令和五年も余すところ、十七時間ほどとなりました。
サイト開設以来20年と4ヶ月余を過ごしましたが、毎日ブログをUPしながらまだまだ勉強不足を痛感しています。
本年も当サイトをお尋ねいただき感謝申し上げます。有難うございました。
津々堂 敬白
令和五年も余すところ、十七時間ほどとなりました。
サイト開設以来20年と4ヶ月余を過ごしましたが、毎日ブログをUPしながらまだまだ勉強不足を痛感しています。
本年も当サイトをお尋ねいただき感謝申し上げます。有難うございました。
津々堂 敬白
今年の十一月半ば、横手の禅定寺をお尋ねし、ご方丈様から熊本大地震で大きな被害を受けた歴史墓などについて詳しくお話を承った。
さらには、都市計画道路の工事が進捗している中、藤村紫朗男爵のお墓や、雲林院(うじい)弥四郎などの立派なお墓が道路にかかり取
り壊されていて少々ショックであった。
私が雲林院弥四郎の名前を初めて知ったのは、約20年前で、現在加藤清正やその夫人や子女の研究、又宮本武蔵研究で頑張っておられる
歴史家・福田正秀氏との出会いであった。
人見知りするこの私が、なんと福田氏邸をお尋ねしたのだから、この時の感激はもって知るべしである。
さてその雲林院弥四郎は宮本武
蔵と立ち会ったとされるが、細川三斎は小倉時代から宮本武蔵についての発言が全く見られないように思うのだが如何だろうか。
一方この弥四郎については、忠利から推薦されて大変満足している様子がうかがえる。
大変親しい柳生家の柳生流の使い手でもあることも原因なのかもしれない。
禅定寺様では、歴史墓の皆様の「歴史的データ」をまとめようとされている。
そのお手伝いをする中、以下のような忠利と三斎の書簡のやり取りにもそれがはっきり見て取れる。
三齋が彌四郎の兵法を絶賛していることが判る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■寛永十三年八月四日の忠利から三齋に宛てた書状案(十二--837)
戸田流之なかれか、柳生流をつかひ候ものか、御慰ニ子共ニ、御つかわせて候て、
可被成御覚候間、進上可申由、此町ニ遣有候彌四郎と申者、牢人にて柳生流を少
つかひ申候、戸田流ハ無御座候、(以下略)
八月四日
佐方與左衛門尉殿
尚々、兵法つかひ候もの早々進上可申を穿鑿仕、遅進上申候、以上
■同八月五日三齋の返書(六--1437)
書状披見候、先日兵法つかひ之儀申候処ニ、柳生流つかひ候者給候、一段満足申候、
則今日召出、兵法見申候へ共、今日は黒日・帰忌日に当り候、兵法之儀ニ候間、明
日寅之日ニ候条、召出見可申と存候、云庵御知候者之由候、親より兵法つかひ候由、
加々山主馬所より由緒懇ニ申来候、無調法なるハ卒度もかまひ不申候、今ハ鷹野も
無之内ニ迄居申ニ付、小姓共腹病迄ニ成申候、稽古させ可中と存候、我々気合同前
ニ候、気ハさのミわるく無之候へ共、曽而食事成不申候、去年江戸にて発候時分に
て候故と存候、明日兵法見申候而、慰可申と存候、恐々謹言
八月五日 三齋宗立
越中殿
御返事
■同三齋の書(六--1440)(抜粋)
彌四郎兵法存之外見事ニ候而、柳生弟子ニ是程之は終ニ見不申候、これをつかはせ
小姓共成かね候所、我々立て遣候て見申候か、一段薬と覚申候
■同八月九日の忠利書状
彌四郎兵法能御座候由、久敷つかいてニ而御座候、就夫、弟子共成兼候所、折々被
成御立之由、御気も晴、御積ニ所残御座有間敷候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
八月九日
■同八月廿九日の三齋書状(六--1443 抜粋)
彌四郎儀此中毎日ほねをおらせ申候、気魂成者ニ而、先日も如申候、存之外柳生流
巧者にて候、我々小姓、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合点不参候間、又春ハやと
ひ可申候、此由留守居共に被申付置可給候、打大刀も初心ニ候へ共、りきミのなき
つかひにて候、猶期後音候 恐々謹言
八月廿九日 三齋宗立
越中殿
進之候
昨日近所のコンビニに出かけたあと、スーパーMへ廻り「根付き松」はないかと見て回ったが、最近では段々見受けられなくなってきた。
根をつけたものをこいでしまうわけだから、少々酷な話ではある。
根付きはないが、松の枝は沢山出ていたが根付きだからの良さがあるのであって、諦めた。
普通のお飾りにしようと玄関ドアに下げる小さなものを準備した。
赤星閑意が描いた「登城図」をみると、細川家の御門の正月飾りのありようが見て取れる。
現代風に三本の竹をそえるように松が飾られるのではなく、大中小3本の松の木が門の両側に植え付けられている。
冠木門に扉の上に稲わらで作った丈の低い下がりようのものがかけられ、そこにしめ縄飾りが飾られている。
一般の御侍については「家中式法」に門松飾りのことが出ている。
「年頭門松飾之儀代々中小姓以上惣而門前ニ立飾可申事」とあるから、義務であることが判る。
「但、妙解院(忠利公)殿代郡方事多、擬作百石より以上之面々、役間より致世話、其以下ハ自分立飾之儀勝手次第申付候事」とある。
かっては郡方が手配していたのだろうが繁忙であるため、御役間が手配をしたというのである。
是とて、大きさなどいろいろ決まりごとがあろうから、手配も大変であったろうし、受取に行くのもまた大変のようで、歳末のあわただしさが伺えて面白い。
皆様のお宅のお正月飾りはお済になりましたか。
延宝8年の今日は細川光尚の弟・尚房が亡くなられた日である。享年44。法号・智照院月江義心。
お墓は妙解時塔頭・智照院の裏手にあったが、新幹線開通に当たり移転を余儀なくされた。
その折、一族のお墓ともども調査が行われ詳細が報告書となっている。
兄・光尚が病が地であったため、一時期死を覚悟した光尚は、弟尚房に遺領の相続を口にしている。
まだ、御六(綱利)誕生前の話であろう。光尚の死後の遺領相続については、その案の一つに「三分割案」があり、尚房の名前も挙がっていた。
一方、当時9歳の尚房(松助)に、立孝の息女(5歳)をめあわせ八代領に置いたらという話もあったらしい。
(正保三年)三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋) 丹羽亀之允言上之覚から
此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
可分置御談合候 宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候
いずれの話も頓挫し、無役の内に亡くなられた。嫡子・尚方も20歳で亡くなり尚房一族は絶家した。
かっての妙解寺と智照院、裏手(上部)にお墓が並んでいた。
漱石夫人鏡子氏の「漱石の思い出」をよんでいると、結婚式を挙げしばらく住まいした「光琳寺の家」が出てくる。
裏がまさしくお墓であったため、是を嫌がって三ヶ月ほどで転居している。
鏡子夫人の語るところによると「なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした」とある。
ご厚誼いただいているサイト「徒然なか話」には「光琳寺の家」に写真が紹介されている。
鏡子夫人はさらに「玄関のとっつきが十畳、次の間が六畳、茶の間が長四畳、湯殿、板蔵があってそれから離れが六畳と二畳とこういう間取りです」と説明している。
その「離れ」で式は催されたらしい。
板塀で囲まれた庭付きの結構広い家のようだが、日差しを遮るためか深い軒をめぐらした「ちょっと風変わりな」家という感じは大いにする。
読み進めていくと、先住人の「お妾さん」は不義をしてお手打ちになったそうで、「なんとなく不気味な家」ということらしい。
こんな話を聞くと、手打ちをした御家老とはどなただろうと思うのだが、これは何とも闇の中である。
そこで転居したのが「合羽町の家」だが、こちらは建って間もない家なのに「がさつな家」だったそうだ。
そう書き残されると、少々鏡子夫人にも家主さんにも「申し訳ない」と思ったりする。
枯れ菊のやや色残す垣根かな 津々
一昨日年賀状を出し、図書館に本を返しに出かけて、昨日は某家の先祖附の原本の写並びに読み下し文を何とか年末にお届けしようと発送、これで私の年末の仕事もガラス拭きを残すのみとなりました。
近所のスーパーマーケットに別に用事もないのに入って、何となく年末の雰囲気を味わいました。
人の列に身を置いてみる年の暮れ
私がひそかに、地元のアビーロードと思い込んでいる通りがあります。
4人そろって誰かが歩くということもないのですが、今朝は落ち葉が走り回っていました。
寒の朝 アビーロードは落ち葉かな
早めにガラス掃除を済ませ、のんびりの歳末を過ごすことにしましょう。
慶安二年(1649)十二月廿六日光尚公が江戸で逝去なされた。ひと月ほど前に御母・保壽院が亡くなられており力落としのことでもあったろう。
31歳とはあまりにもお若かった。
慶安二年己丑十一月光尚母ノ喪ニ居テ咳気ヲ患へケルカ十二月上旬ヨリ殊更勝レス愁傷ノ餘リ病苦イヨ々々差重リケルニ同十四日酒井讃岐守宅へ沼田勘解由ヲ呼寄セラレ光尚病悩ノ様子将軍ノ聞ニ達シ左程ニ有ルヘシトハ思ハサリシ 彌油断無ク養生スヘシ古モ母ノ喪ニ居テ病アレハ酒ヲ飲ミ肉ヲ食フナラヒアリ早ク精進止ムヘシナト懇ノ台意ヲ傳フ 光尚大ニ喜テ斯マテ懇篤ノ命ヲ受シ事今生ノ面目ナリトテ気色モ彌快ク有リケレハ國許ニモ申越シ何レモニ悦フヘシト言送リケルカ其後又々差重リ廿日頃ヨリ以ノ外病劇ク廿四日台使酒井讃岐守来テ懇ノ台意ヲ傳フ 光尚病ヲ快テ對面シ命ノ辱ヲ拝謝ス サテ申ケルハ不肖ノ身大國ヲ賜ハリ高恩ノ程有カタク何トソ忠ヲ竭シ報謝シ奉ラントノ志願ニテ在ツルニ今不幸ニシテ大病ニ罹リ甚遺憾ナリ 忰共幼少ナレハ跡職ナト賜ハリテ奉公成リ難ケレハ彌迷惑ナリ 故ニ今領國ヲハ奉還ス 此後若両人ノ忰共奉公ヲモ勤ムヘキヤウ成長セハ其節似合ハシキヤウ召仕ハレ玉フヘシ此段閣下聞置カレ可然周旋依頼ストノ段委細申入遺言認メ置シヲ披見ニ入ル 讃岐守落涙シテ退出直ニ台聞ニ達ス 将軍殊ノ外心元無ク思ハレ追々台使ヲ以テ慰問アレ共對顔シ難キ容躰ナリ 十二月廿六日國許へ使者續助左衛門・柘植勘平差立讃岐守へ披見ニ入シ遺言冩差下シ國元ノ儀ハ城内ノ掃除等念ヲ入穏便ニ致シ江戸ヨリノ左右次第異儀無ク城池相渡スヘキ旨申遣ス
【光尚卒す】
同日(十二月廿六日)暮過龍口邸ニ於テ卒ス歳三十一 光尚為人威厳は父忠利ニモ勝リ當時三徳兼備ノ将ヲ以テ穪セラル 同時ノ大名小名之ヲ慕フ人尠カラス 適曽我丹波宅ニ集會ノ時光尚カ凶音来ル丹波守手ヲ柏テ天下ノ燈消タリト歎息ス 列座ノ内ヨリ天下ノ燈消ヌルトハ餘リノ過譽ニ非スヤト云人アリ丹波守聞テ事ノ様ヲ知ラサレハカク思ハルゝモ理リナリ拙者ハ肥後守膽略ノ程ヲ慥ニ知リタル事有リ去ヌル頃拙者台命ヲ奉シテ日光山ニ赴ケリ其事件一途ニ政道ヲ立ントスレハ後日ニ弊害有ルヘシ サリトテ後害ヲ思ヒ苟旦ニ計ラヒテハ政道立チ難シ如何セント執政ノ人々モ苦慮セラレシ時密ニ酒井讃岐守ニ申談シ光尚カ宅ニ至リ之ヲ謀ル 光尚再三謙遜スル共強テ請ヒケレハサラハ愚存ヲ申述ン定テ僻論タルヘシ 必ス外人ニ洩レ玉フヘカラス 若光尚カ領分ニテサルアラン時ハ先ツ云々措置シ跡云々區處スヘシト對フ其由執政ノ人々ニ語リケレハ皆々上策ナリト感心有リケル故光尚申ス儘ニ執リ行ヒタルニ政道モ立チ害モ無リシナリ 之ヲ以テ思フニ比類無キ大器量ノ人ニアラスヤト語リケルヨシ
先日■都甲太兵衛「山桃」を食わずを書いたが、この中に宮本武蔵の弟子・道家角左衛門とあったが、この人が初代で、
8代目清蔵もまた角左衛門を名乗っている。
道家之山 名は一徳、通称角左衛門、隠居後之山と称し、修静と号す。食禄百石。
奉行兼用人となり、維新後権大参事に任ぜらる。後官を辞して金峰の北麓に
隠棲し、吟誦自適終身山を出でず。東野六友の一人なり。
明治十七年五月没す、年六十六。墓は飽託郡芳野村川床。
もう十年以上前、師匠高田Drと史談会の中村祐樹君と三人、金峰山近傍の加藤清正臣・中川壽林のお墓を訪ねたが見つけ出
すことができず、帰り道に熊本市西区河内町岳(旧・飽託郡嶽村川床)に道家之山(角左衛門)の墓地を訪ねたことがある。
(写真や地図などは道家之山の墓(熊本市・市指定史跡)に詳しく掲載されています)
人様のお宅の裏庭という感じであったように記憶するが、「肥後先哲偉蹟(後編)」の同人項をみると、ここが之山の居宅
であったようだ。
之山の従弟・石川熊次郎という人物が語った話を加賀山興純が書き残している。
故二位様護久公飽託郡嶽村字川床の、道家之山先生の閑居に入らせられたる時の御模様を、予が親友なりし
石川熊次郎より聞及居たる事を思出、世の移り行四五十年の間に、人心の軽薄不遜、驚の外なく、今の世の
物知り、古知らずの人々に知らせまほし。
道家角左衛門、後之山と改む、元嶽村に在宅、後熊本に出、時習館句読師となり、熊本山崎天神丁に在す、
予もその門弟なりしなり、後郡宰となり、御次御取次たり、此頃何事か、正四位韶邦公に言上せしに、大に
御機嫌を損し、御聲高く、御扇子にて御打擲さる、恐入奉りて御前を下り、宿に居て謹居たる處、翌日午前
より御使参り、何事か申達、直に出候處、御前に召させられ、何事か仰渡され、其後日々出勤仕、如何なる
事なりしか、之山先生一生、口外致されさりきと、是は先生の直話を、石川の語る處なり、其後御奉行相勤、
後嶽村に閑居せり、二位様・護美様、閑居に御入遊ばされたるに、御入前、荒壁の中には、恐入候に付、中
塗りを懸ると申されたりと、其時分、予も石川處へ参合たるに、先生臺所迄立ちながらにて、早々に歸られ、
右中塗等に取込まれたりとの事なり、其後、御入の模様、石川より承りたるに、御供の人より、之山御出迎
に彼方へ出居申由、言上したれば、直に御下馬遊ばされたり、又御歸には、御送申上られたる處、之山の影
見え候間は、御乗馬遊ばされざりきと、又其後御入の折には、彼方へ之山出居るならんと御下馬され、御歸
にも以前の如く、遠くまで御乗馬遊ばされざりきとなり、誠に恐入り奉りたる御事なりと、之山先生より、
石川への直話なりと、之山先生は御次御取次相勤め、御儒者にて御學問も申上、又政事に於ても、大に先生
を重んせられたる事斯の如し (以下略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あまり広いとも思えない屋敷だったとの印象が残っているが、ここに護久・護美のご兄弟が馬で訪れ之山の見送りの姿が
見える間は乗馬をされなかったという話には心を打たれる。
この時期、どこを通って芳野路に入られたのだろうか。鎌研坂のあの旧坂を通られたのだろうか。
そんな有様を頭に描くのも面白い。
今日の熊本の7時17分と言えば日の出の時刻で、今日もお天気が良く寒さも少しは和らいで感じられることだろう。
今年もあと一週間、図書館に借りた本を返し、年賀状のあて名書きをし、ガラス掃除をして大みそかに御飾り物をすれば、私の今年の仕事は大方終わりである。
体調もマアマアではあるが、相変わらず足がつったり、左肩は痛くて上がらないし騙し/\で使いこなしてきた。
こんな具合だと、あまり長生きは出来そうにないなと思いながら、「新・細川家侍帳」を完成させねばと焦りまくっている。
今日の7時17分、偶然だが日の入りの時刻でもある。
数日前の寒波以来、夕食が気になって仕方がない。何か暖かいものが良いな、毎日鍋でも良いよと奥方に行っているが、そうもいくまい。
私は、最近温かいご飯を食べないから、副食のみで過ごしている。
おかげで体重も落ちBMIの数字も25以下となって、少々スマートになったが、あまり痩せると病人に間違えられそうだから、程々がよかろう。
肝休日も設けて、摂生にこれ努めているが、最近は体を温めようと寝酒の量が増えたりもしている。
今日は、本棚から取り出して山になっている本や資料を、元の位置に戻そうと思っている。
天気も良いし、クリスマスのケーキでも買いに出かけようかとも考えている。
細川齊茲公が隠居後の65歳の時のお子である。本山御殿でのお生まれだが、200年ほど前の今日、3年10ヶ月の短い人生を閉じられた。
そのお姿がいかにも愛らしく、急逝のご様子が下記のように書き残されているが、今は泰勝寺の齊茲公のお墓に寄り添うように小さなお墓が設けられている。
一耇姫様御病氣之處、御養生無御叶今暁被成御逝去、奉絶
言語候、依之諸事穏便可被相心得候、此段觸支配方へも
可被達候、以上
十二月廿四日 奉行所
(文政九年=1826年)十二月廿三日ハ、殊に風もなく時渡りけれバ、余り能キ日和にて、何方へぞ参り度キと人々申シけれバ、おのゝ様(神仏)江参らふと仰セあり、只今より入せ給ふやと問ヒ奉れバ、あつた(明日)参るとのたもふ。御膳も常の通りに御上りあり、御夜食ハ七ツ過ぎ(午後六時過ぎ)に上らせ給ひしが、毎もより少し進ミ兼ネ給ひながら、さして替らせ給ふ御気色もましまさず、此ノ日はいろいろふしぎなる事ども仰セあり、七ツ時過ぎる比、御祝の間の雨戸しめける折、君いだかれ給ひて御出あり、地震戸をあけさせ給ひて、暫しが程外面を御覧あり、さあもふよしとのたまひて御部屋に帰りましまし、いまだ日も高かりしに、早ふまっく(真っ暗)に致セと仰セありて、人々を急がし戸をしめさせ給ふ。毎月の通り、今宵も御神前にて、おとなしやかにしばらく御拝あり、夫より御部屋に帰り給ふ。
去りし御不例の後は乳をバ上り給ハざりしかバ、御床に入らせ給ふまへに葛湯を御上りあり、今宵は倉子(生母)にいだかれ給ひて、御心よく御遊びあり、常にハかゝる事をバなしたまわざりしが、いかゞ思しけん、乳をさぐりて御したしみあり。扨、かしづきの人添寝し奉るに、御足ことなふひへ給ひしかば医師に伺せ奉りしに、少し熱あらせ給ふよしなり。もがさにやあらせ給わんと、いづれも気遣ひ奉る。御薬きこし召て、またまた御寝ならせ給ふ御気しきなりしが、子の刻(午前0時)ばかりに、俄にふさがせ給ひしかば、大殿を初め奉り驚き騒ぎて御薬御灸など手を尽し給ひしがども、其ノしるしも見へたまわず、天よりなせる命数ハ人力の及ブべくなく、其ノ暁、子の下刻(御前二時)ばかりに終にはかなく成らせ給ふ。
大殿の御嘆きハ云うも更なり。しばしが間にかくならせ給へば、人々も只夢の心地してまどひあへり。此時の御事ども委しく書留メ奉らんも、今更せまりて筆を立るに忍びず、扨止みぬ。
森鴎外に「都甲太兵衛」という小説がある。私のサイトの中の「津々堂・電子図書館」に収蔵しているが、これは当時「青空文庫」でも紹介されていないからUPしたものである。
この小説は大方二つの逸話を主題にしている。一つは忠利公の御意に対し宮本武蔵をして「御用に立つべき人物」として評価されたこと、二つ目は江戸城普請における石泥棒の逸話である。
宮本武蔵に関わる「武公傳」を読むと、武蔵の直弟子・道家角左衛門の言葉が次のようにある。
武公直弟道家角左衛門曰、或トキ武公ノ打話ニ、俺大勢ノ人ヲシルニ、都甲太兵衛ホド鋭氣アル人ヲ見ズ。莅事氣ヲ奪ハルマジキ人也トアリ。
武蔵が平生、太兵衛のことをそう思っていたことを物語っている。
それが顕著に表れたのが、いわゆる「石泥棒事件」であろう。雑録「都甲文書」を引用してみよう。
江戸城築城ノ時諸侯ニ課シテ石ヲ納メサセラレシガ時ニ肥後藩ハ非常ノ困難ニテ中々納マリ兼シニ都甲太兵衛
我ニ一策アリト申受テ人夫ヲ引連他ノ諸侯ノ運ヒテ来ル石ノ標ヲ取除ケ肥後ノ表ヲ打数日ノ間二納メ済タリ
既二シテ事発覚シ直二幕吏二捕縛セラル 白状セサル二ヨリ拷問ノ数ヲ尽シ遂二膝上ニ石ヲ積ミタレハ骨モ砕
ケ肉モ砕ケ血流ルトモ無言ナリ 因テ股肉ヲ穿チ醤油ヲ熱シテ流シ込ミケリ 肉ハ穴カラ持上リ山桃ノ如シ
然レトモ白状セズ 最早拷問ノ手モ尽果テ一策ヲ考へ石盗人都甲立テト呼ハレトモ動カズ ソコデ細川ノ士都甲
御疑晴レタリ罷立ト呼ハリシガ悠然トシテ立去レリ 此故ニ都甲ノ家二テハ今二至テ山桃ヲ食セストナリ
「大日本近世資料・細川家資料十一」によると、「寛永十一年十月に入ると、江戸城普請についての情報が流れ始め、十一月九日付の幕府年寄奉書(十一月晦日熊本着)により、正式に、翌々年の江戸城普請が命じられた。細川氏は石垣普請の担当とされているが、すでに十月段階から普請道具や石場の準備等に取りかかり、金策のことも心配し始めている(二六四七・二七三四号等)。さらに、家光の本心は翌々年よりも、翌年に普請を行いたいのではないかと忖度し、幕府の普請奉行たちに対して来年七月八月からの普請開始を内々申し入れてもいる(二七三五・二七三六号)。」とある。
これが都甲太兵衛の事件が起きた石垣普請であるのかどうかははっきりしない。
この事件が本当だとすると、細川家としてはとても記録には残せないであろう。武蔵がいみじくも言った「御用に立つべき人」ではあるが、褒め称えるわけにもいかぬ事件ではある。
それでも細川家はお努めを果たした。
しかし「山桃」の形容には、何とも背中が寒くなる。
寒の夜は ちょっと過ごせし寝酒かな 津々
私は部屋中暖かという暖房形式を好みませんので、今私は昔の股火鉢ならぬ、股電熱器で暖を取りながら少々寝酒を重ねています。
少々あったまって、ベッドにもぐりこもうという算段です。
奥方が鮭の片身を買ってきて、これを焼いて、それを大きめにほぐしてストックしています。
私の晩酌の格好の「あて」になっています。それに阿蘇の高菜漬けを少々小皿に盛り付けて、これで焼酎をストレートで二杯過ごしたら、なんだか頭は鉢巻を巻いた感じがしています。
その間に「あてがはずれ?」(なくなってしまい)、焼酎は三杯目になりました。
奥方には内緒で買い込んだ、ブラックチョコレートを一欠けほおり込んで三杯目を過ごしています。
22時から放映の「ファミリーヒストリー」を見ながら、カラ酒ならぬカラ焼酎を一二杯飲んでベッドに駆け込む事にいたしましょう。
出来栄えは言うなと冬至南瓜かな 津々
数日前まではレースのカーテンで過ごしていたが、さすがに寒気で冷え冷えとするので厚手のカーテンを閉めるようにした。
これですっかり朝の光も遮ってしまい、一両日起きるのが遅くなってしまっている。
昨日は熊本も寒気がすごくカーテンを開くと粉雪が舞っていた。阿蘇の山々や、県南地方、それから天草地方まで積雪がひどかったらしい。
今日は寒いけれども太陽が昇り穏やかな「冬至」を迎えた。毎朝太陽が昇るのを眺めていると、随分その位置が動いていて今日から夏至の位置まで半年をかけて動いていく。地球の営みを感じさせる。
奥方は今日の日のために、「重たい/\」と言いながらカボチャを買ってきて、「堅い堅い」と言いながら悪戦苦闘していた。そして「冬至南瓜」は出来栄えは今一であったようだ。
一二個、お付き合いで食せねばならない。
細川綱利夫人は水戸頼房の女・久姫(長男・高松藩主松平頼重養女)を迎えているが、水戸松平家との婚姻関係は細川宜紀の八女の「八代姫 ( 花姫)」に及んでいた。
八代姫 ( 花姫)は、高松藩主・松平讃岐守頼恭に嫁いでいるが、頼恭は5代目の高松藩主である。
頼重は光圀の兄でありながら高松藩主となされたことで、光圀は兄頼重の嫡男・二男を自らの養子として二男に水戸家を継承せしめた。そして自らの子を高松藩の2代目となした。
高松藩は頼重=頼常=頼豊=頼桓=頼恭とすべて養子で継承されてきた。士
「銀臺遣事」によると、八代姫附で年久しく高松に赴いている片山某なる士を、重賢は役を移そうとしたが、高松公からは「馴れ仕えたる者故いましばらく」「(妻である)貴家の御姉君もその様に望んでおられる」と懇望されたが承知をされなかったとある。
高松藩でそのような評価を受けた人物であるからこそ、国元で働かせたいという思いであった。
たとえ「はらから」である姉君の仰せながらも、確固たる信念を貫かれた。
頼恭公は名君として知られ、高松藩中興の祖と称えられる。八代姫は59歳で没されている。
側室の子が跡を継がれ実子継承された。
2011年度の「小林秀雄賞」受賞作品、高橋秀美氏の「ご先祖様はどちら様」を読んでいる。
小林秀雄賞とは、「財団法人新潮文芸振興会が主催する文芸評論家・批評家の小林秀雄氏の生誕100年を記念として新たに創設された学術賞で、日本語表現豊かな著書(評論・エッセイ)に毎年贈られる。」なのだそうだ。
私は細川家家臣諸氏のご先祖様を色々調べ始めて20年ほどになるが、そのお宅を徹底的に調べるというのではなく、「我が家の先祖は細川家に仕えていたと伝えられている」けれども、詳しいことが判らないお宅のご先祖様を探すのが主流となっている。
史料を失われてしまったお宅のご先祖様を、随分探し出してご報告をして喜んでいただいた。
それ以降は「ご自分でお調べください」と、あまり踏み込まないようにしている。
それは、そのご家族がご先祖様に対する興味を促するとともに、敬う気持ちを育んでいただこうと思うが故である。
時折、いろいろご報告をいただいたり、意見を求められたりすることに喜びを感じている。
さてこの著書を読んでいると、タイトルのように「清和天皇」に行きついたり、ある人物は「やくざ」であったりしているそうで、「父と母、それぞれの父と母」を10代もさかのぼれば、2,046人になるというが、そうなればいろんな人がいるわけで、「やくざ」さんも出てくるかもしれない。
先にも書いたことがあるが、私〇藤は一応藤原系だと考えると、臣籍降下はないとされているから天皇家に行きつく心配はない。
しかし、もともとは「磯部氏」であり、これが何ともわからない。
母方はT氏、先祖は猪俣党だというがこれとてよくわからない。母方の祖母の実方は細川家臣のS氏、これも熊本の土豪らしい。
曾祖母の実方はK氏、これも絵師のK家の別れだと言われるが探りようがない。
高祖母の実方はU氏、これも良くわからない。U氏の奥方は細川家重臣・M氏、こちらは俵の藤太秀郷の子孫だそうな。
我が家の4代目に嫁いでこられたS氏は、これは長曾我部一族で遠祖は秦氏である。
奥方の方は母親の家系が筑前のA氏、ここは遡ると「後漢霊帝の後裔を称する渡来系古代氏族の大蔵氏を遠祖としている。」とある。
奥方に遺伝子検査Hapro2.0の話をすると、「何か出てくるかもしれない」と言っている?。
つまるところ、8代ほどのことが記された先祖附が残されていたことで、先ずは良しとしなければならない。
私が1歳のころ死んだ父や祖父・祖母のことさえも良くわからないので、色々な断片を拾い集めている。
時習館最後の居寮生だったという曽祖父は、細川家の推挙をことわりなぜ熊本を離れなかったのか?
身近な先祖のことさえ判らないことだらけである。
それぞれの個人に10代2,046人のご先祖様が居られるわけで、ご先祖は「さかのぼれば天皇家、もしくはヤクザ」の話は起こりうることではある。
寝た子は起こさない方がよろしかろう。