先に■「肥後名家墳墓録」からを書いた。我が遠祖庄左衛門の兄・長五郎の娘・熊のことが書かれている。
その熊(龍源院)がお寺を創建したのだというから驚きだが、残念なことに明治十年の西南の役で焼失したと思われ、廃寺となった。
熊の関係者のお墓などあったものと思われるが、詳しいことはようとして知れない。
「肥後名家墳墓録」を読むと、「建九重石塔於流長精舎」とある。流長精舎とは現在の流長院だと考えられるが、この九重の石塔は現存するのだろうか。
流長院のあたりは、かっての坪井川の流路が大きく変更され現在に至っているから、ひょっとすると現存していないかもしれない。
随分以前清正公の遺産・瀬田井樋修復を書いた折、その文中にこの石塔のことを書いた。寛政八年の大水害に関することである。
「寛政八年(1796)六月十一日に熊本を襲った大洪水(辰の年の水害)は、熊本藩年表稿によると高さ1丈6尺(約4.8メートル)の古今未曾有の洪水と成り、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15、202町、損毛362,000石に達したとある。
内坪井の流長院では九重の石塔の六番目、約6メートルの高さに達したという。」
ここに九重の石塔が登場する。
何故流長院に石塔を建立したのか?。肥後国誌によると龍源院は寛文十一年(1671)寺原の地に宅地を求めて一宇を興し、流長院三世船若和尚の弟子恵日を庵主とした。ここに流長院との関係が見て取れる。
寛文十一年(1671)このお寺宗嚴寺を創建するにあたって、遠く長州の大寧寺(タイネイジ)の末寺となった。大寧寺二十五世悦源を開山とする。恵日を二世とした。
なぜ長州長門のお寺なのかと不思議に思えたのだが、もともと磯部氏は毛利家の家臣であった。長門に住んでいたのだろうか。
もっとも長五郎・庄左衛門は父・磯部市右衛門とともに下松に浪居しているところに、京や江戸へ登られる忠興公一行が度々立ち寄られ、その後兄弟二人が豊前へ召し寄せられたという経緯がある。どうも長門へは結びつかないが今後の課題である。
断片的な資料を集めながら、これらをつなぎ合わせて「お熊さん」に迫ってみようともがいている。