津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ご恵贈御礼ー草志会年報「隣人‐第37号」

2024-10-31 10:29:45 | ご挨拶

 長くご厚誼をいただいている、東京在住の近世史家で赤穂事件の研究者であられる佐藤誠様から、草志会年報「隣人‐第37号」をお贈りいただいた。
深く感謝を申し上げる次第である。
             

 佐藤様は、伊藤武雄編「堀内傳右衛門書簡集」4(終)を20頁にわたり、綿密な考証のもと、16~24号文書を詳しく紹介されている。
これは義士接待役の傳右衛門の書簡ではないが、その息・傳次と吉田忠左衛門の女婿・伊藤十郎太夫との交流の書簡である。

一人傳右衛門だけではなく、赤穂義士の遺族と傳右衛門の遺族の間に末永い交流があったことを表している。
私はたまたま「堀内傳右衛門覚書」を現在ブログでご紹介しているが、一方熊本史談会では11月9日(第二土曜日)に熊本県山鹿市在住の、(財)日本義士会・理事の宮川政士氏をお招きして、赤穂義士接待役・堀内傳右衛門について「山鹿日輪寺と赤穂義士-忠臣蔵と肥後」という演目でお話を伺うことにしている。
赤穂義士討ち入りの日に合わせて開催したいと思っていたが、諸般の事情によりひと月早い開催となった。
私は、「旦夕覚書」や「堀内傳右衛門覚書」など、よくぞこのような史料を書き残してくれたことに感謝をしているが、併せて、佐藤氏の24件にわたる書簡をご紹介いただき、傳右衛門とその一族の赤穂義士に対する熱い思いに心を打たれている。
佐藤様の真摯なご努力に深甚なる敬意を表しご恵贈に感謝申し上げる。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(8)

2024-10-31 06:43:11 | 堀内傳右衛門覺書

(36)
一(磯貝)十郎左衛門又被申候は、原宗右衛門足輕を預り居申候、常々足輕とも召仕候樣子、氣味能き事共多く有之、先内匠頭闘諍の刻、
 傳奏屋敷の諸道具、宗右衛門働にて、即刻埒仕候と噺被申候處、宗右衛門被参、何を御咄被成候哉と被申候故、箇樣々々と申候へは、
 宗右衛門被申候は、拙者は前廉側用人勤居申候故、道具の樣子有増存居申候に付、舟を數多借り寄、道三橋の下に付置候て、船印夫々
 に付置、諸道具片付させ、其夜早速赤穂に參候、大學申付候日より、六日ぶりに參候と被申候故、扨々夫は早い事、いか樣に被成候や
 と申候へは、惣體公儀の御法度にて候へとも、内匠頭事は、代々傳馬町問屋共に、兼て金銀を遣置候に付、右の通無滯參候、扨々無力
 早使を仕候と被申候事
(37)
一或時(富森)助右衛門被申候は、私衣類の中に、女小袖の白袖口なともせはく有之候が御座候、いな事と可被思召、是は老母著物にて
 候、其夜遠方え罷越候、殊更寒候間、下著に仕度迚借候て著仕、罷越候と被申候、扨々御尤成る御事、母の衣と書候て、母衣と申傳
 候へは、御孝心の程感入候と申候、其後寒氣強候故、何れもの枕本に、立させ可申と、御小屏風の中に、鶏の子を育申處を書たる繪を、
 助右衛門見被申、此方へ被申候は、扨々口惜事御座候、皆共はとくに果たるものにて候、今迄存命、此御屏風の繪を見候て、不圖忰事
 を存出候と被申候故、御尤至極にて候、貴様も凡夫と思召御心にて、夫程の事は御心にて御免被成候へ、各樣の御忠義、古今無雙の
 御忠臣と、末々迄奉感候事は、此頃非番の時分、遠方へ用事有之、町屋敷ゟ出駕に乘候て參候道すがら、駕舁共申候は、四十六人の
 御衆は、辨慶、忠信に増たる人がら男ぶりまて揃大男にて、就中大石主税殿と申は、若輩に候へとも、大男大力にて、其夜も大薙刀に
 て、辨慶にも増りたると承り申候と、寔にこゝろ無き其日暮しの駕舁、日雇の者まても奉感候、日本神(此處不明)屋敷出入の町人共
 も、此咄専ら仕候と申候へは、助右衛門被申候は、扨々傳右衛門殿へは、御頼母敷、何れも打寄忝きと申事に候、御身上被捨、今時の
 世上侍出家に至迄、當世のなかれ渡者多候間、能々被附御心、御噺被成候樣に、誠に大事の儀にて候と被申候故、扨々御心入忝、成程
 被仰聞候通、私も神以存居候と、返答申候事、
(38)
助右衛門一子長太郎とて、二歳にて候、愛宕下田村右京大夫様御家中、菅次右衛門と申仁の所に居被申候、同御屋敷の内に、峰宗扑と
 申御茶道有之、江村節齋小屋にて、知る人に成居申候、右宗扑小屋にて、長太郎に逢申度、兼々案内いたし置候得とも、悦にて幼少
 の人に初て逢申候故、われら町宅近所に、小西十兵衛被居候故、前夜に人形を調給候樣頼遣候得者、其儘調參候に付、鋏箱に入參候て
 長太郎に逢申候、扨も/\助右衛門に能く似たる生付にて候、其後助右衛門母儀も、此方御屋敷出入いたし候竹屋惣次郎宅にて逢申候、
 惣次郎先祖は、内匠樣御先祖、仔細有之、東國邊に暫御座候節、輕き奉公人にて候由、夫故宗次郎所の者一列の衆中用事をも承申段、
 兼て存じ申候段、若き衆中咄被申承居候故、右之通助右衛門母儀へも彼者宅にて對面申候、母儀被申候は、御尋被下初て懸御目、助右
 衛門無事に居申候段を承候儀、寔に氏神の御引合と存候、助右衛門儀、其夜出立再遭可申やうも無御座候へば、猶以左右も同前之事に
 候私の女心さへ、内匠殿は切腹、上野助殿は其儘被相置候と承り、片手打之御仕置、不及是非事と存候、助右衛門は男子に生れ、今度
 の振廻、尤成る儀と存候て罷在候私の影にて無事に居申段々結構成御馳走共に預り候へば何ぞ存殘事も有御座間敷と被申候故、神以拙
 者は、兎角の返答成兼及落涙、漸々挨拶をいたし、初對面の口上、片手打の御仕置なとゝ被申儀、珍敷女性、流石助右衛門の葉は義と
 感心申、母儀之親は、山本惣右衛門とて、何方へか千石にて、口をきゝたる侍と承候、助右衛門親父も、歴々筋の仁にて、江戸町人の
 福人にて、御用杯承候、住江仙右衛門なとゝ、一類にて候、福田浄慶咄承候、侍たる者の子は、女子なりとも、能々嗜度事に候、我等
 嫁共にも、此段可被申聞候事
 

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■晩秋の・・・

2024-10-30 15:24:40 | 俳句

 あと十日もすれば暦の上では冬だというのに、ちょっと外に出るとまだ汗ばんでしまう。
今年の秋は短かった。先日の選挙の日には、会場の小学校から隣の広い公園の中を通って帰ってきたが、まだ木々は青々としている。
       晩秋の樹々青々と色失わず   と思わず口に付いた。

       晩秋や選挙は波乱の予感有   とも・・・

結果は御覧の通りである。自民党はお金の問題で終始して大敗北となったが、今後の政局が興味深い。
晩秋の季節感あふれる、しっとりとした句をものにしたいところだが、こう暑くては脳みそが反応しない。

       晩秋や季節外れのあせもかな

                      お粗末・・・・
 

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(7)

2024-10-29 15:08:40 | 堀内傳右衛門覺書

(32)
一或時、次の間にて咄居候時、何れも被申候は、近松勘六が小もの、甚三郎と申ものゝ儀を存出候へは、不便に存候と被申候故、いかや

 うにて候やらんと尋候へば、勘六儀、先祖以来代々近江之者にて候、在所より甚三郎を、今度江戸へ召連參候、彼者親は庄屋を仕居申
 候、代々わけあるものにて候、差返可申と存候て、其段申聞候へは、彼者申候は、此間何れも様の御樣子を見候へは、近き中思召立候
 儀有之と見及申候、私儀被召連候刻親共申聞候は、随分御奉公、精を出御爲には身命を捨申候樣に申聞候段、御聞被下候通に候、御用
 に立申間敷と思召、御返被成候事、無是非仕合とて、腹をも切申體に見え申候故、不及力其分に召置、夜討の節も供に召連申候、然共
 兼て内蔵之助申付儀は、今度の儀内匠頭え勤居候ものの親子兄弟にても、他家に居申たる者、其外内匠頭に對し譯も無き者は、同道不
 仕筈に申付置候故、其夜門外迄召連、翌朝上野介殿屋敷を出候時に罷出蜜柑餅の類を袂や懐に入、御喉の渇き可申とて、皆々へ給さ
 せ、扨々首尾能御仕廻被成候迚歡申候、定て今度伯耆守樣より、私共被召連候刻も、多分跡先に成り、辻番邊にうろたへ居申候はんと、
 不便に存候と被申候、さては左樣の者にて候哉、神明の知恵にて、後には冥加に叶可申と申候へは、唯今に成存候へは、勘六名付を
 も遣、内蔵之助に申斷、一列に加へ不申事、殘念至極と何れも被申候、某其後いかにもして、彼者心底不便に存、上野の脇谷中の入り
 口より左に往て、長福寺と申寺に、弟子文良と申出家は、勘六甥の由に付、尋參り文良に逢、勘六無恙段をも咄聞せ、且又甚三郎事を
 尋候へは、無事ニ而十二月廿四日迄逗留いたし、在所に罷歸候由、暫物語いたし、座敷を見候得は、菅谷半之允と札付居申候葛籠、其
 外にも見え申候、何れも折々參宿をも被致候やと相見え候、其後勘六に噺申候得は殊の外歡にて候事、
(33)
一或時、内蔵之助へ此方より申候は、此頃町人の噺承候へは、於京都菅野三平と申仁、書置なと被仕、自害致され候様承候と申候へは、
 内蔵之助被申候は、夫は皆共京都に居申候内之事にて、存命にて候はゝ、今度之一列にも加り可申ものにて候と、返答被致候、何れも
 の咄に、三平か父浪人して京都に居、三平を何方へそ養子に遣候て、奉公をいたさせ候と談合有之候へとも、三平志に叶不申候、右之
 通書置いたし、内匠頭様一周忌に、自害いたし候と咄被申候事
(34)
一次の間にて、若き衆中の咄に、矢頭右衛門七と申すもの、十七歳に罷成候、江戸初にて候、(磯貝)十郎左衛門引廻申候、彼者親は京
 都にて病死仕候刻、右衛門七え申聞候者、内々内蔵之助と申合たる事、志を不遂候て果候事、不及是非次第也、汝志を繼候へと申候へ
 は、奉得其意候由にて、今度の列に加り申候、叔父は松平大和守樣御家中に居申候、是に母を預置候とて、母子共に道中荒井迄參候處
 に、若輩と申初旅故、女切手を持參仕候事を不存候て、荒井より立歸申候、如御存知久々浪人にて暮し候へは、少の路銀も無之候故、
 何れも申談、母は赤穂に存候もの有之候に頼遣申候、今程は定而難儀可仕と被申候故、扨々御父子の御忠義感心仕候、神明の加護にて、
 御母儀もゆる/\御暮候樣に成可申と申候て、涙をながし申候事
(35)
一或時、(磯貝)十郎右衛門被申候は、傳右衛門殿には、古き事を能御存知にて候、(吉田)忠左衛門に古戰の噺御聞被成候へ、忠左衛
 門も歡可申と被申候へとも、(三宅)藤兵衛殿段々被申聞候趣も有之候故、所望不仕候、松平宮内大輔樣御家来、渡邊數馬、河合又五
 郎喧嘩の咄を承候處、兼々承り候よりは委く咄被申候、右喧嘩の書付一冊、前廉寫置候故、忠左衛門咄にて、御家老荒井但馬と、御老
 中樣より御穪美の事を書加へ申候、右但馬は眞源院様(光尚)の御代相模守樣を御招請なと有之、御馳走の刻、但馬も御供にて被召連
 候へとも、參候節相模守樣御次の間に被居候へは、見物被仕候樣に、眞源院樣御懇の御樣子、同名故文左衛門、其頃兒小姓相勤候砌に
 て、見被申候共迚、咄承り候、亡父なとも心易、書通なと被致候、隠居名龍雪とか申候事

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■2リットルの下剤

2024-10-29 06:40:19 | ご挨拶

 短期間に7㌔ほど体重が減ったので、単なる夏痩せではないのではないかと思い、懸り付けの病院で相談したところ、昨日は腹部エコー、一月後には胃カメラと大腸検査を受けることになった。
腹部エコーの結果、腎臓嚢胞大小二つが見つかってエコー写真に対面した。
ガンになる可能性があるから経過観察しましょうという事に成った。82にもなった爺様だから何か出てくるのは覚悟の上だが、今私が一番恐れているのは尾籠な話だが、大腸検査の折に飲む、2リットルにも及ぶ下剤を飲むことだ。
レントゲン写真のバリュームも願い下げだが、看護婦さん曰く「少し甘くしてありますから、頑張って飲み干してください」との由。
1.5リットルのポカリスウェットのボトルでも難儀なのに・・・なんだか夢に出てきそうである。
そして、発見されるのは腎臓嚢胞で終わりと願いたいと切に願うのみである。
涼しくなって又散歩をはじめようかとも思うし、減り続けていた体重もどうやらストップしたし、少々体力を付けなければならない。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(6)

2024-10-28 13:27:46 | 堀内傳右衛門覺書

(30)
一、(吉田)忠左衛門被申候は、拙者は今度裏門より打入り申候、大方隠居候者は、奥座敷裏の方に建申候事、尋常に御座候故、幸と存
  吟
味仕候故、葭(あし)垣有之、雪隠の様成る處に人音仕候故、押破り参候へば、何者か其儘座敷にはいり申者有之候、大かたは臺
  所より仕込申候歟、かこひの様なる所を、兩方よりせり込み候處に、三人居申候て、皿茶碗、又は炭なと投打いたし候故、間十次
  其儘鑓付申候、上野介殿前に兩人立ふさがり、防申もの働き申候、兩人共に討果申候、上野介殿も脇差をぬき、振廻し被申候處を、
  十次郎鑓付ヶ印を揚見候へは、古疵らしき所も見え、白小袖を著にて候、得度吟味仕候へは、上野介殿に極申候、唯今迄もよく寝被
  申候と見えて、蒲団も温に有之候て、刀計有之候、左兵衛殿も、長刀にて出合被申候へとも、手を負、其儘長刀を捨、退被申候、夜
  明候て、長刀を見候へは、金具に定紋付、拵結構に有之候故、扨は左兵衛殿にて御座候と存當り、手むかひ 仕候者は討捨、迯落或
  は構はぬ者は、其儘召置候様にと、兼て内蔵之助申付候故、其通り何事も仕候、扨何れも相圖の笛を吹、惣樣集申候刻、若き者共、
  早水藤左衛門なとは、弓にて長屋の人の居申處を探、上野介殿を討取立退候が、出合申さぬかと、高聲に申候へ共、一人も出合申
  者無御座候、門の脇に家老の小屋と見えて、路地口の戸短く、上をのね板にて繼たる所、一尺計見え申候、内の明りも行燈とは見
  え申さず、蝋燭と相見え申候、早水藤左衛門と名乗懸、二筋矢を射込候へとも、物音なく候故、立退候と咄被申候、それかし答申
  候は、上野之介殿御討取被成候て、府より無縁寺に御立退被成候へとも、住持内に入れ不申候故、泉岳寺え御出のよし、寔に御心
  つかひ共に御座候、翌朝は十五日に候へは、往來と一入多く、御屋敷への辻番も、道すから多く見とかめ、何角申候て、御隙も入
  可申候、無支御出被成候事、天道の御加護と存候ヘは如仰 御登城の御衆と見え、御乘物又は馬にて、御通りの御衆も二三人、御
  目に懸り候へとも、火事場なとへ出候者歟なとゝ思召候やらん、辻番などへ出候や、何之支もなく、泉岳寺へ参候儀、いか様仕
  合なる儀と被申候
一、何れも咄の内に、高田軍兵衛と申す者、小知遣候者にて御座候、此の者は赤穂籠城と承及候由にて、大形一番に罷成申候、然共實
  なき者にて、中々一列に加り申樣成者にて無御座候、然處上野助殿討果、泉岳寺へ立退候刻、三田八幡の近所にて逢申候、何れも
  ものを不申罷通候處、堀部彌兵衛申候は、何れも如此志を遂て、上野介殿印を唯今泉岳寺え持参申候也、披見候へと申候へは、軍
  兵衛申候は、扨々いつれも御心安可被成候、私も只今三田八幡へ社參仕候而、各樣御本意を被遂候樣にとの祈願の爲にとて、立わ
  かれ申候、其後軍兵衛酒なと持參、泉岳寺の門番を頼、内蔵之助其外へ、祝心に酒を持參候、御通被下候へ、御目に懸り度由申候
  に付、若き者共、扨々にくき奴かな、幸の事、是によひ入れ、踏殺可申候、刀をよごし申事迄も無之と申候を、内蔵之助申候は、
  扨々各はあの樣成者を踏殺して、何の益やとて、軍兵衛は呼入申者にて無之候、酒も返給へと、門番に申付由被申候、それか
  し申候は、定而其仁は、平生何に被召仕候ても、能き奉公人と譽申ほどの人にて、可有御座候やと申候へば、いかにも其通にて、
  内匠頭家中にても、大形勝たるもの、何を勤させても、勤かねぬものと被申候、それかし申候は、必々左樣に萬事に能きものは、
  本心の實はなく、世渡の上手にて候、昔も今もおほく御座候、輕薄を以出頭人は、主人をたまし候事、本心の不實故と存候、

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(5)

2024-10-26 10:08:54 | 堀内傳右衛門覺書

(23)
(大石)内蔵之助大小共相州ものと相見え申候、大亂燒にて、刀の先一尺計のり付居申候、定て上野介殿留をさされたると存候、松葉先

 刃こぼれ居申候、大小共に鞘黒塗金拵にて、小刀は柄は、古き木柄に忠義の語を彫上げ有之、それかし文盲に候へは、よめ不申候事、
(24)
磯貝十郎左衛門大小鞘黒塗、こひ口二三寸朱にて、筋違にぬり、金拵にて、紫かひの口新敷下緒付申候、鼻紙袋は紫縮緬の袱紗にて包、
 右の下緒の切にて結有之、内には琴の爪一つ有之候、此事以後十郎左衛門、其外噺承候、奥に書付置候事、
(25)
近松勘六脇差は鮫鞘にて、二尺餘の大脇差にて抜ヶ不申候故、其儘召置候、夜討の時、泉水にころひ入被申候由にて、水入申たると存候
(26)
奥田孫大夫太刀は、身三尺餘有之、無地之鐵鍔懸り居申候、堅木之壹尺六七寸之柄、切柄之如く仕たる物に而候、小長刀抔の心に而、持
 参被仕たると見え候事
    (編者云本條は異本に據り補ふ)
(27)
堀部彌兵衛、鼻紙袋に竹笛有之候、相圖の笛と存候、小脇差懐中に見へ申候、其外の衆も笛見へ申候、小脇差六七腰有之候事
   但何れも大小の柄は、平打の木綿糸にて巻有之候、いか様切柄の心持にて、手の内能有たると存候、島原一揆の節、山川宗右衛門
   兼て討死の覺悟にて、大小の柄を苧縄にて巻、差被申候由、亡父咄被申候、古今とかはり候へとも、志は同前と感心の事に候、各持
   鑓の柄は、いつれも九尺計に切有之たると見へ申候、身は大振成る篠葉の形、長サ八九寸、幅も廣き所は二寸餘、古身と見へ申候、
   素肌者に能と兼々承及候大形のり付居申候、鞘は大かた無之候、白布にて結有之候、夜討の節、両袖の相印と見え、間には名を
   書付たるも有之候、何れも刀脇差は金拵にて結構に見え候、古身多く新身も有之、錆たるは無之候、いつれも咄被申候は、相手無
   之候へは、手に合不申者多く候、其上迯走候者は其儘捨置、手むかひいたし候はゞ討捨候へと、兼而内蔵之助被申候故、夫故刀脇
   差にのり付居申候は少く、鑓は大かたのり付居申候、其夜の仕合不仕合にて、手に合不申も有之たると咄被申候、一々御尤、御志
   のほとはいつれも御同前に可有之と答申候
(28)
甲府様(綱豊、後の将軍・家綱)御家老小出土佐守殿頼之段、細川桃菴老御聞繼のよし、江村節齋申候は、吉田忠左衛門え申呉候様に
 と、跡妻子の事、少も苦に致されましく候、土佐守どの家來鈴木彦右衛門に能被申付置候、此儀申通度由にて、即剋忠左衛門に申達候
 へは、忠左衛門、常々懇意候間、左様に可有御座候、忝承届との儀申達呉候様に被申候故、返事を節齋え申通候事
(29)
一或時、次之座に出候へは、何れも被申候は、奥田孫大夫に被仰聞候やらん、不存寄儀承候とて歡申候、秋元但馬守様御内に、舅居申候、
 頃日中瀬助五郎殿、太守様御供に御出候得は右之舅罷出、助五郎殿え御目に懸り、孫共何れも無事に居申候段を、孫太夫に被仰聞被下
 候様に、言傳を仕候と被申候故、扨々夫は一段の御仕合と挨拶致候、後に承候へは、右之趣を達御聽候て、言傳を申通候儀に候、助五
 郎それかしに常々心入にて候、同名文右衛門妻に付ての縁と存候、助五郎拙者に被申候は、十七人衆親子兄弟え御通候様に承候、今度
 之儀は、誠に大事に付、不及申へとも、能々御心得候て、内意を可申候御心入にて被仰聞趣、扨々忝存候、いかにも得貴意候事は、但
 馬守様御屋敷にて、右之舅それかし事を聞およひ、尤其名迄被申たるにて可有御座候、尤助五郎に、誰か左様に申たるやと尋も不致候、
 通し申事は偽にて無之、勿論覺悟いたし居申事故、少も驚申事にて無之候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(4)

2024-10-26 06:57:43 | 堀内傳右衛門覺書

(18)
一或時(富森)助右衛門と噺合居候處に、原宗右衛門立出、いつれも御咄被成哉とて被参候、其時助右衛門被申候は、赤穂にて宗右衛門、
 大野九郎兵衛を追立候様子、御聞被成ぬやと被申候に付、いか様承度と申候へは、宗右衛門申候は、扨々むさとしたる儀を、助右衛門
 は申とて、わらひ被申候故、それかし申候は、かやうに御心易得御意候私に不苦事、御咄承度と申候へは、私は赤穂にては、内蔵之助
 むかふさすに成候て、諸事申談、内蔵之助存念と、九郎兵衛所存と致相違候付、拙者九郎兵衛に申候は、先刻段々承度候へは、御自分
 の思召寄、内蔵之助とは、致齟齬、是に罷在者共、不殘内蔵之助存念同前に、了簡替へたる事に候得は、此座に御滯の事御無用候、早
 く御立候へと申候而立せ申候、其時若立兼候はゞ、其時には打果申候左候得は今度之一列之志は無に成り申候、以後了簡致候へは、扨
 々うつけを盡したると申候へは、助右衛門被聞申やうには、いや其時の様子、中々あの様成る事にてはなきとて、何れも笑ひ被申候事、
(19)
一或時矢田五郎右衛門被申候は、傳右衛門殿には、御道具數奇にて、御目利と承り候と被申候故、いかにも若き時分は數奇にて、目利い
 たし候へとも、大方はつれ候とわらひ申候へは、又々被申候は、いや御尤に候、拙者儀は目利は無調法に候、今度拙者指申候刀は新身
 にて、定て疵有之けるか、物打より後六寸下にて折れ申候、總體其夜之儀、内蔵之助兼而申付、三人宛組合申候、廣間より書院え通り
 廊下の右の隅に、何者か居候三人目の跡に拙者通り候、後より切懸候へ共、拙者は着込仕候故摺手も負不申、ふりかへり切付申候へは、
 初太刀にて倒れ二の太刀にて打折申候に付、心を付見申候へは、此者の下に火鉢有之、倒れ申候を打付候により、折申したると存候、
 夫故相手の刀を取、指替申候との物語有之候事
(20)
堀部彌兵衛被申候は、磯谷十郎左衛門事、別而御懇意被仰聞忝存候、十郎左衛門儀は、是に居申候老人共、別而不便に存居申候、仔細
 は是に罷在候者共、二代三代の勤家久敷者共にて候、拙者は三代前に浪人分にて呼出し申され、後の代に新地を賜り、内匠頭代に、物
 頭に被申付候、右之通代々重恩を受申候故、御覧の通年寄候へは、志計りにて、働も難成門番を致居申候、若き者共は随分何れも挊申
 候と被申候故、此方ゟ答に、御尤の御事、若き御衆の働と、御老體の門番と、事は同事と答申候、又被申候は、十郎左衛門事は、其身
 一代にて、拙者肝煎にて、十七歳の時、小兒姓に被召出、僅十ヶ年の内の勤にて、古き者共同前の志にて候、其朝も、仕廻候て立退候
 節、金杉橋をいつれも通り、將監橋を渡候迚近に十郎左衛門老母被居候故、立寄暇乞をも仕候へと、内蔵之助を始、何れも申候へとも、
 いかゝ存候哉立寄不申候、嗜故と存被申候故、扨々彌兵衛殿御咄にて、貴様御事承り、御嗜之程、慮外ながら感心仕候と申候得は、夫
 はて彌兵衛殿が、能様に咄を仕たで可有御座候、拙者事いかにも幼少より被召仕、別て念比にて段々被取立、江戸小屋なども廣く申付
 候て、老母も緩りと召置、古き者共の重恩におとり申事、さら/\無御座、成程立退候節、内蔵之助を始傍輩共も、立寄候て老母に逢
 候へと申候へは、先は装束も目立、第一老母居申候處は、小身とても御屋敷に對しぶしつけと存、又は暫時の間も、いか様の義か可有
 之も難計、
にて立寄不申候、唯今存候へは無何事立退候に、些後悔にも存候と笑ひ被申候、誠以別而感入候事、
(21)
(富森)助右衛門被申候は、仙石伯耆守様え参候節、今度の一巻御聞被成、被仰候者、上野介屋敷え仕懸候時、輕き者を捕へ案内致さ
 せ、蝋燭を出させ火燈させ申候儀、扨々落付たる仕方、誰にて候哉と御尋に付、磯貝十郎左衛門にて御座候と申候へば、若き人の落
 付たる義と、殊の外御感し被成候由被申候事
(22)
一或時(吉田)忠左衛門被申候は、拙者若き時分、軍法を數奇にて承候、采拜を所持いたし居申候、もはや今度果申儀にて候へは、内蔵
 之助にも隠し候て所持いたし候、御取寄被成候道具の内に可有御座候間、御焼捨させ可被下候へと、被申候、改見申候へは、柄は黒ぬ
 り、丸の内剣菱の紋、金粉にて、両方一つ宛、柄の先に三ヶ所に付、白紙に所々血付たるにて包有之候、以後いつれも道具共に不殘、
 泉岳寺へ被遣候時、右之采拜も一同に参候事、
   但十七人衆の刀、脇差、鑓、長刀、懐中の小脇差、鼻紙袋等、仙石伯耆守様より、匂坂平兵衛に御渡被成候、受取参候芝御奉行所
   にて、御側衆一覧之刻、我等も一座にて見申候通書付置申候、右刀脇差、同名平八心付にて札を付置、泉岳寺へ被遣候節の爲とて、
   大小の候刀箱、十七さゝせ、紺の木綿風呂敷にて大小を包置候事、

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■秋のあせも

2024-10-25 12:56:45 | ご挨拶

 この夏は余りにも暑かったが、外に出ることを極力控えてクラーを四六時中回していたから、あまり汗をかくという事がなかった。
ようやく涼しくなったころ、長袖を着込んだりしたら右の二の腕の内側あたりに「あせも」が出来てしまった。
あまり気にせずに放っておいたが、知らず知らず掻いたらしく、10×6センチほどあちこち搔きむしり、かゆくて仕方がない。
今朝も長袖を着込んだが、段々気温が上がってきたので、短パン・半そでにあわてて着替えた。28℃くらいまで上がりそうだ。
それにしても、秋にあせもとは恐れ入った。昔は「天花粉(ボディーパウダー)」なるものをはたきつけていたものだが、何方かの句に

   天瓜粉まみれや老の喉ぼとけ  という句があるのを承知している。

「喉ぼとけ」ならずとも、汗疹の痒さは願い下げである。我が家は妻が入院中で、その天花粉があるのか無いのかさえ判らないから、ただひたすらに痒さを我慢している。

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■「東風」という風

2024-10-25 06:45:29 | 徒然

「東風=こち」といえば、「春のやわらかな東から西へと吹く風のことをいう」のだそうだが、私には日本海の荒れた東風というイメージがある。
数日前熊本ではとんでもない強い東風がひと時吹き荒れた。そんなとき「東風」という言葉に少々思いをしたのでいろいろ書きつけてみた。

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の登場人物に越智東風という人物がある。
主人公である名もなき猫の飼い主・珍野 苦沙弥先生の元へ水野観月の紹介状を持ってやってきたのが越後東風である。
東風はその後、この作品の中で度々登場するが、この人物は「とうふう」ではなく「こち」が正しい名乗りである。
「おちこち」と韻を踏んでおり、読みを間違えるととうとうと「こち」が正解であることを言い立てるという。

「京都漱石の会」というサイトに、『吾輩は猫である』に登場する越智東風の命名について という南八枝子という方の一文がある。
この方は柳田國男のお孫さんだそうで、その柳田國男の文章を紐解きながら紹介しておられるのでお読みいただきたいが「國男によると、越智東風(おちこち)は自分のすぐ上の兄、井上通泰が歌や新体詩を発表する際に使っていた変名だというのです。」とある。
漱石は、このことをかすかな記憶の中にあって使ったのだろう。
その漱石には  東風吹くや山一ぱいの雲の影  という明治23年9月の句がある。箱根での句だと思われるが、「東風」が春の季語であることなどお構いなしである。

 さて、万葉集にある大伴家持の歌に
    東風いたく吹くらし奈呉の海士の 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ    がある。
まさに荒れる日本海の有様が歌われていて、春の穏やかな風とは言い難い。
この東風について「越俗語東風謂之安由之可是也」(越の国の俗語で東風をあゆのかぜという)と解説している。
家持のこの歌は「東風=あゆのかぜ」と歌うべきなのだろうか。
それはともかく、井上通泰氏は何故「越智東風」と名乗られたのかを知りたいところである。

 菅原道真は、大宰府から遠い京都を想い「東風吹かば思い起こせよ梅の花・・・」と読んでいるが、これは京への思いが強く、「強い東風」というニュアンスは伺えないような気がする。

 熊本の高名な漢学者・宇野東風(とうふう)先生は、なぜ「東風」と号されたのかも知りたいと思う。京都・東京などへ雄飛したいという思いがお有りだったのだろう。その思いは成就した。

 

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■去年の記事から

2024-10-24 20:05:37 | ご挨拶
 
■堀内傳右衛門の話は嘘か本当かという疑問

 熊本藩年表稿の頁をめくっていて、寛永17年7月19日「白川より川尻へ船通水道、開通工事予定あり」という「奉書」からの引用として紹介されている。はたしてこの船通水道は開通した......
 

 ちょうど今、堀内傳右衛門覺書をご紹介しているが、一年前のこの記事は同じ傳右衛門が書いた「旦夕覚書」にある記事である。
「旦夕覚書」の記事は、綿考輯録などにも引用されているが、ここで上げた白川から川尻に至る水路整備の記事には食い違いが見受けられる。
傳右衛門の話も大変具体的で、私はこの説を信用してきたが、どうも旗色が悪い。
決定的な資料が出てこないものかと、目を光らせているがなかなかお目にかかることができない。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(3)

2024-10-24 10:02:47 | ご挨拶

(15)
(大石)内蔵之助被申候者、若き者共其外何れへも、御深志之儀共、於私も扨々忝存候、寔に御心易存居申候、少是へ御寄被成
 候へ、御咄申度事共候と被申候故、御心易思召被下忝とて、側に差寄候處に、内蔵之助被申聞候は、いや別之事にても無之、今
 度之儀を、定而御傍輩衆中御批判と察申候、是に居申候者共、大かた小身なる者計にて、大身成もの可有之と、思召も御はつか
 しく奉存候、尤大身なるものも加り候へとも、皆了簡を替、不及力候、先奥野将監と申候は千石にて、番頭を仕居申候、今度赤
 穂にて、私と何角申合、御目附荒木十左衛門様え、書付をも差上、口上にても申上候儀有之、江戸へ御歸座以後、即刻土屋相模
 守様へ委細被仰上候間、左様に相心得候へと、私并に将監え、十左衛門様より御書付被成被遣候故、両人共に江府え御禮に罷越
 候、右之通にて御老中様御存之将監も心替仕、其外城代申付候、佐々小左衛門と申者、三百石にて、吉田忠左衛門よりは高座に
 召仕候、いや此小左衛門は、若き時分御當家に居被申たると承り候が、御覺はなきやと被申候故、我等答候には何とやらん名は
 承候様に存候得とも慥に覚不申、惣體越中守入國、幼少之時分、段々暇を遣し、或は暇をもらひたる者共御座候、其内にて御座
 候哉、しかと覺不申由を答申候、又被申候は、近藤源四郎、小山源五右衛門、河村傳兵衛なと申者は、知行も多く遣し、足輕も
 預置、是に罷在原宗右衛門より上座に申付置候、剩右之内には、拙者遁ぬ者も有之候、一旦加り了簡を替不及力と咄被申候、自
 是申候には、御心易思召、委細の譯も可有御座候へとも、唯今各様え被對候ては、被仰分も有御座ましく候、各様今度之御様子、
 兎角を可申上様も無御座、傍輩共も打寄感申候、總體身重き者は、小身者には劣り身命を捨かね候と、古今申傳候、定て御聞及
 も可有之御座候、肥後國先國主加藤清正は、度々の武功の後、肥後半國御拝領被成候刻、同國天草の戦の時、木山弾正と申者と
 鑓を合せ候事、清正公御一代の勇道を御ためし被成候と、常々御自談にて御咄被成候と申傳候、其外古今の勇將にも可有御座候、
 扨々今度の御事、とかくを不被申候、皆共小身にて難儀は仕候へとも、昔物語を承り、小身者もたのもしく存候て、傍輩共の大
 身の前にても、思ふ事申散し候と挨拶仕候、右之内には、内蔵之助伯父有之との事
(16)
(富森)助右衛門被申候は、十七人の者共、些物語有之度との事別の事にても無御座、拙者共儀今度之事定て斬罪にて可被仰付
 候、天氣晴候て、所柄成共能候へかしと願居申候、然處各様御咄、又は世上の批判を承及、はや奢が付き、萬一切腹なとゝ結構
 に可被仰付や、左様之節は、御屋敷に可被仰付やなとゝ、奢が付き申候、若左様にても候はゞ、十七人は夫々宗旨もかはり候へ
 は、寺々の坊主共、又は一類なと、死骸を被爲拝領候様に願申にても可有御座候、必す被下間敷候、泉岳寺中空地有之處に、四
 十六人共一つ穴に御埋被下候へと被申候、それかしの答には、扨々御尤成る御事に候、成ほと御意は去なから、左様之儀は有御
 座間敷候、行末長く得御意申様に成行可申と挨拶いたし置候、大御目附長瀬助之進え、右之趣噺申候へは、尤なる事と感心被致
 候事
(17)
(吉田)忠左衛門被申候は、助右衛門より我々共之願を御頼申候處に、御快御請合被下、何れも忝存候、夫に付て拙者も又其上
 に御心遣に相成申度事御座候、是に金子少々所持仕居申候、是はいなものを所持いたし候と可被思召候へとも、持來候故捨もい
 たしかたく、其儘致所持候、是を夫へ進可申候間、白布御調させ二重の大風呂敷を被仰付、四方につかりを御付させ、死骸の見
 へ申さぬやうに、其儘くりよせ候様に仕度候、御覧の如く年罷寄大からに候へは、いか程に仕候ても見苦敷も可有御座候それか
 し申候は、承知いたし候、然とも此儀は 公儀よりの被仰出次第の儀にて可有御座候哉、先は難計候、此方打寄、幾通りにも申
 談、諸事之儀何も支申事も無御座候、若も思召の通にも被仰付候事も御座候はゞ、如御望可仕候、金子御遣し被成候に不及事と
 申候、御尤成御頼致承知候、乍去助右衛門殿へ得御意候如く、行末ながく得御意候様に成行可申と、挨拶いたし罷立、右之趣を
 長瀬助之丞に申達候へは、尤成事と涙をなかし被申候事、右之通いつれもそれかし心易被存、何やかや頼有之事故、助之丞御役
 柄故些不審に被存體に付、此方助右衛門え返答之趣不殘申聞候へは、助之丞被申候は、扨々尤なる手前了簡に候由、寔にいつれ
 も摩利支天と存候と被申候、助之丞御用に付、堀部彌兵衛を折々呼び立、咄被申候事共有之候、此趣も殘衆中はいな事と可被存
 候、助之丞心底をいつれも申達呉候様にと、助之丞被申候故、助右衛門なとへ申達候へは、殘衆も承被申て、扨々忝、助之丞殿
 へ御出仕之上、分而御禮を申事もいかゞに候、いつれも忝かり申候段、宜申呉候様にと被申候に付、其段猶又助之丞え申達候事、
 

 

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■西村敏行氏を偲んで

2024-10-23 06:55:16 | 人物

                                                                                 

 俳句に関する本を色々所蔵している中に、田辺聖子氏のこの「ひねくれ一茶」がある。
548頁に及ぶ大部だが、面白くて一気に読める小説である。1992年8月の初版だがいつ購入したのか定かな記憶がない。
「大川へ吹きなぐられし桜かな」という句が、まず書初めに登場するが、文中に次から次に一茶の俳句が登場していて、一体何首登場するのだろうかと唖然とするほどだ。

 この小説は、2002年1月に先に亡くなられた西村敏行氏が一茶にふんして、「おらが春~小林一茶~」はとしてドラマ化された。
小林一茶の生涯がつづられるヒューマンドラマである。石田ゆり子が若い奥さん役で出演している。

名優・西田敏行氏を偲び、土曜の夜はこの作品を拝見しようと思う。皆様もどうぞご覧ください。

        おらが春~小林一茶~ NHK BS 2024年10月26日(土)19:30~21:29

 

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(2)

2024-10-21 06:46:24 | 堀内傳右衛門覺書

(12)
一町御屋敷よりは、林兵介・村井源兵衛・堀内傳右衛門三人代合、芝御屋敷八木市太夫・吉弘真左衛門此両人共五人にて、両人宛
 代合、夜番相勤申筈被仰付候、三宅藤兵衛方被申聞候者、今度之一巻には、十七人之面々え、此方様御内より噺懸候事、堅無用
 に候、あの方より噺かけ候共、唯返答計にて相濟様子に有之候はゞ、咄止可申候、其心得にて動候やうにとの事故、其覺悟にて
 罷在候、然とも能々了簡いたし候へは、今度之事は古今不承及忠臣高名、それかし武士たる事、別而若き者共は承置度可存候、
 萬一御赦免にて、いつれも寄合申候刻、數日之御馳走、侍中大小身共罷出、如形挨拶をもいたし候得は、今度一巻を終に尋もな
 く、間には咄聞可申と被存も可有之候へとも、此方仕懸次第には、いな事とや可被存、右之通りの筋、藤兵衛方度々御申聞候、
 外之御三人様にても、夫々に思召寄かはり可申候、此儀はとかく透を御
見合、荒増の様子御聞可然存候、いかゞ思召候哉と、色
 付の御間にて、九郎右衛門、平八に噺懸候へとも両人いかにも尤に存候、承置度と晝之内は、御側方段々出被申、遂も無之、夜
 食なと過候様子なと見合可参とて、卒度罷出候へは、思ひ/\にはなしゐられ候、能時分と存、九郎右衛門、平八に只今能折か
 らと申聞候へは、其儘両人共座へ罷出、吉田忠左衛門・原宗右衛門を片脇に呼寄、閑に今度の一巻、荒増承候由被申候事、
(13)
一翌晩夜に入、原宗右衛門、紙數の物を書被申、夜更候て仕廻、翌朝とぢ被申候に、小刀無之候故、八木市太夫を頼みとぢ被申候、
 今度の一巻の書付と承申候、夜前九郎右衛門、平八一巻の荒増尋申候故、又尋の人も候
はゞ、右之書付見せ可申との事、是を御
 書所にて、市太夫とぢ被申候刻、寫取候由、
 上之御間
  四十二歳(一本四十五)  六十三歳        五十二歳         三十七歳         六十二歳
   大石内蔵之助良雄  吉田忠左衛門兼亮  原 宗右衛門元辰  片岡源五右衛門高房  間瀬久太夫正明
  六十一歳         七十九歳        六十九歳         四十歳
   小野寺十内秀和   堀部彌兵衛金丸   間 喜兵衛光延   速水藤左衛門満堯
 次之御間
  二十九歳         三十九歳        三十四歳         三十五歳         二十五歳
   磯貝十郎左衛門正久 近松勘六行重    冨森助右衛門正因  潮田又之丞高教    赤埴源蔵重賢
  五十七歳(一本五十五)  二十九歳        二十七歳
   奥田孫太夫薫森   矢田五郎右衛門助武 大石瀬左衛門信清
    但磯貝は上之御間之に候得共、速水と申合せ入替り被申候事、
(14)
一或時、富森助右衛門え参候て申候、拙者儀旦那代々召仕候ものゝ忰にて、末子にて候故輕き奉公に罷出候、江戸定供に連れ被申、
 段々取立、小知をも賜、追々加増をも申付、物頭竝に申付候、近年は年罷寄、供役・使をもゆるされ、寛々町屋に居申候、今度
 各様え
罷出、得御意候様にと被申付候、若時分より一両年以前迄、駕の明立の役を申付候、夫故江戸表の儀、あらまし存居、京
 ・大阪其外道中筋之儀も能覺申候、居屋敷に詰候ては、門の出入自由ならず、町屋敷え居候得は、晝夜共に何方へ参候事も支無
 之候、いつれも様御事に候へは、越中守為にならぬ儀は、可被仰聞様も無之、何そ被仰聞度儀も可有御座候へとも、拙者爲にな
 らぬ事と、御遠慮之氣味も有之候やうに見及申候、御忠義の御心底を察候へは、拙者身命を惜み申事、日本の神毛頭無之、御心
 安被仰聞被下候はゞ、本望武門之冥加に叶たると存候、尤貴様御一人に不限、殘御衆中御同前に存居申候、御一人御一人へ申達
 候儀も、何とやらんいなものに候、私の心底を殘る御衆中へも、御噺被下候へと申候へは、扨々御深志淺からさる儀共存候、何
 れへも申聞候はば、忝く存可申と被申、其後殘面々も、追々禮等被申候事、
 
 

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■私の「熊本城地・茶臼山」の疑問に応えてくれるか

2024-10-20 14:37:32 | 講演会

 

 

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