くまもと文化振興会の月間総合文化誌の「KUMAMOTO」を、史談会会員のN君からご恵贈給わった。御礼申し上げる。
実はここにN君の、江戸時代から現代まで続く地誌の世界『平成肥後国誌』についての記事が掲載されている。
平成肥後国誌の編著者・高田Drの最晩年大変かわいがられて、Drno死後は自ら膨大な資料の整理に関わり、一部の貴重な資料・膨大な写真やネガを遺族の了解のもとに頂戴して、整理している。誠に奇特な行いで頭が下がる。
さて、この「KUMAMOTO」に、松井家家臣・澤村氏のご子孫が、代々受け継がれてきた武家屋敷「澤井家住宅及び長屋門」の継承とその活用について報告を為されている。八代市の有形文化財に指定されており、これらの活動はインターネットでも紹介されている。
武家屋敷 澤井家住宅 生涯学習館/寺子屋「西小路」
澤井家は一色義有に召抱えられていたが、義有は細川幽齋女(伊也)を妻に迎えている。
その後、細川家はその結婚の祝いの宴を催したいとして義有を呼び寄せて謀殺するという黒歴史をつくった。
梶之助(25歳)は一色氏の居城に攻め来たった細川勢と相対し、米田是政と戦って戦死した。
不憫に思った是政は、その遺児等を助け育てたという。女・佐井はのちに細川忠興の御側に上がり、六男・岩千代を為している。
幼くして、のちに八代城主となる松井興長の養嗣子となった。松井寄之である。
その後佐井は細川家重臣・沼田勘解由にお下げ渡しになっているが、このことについては勘解由の苦悩ぶりについて過去に触れさせていただいている。■忠興側室を沼田延元内室に
母方の姓を名乗っていた元重の流れはそのまま真下姓を名乗り細川家につけた。
二男の流れは本姓・澤井をなのり松井家に仕えて明治に至った。松井興長が八代城主となり、佐井のなした子が興長の養嗣子として後には八代城主となり、澤井氏は親しくこれに仕えたのであろう。
忠興の死後、八代城に誰を置くかという一大事は、細川光尚を大いに悩ませたが筆頭家老・松井興長をしてその城主とした。忠興の溺愛した五男・立允は忠興より早くなくなり、その嫡子に八代藩を立藩することを遺言としたが、このことは光尚の受け入れるところとはならず、宇土にうつして3万石の宇土支藩となした。
その光直が死去すると、今度は肥後54万石の屋台を揺るがす継承問題が大問題となった。
その時活躍したのが、松井寄之と沼田勘解由である。不思議なめぐりあわせともいえるが、江戸へ下り幕府に対してのこの二人の努力により、その後の細川家の安泰がもたらされた。
こうしてみていくと、歴史のめぐりあわせの不思議さを感じざるを得ない。澤井家の御安泰を願うばかりである。
細川忠興
‖ーーーーーーーーー岩千代(松井寄之)
+ーーー女・佐井
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| 沼田勘解由(再嫁)
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澤井元家ーーー+ーーー真下元重(梶之助)ーーー+ーーー七兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・真下家
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+ーーー澤井重包ーーー+ーーー重豊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家家臣・澤井家
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+ーーー正重