津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■新地御入目出銀者と江戸の三貨制度

2024-11-03 07:33:40 | 歴史

 昭和49年(1974)10月に発刊された森田誠一編「肥後細川藩の研究」を読んでいる。
第二編第二章に森田先生の論考「近世の郷士制、特に金納郷士の性格」という項が立てられている。
その中に、金納郷士ではないが、文政四年正月に出された「今度新地御入目出銀者左之通」という文章が紹介されている。

 一、銭二百貫目
   地面百石被下置、御奉行所觸被仰付、乗馬飼料、門松、増奉公人被渡下、旧古之家柄に縁組勝手次第
 (以下、同百貫目、同七十貫目があるが省略する)

この解説として、「銭を貫目にしての二百貫というと、当時大阪相場で大体、金一両は銀六十匁前後であるから、金にして三千三百三十余両ということになり、・・・」とある。

以上の事は、「古町むかし話・熊本御城下の町人」(岡崎鴻吉氏著・昭和27年刊行)にも紹介されている。

さて、この3,330余両の計算の根拠を考えてみよう。
上記文章に於いては「新地御入目出銀者」と書かれているから、森田先生は「一、銭二百貫目」とあるにもかかわらず、銀二百貫」で計算されていることが判る。
200貫=200、000匁であるからこれを銀60匁/両から、3,330余両と算出されている。
文政の頃の両がいくらするのかよく承知しないが、例えば5万円/両とすれば16,666万円となる。
1億6666万円を出すことのできる商人が存在したのだろうか?その結果には「古町むかし話」も触れていない。

どうもこの話は、100石収穫できる土地を拝領する(武家に於いての100石知行取)という事らしいが、実収入は知行と同様40%にも満たないものである。
1石=1両=5万円だとすると、年間200万円ほどの収入に成るから、1億6666万円を取り戻すには83年かかることになる。
それよりも「御奉行所觸被仰付、乗馬飼料、門松、増奉公人被渡下、旧古之家柄に縁組勝手次第」という特典が魅力的なのかもしれない。


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■「木下延俊慶長日記」と細川家(3)

2024-08-23 06:30:18 | 歴史

 細川内記(忠利)は慶長18年の正月は江戸で迎えている。義叔父(忠興妹・加賀の婿)の日出藩主・木下延俊、義弟の稲葉一通(妹・多羅の婿)の父で臼杵藩主の稲葉彦六(典通)などと江戸での生活を助け合っている。
正月の末帰国の御暇が出ると三人はそろって帰国の途に就き、京都までの道中は宿場町を同じくするなど、さらなる交流を深めている。
京都で延俊は、豊臣秀頼や叔母に当たる高台院(秀吉正室・ねね)などに面会するなどしてしばらく滞在している。
細川内記は帰国の途に就いた。

 慶長18年
    3月29日ー細内記殿より御使者並びに御樽肴参り候。
    4月19日ー高台院さまへ御ぶん(豊ー細川加賀二女)さま、かつじき様御出候。
       29日ー津田平左衛門尉殿へ細川内記殿の御状を遣はされ候。
    5月  6日ー長岡中将(中務ー細川孝之=幽齋四男)より御使者。
         7日ー(大徳寺高桐院)玉甫様(三淵氏・幽齋実弟)へ二郎兵へヲ遣はされ候。
                    26日ー玉甫様へ御見廻成され候。
    6月  1日ー晩ニ内記さまノ(御使者)三郎四郎、江戸より罷り上り御対面成され候。
       17日ー長岡中務(孝之)殿より使者参り候。
       18日ー大徳寺玉甫様御はて成され候。
  (延俊は28日には京都を離れ大阪へ向かった。29日には秀頼へ御礼、織田有楽斎の茶湯に出席、7月1日帰国の途に就く)

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■藤崎宮御祭礼に付「殺生禁断」

2024-08-14 07:01:01 | 歴史

 いやはや暑い、昨日も熊本は38.4℃ひたすらクーラーのきいた部屋にこもる毎日である。
それでも夕方には夕立があったが、御湿り程度のもので話にならない。
先月の22日以来の猛暑日が続いている。
月末位になると藤崎宮の例大祭の馬追いの稽古で、時折風の具合で勢子の掛け声が聞こえてくることがある。
「随兵寒合」の訪れ迄あとひと月、まだまだ堪えねばならない。

 文化五年八月御達
一井芹川筋陣橋より下安國寺下迄、藤崎宮御祭禮之節迄、例年殺生禁断有之候處、
    此節別段放生被仰付候ニ付、神護寺舊記之通、右之場所以來御祭禮之節ニ不限、
 平日殺生禁断被仰付旨被仰出候
  但、井芹川井手筋は是迄之通ニて、本川筋迄本行之通被仰付候
 右之通可及達旨御用番被申聞候條、以下例文
   八月十四日            御奉行中   
        

                     左手上の赤文字が陣橋、左下の赤文字が安國寺、その間の着色部分が殺生を禁じられた祓川である。
                                                                  

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■松平春嶽夫人来熊、御母・顕光院様御見舞も御逝去

2024-07-20 13:38:31 | 歴史

 今日は熊本史談会例会で、会員の田邊元武氏が「細川家砂取別邸の江津花壇から熊本県立図書館への歴史 」を取り上げられる。
その主題となる場所こそが、かっての細川家砂取別邸のあった場所である。
そして奇しくも今日という日は、その屋敷の主であった顕光院(細川齊護夫人・浅野安藝守齊賢女益姫)が亡くなられた日である。
娘の勇姫(松平春嶽夫人)が江戸から汽船に乗って来熊し、生母の御見舞の誠を努めて熊本を離れた翌日に死去された。
そして報を受けて途中で引き返されている。葬儀のご様子は知る由もないが、勇姫様は最後のお別れをされることになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大名夫人の江戸定住は「大名證人制度」の名残だが、文久年間には参勤交代と大名夫人の江戸定住が緩和され、夫人たちは帰国することになる。
肥後藩も同様で、まず故・斎護夫人顕光院と長男(慶前)室・鳳臺院が駕籠を前後にして帰国した。
顕光院は安藝浅野家のご出身だから帰国途中に実家に立ち寄られている。
その後、韶邦室・峯姫が数日遅れで帰国、藩では南関口に郡代・中村庄左衛門が出迎え、お伴の女中衆が驚くような歓待ぶりであった。
夕暮れの道には赤々と松明がもやされ、これも一同を驚かせている。
顕光院と鳳臺院は二の丸御殿、峯姫は花畑邸に入られた。のち、顕光院は砂取別邸、鳳臺院は二本木邸に移られる。
顕光院の最晩年、娘の勇姫がお見舞いの為に来熊されたが松平家の記録に一連の勇姫様の行動が書き残されている。
以前にもご紹介したが再掲する。

一、五月廿八日御簾中様御儀本日午前第七時真崎御邸御発車、白川県下熊本表江御出立被遊候、正二位様御同車新橋停車場迄御見送被遊候、正四位様・
   御前様・信次郎様・細川正四位様・細川従四位様・津軽従四位様神奈川駅迄御送被遊、藤沢御泊迄中根新被遣、 明朝之御発駕見上ケ罷帰、御機嫌
  奉申上候 但シ東海道通り神戸御乗船、下之関江御着船、夫小倉へ御渡り、陸通り熊本表江御着被遊候 正二位様より左之御哥被進相
成候 君のかへり
  給ふを    としゆきてとくかへりませ何となくいまたわかれの袖のむら雨

       朝な夕な我菴崎に待乳山ひとり千秋のこちこそすれ
一、六月五日御簾中様御道中無御滞、本日熊本県江御着被遊候旨電報 相達候条、細川様御直書ヲ以被仰進、御安慮被遊候
一、七月六日 細川正四位様御家従板垣信康 右熊本県昨日着、顕光院様・御簾中様より之御伝言旁、尚御 機嫌為申上出頭
一、七月十日熊本表電報、顕光院様御容躰去る九日朝より余程御不出来故、御簾中様御発途御日延相成候旨、委細御使者ニ而被仰越 候旨被仰遣候
一、七月十八日熊本表より御家従山田喜一と申者到着参上、顕光院様御容躰委細申上、且御簾中様御発駕御日延御願被遊候条言上、御両君様御同坐御
  取被遊候

一、七月十九日御簾中様御儀、本日熊本表御発駕被遊候旨電報相達候
一、七月廿日熊本表之電報細川様為御知 顕光院様近日御快ニ付、去ル十九日御簾中様御発途被遊、其後幾許之御不出来ニ而極々御気遣ニ寄、細川御両所
  様ニも為御看 病急々御下県御願相成り候ニ付、御簾中様にも御引返し願置候 との御主意ニ候 同日六時到着熊本より之電報細川様為
御知 顕光院様御
  儀十九日午後五時過俄之御不出来、廿日午前一時 御縡切恐入候ニ付、細川御両所様速ニ御下県奉願候条、御簾中様ニハ御途
中より御引返シ被遊候御
  儀、佐野久電報ヲ以申上 候 顕光院様御様子御替り、依而御途中御引返被遊候ニ付、御日延御願御差出可相成様との御
事也

 

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■新知者の遠吠え?

2024-07-11 06:36:14 | 歴史

 先の■宝暦の改革の限界でご紹介した数字、総トータルの数字は総合計人数は1117人、知行合計は432097.65石とあった。
前回一覧にしていた数字は、「旧知」の御宅をピックアップしたものだが、488家で28988.7石ほどとなった。
その結果から「旧知」の家が約44%弱で67%ほどの禄を占めていることになる。先にも記したが「旧知」の御宅でも慶安3年以後の加増分は新知扱いで減知はされているが、もともとの旧知分に対する比率がどのくらいなのかは、引き続き検証しなければならないが、ここにある約29万石(新知分をマイナスる必要はあるが)についてほとんど手が付けられなかったわけである。
例えば仮に25万石とすれば、5%でも減知すれば1.25万石を生み出すことができたわけだ。
 忠利公が肥後入国後すぐに定めた「世録制」は、天草島原の乱や長崎へのポルトガル船来航に伴う出兵、幕府普請、綱利公母子の乱費などにより立ち行かぬものとなり、「地方(じかた)知行」も「蔵米支給」となり、宝暦にいたり忠利公が定めた「古法(世録制)は間違い」とまで言い切って「世減の規矩」が強行された。
大方の反対が起こるのは当然のことだが、「旧知」の人々を対象外とすることで、半数以上を占める対象者を「新知」として押し付けた。
これにより12万石余の知行減をもたらし、重賢公をして名君と天下に喧伝されることになるが、これが「宝暦の改革」の実態である。
古川古松軒は諸国を旅行する中で当時熊本を通り、「重賢公の名声」に首をかしげている。
重賢公や大奉行・堀平太左衛門の存命中にも、熊本藩の財政は又悪化の兆しを見せ始めている。
細川三斎公は忠利が世録制を言い出した時に驚きの声を上げているが、「早晩問題が起きる」と感じていたのではないか。
「新知者の犬の遠吠え」と言われそうだが、私は人様のように「宝暦の改革」をもろ手を上げて評価することはしない。
こんな面倒な数字を調べながら、改めてその思いを強くした。

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■検証「新知の家・高禄者の世減の規矩」

2024-07-04 15:06:46 | 歴史

 先に取り上げた■慶安3年以降の新知の家(500石以上)の「世減の規矩」がどのように実行されたのかを、我がサイトの「侍帳」から、その実態をチェックしてみた。

     4000石  清水縫殿・・初代道是の娘が綱利生母・清光院で志水家は一門扱いとなり「世減の規矩」対象外か
     3200石  松井直記(誠之)・・三卿家老・松井家の分家(古城家)5代
               初代・祐之5000石 世減の規矩対象者・3代弘之4000石、4代賀之3600石 減知1800石
     3000石  坂崎忠左衛門・・10代賀三郎、比着座・番頭・小姓頭
               初代成政4000石、2代成定2000石、3代成方には兄が居り別禄400石のち4000石、6代に至り400石減知、7代で300石減知、
               8代でも300石減知で3000石、減知1000石

     2800石  溝口蔵人・・忠利夫人実弟が溝口家に入り初代(政登)2000石、5代蔵人200石減知・後加増200石となる。
     2700石  郡 夷則・・三淵藤英(幽齋兄)の曾孫・藤正が綱利代召し出し、嫡男・氏正が初代2000石、4代織衛が200石減知して1800石、
               5代夷則(眞勝)は家老職を勤め3000石に達している。

     2700石  有吉清九郎・・三卿家老有吉家の分家英貴流の6代目、初代直常は3000石、清九郎代に300石減知して2700石となる。
     2500石  朽木内匠・・幽齋兄・藤英三男で初代昭貞が2000石、3代昭長が3000石、該当の内匠は6代の昭直である。ここで減知されたものと思われる。
               尚8代昭久は松井主水(松井本家8代営之)であり、昭久は中老職にのぼり2700石となっている。

  以下についても引き続き検証してみたい・

     2200石  木村次郎左衛門
     1900石  岩間此面
     1900石  小笠原一学
     1200石  塩山惣右衛門
     1000石  清水新五左衛門
    900石  中瀬助之進
    800石  堀尾彦左衛門
    800石  神谷源助
    700石  磯村又之允
    700石  堀部源兵衛
    700石  小山万次   (蔵米)
    650石  松尾亀次   (寸志)
    650石  木村武左衛門 (寸志)
    600石  八木弥次郎
    550石  荒木恒次郎
    500石  奥田小左衛門
    500石  兼松直部
    500石  柏原次郎四郎
    500石  吉田仁郎右衛門
    500石  沢村八郎次
    500石  志水彦之助

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■慶安3年以降の新知の家(500石以上)

2024-06-30 17:52:36 | 歴史

 二回にわたり「慶安3年以降新知加増を得た「旧知」の家」を書いたが、これは宝暦期の「世減の規矩」の後の資料だから、この「新知」部分が何時加増され、いつ「世減」されたのかを調べる為である。
同じ資料を見ていると「新知」のお宅で高禄のお宅が結構ある。新知に家は「世減」の対象になっているから、このようなお宅は、宝暦の改革以降この時期に至る間に、どのように禄高の変化があるのかも調べると面白いだろうと、そんなお宅をピックアップしてみた。(500石以上)

     4000石  清水縫殿
     3200石  松井直記
     3000石  坂崎忠左衛門
     2800石  溝口蔵人
     2700石  郡 夷則
     2700石  有吉清九郎
     2500石  朽木内匠
     2200石  木村次郎左衛門
     1900石  岩間此面
     1900石  小笠原一学
     1200石  塩山惣右衛門
     1000石  清水新五左衛門
    900石  中瀬助之進
    800石  堀尾彦左衛門
    800石  神谷源助
    700石  磯村又之允
    700石  堀部源兵衛
    700石  小山万次   (蔵米)
    650石  松尾亀次   (寸志)
    650石  木村武左衛門 (寸志)
    600石  八木弥次郎
    550石  荒木恒次郎
    500石  奥田小左衛門
    500石  兼松直部
    500石  柏原次郎四郎
    500石  吉田仁郎右衛門
    500石  沢村八郎次
    500石  志水彦之助
   

 

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■「あやつり」見物中頓死

2024-06-24 11:53:57 | 歴史

                                                    2015/09/06 「赤坂大歌舞伎」舞台稽古① 『操り三番叟』

 細川家記によると、細川綱利の死については、白金邸に於いて「俄かに発病、夜半卒去」と書かれている。
本当のところは、歌舞伎役者を招いて「あやつり」を見物中に突然死されたらしい。
歌舞伎役者・中村傳九郎がごひいきだったようで、この日も傳九郎の「あやつり」を見ておられたのであろう。
自らも「あやつり」の真似をするなどされていたらしい。いかにも綱利公らしい死にざまだが、表向きには語られることはない。
これは、「富永家文書」(熊本県立図書館蔵)にかかれているのだが「頓死」とある。
詳しいことは判らないが、歌舞伎の演目で「あやつり」といえば、「操り三番叟」のことだと思われる。
中村傳九郎という役者は六代目で途切れているようだが、初代は中村勘三郎の弟であったらしく、以降も勘三郎家の庶流ともいうべき
家であったらしい。
この「あやつり」、自らも稽古をされたらしいが、まさか殿様芸でどちらかでご披露に及ぶという事はあるまいが・・・・・・・

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■「日本(書)記」を紫式部が読んだ結果

2024-06-21 06:51:31 | 歴史

 最近読書するにも、読む本がなくなってAmazonで二冊注文している。
これが到着するまで時間がかかるから、差し当っての本がない。
本棚を見回していたら全現代語訳の日本書紀・上下巻(講談社学術文庫)が目についたので、何となく手に取って読み始めた。

天智・天武・持統天皇のところを集中的に読んだところだが、何方かのお説に「壬申の乱」という言い方は本来皇室を慮ると
禁句であるという。
万世一系の天皇家で「反乱」を思わせる言葉の使用は誠に不謹慎であり、「役」と日本書紀には書かれているという事である。
探してみたが見当たらない。ななめ読みが災いしたか?。一方では「大津皇子」については本文に「謀叛」と記してあるが、
解説ではやはり「大津皇子の変」とある。

 ふと「日本書記」はかっては「日本記(にほんぎ)」と呼ばれていたことを思い出した。
それは紫式部の「紫式部日記(にき)」に出てくる「日本記之御局(みつぼね)」と呼ばれた話からである。
この「日本記」こそが「日本書記」であり、一条天皇が「この人は日本記をこそ読みたるべけれ、まことに才あるべし」と云
われたことに対して、そのことを聞いた左衛門内侍なる人が「日本記の御局」と戯れの名をつけたというのである。
どうやらこの話は、高校生の定期テストの常連らしい。紫式部は少々迷惑がっている様子を示しながらも、身内にも自分が漢
文が好きだという事は言っていないなどと釈明なのか自慢なのか、そう書いている。

 黒岩重吾の壬申の乱を扱った「天の川の太陽」をはじめ、一連の同時代の作品を読破した時代があって、古代史に興味をも
ったことがあった。
その一連の書籍はすべて処分してしまったが、今にして思うと残念の極みである。文庫本を購入して読み直そうかと思った。

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■阿蘇家はお金持ち?

2024-06-17 10:39:45 | 歴史

 今朝ほど書いた細川護久候の四女・志津姫は阿蘇家に嫁がれたが離婚されている。経済的理由だとされるが維新期の神社経営は大変なものであっただろう。
離婚後は三角半島の突端に当たる場所に住まいを定められた。現在はどうかは知らないが、私の知人の所有するところであったが一度拝見させていただいたことがある。
30坪ほどの質素な和風建築である。ここで御付の人たちと過ごされたかと思うと、少々感慨深いものを感じた。

 一方では天文十八年(1549)「阿蘇惟豊」が従二位に叙任されるについて天皇に百貫を献上したという記録が残るそうだが、これは最高額であるとされる。(今谷明著:戦国大名と天皇)
例えば伊達植宗なる人物が永正5年(1508)に左京太夫に任官した時は30貫であり、その他朝廷の関係者に20.3貫を要し、太刀の献上に58.2貫そのた諸々で255貫を費やしている。
それからすると、阿蘇家の費えはまだ大きなものであったかもしれない。
これは「銭勘定」のようだから、とてつもない金額ではない。まだ1両などという「金勘定」が成立していない時期だが、たっとえば江戸初期の「1両=銭6,000文」からすると255貫文は42.5両(1両=10万円」とすると425万円ということになる。
これが高いのか安いのかは判らないが、このようなことも朝廷の大切な収入源であったことは間違いなさそうである。

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■血脈と長幼の順

2024-06-08 06:28:15 | 歴史

 朽木家の定彦さん問題を随分取り上げてきたが、この問題は三淵大和守藤英(幽齋義兄)の血脈問題が絡んでいる。
先にも書いた通り、朽木家は朽木稙綱の養子となった三淵藤英の三男・昭貞を初代としている。
処が先の■八代朽木家取扱之扣写(4-1)で触れた通り、大和守藤英の血脈が途絶えることを危惧しての騒ぎであることが判る。
     1     2      3      4      5      6           
朽木家は、昭貞==昭知ーー昭重==昭長ーー昭員==昭直ーー●          昭信
                             ‖      ‖ーーーーーー定彦
                            7 昭恒ーー●
                                  ‖
                                8 昭久
と繋がっているが、6代目までは朽木一族(男系)でつながれてきた。

7代目は6代の女婿で郡織衛(三淵藤英の子・秋豪の孫・藤正系)四男であり、8代目は7代目の女婿で松井営之の末子である。
故に男系血脈は8代目で途絶えたとも云えるのだが、8代目昭久はなにやら大和守藤英の
血脈にこだわっている。

昭久には7代の女婿である相聟の義兄 昭信があるが、この人物が病身である為、妻子をのこして実方(宇土細川家)に引き取られた。
その男子が定彦だが、8代・昭久長幼の礼をとって義兄の子・定彦を順養子にしようというのだが、どう考えても「大和守藤英」の男
系血脈とは言い難い。

つまるところ、定彦が刑部家の養子となったため、朽木家の9代目は昭久の嫡子・昭吉が相続した。
途中で女系相続があるものの、DNAはちゃんと継承されいる。

 深読みをすると、これは定彦氏が順養子を嫌っているのではなく、叔父である8代の後はその嫡子につがせるべく言い出したのでは
ないかと考えると、この騒ぎは落着するのである。
結果はそうなった。
細川宗家8代重賢の末弟が、刑部家の6代当主(興彰)となっているが、興彰も先代の男子を順養子として7代(興貞)に譲り、自ら
の男子は別家を興した(初代・興度)。

興彰もまた、刑部家の正統な血脈の相続のためにそういう判断をしたのであろう。
定彦はこの興度の養嗣子となり、別家2代目となっている。

 朽木家8代の昭久は7代の長女(義姉)の血筋がより大和守藤英の血筋としては近いと考えたのであろうが、順養子の考えは次弟が
家を継いだことにより、兄の子を養子にしようという「長幼の順」の考え方が大いに反映されている。

水戸徳川家の二男・光圀が水戸家を継ぎ、兄頼重が高松松平家の当主とされたことから、光圀は頼重の子を順養子として水戸家を継が
せ、自らの嫡子は頼重の継嗣子としている。

美談として伝えられるが、これも光圀が「長幼の順」にこだわっていることが判る。
朽木家の一件は、お互いを思いやる関係者の美談なのではないかと思い始めている。

 

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■雲仙岳の噴火災害を振り返る

2024-06-04 09:41:07 | 歴史

 1991年6月3日に発生した 雲仙普賢岳の大火砕流から、23年が経過したが、当時熊本市内でも空が暗くなり、真っ黒なよなが降り注ぎ、
車の屋根が瞬く間に真っ黒になり驚いたことを思い出す。

数日前から私は、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ・17「島原・天草の諸道」を読んでいるが、初版は1987年だから、当然ながらこ
の大火砕流のことはご存じない。


 私は雲仙岳のこの大火砕流があった後には雲仙を訪れたことはない。
対岸である熊本の松尾や小島、また三角半島側から荒々しい山体をながめている。

当時取材に入っていた記者やカメラマン、地元の市民、消防の人々など多くの犠牲者がでたが、被害は島原に留まった。
この山は、寛政3年(1791)10月8日に初めて地震が起こり、翌年の(1792)4月1日山体は崩壊して市街地は地割れが走り、山崩れの
土砂が海に達し熊本側は津波の被害により大勢の被害者が出た。
「島原大変・肥後迷惑」と呼ばれる所以である。
司馬遼太郎はいかにもこの人らしく、古記録をさぐり、時間をさかのぼり地震が初めて起きて以来の経過を記している。
正月18日の大噴火以来、溶岩が流れ出したのは2月の上旬あたりかららしい。3月1日の噴火で火砕流が海まで達した。
それ以来わずかな地震は続いたが、割と平穏な日々が続く中、4月1日突然山体が崩壊して島原に於いて1万人弱の死者が出たという。
高い処で20mほどの津波が駆け上った熊本県側では5,000人ほどの死者が出ている。
噴火が起こり溶岩が駆け下る絵を見て、これが「島原大変・肥後迷惑」その日のことかと理解してきたが、知らぬ事とは恐ろしい。
実際は3億4千立方メートルという膨大な土量を、約3分ほどで崩壊させ土石流としたことによるものであるという。


1792年の寛政の大惨事からおよそ200年を経た、1991年の大災害を我々はTV報道で目の当たりにし、実際その噴煙は熊本の空に達した
のだが、こうして過去の雲仙岳のことを詳しくたどると、まさにはげしく胎動する地球の営みに驚かされる。雲仙岳は鎮魂の山である。

このところ頻発する地震にも心しておかないと、災害は近い内にまた繰り返されるような気がしてならない。

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■「元結を切ったのか」「髻を切ったのか」??  

2024-06-03 06:54:26 | 歴史

           

 御存知明智光秀が六月二日の謀叛後に細川藤孝・忠興父子に助勢を乞う書状である。
日付は六月九日であり、信長を殺してから七日目である。
忠興は光秀にとっては娘婿であるから、助勢を乞うのは当然であろうが、二人がすでに「もとゆ井=元結」を斬ったことがこの書状の一行目
に書かれている。
以前も触れたが、これ以前光秀は謀叛後にはすぐ細川父子に接触を試みたのは間違いなかろう。しかし書状などは残されていないが・・・
「元結」とは髪を束ねて結い上げるための「こより」である。この文章からすると、ただざんばら髪になったという状況だが、資料によっ
ては「髻=もとどり」と解しているものがある。
「髻を切ることは桑門同様」とは森鴎外の「阿部一族」にも書かれている。「桑門」とは、出家して修行する者の意とされる。
当時の藤孝・忠興父子は、「茶筅髷」であったろう。髻を切るとは「髷(まげ)」を切り落とすというのだから、しばらくの間は「髷」をゆう
ことができない。
さて、「元結を切ったのか」「髻(もとどり)を切ったのか」詳しく解説されているものに触れたことはない。
この時期父・藤孝は隠居し、忠興に後を託している。
しかし、「永源師壇紀年録」によると、正式に剃髪したのは「此月ノ廿七日二於テ屋形ハ織田家ノ追薦ノ為二剃髪シテ幽齋玄旨ト号ス」とある。


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■本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑲~

2024-05-31 06:45:26 | 歴史

      吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2024:5:20日発行 第75号      
           本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑲~         医局:西岡 暁 


  けふまでの日は けふ捨てて 初桜 (加賀千代女)

 桜の季節はもう過ぎてしまいましたが、元「が池」=「お玉ヶ池」を随分前に後にしたというのに「本能寺からお玉ヶ池」への旅(の続き)
 はだらだら続いています。ただその前に、この春は、江戸から遥か三百里・・・・・遠き寄り道をいたしましょう。

    ほかうらちょう
 【23】外浦町
 日本初の医科大学の「創立」は1858年(安政5年)のお玉ヶ池種痘所の関所です。ただ実は、お玉ヶ池種痘所は、(最初ではなく2校目の医
 学校だったのでした。日本初の(近代医学の)医学校は別にあったのです。
 そこでここでは、お玉ヶ池種痘所より半年早く始まったその医学校の話をいたしましょう。その学校は、江戸から西に遥か三百里の彼方・長崎
 にありました。長崎は、キリシタン大名・大村純忠(1533~1587)が開いた国際港の町で、純忠が設けた町割りの中、その中心部が「外浦町
 でした。長崎が「東の小ローマ」と呼ばれる「キリシタンの町」だった頃、そこに「イエスズ海本部」(@長崎市江戸町2丁目)がありましたが、
 1614年(慶長18年)徳川幕府の禁教令を受けて長崎の数多の教会と病院など関連施設が破壊されると、その跡には長崎奉行所が建てられました。

     山上の 白き十字架の見えそむる
        浦上道は 霜どけにけり   (斎藤茂吉)

 一方(?)、バイエルンの医家の出身でベュルツブルグ大学医学部を卒業したフイリップ・シーボルトは、1823年(文政6年)にオランダ商館医
 として来日し、翌年、長崎口外・鳴滝に蘭学塾「鳴滝塾」を開きました。
 「本能寺からお玉ヶ池」との関わりを言えば、肥前・島原生まれで後にお玉が池種痘所発起人となる三宅艮斎が長崎で入門した楢林栄建は、【4】
 で述べたように、鳴滝塾でシーボルトに師事した蘭方医ですから、艮斎はシーボルトの孫弟子にあたります。
 また、坪井信道は、自身シーボルトに師事することはありませんでしたが、広島の前野玄沢の同門だった岡研介(岩国藩医)にシーボルトに学ぶ
 ことを勧め、実際1824年(文政7年)に鳴滝塾に入門した岡研介は、鳴滝塾の最初の塾頭になりました。
 1859年(安政6年)に長崎が開港されると、長崎奉行所の「西役所」に「長崎海軍伝習所」が設置されました。
 そしてここに、ユトレヒト陸軍軍医学校(現・ユトレヒト大学医学部)卒業のオランダ海軍軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールト(1829
 ~1908)が「医学伝習所」を開きました。
  ここで、長崎大学医学部の公式サイトを見てみましょう。こう書いてあります。
 「わが国の医科大学及び医学部の中の中で最古の歴史を有するのが長崎大学医学部です。1857年(安政4年)11月12日に勝海舟・榎本武揚らが学
 んでいた海軍伝習所の医官だったオランダ海軍軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールトが長崎奉行所西役所(長崎県庁旧所在地)において日
 本人に医学の講義を開始しました。これが医学部のはじまりです。」「わが国の医学のすべてのルーツ医学伝習所にあったと言っても過言では
 ありません。」
  長崎大学医学部は、創立の日を、その源流の医学伝習所の開所の日としています。と云うことは、長崎大学医学部の創立は1857年12月(安政4
 年
11月)になり、東京大学医学部のそれより半年ほど早かったのですから、長崎大学医学部が日本の医科大学として「最古の歴史を有する」こと
 になるのです。
  現在の長崎大学医学部は、ポンぺの次の言葉を「基本理念」としています。
 「医師は自らの転職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、病める人ののものである。もしそれを好まぬなら、他の
 職業を選ぶがよい
 「教育研究上の目的」はあっても「基本理念」がない東京大学医学部とは大違い(?ただ、東大病院や東京大学(全学)には「基本理念」があり
 ます。)ですね。「大違い」と云えば、東京大学(全学)の創立は1877年(明治10年)なのに対し、長崎大学ではその創立を1857年(安政4年
 としています。
  お玉が池種痘所(=創立時の東京大学医学部)は、2年後に(徳川幕府の)「西洋医学所」に発展しました。その2年後にに頭取に就いたのが
 松本良順です。良順の義姉・さだの長女・藤は、三宅秀の妻です。【7】で「良順は、長崎海軍伝習所でポンペに師事した」と書きましたが、始
 まりは海軍伝習所(内)だったポンぺの医学校は、1859年(安政6年)に海軍伝習所が廃止された後も「医学伝習所」として残り、佐藤泰然の養
 子・尚中は1860年(万延元年)に大学東校初代校長になりました。大学東校は東大医学部の前身なので、尚中は東大医学部の第7代医学部長
 (松本良順が第3代、医学伝習所同期の長与専斎が第12代、妹聟・三宅秀が第14代兼⦅?⦆初代)とされています。
 先ほど東大医学部には「基本理念」が無い、と申しましたが、この医学伝習所と東大医学部との繋がりを思えば、「基本理念」として掲げてこ
 そいませんが、東大医学部もまたポンぺの言葉に基づく教育研究に取り組んでいるに違いありません(と、信じたいものです。)

                                       
                                                        ポンぺ(前列右)、松本良順(同左)
                    出典:日本医事新報№.1739

 ポンぺが始めた医学伝習所は、1869年「長崎県病院医学校」に、1871年「長崎医学校」に、1888年(明治21年)「第五高等中学校医学部」に
なりました。この「第五高等中学校」という学校は、(皆様ご存知ないでしょうから)解説が必要でしょう。
 1866年(明治19年)に公布された「中学校令」によって全国を5つの学区に分け、各学区に「高等中学校」が一校ずつ置かれました。
 第一高等中学校(通称・一高)が東京、第二高等中学校は仙台、第三高等中学校は大阪(3年後、京都に移転)第五高等中学校(通称・五高)は
 熊本です。高等中学校は本科(2年制)と専門科(4年制の医学部・工学部)とからなり、五高の場合、医学部は長崎医学校を移管する形で長
 崎(@長崎市西小島町)に開校しました。
 1901年(明治34年)、第五高等学校医学部は「長崎医学専門学校」に発展(?)します。
 【16】で述べたように、斎藤茂吉は、この長崎医専の第二代精神学教授です。そして1923年(大正12年)長崎医学専門学校は「長崎医科大学」
 に昇格しました。

                          
            長崎医科大学(1930年頃)出典:ウイキペディア 長崎医科大学(旧制)

  話は変わって、安土のセミナリヨの一期生・パウロ三木は、1597年(慶長元年)、西坂の丘(現・西坂公園@長崎市西坂町)で殉教し、1862年
 (文久2年)に聖人に列せられました。
 パウロ三木らの殉教の報に接したガラシャは、自分も長崎で殉教したいと望みましたがそれは叶わず、3年後に大阪の屋敷で「散りぬべき時」を
 迎えることになりました。ガラシャの死は、世間では細川家(を介して徳川家にも?)に殉じたものと受け止められたようですが、本人の心持と
 しては、細川家ではなくキリスト教に殉じたものだったに違いありません。
 今から四半世紀ほど前に、熊本の郷土史家・徳永紀良はこう述べています。
 「玉子の死は徳川家の繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。人の世を捨ててハライソへ帰って行ったのである。」(玉子はガラシャ
 の本名。ハライソはポルトガル語・paraiso由来のキリシタン用語で天国の意)

  また話は変わって、【20】の向井去来は長崎生まれです。1698年(元禄11年)、長崎に帰郷した去来は、尼だった叔母が庵を結ぶ田上山を訊
 ね月見の集いを開きました。

     名月や たかみにせまる 旅こころ  (向井去来)

  それから247年後の8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、長崎医科大学では、職員346名、学生440名という死者を出しました。
 松江藩の医家出身で長崎医大を卒業して物理療法科(現・放射線医学)に入局し、1932年(昭和7年)に助教授(現・准教授)になった永井隆
 (1908~1951)は、パウロ三木ら日本26聖人に捧げた「日本26聖人聖堂」(1953年国宝指定)として建てられた大浦天主堂で1934年に洗礼を受け、
 パウロ三木から「パウロ」の名を戴いています。医科大学で診療中に被爆・負傷した永井隆は、被爆時とその後の活動の記録を著書「長崎の鐘」に
 残し、「長崎の鐘」は歌謡曲や映画にもなりましたが、1951年、白血病(原爆症ではなく、戦前に発症した職業病)で帰天しました。

      燔祭の炎の中に うたひつつ
         白百合少女 燃えにけるかも  (永井隆)

                                         
            長崎医科大学 被爆門柱 出典:ウイキペディア 長崎医科大学(旧制)

  長崎医科大学(薬学専門部)の物理学教授・清木美徳は、構内の防空壕を掘る作業中に豪内で被爆したため無事でした。
 即死しなかった学生たちは、大学の東隣の穴弘法寺に逃れようとしますが寺の丘を登りますが、殆どの者は途中で絶命したそうです。
 清木美徳の6女・順子は、九州大学卒業の内科医ですが、入学したのはかって父が在籍した長崎大学でした。
 また、長崎医大卒業の産婦人科医・下村宏は、【10】の水原秋桜子の(俳句)の弟子でしたが、原爆に当たっては、永井隆同様被爆者の救援に奔走
 したそうです。

      汗涸れて 阿鼻の焦土に ゐしか吾  (下村ひろし)

 原爆で壊滅状態に陥った長崎医科大学ですが、医学部(本科)は復興できたものの「医学専門部」は廃校になってしまい、生存学生は他校に転向し
 なければなりませんでした。この「医学専門部」と云うのは、戦時中の医師不足対策として帝国大学と医科大学に併設された医学専門学校のことです。
 東京大学医学専門部に転向した学生の一人が病理学教授だった三宅仁に叱られた話があります。
 彼が「(原爆症で)どうせ永くはない」と云ったところ、三宅教授はこう戒めたそうです。
 「医師というものは一日でも永く生きて、一人でも多くの患者のために働くものだ。努力するものだ。・・・・・どうせ若死にするのだと考えている
 者に教えるような医学はない。さっさと長崎に帰った方がよい。

  まるで、長崎大学医学部の基本理念になったポンぺの言葉のようではありませんか。
 三宅仁の曽祖父・佐藤尚中も(義)曽祖叔父(=尚中の義弟)・松本良順も長崎でポンぺに師事していましたから、もしかすると仁の三宅家にも、
 ポンぺ(から長崎大学に継承された)の「基本理念」が伝わっていたのかも知れませんね。

                 (この回・了)

 

 

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■細川幽齋公と宝暦の改革

2024-05-27 06:26:12 | 歴史

 細川家の歴史を見る時に、まさに中興の祖ともいうべき細川重賢公の出現は、兄・宗孝公の江戸城中における不幸な死がもたらしたことを思うと複雑な気がする。
歴史とはめぐり合わせだと感じるところだが、重賢公の側近と言われた堀平太左衛門や志水才助といった人物は優秀な用人・竹原勘十郎(玄路)の真心からくる推挙であったことを思うと、私は勘十郎こそが一番称えられてしかるべき人だと思うのである。
時代のいたずらは、阿蘇家の家臣であった竹原氏を薩摩の嶋津氏に臣従せしめていた。
阿蘇家の家督争いに負けた一方の阿蘇氏が、嶋津家を頼ったからである。
或る時幽齋は秀吉の命により薩摩に派遣され検地をおこなっている。その時幽齋公は、この竹原氏に出会っている。
幼いながらものその能書ぶりに、嶋津氏に乞うてもらい受けて連れ帰っている。
忠興が豊前に入国し、忠利が肥後へはいった。細川家に臣従した竹原氏はくしくも父祖の地・肥後へ帰国したことになる。
そして、阿蘇氏の覇権を争った阿蘇氏も武家としての存在を失い、社家として残された。
そんな竹原氏が勘十郎の時代に至り、重賢に任用され、その推挙により堀平太左衛門・志水才助という曲者をして宝暦の改革を遂行せしめた。
巡り合わせの不可思議を思わざるにはいられない。

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