露の世は 露の世ながら さりながら(小林一茶)
さはさりながら、夏逝きてまた「露」の季節がやって来ました。
秋景色と言えば、露以上に(?)紅葉ですね。「お玉ヶ池」が元「桜が池」だったように、江戸にはよりも桜の名所が多いようです。それに対して、「本能寺」のある京都には日本を代表する紅葉の名所が幾つもあります。そう云えば、佐倉は他の木々よりいち早く紅葉すると云います。「蕉門十哲」の一人・内藤丈草がその桜紅葉を詠んでいます。
早咲の 得手を桜の 紅葉かな (内藤丈草)
[20]吉田山
そんな訳で、この「本能寺からお玉が池へ」の道行も里帰り(?)の日を迎えたようです。
数多の京都の紅葉の名所が集まっているのが「東山」一帯です。東山は、皆様ご存知のように京の街の東に連なる山々のことで「東山36峰」と呼ばれます。「36峰」と云うのは、比叡山から南に如意ヶ嶽(=大文字山)を経て稲荷山に至る35の峰々と如意ヶ嶽の西に(鹿ヶ谷を挟んで)孤立する吉田山から成っていて、合わせて36峰になります。
吉田山に鎮座する古社「吉田神社」(859年(貞観元年)創建)の信長・秀吉時代の宮司は、吉田兼見(1535~1610)でした。兼見の父・吉田兼右は、ガラシャの夫・細川忠興の祖母・智慶院の兄で、兼見の子・兼治の妻は忠興の妹・伊也です。
吉田兼見は、元々明智光秀とは親しい間柄でした。「本能寺の変」の5日後に勅使として光秀を安土城に訪ねた兼見は、その日の日記に光秀が「今度謀反の存分」を語ったと書いています。ただ残念ながら「謀反の存分」の内容は記されていません。その翌々日、光秀は上洛して兼見の屋敷を訪れ、朝廷の五山(山ではなく、天龍寺等5つの寺のことです。5寺の中東福寺等三寺が東山にあります。)と大徳寺への献金を兼見に託しています。このように吉田山は、(吉田神社の兼見を通して)「本能寺の変」とは深い関りがあった(と言っても、兼見やまして朝廷が「本能寺の変」の黒幕だった訳では勿論ありません。)ようです。
都名所之内 吉田山神楽岡(長谷川貞信)
出典:立命館大学アーク・コレクションarcUP2558
吉田山の南東近くに天台宗の古刹・真如堂(真正極楽寺@京都市左京区浄土寺真如町)があります。真如堂は「本能寺の変」の斎藤利三の墓所があるのです。[11]で述べたように、斎藤利三は山崎の戦で敗れ、六条河原で処刑されましたが、その首は利三の友人が夜陰に乗じて奪い去ったのです。首を奪ったのは、絵師の海北友松(1533~1615)と真如堂住職・東洋坊長盛(1515~1598)です。彼らが奪い取った利三(の首)を真如堂に葬りました。そして後年、彼等二人の墓所も(友松のは利三と並んで、東陽坊のは利三の裏に)真如堂に建てられました。現在真如堂は、その案内表示を建てていて、そこには「戦国武将 斎藤利三、東陽坊長盛、海北友松 の墓」と書いてあります。東陽坊長盛は、黒茶碗「東陽坊」、海北友松は、建仁寺「大方丈障壁画」や妙心寺「花卉図屏風」が有名で、何れも重要文化財です。
また、真如堂の本堂の南、墓地との間に、春日局が父の菩提を弔って植えたといわれる「たてかわ桜」(縦皮桜。縦に筋が走るエドヒガン系の品種)があります。1959年(昭和34年)の「伊勢湾台風」でたおれたたてかわ桜は、数年後自力で復活しましたが、金ねんその樹勢はどんどん弱って来たので、日本製紙(特殊な)挿し木技術で後継木が育成されています。三井家家祖・三井高利が遺言で墓所を造らせて以来真如堂は三井家の菩提寺になり、その御縁で三井グループの一員である日本製紙がたてかわ桜の護持役を買って出たのです。
©真如堂 鈴聲山真正極楽寺
話は飛びますが、高利の7代前の三井乗定の嫡男(ですが、三井家を継いだのは前に養子に入っていた高久でした。)・定条(さだえ)の孫に近江鯰江城主・三井乗綱がいます。乗綱の次男・虎高は藤堂家の婿養子になり、虎高の次男・高虎を藩祖とする藤堂藩の11代藩主・藤堂高猷の江戸屋敷こそあの「お玉ヶ池種痘所」が二度目の移転後、大学東校→東京医学校になり、「東京医学校」が加賀藩上屋敷(跡)に移転するまでの16年間在った場所でした。そして今、その場所には三井記念病院が建っています。
長崎と京の名医 向井元升の次男・兼時は「蕉門十哲」の一人・向井去来です。去来が1694年(元禄7年)夏に向井家の菩提寺・真如堂で行われた神州・善光寺の阿弥陀如来の出開帳を詠んだ句があります。
涼しさの 野山にみつる 念仏かな (向井去来)
吉田山は、京都大学の「東(隣の)山」でもあります。1200年もの歴史ある古社(で、「八つ橋発祥の地」)・京都熊野神社から東大路通(「東山通」とも云う)を北に200mほどの処に學京都大学病院があります。更にその北・東山近衛交差点を左に折れると、すぐ右にあるのが京都大学医学部(@京都市左京区吉田近衛町)です。
1947年(昭和22年)に誕生した「京都大学医学部」は、1919年(大正8年)発足の「京都帝国大学医学部」をその前身としています。京都帝国大学医学部は、吉田山の西の麓、吉田神社参道の南に建てられ、今では京都大学医学部と附属病院のキャンパスになっていて、(「本部構内」等周辺6か所の「構内」と併せて、京都大学全学のメインキャンパスでもある)「吉田キャンパス」と呼ばれています。吉田キャンパス・病院西構内の再生医科学研究所(現・医生物学研究所)教授だった永田和宏が吉田山を詠った歌があります。
呼び捨てに 呼びいし頃ぞ 友は友
春は吉田の 山ほととぎす (永田和宏)
医科大学開学に当たって「京都帝国大学医科大学建築設計委員」4名が任命されました。その中には、明智光秀末裔の三宅秀と織田信長末裔の坪井次郎(初代坪井信道の孫:1863~1903)の二人共が加わっています。東京大学医学部だけでなく、京都大学医学部も光秀末裔と信長末裔の協働によって始まったことになるのです。坪井次郎は、信道の次女・幾の次男(長男は夭折)で、帝国大学医科大学(源・東大医学部)を卒業後永正学教室で研究した人で、同教室の助教授(現在の准教授)だった時に京都帝国大学医科大学建築設計委員に就任しました。そしてその開学にあたって学長に任命され、1903年に逝去するまで4年の間、学長の任にあたりました。
当時の「京都帝国大学創立計画」には「医科大学は京都または大阪に新設する」とあり、その他に岡山案もあったそうです。実際には「医科大学は大阪、他の分科大学は京都」に内定していたようなのですが、最終的には誘致運動が圧倒的に協力だった京都に決定したのでした。
大坂(源・大阪)は皆様御存知のように緒方洪庵が適塾を開いて福沢諭吉・大村益次郎etc.等の人材を輩出し、江戸に先行すること9年の1849年(嘉永2年)に洪庵が大坂除痘館(=種痘所)を開いた蘭学の先進地です。にも拘わらず、京都帝国大学医科大学の誘致に失敗した大阪に医科大学が誕生したのは、京都に遅れこと16年、1915年(大正4年)の大阪府立医科大学(現・大阪大学医学部)の開学まで待たなければなりませんでした。帝国大学に至っては、更にもう16年後の1931年(昭和6年)の開学です。その大阪帝国大学開学時には、三宅秀の孫・仁田勇(1889~1984)が理学部創立委員(の一人。後に大坂大学理学部長)になっています。
京の「本能寺」から江戸の「お玉ヶ池」(更に、和泉橋、本郷)への旅路は、こうして再び京(の京都帝国大学医科大学)へと帰り着いたことになります(か?)。
そればかりではありません。その流れは、はるか九州・筑前の箱崎まで伸びていました。
京都帝国大学開学の後、東京、京都に続いて「東北と九州にも帝国大学を」との機運が高まり、先ずは「九州帝国大学」の布石(?)として、福岡に京都帝国大学の第二医科大学が開かれることになりました。博多(今では「福岡」の一部?)の箱崎という処は(京都熊野神社と同じ平安時代の創建の筥崎宮の門前町で、福岡よりずっと)古い古い町で、野点の始まりだとされる箱崎茶会(1587年)で使われた「利休釜掛けの松」が今でも九州大学医学部構内に残されています。
京都大学医学部資料館(旧京都帝国大学解剖学講堂)
©京都大学大学院医学研究科
そこに1903年(明治36年)「京都帝国大学福岡医科大学」が誕生しました。京都帝国大学の第二医科大学というばかりではなく、全国的に見ても「第三医科大学」でした。これが現在の九州大学医学部の源流になるのですが、開学時には京都帝国大学の一部だったので、(「東大病院だより」に倣えば)京都帝国大学の「ファウンダー」が即ち九州帝国大学医学部の「ファウンダー」でもあることになります。京都帝国大学福岡医科大学初代学長・大森治豊(1852~1912)は、1879年(明治12年)東大医学部卒業の外科医で、大学同期に佐々木政吉(帝国大学医科大学第一内科初代教授:1855~1939)がいます。佐々木政吉は、[13]の佐々木東洋の養子ですから、三宅秀の義甥にあたります。
その12年後に開学した第4の医科大学「東北帝国大学医科大学」の場合は、「仙台医学専門学校」をその前身としていますので、残念ながら「本能寺から御玉ヶ池へ」の流れが先代まで流れていくことはありませんでした。ただ、仙台医学専門学校の校長と東北帝国大学医科大学初代学長を務めた山形仲芸(なかき:1857~1922)が東京大学医学部の4期生(同期に森鴎外。学部長は三宅秀)だったという御縁はあります。仙台医学専門学校は、皆様ご存知のように、魯迅(1881~1936)が留学生として学んだ学校です。
遙けき昔、「本能寺の変」で兵刃を交えた明智家と織田家でしたが、その270余年の後に(その末裔たちが)江戸・お玉ヶ池で「東京大学医学部開祖の大功労者」(by金子準ニ)として手を握ることになり、更にその40年後には、「京都大学医学部開基の大功労者」として再び手を握る事になりました。京都帝国大学建築設計委員の中に、明智光秀の末裔・三宅秀と、織田信長の末裔・坪井次郎とが共に加わっていたからです。日本の医科大学の嚆矢・帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)とそれに次ぐ第二の医科大学・京都帝国大学医科大学(現・京都大学医学部)の開学に、光秀の末裔と信長の末裔が共に深く関わったのでした。「第二」とは言え、皆様ご存知のように京都大学医学部は本庶佑先生と山中伸弥先生という二人のノーベル賞受賞者(但し、山中先生は神戸大学卒業)を輩出しています。