱人も不
            参候 武蔵方ハ弟子共数人参隠居申候 其後に小次郎蘇生いたし候へ共

            彼弟子とも参合後にも打殺申候 此段小倉へ相聞へ小次郎      
            弟子共致一味是非とも武蔵を打果申と大勢彼島へ参申候
            依之武蔵難遁門司に遁参 延元様を偏に奉願候ニ付
 その後の保護     御請合被成刻城中に被召置候に付武蔵無忝運を開申候
            其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗りに鉄炮
            之者共御附被成道を致警固無別条豊後へ送届武蔵親
            無二と申者に相渡申す由御座候事
筑前罪人の返還    一何時分の儀にて御座候哉他国之取遣之儀長岡佐渡殿と
            延元様へ被仰付御勤被成候刻筑前より科人小倉へ走り参
            居申候 其節は黒田甲斐殿と御中悪敷最中にて御座候
            得とも大犯人にて御座候哉付届ヶ御座候而彼者被召捕
            筑前へ被遣候 延元様ゟ坂井半右衛門佐渡殿ゟ元橋彦之丞
            と申す鉄炮両人にて走者を召連筑前黒崎之城主井上

            周防へ相渡申候 周防家老大崎彦右衛門と申者罷出挨拶      
            仕候 其時彦右衛門申分豊前ハ小国にて御家中手狭御座候に付
            可様之科人も早々被召捕被遣候 筑前ハ領内廣く御座候
            得は重て走り者参り候とも知レ不申儀も可有之なとゝ
            申につき坂井半右衛門返答仕候は被仰分合点不参候 国之
            廣狭にてより申間敷候今程天下一統之御代にて江戸
            よりの御仕置政敷御座候に付遠国彼嶋迄も一国のことくに
            罷成候 越中守儀は江戸之御仕置を堅相守り申候に付
            科人なと領分に居申候を無穿鑿に仕儀にて無御座候
            何様甲斐守様御仕置ハ緩せに御座候と相見へ申候 奉
            公人ハ不知儀に候得は向後如何様之儀にて国を立退申
            候共御国は西国之能高野山と存頼母敷存候と申候得ハ
            彦右衛門赤面し由に御座候 両人能帰候段 忠興様達

            御耳先様之様子御聞可被成御意ニも両人御城へ登り      
            申候 忠興様障子越に御聞被成所に半右衛門段々之次第
            具に申上候得は無残所返答仕候 物をよく申候由御褒美
            被成候由御座候叓
            大崎彦右衛門と申者は関ヶ原陳之刻石垣原にて
            大友家吉弘嘉兵衛首を申侍ニ御座候
多阿江戸證人に    一同四年正月おたあ様為御代 延元様江戸へ御仕立被成
            お多あ様御下り被成其暮か翌年平野九郎右衛門殿へ御祝言
            相調申由ニ御座候叓
忠興側室との再婚   一同年の秋 忠興様御下向被成候而 北之丸様を 延元様
            御内室に可被遣と被仰出候得とも 延元様御同心無御座候
            御内證にて色々御異見等御座候得共切腹被仰付候得共
            此儀御請被成間敷との儀に御座候 其時分 忠利様ハ

内記忠利の説得     内記様と申中津に被成御座候 延元様と御挨拶能御座候         
              〇内記様と申仲津ゟ夜遠シに小倉江被成御越直ニ
            に付延元様へ被遊御出種々様々に御扱御異見被遊
            貴殿切腹於被致は我等介錯可致候 其段に成候儀ハ無是非
            思召候間如何様に候ても此儀御同心可被成候 無左候ハヽ
            中津へ御帰不被成候間御感涙にて被成御意候に付て無據
            御請被仰上 忠利様もご満足被成被遊御帰候 左候而其
            暮か翌年か御祝言御座候叓 北之丸様後に号永寿院殿
      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記(1)‐延元様玄也公御一代之御儀覚書(二)

2021-04-10 06:37:53 | 沼田家文書

                                             延元様玄也公御一代之御儀覚書(二)

           一右之三御大将芝野ニ御座候處へ延元様被成御越候      
            細川玄蕃殿興元 延元様之御鑓を御持候而御出小兵衛
            骨折申候 鑓を可被成御覧候 サゝラノ如く成申候よし被仰候処
            右衛門太夫殿正則・左馬助殿嘉明如何にも見届申候無比類働
            のよし御褒美ニ御座候 其時 忠興様御意候は沼田小兵衛
            と申我等不遁者にて御座候拙者小身ゆへ僅成仕合ニ申付
            置申候一廉御褒美嘉被成候間随分情を出し候様にて御直
            に被成御意候由御座候
            弥十郎儀岐阜中納言殿へ御奉公申儀不籠城仕候
            中納言殿下城に成候時分侍四拾九人之内にて御座候
            延元様鑓を被成候相手瑞勝寺大将分之儀も林斎
            能存知候手語申候由御座候 林斎又御家に参り御奉
            公仕候
           一同九月十五日関ヶ原御合戦惣而関ヶ原大合戦にて競を味
                              本ノママ
            方に申候に付鑓相申候と早速敵敗軍仕候 打に成申候
            故御高名も無御座候由薩摩の落武者川上四郎兵衛と申候
            侍 延元様生取被成候得共御助薩摩へ被遣候 其後豊

            前へ御国替以後川上処より使者差越御高御の御禮を    
            被申波平中脇差・種ヶ嶋の小筒一挺進上申候 其時分
            まてハ種ヶ嶋の筒中々他国へ出し不申候多分嶋津殿
            より被進たるものにて可有御座候よしに御座候事
            此波平の脇差細川若狭珠様へ玄冬院様御■物に進候
           一同年 忠興様岐阜関ヶ原の依御軍忠豊前国被成
            御拝領同六年豊前へ御入国被遊候 豊後ノ内に六万石
            忠興様御領分御座候 此所関ヶ原一乱ニ亡所仕候ニ付
            延元様と長岡佐渡守殿御両人豊後御仕置として
            御先に御越被成所々之儀被仰付豊後より直に小倉江
            御越被成候事
            此時豊後安岐と申所にて伊藤十兵衛所に御宿被成
            其節御約束被成候に付十兵衛儀門司へ罷越
            延元様江御奉公申上候 十兵衛儀ハ伊東源之丞親に
            て御座候
           一忠興様豊前へ御入国被遊門司之城 延元様被成
            御預ニ付門司へ御居城被成候 与力両人御付被成候 三百石
            沼田藤七殿・二百石荒木善兵衛にて御座候 大坂御陳以後
            一国一城に被仰付時分元和元年之比まて十四五年之間
            門司に被成御座候 御在城之間御城内外所々古来之縄張
            等被成御替 延元様思召候侭に依被仰付候 毎年御普
            請絶不申被盡情候御普請により小倉より御鉄炮頭就
            役人等参候 御城割申候刻もすきと坪之手相不申候由申候事
江戸證人の始まり   一関ヶ原御陳以後慶長六七年之比諸大名之證人幷陪臣
            ■々之證人をも江戸江被召上依之西国筋江ハ鵜戸兵庫殿
                                  本ノママ
            江戸より被差下西国方御吟味被成候事付 忠興様を門司へ

            被成御越兵庫殿被遊御馳走候 此時於門司御城兵庫     
            殿を 延元様被成御振舞候 忠興様御相伴被遊候由ニ御座候
            御家中より証人被遊上は 延元様長岡佐渡殿・有吉内膳
            殿・長岡肥後殿本名飯河此四人ノ證人被差上に究申候 然處に内膳
            殿ハ病死被成肥後殿ハ子細御座候手切腹被仰付候に付
            延元様・佐渡殿御両所ノ御證人まて被差上候事
           一同七八年之間に 延元様為御證人御息女おたあ様江戸へ
            御登せ被成候段 権現様三拾人御扶持方被仰付候 御代々
            府相変天下陪臣の證人被成御赦免り迄御扶持方被為
            拝領候事
            此時諸国より男子之證人被差上候には五拾人扶持
            女子之證人にハ三拾人扶持方御定法ニ究り申候
            長岡佐渡殿よりは松井与二郎殿被差登候付五拾人

            扶持被為拝領候 忠利様御代に肥後へ被成御入国
            候以後有吉頼母殿・長岡監物殿證人被差上是も定
            詰に御座候得共 権現様以後證人にハ
            公儀之御扶持方不被定候事
           一門司御在城之間 忠興様忠利様江戸御往来被遊候
            自分ハ毎度門司隼人にて御門出御国入之御振舞御嘉例
            に被成候 御道具なと被成御拝領刻も御座候叓
           一同十一年江戸御城を御築被成候に付右御仕置のた
            め御奉行 延元様も御上り伊豆網代に久しく
            被成御詰候叓
           一同十六年八月御子息三五郎様御早世被成候 号真
            光寺殿門司ニ新光寺と申候御寺被成御建立候事
           一同十七年九月御内室様御病死被成候 号大陽院殿
                                                                                      延之ヵ 
            冨小路左衛門殿と申候公卿之御娘延元様御母公ニ而御座候叓
           一同十七八年之比嶋津兵庫頭殿義弘 小倉江御越被成候刻
            延元様江も儀と御使者にて時服等被進候事


      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沼田家記(1)‐延元様玄也公御一代之御儀覚書(一)

2021-04-09 06:45:40 | 沼田家文書

沼田家記と称する数種の文書が上妻博之先生書写の「上妻文庫」に存在する。
80数頁に及ぶものだが、今年初めに読み下しにチャレンジしてみた。私的に留め置くより皆様に楽しんでいただきたいと考えてご紹介することにした。
綿考輯録などでは伺えないことがいろいろ記されており、十分お楽しみいただけると思う。
原本の複写版をお持ちの方は、間違い等にきづかれたらご指摘を賜りたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         延元様玄也公御一代之御儀覚書

    一元亀三年壬申申月日不知京都御誕生   
     字小兵衛後長岡勘解由左衛門延元
    一御父道安様 称沼田勘解由左衛門清延後称道安 御代公方家江被成御近習
     若狭国隈川城主永禄八年 公方 義輝公号光源院殿
     為三好氏御切腹被成候以後 道安様御牢人被成其後丹後へ
     御越
     忠興様ニ御懸り被成中山ニ居城被成候 延元様も同中山ニ
     被成御座候由之事
    一延元様御幼少之時分より御意智荒ク御座候よし御若輩に
     被成御座候刻中山之御城御日待御座候ニ付御城内を際
     濟被仰付御信心被成候處に御夜食之出申候時分御料理
     人衆御意に違申候とて延元様抜打ニ彼者を御成敗被成候
     就夫 道安様御勘當被成向後御對面被成間敷候間
     
     急度御城を御出被成候様にと被仰候 延元様被遊後牢人候
     御覚悟被成候処に早々御出被成候得と御使及再三申候 然処
     坂井金内と申者 坂井武兵衛祖父 二之丸に罷在申候ニ付御袋様ゟ
     延元様御儀 道安様之被損御機嫌唯今御牢人被遊候間
     可然様頼思召候由御使者御座候 依之金内早速罷出
     延元様を奉留則金内所ニ隠置申候 其後御詫言御座候而
     御父子様御中直り御座候其時之御褒美
     延元様ゟ道安様御細工ニ御打被成候御鞍金内に被為
     拝領候由御座候事

    一其後御小姓衆屋根の繕をいたし候迚ひさしの上に上り   
     居申候彼者何とそ慮外を働申候哉延元様ひさしに
     御あがり被成御小姓を御手打ニ被成候 此者脇さしを抜合
     申候 然共深手にて御座候處に村越久右衛門 村越惣右衛門祖父

     其侭屋根へ上り彼者を下タへ突落し久左衛門もとび下り    
     留を指申候 御小姓脇差を持なから落申候 其とき何と
     仕候哉 延元様御額に少し當り其疵之跡後迄
     御座候事
    一延元様丹後に御座候時分ハ後牢人にて被成御座
     忠興様と御従弟ニて御座候に付御威強く御育被成
     候由ニ御座候事
    一文禄元年より高麗陳同六月 忠興様朝鮮江御渡
     海被成候に付 延元様を被成御供高麗江御渡海永井
     惣右衛門・富田少助御供に罷越候 延元様廿一歳之御時なり
    一慶長五年上杦景勝於會津謀反之時節
     権現様會津へ御出陳と申候刻 忠興様之被成御供

     延元様を御立被成候 然所に石田治部少輔関ヶ原表江出張

     に付會津江ハ御出馬無御座候 権現様関ヶ原へ御向被成候   
     日八月廿三日濃州岐阜之城御攻被成候 城主岐阜中納言
     秀信公 秀信公ハ信長公之嫡孫・城之助信忠公之長子也 御先而 忠興様福嶋左衛門太夫
     殿・加藤左馬助殿此御三人芝野にて被成御覧候所に瑞龍
     寺ニ而 延元様鑓を御合被成 延元様ハ瑞龍寺之砦へ
     上下拾二三人にて御上り被成候所に上より勇々敷武者上下
     六拾程にて真黒に成鑓を可仕と訇り坂を下り申候処に
     延元様中々鑓を可参と被仰坂之中程にて槍を御合せ
     暫く御突合被成彼武者を御突被刎候処に下之谷へころ
     び落申候 則谷へ御下り首を御取可被成と被仰候得とも深キ
     谷にて御座候 其上合戦半にて御座候に付其分に

     被成此武者樫江左近と申候中納言殿内にて番頭瑞龍
     寺之大将分にて御座候よし 延元様廿九歳の御時なり

     御家来之者互に太刀打せり合御座候内に敵の大将   
     討死仕候に付敵散々に成申候 此時敵方の袖しるし赤根
     に白き輪違付申候を拾三本其外鉄炮等分捕仕候刻吉

     例の家珍に被成是より武具の御紋輪違を御用被成候由
     永井惣右衛門・富田少助手にあひ両人共手負申候 永井三助
     と申者も其場へ参りかせき申候 御手廻りの者三人御供仕

     参骨折申候者とも御帰陳之上御取立被成御加恩被下後
     々迄御奉公仕候三人ハ永井又三左衛門・田邊市之丞・中村
     弥右衛門

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする