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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本史学・内容細目(41~49号)

2017-11-30 17:51:58 | 史料

「熊本史學 第41号」

   1 熊本における寄生地主制の展開
   2 矢部・津江地方の菊鹿への依存性
   3 熊本県史料 中世篇補遺 (二)

「熊本史學 第42号」

   1 大友氏の肥後支配
   2 中世城郭岩野獄道祖古城について
   3 熊本県史料 中世篇補遺 (三)

「熊本史學 第43号」

   1 天保期熊本藩政と初期実学党
   2 熊本評論と人力車夫同盟会について
   3 中津・八代給人に関する一考察

「熊本史學 第44号」

   1 戦国期における領主裁判権の特質
   2 中世後期九州の土豪について

「熊本史學 第45号」

   1 中世後期山間庄園における農民闘争の展開

「熊本史學 第46号」

   1 縄文時代遺跡の地域的検討
   2 百姓寄合噺 史料紹介

「熊本史學 第47号」

   1 肥後藩における村高について
   2 九州における民党の形成過程

「熊本史學 第48号」

   1 明治10年代後半の革命思想
   2 和名抄益城国府についての一考察
   3 肥後藩における農民家族の推移
   4 仁一噺

「熊本史學 第49号」

   1 肥後藩の百姓一揆について
   2 木原氏の益城国府説批判
   3 白山御祭礼記録-玉名市山田-
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■小田原三左衛門殿

2017-11-30 08:24:45 | 人物

                          指物  紺・朽葉之染分 上ニ鳥毛 

 小田原三左衛門の「指物」の図である。名前年代から6代目であろうと思われる。
遠祖は小田原姓で三河守を名乗っており、関東の小田原に由来するお宅かと思っていたが、細川家家臣略歴をながめると「こ」の項に入れられており、姓の読みは「こたはら」ではないかと思われる。三河守は豊後大友氏の家臣である、諱を艦秀という。「こ‐たはら」と考えたのは、大友氏の有力家臣に「田原=たはら」氏があることによる推測であるが、これは確認を要する事柄である。
webで検索してみたら、若杉昌昭氏の論考「大友氏の戦国大名化」にその名前を確認することができる。
残念ながらまだ「先祖附」を読んだことがない。11月28日(火)~12月4日(月)熊本県立図書館は蔵書点検のため休館中である。
少々待って先祖附を取得してみたい。

 

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■御家流習字の稽古

2017-11-30 06:52:51 | 徒然

 しょっちゅう古文書に触れていると、読むほうは何とか七・八割方読めるようになったが、書けと言われるとこれは全く書けない。
明治~大正~昭和を生きられた上妻文庫の上妻博之先生の、達筆な毛筆による書写記録を拝見するにつけ、先生のご努力の凄さに驚き感じ入るばかりである。
初見の人であれば江戸時代の人の筆跡と思い込むであろう。
読めない一文字を一時間も二時間もかけて読み解くのに悪戦苦闘するこの頃だが、書くという能力が全く備わっていないのも原因であることは間違いない。
そこで最近筆を購入して、時折習書にチャレンジしている。
以前筆に慣れようと思い「般若心経」を写経したことが有る。これはすぐ頓挫してしまったが、今度は楷書ではなく御家流の崩し字である。
筆の運びも判らない。時折WEBで筆順などをチェックしながら、「崩し字用例辞典」を横に置いて、悪戦苦闘中である。
(崩し字は筆順に関係ないものもあって、訳がわからん・・・)

 

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■下津久馬殿

2017-11-29 15:33:58 | 人物

 何人もの人が久馬を名乗っているため、資料が出てきても人物の特定が出来ずまことに困る。
この人は嘉永五年の日付から、八代もしくは九代目であることが判るが特定は難しい。
下に記するように下津家は久我右大臣家の流れである。初代将監の弟は、東久世家の祖・通簾である。
各代が細川家中にあって重職についている。

差し物の「七段ザイ」の「ザイ」の意味が解らずにいたが、某サイトに彩祓(ザイ)の作りかた」 という記事があり、「木遣の方々が用いる祭具の一つ」と判明した。
感謝・・・

 

■ 下津縫殿  (南東51-1) 
     久我右大臣道堅(道興) ・・・先祖附には久我右大将道興とある
     棒庵(三男 将監 宗秀 捧庵トモ) 
              (織豊大名家臣団辞典西国編-細川氏-下津氏)    
             元鹿苑寺僧、還俗して加藤清正臣(加藤家侍帳:弐千二十七石四斗九升)
    1、将監(内記宗政・有安)
             (1)人持衆、番頭并組外衆 千石 
             (2)千八十三石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             (3)△八十三石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・ママ
             (4)御知行御合力米御御扶持方被遣衆・現米十三石余 (寛文四年六月・御侍帳)・・有安
             弟・東久世家祖-通廉
    2、縫殿・休也  人持衆併組迯衆 千石 (真源院様御代御侍名附)・・清吉
               沢村宇右衛門組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)・・縫殿助
    3、久馬・通久  人持衆併組迯衆 小笠原組 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    4、久馬・宗顕  千石 着座御備頭 十番 屋敷・宮内
    5、久馬(吉次郎・通政)
          下津久馬 名は通政、質直人を愛し、剣槍射法に長じ、又茗利に深し。
               最も俳諧を嗜む。
                 安永七年十一月三日没す。年五十六。

    6、政之助(久馬・将監)
              明和八年六月~寛永元年十月 小姓頭
              寛政元年十月~寛政九年十一月 御留守居大頭

    7、久馬       寛政十二年九月~文化五年七月 小姓頭
              文化五年七月~文化六年五月 奉行(大奉行助勤)
              文化六年五月~文化八年一月 大奉行

    8、勇熊(久馬)  文政十二年九月~天保三年十一月 番頭
              天保三年十一月~天保十年二月 奉行
              天保十五年九月~弘化五年二月 番頭
              弘化三年四月~弘化四年四月 鶴崎番頭

    9、熊人(久馬・縫殿・工馬)   千石
              嘉永七年四月~文久三年三月 番頭
              文久三年三月~慶応三年三月 小姓頭
                   慶応二年二月縫殿ト改名
              慶応三年十月(大組附)~明治二年五月 番頭
              明治元年閏四月~明治二年二月 大奉行

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■熊本史学・内容細目(31~40号)

2017-11-29 08:37:41 | 史料

「熊本史學 第31号」

   1 天草島原之乱の史的研究
   2 相愛社の研究
   3 楠原出土の装飾文家形石棺について
   4 薩摩藩記録「茸山騒動記」
   5 北岡文庫記録略解
   6 八代地方の古瓦出土遺跡一覧表

「熊本史學 第32号」

   1 中世阿蘇社領の豪族屋敷跡について
   2 島原における一揆発端の事件の分析

「熊本史學 第33号」

   1 大江義塾雑誌の研究
   2 肥後藩農村における名子
   3 宇土市栗崎町城ノ越古墳出土の三角縁神獣鏡

「熊本史學 第34号」

   1 但馬国正税帳をめぐる諸問題
   2 熊本県下山神遺跡出土のジョツキ形土器
   3 熊本県山鹿市桜町環濠遺跡調査報告
   4 国郡一統志 寺社総録 一

「熊本史學 [第35-36号]」

   1 大化前代の肥前
   2 九州における南北朝内乱期の性格
   3 中九州に於ける弥生後期土器について (一)
   4 中九州に於ける弥生終末期土器の諸問題
   5 国郡一統志 寺社総録 二
   6 小川夢物語
   7 熊本県嘉島村剣原出土箱式石棺-粘土枕・二体合葬の例-
   8 二人居た剣聖丸目蔵人

「熊本史學 第37号」

   1 文治の一国地頭職
   2 肥後国葦北郡農村の家族構成と隷属農民
   3 小川夢物語 (二)

「熊本史學 第38号」

   1 阿蘇社(遺稿)
   2 近世初期の手永の諸問題
   3 球磨川の舟運

「熊本史學 第39号」

   1 中世鋳物師組織の推移試論
   2 年の神弥生遺跡
   3 小川夢物語 (三)

「熊本史學 第40号」

   1 九州における豊臣御蔵入米(地)について
   2 天草地方の始原文化の一側面
   3 熊本県史料 中世篇補遺 (一)

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■雑色草書(15)

2017-11-29 07:21:54 | 史料

 九六
一判屋包銀、間ニは摺破を張繕致通用、紛敷儀も有之様子ニ相聞候、右之類ハ以來通用いたす間敷候、尤上納銀等
 も、於御銀所委ク遂吟味請取申筈候段、判屋共願之趣付て及達候事
  但、御勘定方及通議、相觸候
  右安永九年十一月日帳

 九七
一上方酒幷他國造酒・焼酒共ニ明和四年より商賣被指留、其後も追々及達候處、間ニハ心得違も有之、密々入
 込候様子ニ相聞、不届之至ニ候、依之左之通
一所々津口/\、別て入念、請持外之津端たり共心を付、若紛敷酒樽等見及候ハヽ、無遠慮押置、慥ニ見届候程ニ
 難成候ハヽ、風説たり共早速及内達可申候事
一町在共造酒屋共之儀、都て右改方請込被仰付候條、何れも申合せ心を付、紛敷儀見出聞出候ハヽ早速申出、勿論
 不審之酒樽等は無遠慮相改、不正之儀候ハヽ押置可申出候事
一在中ハ御惣庄屋共心を付、庄屋・津横目共彌以入念相改、町中ハ別當・丁頭・五人組共ニ同前ニ相心得、萬一不埒
 之儀も候ハヽ、先年及達候通、所之役人・五人組ニ至迄屹ト可申付候
 右之通及達、造酒屋中之儀、人別受判一帳ニいたし指出可申段申付候事
  右天明元年正月日帳

 九八
一長六橋河原ニて相撲・芝居興行有之候處、此節より御郡代桟敷掛ヶ候様申付候段、天明元年二月之見せ物帳ニ記有
 之候事

 九九
  「乗懸馬ハ町馬差出候様ニとの儀、且町馬継所幷貫目等之儀ニ付及達候趣、安永六年之觸状扣ニ記有之候條
   時ニ臨ミ吟味之事」
一御参勤之節、乗懸馬は町馬、駄荷ハ在馬ニ被仰付候、前々ハ在馬ニて乗懸も相濟來候得共、當時は乗懸馬却て町
 馬ニ被仰付事ニ付、馬數も相知不申、且旅人入用之手當も仕候間、以來ハ河尻馬拾疋・高橋馬八疋索寄被仰付被
 下候様ニ馬指より願出候、依之及僉議、薩州・求磨両候河尻御止宿之節ハ、如形熊本町馬牽越之達有之事ニ付、
 以來共ニ御發駕之節ハ、馬指如願寄馬之及達筈ニ相極り候事
  右天明元年二月日帳

 一〇〇
一御花畑御方向、若失火之節、町火消之者等御屋根ニ上り候時之儀、先板屋根之所ニ上り防キ可申儀ハ勿論ニ候
 處、不案内之者夜中ニハ分り兼可申候、依之以來板葺之所えは朱丸挑灯を五ヶ所ニ上ヶ被置筈ニ付、右之挑灯を
 目當ニ上り、防き可申候、此段町中之者得斗合點いたし居候様及達候事
  但、右は御作事所受ニて、御手木之者より取計申筈也
  右天明元年四月日帳

 一〇一
一薩州様熊本御通ニ付、御道筋之町内懸々之圓居幷階子と田子五ツ程ニ水を入重ね、番所前歟、其外ニても恰好宜
 キ所ニ指出置可申候、尤後年ともニ其通相心得可申段、南坪井町を除、其外之懸々え及達候事
  右天明元年五月日帳

 一〇二
一横手手永より雨乞ニ付、鐘巻之作り物等如例町内罷通申筈候條、口論ヶ間敷儀等無之様可相達段、新貮丁目・同
 三丁目・職人町・細工町・西古町え及達候、毎鐘巻出候節ハ右之趣申付候事

 一〇三
一在中雨乞之節、町家之者共、鐘・太鼓を打候者に差加り候様子ニ相聞、不埒之事候條、以來屹ト右躰之儀等不致
 様、町中え及達候事
  右天明元年六月日帳

 一〇四
一町在之者、婚儀相整、又ハ縁約いたし候上、内證色々申分有之、媒等を以離縁之相談いたし候ても、其者難儀ニ
 相成候ため、理非之分チも無之、數年縁を切不申輩も有之様子ニ相聞候、各別之譯ニて難致離縁道理も候ハヽ、
 其段所之役人え申届、扶持方等をも遣頂置候儀ハ其通之事ニても可有之歟、左様之儀も無之、數年預置、難澁致
 せ候儀は、理不盡之事ニ付、以來堅右躰之儀致間敷候、若此上心得違之者も候ハヽ、所之役人より遂吟味可申出
 段及達候事
  但、御家中えも一統知せ有之候
  右天明二年四月日帳

                    (一時休みます)
   

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■中瀬助之允殿

2017-11-28 07:26:29 | 史料

 年代からすると四代・助之允だと思われる。
中瀬家初代は松下助三郎・豊長、のち母方の姓に改め中瀬助九郎・豊長と称している。
この松下氏、遠祖は豊臣秀吉が最初に仕えたとされる松下嘉兵衛である。
その二男が石見、その子源太左衛門は加藤式部少輔(明成)の臣であったが会津騒動の節か浪々の身となり、嫡男豊長と共に官途を求めて江戸に出んとする。
旅の途中父源太左衛門が不測の害にあい死去、寛文九年、豊長十二歳の時である。豊永は剣の修業を積み十四歳の時仇敵を打ち取った。
その勇名を聞きつけ仕官の誘いが多かったとされるが、姓を母方の中瀬氏に改めたうえで細川家に仕官している。

                 平四ツ目結紋は松下氏(宇多源氏佐々木氏泰綱流)の家紋である。


■ 中瀬助一郎  (南東26-2) 

     松下石見守 遠州久能城主16、000石 松下之綱 武家家伝-松下氏
     松下外記 (石見二男)    
     松下源太左衛門 加藤式部少輔・臣
    1、助九郎・豊長
               元禄六年九月(廿挺頭)~元禄十二年六月 中小姓頭
               元禄十二年六月~宝永二年十一月 小姓頭
               宝永二年十一月~正徳三年八月 用人
               正徳五年九月(御側番頭之触組)~享保十年七月(隠居)大御目付
    2、助之允 
       中瀬柯庭 名は長徳、助之允と称し、柯庭また文山と号す。細川藩に仕へ禄千二百石、
              番頭たり。別業を南郊に作り惟適園といふ。徂徠東涯等記文を贈りて之を
              賞賛せり。愼庵五畏友の一人なり、明和五年正月十七日没す。年八十一。
              墓は萬日山如意庵。
    3、助之進  比着座 千弐百石 宝暦二年申二月廿七日

               寛延元年七月(廿挺頭)~宝暦二年二月(免)
       中瀬適叟 名は長徳、助之進と称し、白蝶と号す。芍薬花栽培の元祖にして之に関する
              著述あり。寛政十二年七月十日没す、年八十五。
 ➡  4、助之允  大組附 千石

    5、助五郎  千弐百石当時千石
    6、助三郎  御番方・松下清蔵組 九百石
                 細川斎護公御書出(文政九年九月)九百石
    7、辰三郎(助之進・適叟)  御番方十二番須佐美権之允組       
                    同上      (弘化四年二月)八百石 
    8、辰三郎(助一郎)  八百石


      
       参考 中瀬家伝略(上妻文庫-42)
       参考 近世畸人伝 「僧南谷(附録・中瀬助九郎)」

               

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■熊本史学・内容細目(21~30号)

2017-11-28 07:12:21 | 史料

「熊本史學 [第21-22号]」

   1 日本紀略の拠つた書紀
   2 肥後の須恵器資料 (一)
   3 地頭領主制の形成
   4 肥後藩における地主経営の一例
   5 肥後国之内熊本領産物帳

「熊本史學 第23号」

   1 豊後国速見郡湯布院の村落構造
   2 幕末における外圧と討幕論 (一)
   3 曽畑式土器文化に関する一考察
   4 相良藩の寺院帳について

「熊本史學 第24号」

   1 肥後藩の八代新田開発
   2 北島雪山の『国郡一統志』について
   3 御船原における遺跡と出土遺物
   4 熊本市神水町第7号甕棺調査報告
   5 球磨郡宗派別寺院の廃絶調
   6 幕末期阿蘇造酒屋中の諸申談覚書 (上) 馬見原町工藤家史料について

「熊本史學 第25号」

   1 寒巖禪師の銭塘村開発に就いて
   2 浄心寺跡に遺る文化財と沙弥浄心について
   3 願成寺本尊阿彌陀如来と宝治坊の薬師如来について
   4 肥後の須恵器資料 (二)
   5 異国天川より誓の書付

「熊本史學 第26号」

   1 在町的聚楽の変遷について
   2 九州荘園研究上の二、三の問題
   3 熊本県不知火町出町の弥生遺跡
   4 幕末期阿蘇造酒屋中の諸申談覚書 (中)

「熊本史學 第27号」

   1 託麻郡家址調査報告
   2 肥後国神蔵荘
   3 藩体制下における地方神官の専業化
   4 八代地方の弥生遺跡と出土遺物について
   5 小代文書補遺
   6 幕末期阿蘇造酒屋中の諸申談覚書 (下)

「熊本史學 第28号」

   1 規約にみる村落生活
   2 肥後藩における鯨油取扱と鯨油新地
   3 球磨仏師年表
   4 菊池古文書

「熊本史學 第29号」

   1 越前国正税帳の一考察
   2 肥後の検地帳
   3 中村氏所蔵三池文書について-その紹介と二、三の問題-

「熊本史學 第30号」内容細目

   1 条里施行前提としての肥後の自然的基盤
   2 周防国正税帳をめぐる諸問題
   3 肥後藩の年貢について
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■雑色草書(14)

2017-11-27 20:32:15 | 史料

 八八
一町中之者、他國え罷越候節之請合證文ニ、如何様之筋ニて罷越候段申筈之處、近年ハ用事又ハ商賣付て罷越候と
 迄申出候儀間々有之候條、前々之通、何々之用事又ハヶ様/\之商賣ニて罷越候段、委ク書出候様及達候事
  右安永九年二月日帳

 八九
一銭預之儀ニ付てハ、去々年二月屹ト及達置候處、其後も間々不埒之儀有之由相聞不埒ニ候、依之、此已後ハ銭預を
 取候者之方より預出候者之手前得斗相糺、何時ニても現銭相渡候儀、無支者と見定候上、通用可致候、身上見懸
 りも無之者之預を取、及難澁訴出候共、決て御取上無之筈候間、入念相互ニ遂吟味通用いたし候様、家蔵等も致
 所持、現銭相渡候儀無支程之者之預不埒之節は、訴出次第急度御裁許可被仰付候、右之通ニ付借家之者ハ不及
 申、家持たり共纔之身上之者ハ、一切銭預出候儀停止被仰付旨及達候事
  但、去々年ハ熊本町計ニ及達候得共、此節ハ町在一統ニ及達候事
一右之通及達候付て家蔵等致所持、現銭相渡候儀無支程之者之預不埒ニて訴出候節ハ、家蔵ハ勿論、家財ニ至迄悉
 闕所被仰付、可被引渡候、其上ニも銭高及不足候ヘハ、其者身上振立次第訴出候ヘハ、尚又御裁許被仰付筈候事
  右安永九年四月日帳

 九〇
一愛宕山御初穂銀之儀、素銀ニて相納候懸りも有之由、左候てハ殊之外及難澁候由、内意有之候ニ付、以來ハ一統
 ニ判屋包ニて相納可申段及達候事
  右安永九年四月日帳

 九一
一無據譯有之宗旨ハ寺替いたす節は、双方之寺院得斗懸ヶ合、納得之上請込可申處、其儀無之間々出入有之様
 子ニ相聞候、以來ハ新タニ旦那寺ニ頼候寺院より元旦那寺え及取遣、支無之との書付を取候上、請込可申候、
 尤娵(よめ)入いたし候者ハ、向々之宗旨ニ相成候儀通例ニ候ヘハ、右躰之節ハ双方之寺え届ニ不及候、譯有之實方之旦
 那寺ニて居候者ハ、向方之旦那寺え其譯届置可申趣、安永六年九月御郡代より伺ニよつて及達、其段四ヶ所町
 えは翌七年相達、熊本町計達無之候處、此度本因寺と古鍛冶屋町次左衛門と申者申分有之候付て、右之趣、在中
 幷諸寺院えも及達候間、心得違等無之様ニと町中え申付候事
  右安永九年五月日帳

 九二
一火事之節、最寄/\之懸りより根取宅え注進いたし來候處、甚及遅々火鎮り候上、罷越申儀も有之、注進之詮も
 無之候、別て新町・古町方角之節ハ、一向分り兼、馳付も及延引候條、以來ハ新町・古町方角ハ勿論、御郡内之
 火事たり共、程近所ハ火元何方との儀、最寄之懸りより宅々え早速注進いたし候様、急度申付候事
                    坪井堀端
                      河井清右衛門
                  立田口射場丁
                       佐藤彦九郎
  右安永九年六月日帳

 九三
一高麗門内勢屯水道浚方有之候付、町受之所浚候様ニとの儀、御掃除方より達有之候付、重疊遂吟味候處、前々
 右之水道、町より手入いたし候儀一向不相分候、依之御掃除方え段々懸合、及錯亂候趣、於御掃除方分職詮議有
 之、右之所ハ町ニ境候所柄故、以來浚之節御掃除方よりいたし、拾五間半之樋蓋損候得ハ、町よりいたし候様、
 此節相極候條、其通相心得候様可及達由ニ付、右之書付新三丁目別當え相渡、記録いたし置候様申付候事
  右安永九年九月日帳

 九四
一諸願書之内、町人數を離候儀、或缺落達、又ハ一季若黨奉公願之類ニは、類族ニて無之段書加申筈之處、其儀
 相見不申も有之候、以來右躰之達書ニは都て類族ニて無之段相加候様、勿論類族ニて候ハヽ極り之通相心得可申 
 候、且又他國え罷越候節之證文ニは、今迄類族有無ハ書出不申候得共、是亦以來ハ類族有無書加候様ニ申付候事
  右安永九年十月日帳

 九五
一大坂・長崎え之送り證文、御奉行中えの殿文字、是を調來り候處、根取より之當上ニ付、格之通此通調出候
 様達之事
  安永九年十一月日帳

          ■の文字  

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■河喜多治部右衛門殿

2017-11-27 08:29:57 | 史料

 ガラシャ夫人に殉死した河喜多石見の三男家の11代目である。
             11、甚助(治部右衛門)
               
文政十三年八月(三拾挺頭)~天保三年正月 鉄炮五十挺頭・後用人ニ転

 茜色の旗指物だとされるが鉄炮五拾挺頭にふさわしい見事なものである。
 ヤフオクで入手したが届いたらコピーを取って色付してみようと思っている。

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■熊本史学・内容細目(11~20号)

2017-11-27 07:22:19 | 史料

「熊本史學 第11号」

   1 装飾古墳弁慶が穴調査報告
   2 熊本における明治産業資本の史的性格
   3 九州風土記(甲類)の平安中期撰述説への一批判
   4 明治初年熊本県関係農民騒擾録 (三)
   5 野原八幡宮祭事簿 (一)

「熊本史學 第12号」

   1 水前寺廃寺の塔礎石群
   2 八代高子原村花奴組成立の母胎
   3 熊本の教育における新旧勢力の対立

「熊本史學 第13号」

   1 九州における突起ある横穴式石室墳
   2 卑彌呼と壱与について
   3 桧垣嫗集成立私論

「熊本史學 第14号」

   1 地方寺院の師資相続
   2 近世における一在町の変遷
   3 薩藩における「門」の人的構成とその史的考察
   4 続日本後紀の分註
   5 米原村庄屋日記 上
   6 明治初年熊本県関係農民騒擾録 (四)

「熊本史學 [第15-16号]」

   1 菊池氏の起源について
   2 八代高子原村花奴組の成立
   3 アイヌにおける異世代婚
   4 小川町年ノ神古墳
   5 益城郡家考
   6 鹿本・玉名地方の旧要道の考証
   7 熊本県の焼畑
   8 野原八幡宮祭事簿 (二)
   9 米原村庄屋日記 (中)

「熊本史學 第17号」

   1 八代高子原村花奴組の成熟 (前篇)
   2 変質期における球磨の荘園
   3 天草学林河内浦説の提唱
   4 本渡に鎭種は居坐つた (上)
   5 池辺寺考
   6 清代満州語音に現われた蒙古語音の影響
   7 米原村庄屋日記 (下)

「熊本史學 第18号」

   1 細川藩災害損毛誌
   2 八代高子原村花奴組の成熟 (後篇)
   3 本渡に鎭種は居坐つた (下)
   4 肥後の仏像彫刻-その一-
   5 五木村の衆議について
   6 中村廃寺について

「熊本史學 [第19-20号]」

   1 少数民族の歴史によせて
   2 肥後の仏像彫刻 (二)
   3 隼人征伐史
   4 上納銀よりみた村財政
   5 きりしたんころび証文
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■松崎勝三郎殿

2017-11-26 09:15:27 | 史料

    ■ 松崎 傳  (南東36-7) 
    1、助右衛門   
          (1)一番長岡右馬助組 五百石 (真源院様御代御侍名附
          (2)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・助右衛門
          (3)御鉄炮頭 五百石 道悦
    2、傳助(助左衛門) 長岡帯刀組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    3、助市(傳助)
    4、才兵衛(養子 実・弟) 
           御詰衆一番・奥村安差衛門組 預知在宅・五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    5、甚蔵・半将  
          (1)五百石 御小姓組二番御使番御奉行目付 屋敷・古京町
          (2)御鉄炮頭 五百石
                 
享保十二年十月~享保十七年九月 奉行・後弐拾挺頭ニ転
    6、卯平太  比着座 五百石 宝暦七丑
                 
宝暦二年九月~宝暦五年二月 中小姓頭
                 
宝暦五年二月~宝暦七年二月 小姓頭
  ➡ 7、勝三郎  御鉄炮拾挺頭 五百石
    8、卯平太  御番方・木下平馬組 五百石
    9、勇八(九郎平)  御奉行副役 五百石
       
          天保十二年四月(留守居切米取触頭)~天保十五年九月 
                                        高瀬町奉行・長柄頭ニ転
                 弘化四年(穿鑿頭)~嘉永三年七月 川尻町奉行・目付ニ転
            九郎平恒 安政六年十二月~文久二年六月 奉行副役    

    10、栄太郎(宇平次・傳助・傳)  五百石
         
松崎小岳 名は惟貞、傳助と称し、後傳と改む。又小岳草廬主人と号す。世禄五百石、
              奉行副役を経て奉行、用人等を勤め、維新後は権大参事に任ぜらる。
              明治十三年八月没す、年四十七。墓は宇土郡網田村西宗寺。

                
 明治元年十月~明治二年二月 奉行副役
                 明治二年二月~明治二年八月 奉行・後権大参事

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■雑色草書(13)

2017-11-26 09:11:26 | 史料

 八一
一今京町樋蓋之儀、惣て樋蓋又ハ水除等有之所ハ摺板を敷、損不申様引通シ可申旨、今度及御達候條、摺板無シニ引
 通候節ハ指留可申段、別當より依伺及達候事
  右安永七年十月日帳

 八二
  「寛政元年より
 一此鑓印白ノ四半ニ紺ノ定紋を用」
一火事之節、町方根取出役之砌、晝ハ引両付之昇を持せ來候處、以來ハ銘々之鑓ニ紅浅黄切裂之印を付、為持申筈
 ニ相極候事
  右安永八年五月日帳
                                               
 八三
  「天明三年八月
 一町中ニ馬を繋候儀ニ付尚又達之事
  同七年十一月廿ニ日、尚又惣月行事西古町惣左衛門呼出及達候事」
一町中ニ馬を繋候儀猥ニ相成、不埒之至ニ候條、以來屹ト心を付、近隣相互ニ申談、馬繋之錧有之所ハ壹疋ツヽ錧
 ニ引付繋置、或ハ杭を打繋候ハヽ杭を軒下ニ引付、壹疋ツヽ繋、聊往來之妨ニ不成様、此紙面も寫候て相渡候
  右安永八年六月日帳

 八四
  「安永七年八月十九日
  火廻幷盗賊改役被仰付候儀、觸状扣ニ觸」
一火廻御物頭通之節、町家之屋根ニ上り居候者ハをり候様子ニ相聞候、屋根よりをり候ニ不及事候段及達候事
  但、火廻御物頭え御家老衆より尋有之、ヶ條書を以達有之、右書付ニ付札を用、添書ニて相渡り候、本行
  之達ハ其ヶ條之内ニて候、委敷日帳ニ記有之候
一右御家老中より之添書之内、町中之形儀左様ニハ行届申間敷候條、聊之儀ハ咎メ不被申、兎角、町中も迷惑不致
 様被心得、足輕共えも申付有之候様ニとの儀、且一通り之儀ニ候ハヽ、町在之者ハ何方何某、奉公人と相見候ハ
 何之何某家來何某と申儀承せ、其段御奉行迄被申達候ハヽ、相應ニ■(締)方可申付候條、僅之儀を咎、猥ニ打擲不致
 様可被申付趣相見候、其外ヶ條書等ハ事ニ臨ミ、日帳吟味可致候、前段之儀ハ尤要用之ヶ條ニ付如此稜立置候事
  右安永八年十一月日帳

 八五
一失火之節、御奉行衆え之馳付之儀、出京町ハ御構御土居外之事ニて、火本之遠近相知不申儀も有之由、依願右輪
 番被差免候事
  右安永八年十二月日帳

 八六
                  御客屋料理人
                       上職人町
                          權右衛門
                          武右衛門
 右両人、失火之節御客屋馳付請持、御客屋支配役より依達申付候、尤外ニ蔚山町より貮人請持之儀達有之候得
 共、職人町之外ハ、輪番を以、田子番等請持候事ニ付、御客屋馳付定請持之儀ハ難及達候事
  右安永八年十二月日帳
   「安永九年三月
   右御客屋馳付ニ付、町並番公役被指免度段達有之候へとも難叶段申達候也」

 八七
一今迄ハ何方御町奉行と調來候處、以來ハ何方町奉行と調可申旨候事
  右安永九年二月日帳


                   

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■熊本史学・内容細目(創刊~10号)

2017-11-25 17:13:57 | 史料

「熊本史學 創刊号」

   1 宗教の傳播より見た村の成立
   2 町村の名稱について
   3 繩文式文化の耕作性について
   4 古代宇土の地歴考
   5 願成寺本尊の由来
   6 戰國時代の肥後と大友氏との関係
   7 ローマ字印について
   8 天草の鈴木塚餘録
   9 肥後藩の廻船式目
   10 隈府町に於ける近世の祭座

「熊本史學 第2号」

   1 肥後國の中世文書
   2 近世史に對する一考察
   3 墳墓地域の單位性
   4 球磨地方に於ける庚申塔
   5 八代妙見宮門前町の成立
   6 莊園法について
   7 肥後國檢地諸帳について

「熊本史學 第3号」

   1 肥後藩干拓新田の特異性
   2 十八・九世紀の交における平和論
   3 古事記と安麻呂の撰録
   4 宇土の上水道
   5 永の成立について
   6 大友・大内兩氏の關係とその肥後に及ぼせる影響
   7 近世に於ける商品流通の一例

「熊本史學 第4号」

   1 九州経済史の史的特質
   2 紀記における異伝歌謡
   3 肥後上代の鉄
   4 祭り座の構成と開放
   5 近世初期肥後の地撫
   6 熊本藩における「豪農」の役割について

「熊本史學 第5号」

   1 熊本藩士の米国紀行
   2 肥後藩林政の性格について
   3 八代妙見宮の諸座 (一)
   4 封建末期における農民生活の一端
   5 中世イギリスにおける「小屋住農」の分化
   6 改革政治(宝暦)の農民政策

「熊本史學 第6号」

   1 九州経済史の特殊性
   2 淨水寺延暦碑の研究
   3 舎人親王家の隆替
   4 八代妙見宮の諸座 (二)
   5 アウグスツスの元首政の性格についての一試論
   6 近代工業発展の基盤-士族授産製糸工場について-

「熊本史學 第7号」

   1 詩経にみえる生活苦
   2 荒尾赤田池古墳
   3 節度使の起源
   4 末子相続制の経済史的考察
   5 中国古代献犬考
   6 士族授産政策の背景

「熊本史學 第8号」

   1 九州山地に於ける「自然茶」の生産に就いて
   2 律令制官僚における氏族的構成の変化について
   3 九州経済史の性格
   4 熊本の民主主義の伝統について
   5 紋章学研究史

「熊本史學 第9号」

   1 肥後藩切支丹之名簿 (一)
   2 浄水寺天長碑の研究
   3 天草諸島海村生活調査覚書
   4 松井徴之参府御供日誌
   5 明治初年熊本県関係農民騒擾録 (一)

「熊本史學 第10号」

   1 玉名郡倉址と推定される肥後立願寺の遺構
   2 古代末期における阿蘇神社家の動向
   3 古代の天草
   4 肥後藩切支丹之名簿 (二)
   5 明治初年熊本県関係農民騒擾録 (二)
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■雑色草書(12)

2017-11-25 08:03:59 | 史料

 七一
一追々大風等之節、諸職人手間料之儀、區に相増候者も有之様子ニ候、手間料之儀は兼て及達置候儀も有之候間、
 心得違之者候ハヽ追て吟味之上、屹ト被仰付之筋可有之候、且竹木縄ニ至迄各別直段引上ヶ、心得違之商賣無之
 様及達候事
  右安永六年七月日帳

 七二
一御家中一統渡り之御米、町家之者買込預りニいたし度望候者、渡り方ニ込合候てハ甚不捌ニ付、御家中現渡、又
 ハ預等相濟候上、町方之者着ヶ候切手ハ預り出申筈ニ相成候段及達候事
  右安永六年八月日帳

 七三
一十禅寺・山王社祭禮ニ付、囃子興行之儀は御忌御日數之内たり共不苦旨候段、新座大夫左陳ニよつて及達候事
  右安永六年九月

 七四
  「天明二年八月
 此客屋下宿之儀ハ、新壹丁目・貮丁目・三丁目・蔚山町右四町にて相勤中筈ニ被仰付候處、式稿之内ニ相見候、
 然處當時笠屋藤左衛門相勤相当ニ付、いつ比より相勤申事ニ候哉と藤左衛門手前及吟味候處、委細申出候趣此節之
 日帳ニ記シ、式稿ニも其譯書入置候事」
一新壹丁目旅人問屋笠屋藤左衛門儀、従前々御客屋下宿相勤來候、然處、右付て一宿輪番幷日田御用箱輪番共ニ被
 成御免被下候様願出、如願及達候事
  右安永六年十一月日帳

 七五
一正月朔日、町人御禮ニ付、町方根取壹人相殘來候處、殘り居候ニ不及儀付てハ、安永三年之日帳ニ記置候、其後
 は両殿様御在國迄ニて、三日ニ御禮申上候付て、根取之内一人宛罷出來候、然處前文之通ニ付、猶又此節御小姓
 頭付根取黒川才右衛門・御使番戸岐儀大夫・田中八郎兵衛え申談、以來共元日御禮之節ハ相殘候ニ不及、御樂屋
 ニ相揃せ名付ニ引合せ、其段御小姓頭え申達、引取申筈ニ相極メ候事
  右安永七年正月日帳

 七六
一薩州御家中衆通行、河尻止宿にて候ヘハ、彼町馬ハ、相良様御用ニ差出候由ニて、熊本町馬拾疋索越之儀、達有
 之候付及其達候、然處、夜前ハ河尻止宿無之由ニて索戻り候、右之通之儀有之候てハ、馬子共迷惑仕候由馬指よ
 り申出候ニ付、右躰之節ハ、河尻止宿との儀決定之上達有之候様ニ、尤筋々相達候てハ、手まとひニも可相成哉、
 右之通之節ハ、別當より直ニ馬指え申遣可然趣、根取より町奉行所え申遣候事
  右安永七年二月日帳

 七七
一他所より入込候藍買賣共之内、直賣いたし、望不申者えハ預置候抔と申、押て差置候様成儀も有之、不■(締)之様子ニ
 相聞、津端役人幷問屋共不埒之至ニ候條、津端は勿論所々陸口共ニ、不依何品入念相改、早速問屋着致せ、御格
 之通取計、直賣堅不致様屹ト可被申付段、丹後紺屋岩崎茂兵衛より御郡間御銀拝借、染藍買込紺屋中え賣渡候譯
 付て、依願及達候事
  「右茂兵衛儀、安永八年十二月ニ至り染藍惣問屋、依願及達候事」
  右安永七年五月日帳

 七八
一主水殿、八代え歸り之節、毎町馬貮拾疋雇有之候とも、不残ハ入用ニ無之戻り候、何れも、前晩より相詰居、脇
 荷物物受合居候も、其日之手筈違、馬士共迷惑いたし候由ニて、馬指より及内意候付て、其趣彼屋敷留守居え申
 遣、入用分之馬積立、差紙之儀達有之筈候事
  右安永七年七月日帳

 七九
一河尻町御奉行、御船方御作事所御用使之儀ハ、相互ニ何れ之書状類も請取、夫々相届申筈ニ候處、我儘ニて他之
 書状等ハ請取不申者有之候、右之通ニてハ不便利人費之事ニ付、右躰之儀も候ハヽ、右之譯申聞相渡候様ニとの
 趣、町奉行より河井清左衛門え申來候付て、其通御飛脚番え申付、已後難澁ヶ間敷申候ハヽ、其譯書付致せ、
 相達候様ニ及達候事
  右安永七年閏七月日帳

 八〇
一大火付て、竹木等之直段甚引上ヶ候由、請人困窮之折柄、強欲之次第不埒之至候條、相當之利分を以商賣いたし候
 様、諸職人手間料之儀も同前之段及達候事
  右安永七年閏七月日帳

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