津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川三斎の死

2023-12-02 07:11:43 | 花押

                                                               

 正保二年(1645)十二月二日、父・幽歳と共に戦国時代を勇敢に生抜き、豊前小倉藩399,000石から、大国肥後(一部豊後領)国540,000石の太守となった細川三斎(忠興)が波乱の人生の終焉を八代の地で迎えた。享年83
その果敢な行動力は、豊前における隠居領・中津時代から、息・忠利の肥後入国に当たっての隠居領・八代に於いても、藩中に藩があるがごときであり、三斎のふるまいには、息忠利時代、また忠利亡き後の光尚時代も本藩を大いに悩ませるものであった。
 八代に於いては、溺愛した五男・立允(立孝)に隠居領を相続させ八代藩の分立を企てたが、忠利の死去に際しても分藩は幕府の認めるところとはならず、また立允が三斎に先んじて死去したためとん挫した。
三斎の死去後、その意思を受けて八代藩の創立を目指して村上河内などの遺臣らが画策したが、これらもかなうことはなかった。
時の藩主・光尚により、藩政の改革に手が付けられ、八代城主に筆頭家老・松井興長を配し、立允(立孝)の子・行孝は宇土の地に移し、30,000石をもって創家して宇土支藩となした。

 藤孝ー忠興ー忠利ー光尚ー綱利と続いた細川嫡流は、綱利の男子がそれぞれ死去し、弟(新田藩主)利重の二男(宜紀)を養子に迎え、宜紀ー宗孝ー重賢ー治年と新田藩系が続いた。
治年の男子も亡くなると治年の正室・埴の弟・宇土支藩藩主立禮を宗家藩主として迎えた。
立禮は名を変え齊茲ー齊樹ー齊護ー韶邦ー護久と宇土支藩系に受け継がれて今日に至っている。
忠興が溺愛した立孝の子孫の血が当代細川家の源であることを思うと不思議な感じがする。

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■慶長五年十一月廿八日・忠興書状 

2023-11-28 07:29:59 | 花押

                 (大日本近世史料・細川家史料一 五 p6)

    此文肥前殿御母儀へ可被届候 已上

    為見廻牧五介被上候 祝著候 我々事豊前一國豊後にて拾壹萬石
    令拝領候 忝儀候 其方之儀も来春は可呼上候間可被得其意候
    猶五助可申候 恐々謹言
                           越
     (慶長五年)十一月廿八日           忠(花押)

             内記殿
                御返報

 新旧歴の違いはあれど423年前の今日、忠興が豊前国(一部豊後領)を拝領し、その旨を證人として江戸にいる内記(忠利)に伝える書状である。
来春は(豊前)へ呼上ると言っているが、この望みは暫くかなわなかった。
文書の文頭には「此文肥前殿御母儀へ可被届候」とあるが、肥前殿御母儀とは加賀の前田利長の母・芳春院(まつ)のことである。
芳春院は忠興の嫡男・忠隆にとっては義母(室千世姫の生母)に当たり、共に江戸證人の身(この年の6月江戸に入った)であり、加賀藩の記録によると城内の證人屋敷に留め置かれたとされるから、内記も同様の待遇であったのだろう。
親しい交流もあったのだろうか。
忠興が忠隆に対して勘当を言い渡すのがいつであったのか、詳しい日取りが判らないが、この書状からするとまだその時期には至っていないように思える。
発せられたのは伏見あたりだろうか。この後細川家一統は希望に燃えて山陰路を進み豊前入りすることになる。
西暦換算すると2月1日だというから深い雪であったと伝えられる。
                                                         

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■ブラタモリ満喫

2023-11-11 20:46:21 | 花押

 今週の「ブラタモリ」は「鯖街道」が取り上げられていた。
カックンと曲がった鯖街道(若狭街道)は、断層がもたらしたものと解説されていたが、二つの断層が同時に動いて形成されたとは予想打につかなかった。
今日は史談会で2時間ばかりお話をしたが、「熊川城主としての沼田氏」を御紹介することを忘れていたが誠に残念だった。
細川藤孝の実父といわれる足利義晴とその子・義輝についても、散々触れた処であったが、まさか朽木の里に逃れ邸宅があったという事は、私も知らなくて大いに勉強になった。
朽木氏の29代目のご当主が登場されていたが、細川家にも分流の朽木家(三淵家流)もあり、興味深く拝見した。
        

ここにある様に「京は遠ても十八里(72㌔)」といわれる鯖街道を歩き通して(?)の紹介は、タモリ氏にとっても楽しい一日になったようだ。
私もおいしい鯖寿司が食べたい・・・


来週は「目白」だそうだ。多分旧細川家関係の肥後細川公園や永青文庫、和敬塾や胸突き坂、神田川筋などが紹介されることを期待している。
今私は、久しぶりに生まれ故郷に旅行をする一週間前というような感覚の中にいる。

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑰~

2023-11-02 10:20:59 | 花押
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:10:20日発行 第73号     
     本能寺からお玉が池へ ~その⑰           医局・西岡  暁

 露の世は 露の世ながら さりながら(小林一茶)

 さはさりながら、夏逝きてまた「露」の季節がやって来ました。
秋景色と言えば、露以上に(?)紅葉ですね。「お玉ヶ池」が元「桜が池」だったように、江戸にはよりも桜の名所が多いようです。それに対して、「本能寺」のある京都には日本を代表する紅葉の名所が幾つもあります。そう云えば、佐倉は他の木々よりいち早く紅葉すると云います。「蕉門十哲」の一人・内藤丈草がその桜紅葉を詠んでいます。

 早咲の 得手を桜の 紅葉かな (内藤丈草)

[20]吉田山
 そんな訳で、この「本能寺からお玉が池へ」の道行も里帰り(?)の日を迎えたようです。
数多の京都の紅葉の名所が集まっているのが「東山」一帯です。東山は、皆様ご存知のように京の街の東に連なる山々のことで「東山36峰」と呼ばれます。「36峰」と云うのは、比叡山から南に如意ヶ嶽(=大文字山)を経て稲荷山に至る35の峰々と如意ヶ嶽の西に(鹿ヶ谷を挟んで)孤立する吉田山から成っていて、合わせて36峰になります。
 吉田山に鎮座する古社「吉田神社」(859年(貞観元年)創建)の信長・秀吉時代の宮司は、吉田兼見(1535~1610)でした。兼見の父・吉田兼右は、ガラシャの夫・細川忠興の祖母・智慶院の兄で、兼見の子・兼治の妻は忠興の妹・伊也です。
 吉田兼見は、元々明智光秀とは親しい間柄でした。「本能寺の変」の5日後に勅使として光秀を安土城に訪ねた兼見は、その日の日記に光秀が「今度謀反の存分」を語ったと書いています。ただ残念ながら「謀反の存分」の内容は記されていません。その翌々日、光秀は上洛して兼見の屋敷を訪れ、朝廷の五山(山ではなく、天龍寺等5つののことです。5寺の中東福寺等三寺が東山にあります。)と大徳寺への献金を兼見に託しています。このように吉田山は、(吉田神社の兼見を通して)「本能寺の変」とは深い関りがあった(と言っても、兼見やまして朝廷が「本能寺の変」の黒幕だった訳では勿論ありません。)ようです。
                                   
                                           都名所之内 吉田山神楽岡(長谷川貞信)
              出典:立命館大学アーク・コレクションarcUP2558

 吉田山の南東近くに天台宗の古刹・真如堂(真正極楽寺@京都市左京区浄土寺真如町)があります。真如堂は「本能寺の変」の斎藤利三の墓所があるのです。[11]で述べたように、斎藤利三は山崎の戦で敗れ、六条河原で処刑されましたが、その首は利三の友人が夜陰に乗じて奪い去ったのです。首を奪ったのは、絵師の海北友松(1533~1615)と真如堂住職・東洋坊長盛(1515~1598)です。彼らが奪い取った利三(の首)を真如堂に葬りました。そして後年、彼等二人の墓所も(友松のは利三と並んで、東陽坊のは利三の裏に)真如堂に建てられました。現在真如堂は、その案内表示を建てていて、そこには「戦国武将 斎藤利三、東陽坊長盛、海北友松 の墓」と書いてあります。東陽坊長盛は、黒茶碗「東陽坊」、海北友松は、建仁寺「大方丈障壁画」や妙心寺「花卉図屏風」が有名で、何れも重要文化財です。
 また、真如堂の本堂の南、墓地との間に、春日局が父の菩提を弔って植えたといわれる「たてかわ桜」(縦皮桜。縦に筋が走るエドヒガン系の品種)があります。1959年(昭和34年)の「伊勢湾台風」でたおれたたてかわ桜は、数年後自力で復活しましたが、金ねんその樹勢はどんどん弱って来たので、日本製紙(特殊な)挿し木技術で後継木が育成されています。三井家家祖・三井高利が遺言で墓所を造らせて以来真如堂は三井家の菩提寺になり、その御縁で三井グループの一員である日本製紙がたてかわ桜の護持役を買って出たのです。
                                             
                                                   ©真如堂 鈴聲山真正極楽寺

 話は飛びますが、高利の7代前の三井乗定の嫡男(ですが、三井家を継いだのは前に養子に入っていた高久でした。)・定条(さだえ)の孫に近江鯰江城主・三井乗綱がいます。乗綱の次男・虎高は藤堂家の婿養子になり、虎高の次男・高虎を藩祖とする藤堂藩の11代藩主・藤堂高猷の江戸屋敷こそあの「お玉ヶ池種痘所」が二度目の移転後、大学東校→東京医学校になり、「東京医学校」が加賀藩上屋敷(跡)に移転するまでの16年間在った場所でした。そして今、その場所には三井記念病院が建っています。
 長崎と京の名医 向井元升の次男・兼時は「蕉門十哲」の一人・向井去来です。去来が1694年(元禄7年)夏に向井家の菩提寺・真如堂で行われた神州・善光寺の阿弥陀如来の出開帳を詠んだ句があります。

 涼しさの 野山にみつる 念仏かな (向井去来)

 吉田山は、京都大学の「(隣の)」でもあります。1200年もの歴史ある古社(で、「八つ橋発祥の地」)・京都熊野神社から東大路通(「東山通」とも云う)を北に200mほどの処に學京都大学病院があります。更にその北・東山近衛交差点を左に折れると、すぐ右にあるのが京都大学医学部(@京都市左京区吉田近衛町)です。
 1947年(昭和22年)に誕生した「京都大学医学部」は、1919年(大正8年)発足の「京都帝国大学医学部」をその前身としています。京都帝国大学医学部は、吉田山の西の麓、吉田神社参道の南に建てられ、今では京都大学医学部と附属病院のキャンパスになっていて、(「本部構内」等周辺6か所の「構内」と併せて、京都大学全学のメインキャンパスでもある)「吉田キャンパス」と呼ばれています。吉田キャンパス・病院西構内の再生医科学研究所(現・医生物学研究所)教授だった永田和宏が吉田山を詠った歌があります。

 呼び捨てに 呼びいし頃ぞ 友は友
    春は吉田の 山ほととぎす (永田和宏)

 医科大学開学に当たって「京都帝国大学医科大学建築設計委員」4名が任命されました。その中には、明智光秀末裔三宅秀と織田信長末裔坪井次郎(初代坪井信道の孫:1863~1903)の二人共が加わっています。東京大学医学部だけでなく、京都大学医学部も光秀末裔と信長末裔の協働によって始まったことになるのです。坪井次郎は、信道の次女・幾の次男(長男は夭折)で、帝国大学医科大学(源・東大医学部)を卒業後永正学教室で研究した人で、同教室の助教授(現在の准教授)だった時に京都帝国大学医科大学建築設計委員に就任しました。そしてその開学にあたって学長に任命され、1903年に逝去するまで4年の間、学長の任にあたりました。
 当時の「京都帝国大学創立計画」には「医科大学は京都または大阪に新設する」とあり、その他に岡山案もあったそうです。実際には「医科大学は大阪、他の分科大学は京都」に内定していたようなのですが、最終的には誘致運動が圧倒的に協力だった京都に決定したのでした。
 大坂(源・大)は皆様御存知のように緒方洪庵適塾を開いて福沢諭吉・大村益次郎etc.
等の人材を輩出し、江戸に先行すること9年の1849年(嘉永2年)に洪庵が大坂除痘館(=種痘所)を開いた蘭学の先進地です。にも拘わらず、京都帝国大学医科大学の誘致に失敗した大阪に医科大学が誕生したのは、京都に遅れこと16年、1915年(大正4年)の大阪府立医科大学(現・大阪大学医学部)の開学まで待たなければなりませんでした。帝国大学に至っては、更にもう16年後の1931年(昭和6年)の開学です。その大阪帝国大学開学時には、三宅秀の孫・仁田勇(1889~1984)が理学部創立委員(の一人。後に大坂大学理学部長)になっています。
 京の「本能寺」から江戸の「お玉ヶ池」(更に、和泉橋、本郷)への旅路は、こうして再び京(の京都帝国大学医科大学)へと帰り着いたことになります(か?)。
 そればかりではありません。その流れは、はるか九州・筑前の箱崎まで伸びていました。
 京都帝国大学開学の後、東京、京都に続いて「東北と九州にも帝国大学を」との機運が高まり、先ずは「九州帝国大学」の布石(?)として、福岡に京都帝国大学の第二医科大学が開かれることになりました。博多(今では「福岡」の一部?)の箱崎という処は(京都熊野神社と同じ平安時代の創建の筥崎宮の門前町で、福岡よりずっと)古い古い町で、野点の始まりだとされる箱崎茶会(1587年)で使われた「利休釜掛けの松」が今でも九州大学医学部構内に残されています。

                                
                                京都大学医学部資料館(旧京都帝国大学解剖学講堂)
                 ©京都大学大学院医学研究科

 そこに1903年(明治36年)「京都帝国大学福岡医科大学」が誕生しました。京都帝国大学の第二医科大学というばかりではなく、全国的に見ても「第三医科大学」でした。これが現在の九州大学医学部の源流になるのですが、開学時には京都帝国大学の一部だったので、(「東大病院だより」に倣えば)京都帝国大学の「ファウンダー」が即ち九州帝国大学医学部の「ファウンダー」でもあることになります。京都帝国大学福岡医科大学初代学長・大森治豊(1852~1912)は、1879年(明治12年)東大医学部卒業の外科医で、大学同期に佐々木政吉(帝国大学医科大学第一内科初代教授:1855~1939)がいます。佐々木政吉は、[13]の佐々木東洋の養子ですから、三宅秀の義甥にあたります。
 その12年後に開学した第4の医科大学「東北帝国大学医科大学」の場合は、「仙台医学専門学校」をその前身としていますので、残念ながら「本能寺から御玉ヶ池へ」の流れが先代まで流れていくことはありませんでした。ただ、仙台医学専門学校の校長と東北帝国大学医科大学初代学長を務めた山形仲芸(なかき:1857~1922)が東京大学医学部の4期生(同期に森鴎外。学部長は三宅秀)だったという御縁はあります。仙台医学専門学校は、皆様ご存知のように、魯迅(1881~1936)が留学生として学んだ学校です。
 遙けき昔、「本能寺の変」で兵刃を交えた明智家と織田家でしたが、その270余年の後に(その末裔たちが)江戸・お玉ヶ池で「東京大学医学部開祖の大功労者」(by金子準ニ)として手を握ることになり、更にその40年後には、「京都大学医学部開基の大功労者」として再び手を握る事になりました。京都帝国大学建築設計委員の中に、明智光秀の末裔・三宅秀と、織田信長の末裔・坪井次郎とが共に加わっていたからです。日本の医科大学の嚆矢・帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)とそれに次ぐ第二の医科大学・京都帝国大学医科大学(現・京都大学医学部)の開学に、光秀の末裔と信長の末裔が共に深く関わったのでした。「第二」とは言え、皆様ご存知のように京都大学医学部は本庶佑先生と山中伸弥先生という二人のノーベル賞受賞者(但し、山中先生は神戸大学卒業)を輩出しています。

 

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■松本喜三郎と江島栄次郎

2023-10-23 06:49:20 | 花押

 ある人が電話をしてきた。「谷汲観音のモデルは江島さんの婆ちゃんがモデル」だと云われる。
そして谷汲観音は「江島栄次郎という人が作った」という、私の知識の埒外の話で当惑してしまった。
浄国寺にある「谷汲観音像」は、有名な生き人形師・松本喜三郎の作品として世界的にも有名である。

                    松本喜三郎

 関東圏で2019年4月30日に放映された「なんでも鑑定団」に松本喜三郎の生き人形が出品され、3500万円という途方もない値段がついている。
その時の内容や審査員の話を同番組のデータベースで見ることが出来る。

 ふと浄国寺の「谷汲観音像」や、来迎院の「聖観世音菩薩像」などは如何ほどの値段になるのかしらんと思ったことである。
明治31年、谷汲観音像を修復した弟子・江島栄次郎の事を紹介する、明治42年の九州日々新聞の「松本喜三郎の話」を見つけ出した。
これ等の作品は大阪その他外国での展覧会にも望んでいるが、松本喜三郎は世界的評価を得ているが、彼の作品だとされる「谷汲観音像」は、江島の大掛かりな修復により甦ったもので「松本喜三郎作/江島栄次郎補修「谷汲【たにぐみ】観音像」と紹介されるように、まさに江島の作品でもあろうという評価さえある。
江島家には、観音様の面影は江島の死んだ妻の顔を移したものと伝えられ、よく似ているという。
先の九州日日新聞の記事の最期にはそのことを思わせる江島の話が載っている。
江島栄次郎の評価が見直されるべきではないのかと思う。

          

 

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■ゆめ油断ばしし給うな

2023-10-18 11:43:31 | 花押

 朝の散歩に出て、公園内の木立の中を歩いていたら、腕を蚊にくわれてしまった。
蚊の飛行高度は6m程と言われる。今度の引っ越しで、3階そして5階へと住まいの高度を上げたが、3階住まいの頃から家の中で蚊に食われることなく過ごしてきたから、免疫力がなく痒い事きわまりない。
漱石の熊本弁の句を思い出した。漱石先生もどこやらで蚊の襲撃にあわれたのだろう。

       秋の蚊と 夢油断し し給ふな

標準語では「~~」を熊本弁では「~~」とするが、江戸っ子の漱石先生も郷に入れば郷に従えで熊本弁も大いに使われたのであろう。
私は共に元は「~~をば」ではなかったかと勝手に思っているが、標準語では「ば」がとれ、熊本弁では逆に「を」が取れてこうなったのでは?と考えるが如何だろうか。

熊本人のひごろつかう言葉ならば、「油断ば しなすな(しなさんな)」という風に遣うから、漱石先生のこの句にはちょっと違和感を感じてしまう。
漱石先生の丁寧な表現かもしれず、乱暴だと云われる熊本弁のほうがおかしいのだろうか。

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■小倉戦争と熊本藩(5)鹿子木彌左衛門の「見聞録」(二)

2023-10-16 06:43:21 | 花押

一 四ッ比右手受場大谷越間道ゟ敵兵押来候て相見小銃之音相聞候間圖明寺馬場ゟ同所應援として堤之塘
       邊江三番組之手分罷出候面々左之通
    傳四郎弟片山小源次   志方嘉十郎   嘉十郎養子志方長平   同人養育之叔父同 半之助
    渡邊園之允       園之允 家来四人      太田九十郎    友岡弥太郎
    弥十郎叔父友岡熊四郎   山代丈之助
  右之面々各小銃を以堤端ゟ発炮致申候 大谷間道口ニ者右手御物頭五番組之面々敵兵打拂賊六人打取
  御物頭松村十之進手負候由九ッ前ニ至り炮聲を打止應援ニも致不申相扣申候

一 大谷口合戦之節本陳懸之時分ゟ■利之場所江押出小銃数発打方致之面々左之通
    本陳附物見三池丹左衛門   丹左衛門嫡子三池鉄太  本陳物見斎藤権之助
  本陳懸之前■圖ニて出張発炮致候面々左之通
    本陳物見吉津次一郎   次一郎嫡子同 丈一郎  次一郎二男同辰熊  同人弟同 敬三郎
    同人家来田畑孫七    同人家来緒方為蔵     同人家来緒方七平

一 同所江貮番手御物頭七晩組を茂應援として馳付小銃数発打方且後二扣居候小倉勢を茂吉津次一郎安本
  四郎右衛門等と励テ一連相加り発炮致由

一 鳥越坂合戦之儀者山上二相備居候大筒手永嶺雲七受場五ッ比ゟ炮戦相始り大炮之音烈敷小銃相交就中
  永嶺雲七門弟を勵申候 絶間無之打出シ防禦充分二相届御物頭吉住半右衛門・木造左門・横井半右衛
  門副頭山野平八郎役筒支配高橋喜一郎・黒川太兵衛各組中を勵し指揮行届居申候 ■右手御物頭金守彦
  十郎・渡邊善右衛門・匂坂平右衛門各組共馳付金守彦十郎は組子を引連山中江入込賊之撒兵を追込散
  し同所二相加り数刻之炮戰手をく砕粉骨之労を■居之内山野平八郎組子を下知し相働居候処賊炮二中
  り坂上二て討死致候砌三番組中大谷應援并と圖明寺手分共一同二同所二馳付鯨波を揚ヶ各小銃を携へ
  御物頭大筒手之間二相交り連発致し候付惣勢■以力を得頻二相働キ間近く寄来候賊数十人打倒し山手
  谷間ゟ賊兵打■らし引立候處当領二鯨波を駆■ヶ返シ合二付山上ゟ銘々打立候時分三番組重士高橋作
  右衛門乍チ賊玉二中り討死を遂ケ申候 又助養子田邊格太郎者永嶺手小銃を助ヶ数十発打放相働賊兵
  間近く五六間之處二て相討致戦死候段浅香庄右衛門見届居申候 其外永嶺門弟野村帍太郎■未相働討死
  致塩山半右衛門門弟濱治七郎助も討死致を三番組佐四郎三男緒方恒喜左之脇を打貫之手負引取申候
  吉住半右衛門組関清助手負申候 木造左門組安田猪八者深手を負上引取相果申候 御物頭大里隼之助組
  共鳥越阪之下間道相固メ居之由二て後刻同所山上江押出シ炮発相働セ申候   

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■小倉戦争と熊本藩(5)鹿子木彌左衛門の「見聞録」(一)

2023-10-14 06:42:31 | 花押

 「小倉戦争と熊本藩」が、少々時間が経過しすぎた。
私が小倉戦争を御紹介したい主意は、諸氏の曽祖父位に当たられるご先祖様のご苦労をお伝えしたいという想いからである。
一番そのことが知れるのは、鹿子木彌左衛門の報告書「豊前小倉領冨野表戦争見聞書」であろう。
宮村典太の盤桓随筆の「巻6」に16ページに及ぶ書写記録があるので、読み下しをしながらご紹介する。
先人の戦場に於けるこのような記録が残されたことに感謝したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     豊前小倉領冨野表戦争見聞書
                   左御番頭三番組
一 壱番手  御備頭溝口蔵人殿       西山大衛殿
                   右御番頭五番組
                      沢村八之進殿
   本陳廣壽山 安達村
                   
                   左御番頭七番組
一 貮番手  惣御奉行 長岡監物殿     須佐美源左衛門殿
                   右御番頭八番組
                      牧 多門助殿
   本陳来光禅寺 蒲生村

一 慶應二年七月廿七日拂暁砲聲相聞候二ツキ壱番て溝口蔵人殿本陳廣壽山ゟ早鐘之相圖二應し諸手受場
  江御人数繰出候間三番組者兼而相究居候受場上冨野村江交番仕相固メ居候二付直接同所江被押出居西
  北之村際原中江手分ケ相固居候處長賊馬寄新町ゟ焼立候故小倉勢引立二引続押来赤坂村ニ懸候ニ付圖
  明寺境内東野宣太郎大筒手受場炮發戦争強く有之賊数十人打倒候よし同所應援として三番組子分圖明
  寺江罷出同所引揚候時分二番手中村四郎右衛門大筒繰出申候尤三番組同所出張之面々左之通
    組脇
    田邊又助     又助養子田邊格太郎    本庄傳兵衛    傳兵衛養子本庄熊三郎
    中嶌次兵衛    傳四郎弟片山小源次    米良勘助     勘助弟米良左七郎
    志水一学     一学実弟志水古次郎    立石久左衛門   久左衛門養子 同熊三次
    関 源之允             粟野左助     草刈善助     善助弟 草刈久満喜
    佐四郎弟緒方清■     斎藤郡左衛門   郡左衛門養子加津馬      加賀山権之允
    権之允弟加賀山権次   加賀山安之允      同人支配藤木友喜        原田丹蔵
    丹蔵弟原田熊之助  儀左衛門弟井上傳記     井川弥次兵衛    弥次兵衛弟井川熊次郎
    次市郎嫡子吉津丈太郎 次一郎弟同敬三郎      同人家来緒方七郎

  右之面々各小銃を以大炮之間を打相働申候

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■米田是季の出奔から帰参まで(2)

2023-10-10 06:37:20 | 花押

 慶長11年の7月17日、飯河豊前と長岡肥後が誅伐された。原因は判らないが藩は飯河父子に罪過ありとして閉門の処置を取り、逸見次左衛門を派遣して両御所に報告させている。
そして逸見が下着したその日のうちに、誅伐が決行されるという異常さが見て取れる。

父豊前は討手の河喜多石見を迎えて家族共に働き見事討ち死にした。討手河喜多石見は豊前の家来に討たれて死亡した。
一方肥後は米田是季の妹(姉?)である室と不和の状態が三年続いていたというが、室が夫・肥後の最期にあたり生害を共にせんと肥後の元にかえり、討手の益田蔵人を屋敷内に迎え入れ、益田の周旋の申し入れを拒否して自らは妻を殺害して切腹、益田が首を落として忠興のもとに供した。

「細川藩主要家臣系図」によると、肥後か妻は黒田蔵人に再嫁したとあるが、上記綿考輯録の伝える所によると明らかな間違いである。系図には黒田蔵人再嫁と表示し直した。

 さて米田是季だが、この当時は興季と名乗っていたようだ。当然忠興からの拝領の字だと思われ、是季と名乗り直している。綿考輯録には誠に小さな次のような記事が残る。
今年(慶長11年)、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、于時22歳 浪人之内、大阪ニ籠城の事等忠利君之譜、元和九年帰参之所ニ詳ニ出」とある。
是季の帰参に当たっては、忠利の綿密な計画のもとに行われたのではないかと思われる節がある。次回取り上げる。

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■大発見と大困惑

2023-10-06 06:39:54 | 花押

 先日に続いての入江家についてである。
当サイトの「新・肥後細川藩侍帳」に於ける入江太門太家と傳十郎家の初代並びにそれ以前の事柄については、「系図」の登場により当方の勘違いであったことが確定した。
これについては又別途ご報告をしたいと思っているが、系図を詳細に眺めている中で思いがけない発見が有り、また大いに困惑をしている
                                                               
                      左から三行目に「妻 細川越中守忠利女」とある。

 太門太家の初代は、「新・肥後細川藩侍帳」では三之允としているが、「系図」によると「正勝 三之允」とし「母乃美兵部少輔女」とあり、田邊城に籠城した入江景秀(晋門)の嫡男である。
その「正勝」の欄に「妻 細川越中守忠利女」とあった。
この系図はコピーを数回経ているから文字がつぶれて完読できないが、これは間違いないと思う。
入江家の菩提寺・妙立寺に入江家の関係者が収められたものだというが、原本の所在は現況判らない。
それは兎も角、妻が「 細川越中守忠利女」とはどういうことか?
忠利には女子としては、松平下総守忠弘室・藤、有吉頼母佐英長室・竹、夭折の女子、長岡図書興章室・興幾の4人が系図上に存在する。嫡子光尚の幼名は、六番目の子だから「六丸」と命名されていることからも六丸の誕生前に系図に現れない五人の子女がいたことが判る。
これは先にご紹介した。  ■元和五年九月十八日、御六(光尚)誕生

 入江家の系図が本当だとすれば、そこに記載ある光尚の一年前に生まれた女子しか該当する人はいない。
実は、妙立寺には何方のものか判らないという細川家関係者と思われる、立派で大きなお位牌が残されている。
コロナ前から、いろいろ調べてきたがお手上げ状態で、諦めかけていたところに一筋の明かりが見えた感じである。

                                
私は、忠利女だとされる入江三之允の奥方のお位牌ではないかと推測してみた。
入江家の過去帳が残されて居れば、お位牌の法号と照合すればこれは簡単に解決しそうな気がしている。

一番不思議なのは、この女性が何故細川家の正式な家系図に登場しないのか、又高槻城主の三代目のご子孫とはいえ大変失礼だが150石程の人物に嫁いだのかという疑問である。
そして私は興奮の中にいる。


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■只今猛烈タイピング中

2023-09-30 21:45:26 | 花押

 ひょんなことで、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」についてお話をすることになった。
在る方の古文書を読んで差上げたら、大先生呼ばわりをされて迷惑この上もないが、
男女取交っての7人ばかりの小さな集まりだそうだがが、準備はちゃんとしておかなければならない。
世話人の方のお話によると、「阿部一族は知っとるばってん、興津弥五右衛門てなしらんばい」と言う人が多いその話をしてほしいとのことである。
郷土の歴史には興味がお有りという事だから、「史実との矛盾‐鴎外にミスリードされた小説 興津弥五右衛門の遺書」と題してレジュメを作ろうかと思ったが、小難しい話はやめることにした。
小説の内容について簡単に解説しようかと考え、小説の全文をお渡ししようと思い至った。

青空文庫に小説が紹介されているから、これをコピーしようかと思ったが、著作権があることだからそれはまずい。
ならば暇に任せて、全文タイピングしようと思い立った。私の手元に在るその小説は全部で22頁、今日は5頁タイピングしたから、あと4日もあれば済むだろう。
皆さんにこの小説のコピーA4判数頁をお渡しして、会が終了した後にでも目を通していただけるようにとの思いである。
ただし、中身は史実ではなく「小説」ですよと、強調する処は強調して・・・

「酒はでまっせん、みんなが持ち寄った甘かもんば食いながら拝聴します・・謝礼金もありまっせんバッテン、宜しくお願いします」という、面白そうな会である。

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■月齢15日になった瞬間

2023-09-29 19:18:42 | 花押

                             
          

 今日は中秋の名月、今年は18:59分月齢15日となりましたが、その時間をベランダで待ち構えました。
雲もなく見事なお月様を撮影、TVで札幌の満月が放映されていましたが、札幌は1分早かったようですね。
兔の餅つきは熊本も札幌も変りはありません。明日も良い天気でしょう。
どこでやっているのか、北の方向に花火が遠望できます。

                遠花火 月も高見と登りけり 津々

その後は雲が出てきて月は出たり入ったりです。

                名月や 群雲払う術もなく  津々

                     

             

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■小倉戦争と熊本藩(1)

2023-09-26 06:14:30 | 花押

7月3日夜になり、長州兵が上荷船に砲を積んで、幕府軍の主力艦富士山丸に近づき砲撃するなどした。
翌朝、ひそかに門司に上陸していた長州兵が海岸と山麓にわかれて大里に進撃、海からも大里陣地を砲撃し小倉兵は赤松へ後退した。
長州兵は夕刻海峡を渡って引揚げた。小倉沖から幕府軍艦3艦が出動したが、長州の3艦が応戦した。 

 熊本藩の家老・米田監物が着陣した翌日の7月27日、長州軍は総攻撃を開始、これに対し熊本藩兵が赤坂の前方、延命寺山に砲兵陣地を築き、長崎街道を南下してくる長州軍を迎撃した。猛烈な撃ち合いになり、長州勢は死傷者を出すなど多大な被害を受けて敗走し長州へ逃げ帰った。
長州軍の死者については参陣していた横井小楠が手厚く葬った。明治に至り、木戸孝允から長州へ遺骨を引取たい旨の申し入れを受けたが、熊本藩のメンツを楯に小楠はこれを断った。
その墓所は今も赤坂の小高い丘の上に残る。奇兵隊戦死墓
熊本藩は幕府本営に援兵を要求するも、幕府兵も小倉藩兵も参戦しない為、肥後藩の主将・米田監物は撤退を決意して30日に至り帰国を始める。

まさにその日7月30日、将軍徳川家茂病没の知らせを受けると、8月1日幕府軍小倉口の総大将であった九州総督の小笠原長行(ながみち=唐津藩世子)は小倉から脱走し富士山丸で長崎へ向かった。

 熊本藩その他の諸藩勢は、国元に引き揚げ始めた。総督が脱走し、諸藩が撤退した後は、小倉藩小笠原勢だけで長州勢の侵攻を防ぐのは難しいと、小倉藩重役は小倉城を「開城」する以外の手段はないと判断し、幕府目付の二人に対し城を請取る様に懇請た。結果的には熊本藩の竹崎律次郎が提案したという「自燃」案を目付に認めさせた。
幕府の目付の「お墨付き」を得たことで、世子・小笠原豊千代丸(後の忠忱=ただのぶ)をはじめ、豊千代丸の亡父・忠幹(ただよし)の正室や息女らを、肥後国熊本藩領に避難させる準備がなされた。
五つ時過ぎ(午前8時頃)の豊千代丸ら一行の城内退去から始まった。篠崎口を出て木町を経て、秋月街道を南下した。同日夕刻、香春(かわら)岳のふもと採銅所(現田川郡香春町)に到着した。
豊千代丸らは逃避行を続け熊本藩領内牧にり、その後熊本藩の斡旋により熊本城下の宿屋に落ち着くことになる。
慶応4年3月、小倉城を失ったため藩領香春に戻った。尚、長州軍の指揮を執った高杉晋作は慶応3年4月13日に死去している。
                
その後、熊本藩が仲立ちとなり長州藩に対し止戦を申し入れるも難航し、終戦は年を越えることになる。

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■熊本弁「さるく」

2023-09-25 14:19:12 | 花押

 今朝ほど届いた熊本市の「市政だより」、そのトップ記事に「まちなかを」とある。
奥方が目ざとく見つけて「熊本弁て変ね」という。「さるく」とは「散策する」と言う意味だが、延岡出身の奥方からすると「変」なのだろう。
ウィキペディアなどを見ると、その起源について納得いく説明がある者は見受けられない。
某民放のアナウンサー氏は熊本弁を紹介しておられる中、「彷徨う(さまよう)」が変化して「さるく」が生まれたのではないでしょうか、と解説しておられるが説得力に欠けるような気がする。
私は「去る」と「来る」が合体した「去る来」だと考えているが如何だろう。
大意は変わらず、要するに「行ったり来たり」するさまで、丁寧語にすると「散策する」となるのだろう。
いきなり「」とくると、「何!!」と身構えてしまうが、まだまだ理解することが出来る熊本弁の内ではある。
「この間■■をさるいて来ました」などという会話は、まだ日常会話の中に生きている。

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■細川藩士・入江太門太家と傳十郎家の関係

2023-09-25 09:45:00 | 花押

 細川家家臣に入江姓の御宅が太門太家・傳十郎家・謙吾家・清八郎家・次郎太郎家・林九郎家・太郎八家と七家を数える。
家紋帳をみると、太門太家と傳十郎家が、同族であろうことが推察されてきた。
今般 T 氏が取得された資料をお送りいただいたが、ここの清和天皇に遡る入江家の系図があり、両家の関係が判明した。「武家家伝ー入江氏」とほぼ内容は同じである。
これによると、多門太家の初代・三之允の父は入江景秀であり、傳十郎家の初代・淡路守平内はその弟であることが判明した。傳十郎家の祖とする左近将監元秀は景秀・平内(景光)の父である。
当方の侍帳の書き込みについては、この新たな史料により錯誤が生じているが、今一度精査をして加筆及び修正を図りたいと思っている。
元秀の母親が和田惟政の姉であり、元秀の弟・秀升はその女婿であり、和田家と深く繋がる御宅であることが判る。

       

 入江太門太 (東南4-21) 百五十石
   ・入江左近将監元秀

   ・入江晋門景秀
    1、三之允・正勝   
    2、嘉左衛門
    3、権之允

■ 入江傳十郎 【丹後以来】 (東南4-20)  三百石
     左近将監元秀
    1、淡路守(初・平内 ) 
    2、徳左衛門(初・平内・左近・勘三郎)

    3、徳左衛門
         

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