ヒゴシャクヤクは一・二重のいわゆる蓮華咲き。黄金色の芯を豊かに盛り上げるニホンシャクヤクの典型。花弁の数は八~十二枚。雄しべは百本から五百本もある。大輪で大きいのは直径三十センチにも及ぶ。花期は五月初めから中旬まで。五月の雨に打たれるこの花のけなげな姿は、昔から初夏の熊本に欠かせぬ情景である。
白、紅、紫を基調に濃淡さまざまの彩りを持ち、六花の他の花と同じように濁りのない色と花型の整然さが身上。ヒゴギクとともに花壇づくりを正式の栽培法にしている。この花の花壇づくりは、色、形、大きさ、配列の仕方までガンジガラメにしたヒゴギクのような堅苦しさはない。二列の方形、または千鳥植え。前列は低く後列は高くする。花壇のまま鑑賞するか、切り花にするかによってその感覚をかげんする。花の色は両端が前列は白、後列が紅。そして紅と白はいつも隣り合わせ、その間に紫、桃の同系列の花ヲ近づけて配列する。
大輪で金芯が鮮やかな花だから、紅、白、桃の数輪だけで豪華な盛り花になる。生け花にしても一週間は持つという腰の強い花である。
熊本地方でシャクヤクを栽培したのは六花の中で一番早く、すでに室町時代からはじまっていた。古くから「エビスグサ」といわれたこの花が、「武士の花」として手がけられるようになったのはやはり重賢の時代から。寛政七年(1795)び、藩士中瀬助之進が「芍薬花品評論」を書いて、ヒゴシャクヤク栽培の基礎をつくった。
四十四種について、花の構造、栽培法、鑑賞法、花会作法、花壇様式を説いたこの本が、六花の栽培教典のなかでは一番古い。
その後、シャクヤクづくり仲間は「花の季節」となった天保年間に、ハナショウブの花連「満月会」と前後して「肥後芍薬連」を結成、終始、熊本の花づくちをリードして来た。明治三十六年につくられた「芍薬銘鑑」によると、当時の花連九人、一般の栽培家二十九人が手がけた品種は三百六。これが明治末期には五百余種になっていたという。助之進の時代から百余年の間に十倍以上にふえたことになる。
熊本市出水町国府の外村敏さんは、いまは絶えようとしている伝統の花壇栽培を守り続けている一人。明治、大正にかけて多くの新花を生み出した外村裕次の孫にあたる。庭に残る花壇も祖父の「遺産」で、これがいまヒゴシャクヤク栽培のお手本にもなっている。
敏山河この花壇とつき合ってもう四十年近い。子供のころから名人祖父の花つくりに打ち込む激しい気迫にふれて、いまはこの「花守り」に使命感のようなものを感じている。ひまを見つけては、素人技法で花弁、花芯の解剖図を書き留め、習い続けて来た一刀彫りの腕で独特のその花容をせっせと刻み続けている。
「花どきにじっと部屋からながめていると、朝夕の冷気に静かに花びらをとじるいじらしさや、宵の薄あかりに漂う気品の良さがたまらない」という。武士の手で育てられた花が、いま肥後御名のあたたかい胸に抱かれている----六花のどの花にも、このようなケースは多い。
花連「白蝶会」が数年前に解散して、いま六花のうちヒゴシャクヤクだけが関係団体を持っていない。戦前まではまだ二百種ぐらいあったが、戦災と水害で名花の大半を失い、いま残っているのは五十種前後。栽培家も熊本市周辺の十軒前後に減り、花壇栽培を続けているのも外村家を含めて二、三軒になった。
もっとも、これは花つくり熱がさめたためではなく、原因の大半はだんだん広い庭を持てなくなったという、最近の住宅事情にある。残った同好者はいまも昔どおりに熊本市立博物館で、切り花の展示や花神祭を続けている。
栽培家の庭はさびしくなったが、熊本県内各地の神社や公園、東京の新宿御苑、明治神宮、東宮家の庭に、いまも季節には芯が大きくボタンのようなこの花がみられる。