ならばと直接検索すると・・なんと・・
「都甲太兵衛」は私のサイトのなかにあった。(津々堂電子図書館)
メタボなお腹が上下するほど笑ってしまった。67爺の爺ingは相当進んでいる。
赤穂浪士堀部弥兵衛・安兵衛の名跡を継いだご子孫が、細川家家臣であることを知ってびっくりなさる方が多い。熊本においては元々、堀部弥兵衛の兄・次郎左衛門を祖として三流がある。弥兵衛・安兵衛の子孫が熊本に在るというのは、これは弥兵衛の養子・文五郎が、義兄堀部安兵衛の跡をうけ名跡継ぎ、後年細川家に召し出されたためである。討ち入り当時文五郎も仲間に入りたかったようだが、これは弥兵衛の受け入れる所ではなかった。堀部家の跡を託しての事であろう。
竜田藩片桐出雲守家臣 同左・後浪人 正保4年来・肥後 慶安元年(1648)召出
堀部助右衛門---弥兵衛---+--次郎左衛門---+--甚之允---+--三右衛門・・・・・・・・・・・→甚之允家
| | |
| | +--左近右衛門・・・・・・・・・・→右学家
| |
| +--庄兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→庄兵衛家
| 元禄16年(1703)召出
+---弥兵衛-----+==安兵衛====文五郎・・・・・・・・・・・・→文五郎家
| ↑
+==文五郎-----------・
弥兵衛妻わかの甥・忠見氏
熊本の堀部家史料によると、助右衛門・弥兵衛親子は竜田の片桐家の家臣であったとされる。寛永十二年片桐家を離れて浪人、次郎左衛門が妻の叔父・細川家家臣小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年熊本に来たとされる。慶安元年甚之允が、光尚により児小姓として召し出されている。赤穂浪士討ち入りから55年も前の話である。
堀部弥兵衛の史料を読むと、代々赤穂浅野家の家臣であったとされるが、熊本・堀部家(次郎右衛門流三家)の記録(先祖附)とは明らかに違っている。当然のことながら、赤穂義士に関する資料が多く伝えられているが、それとは全く趣を事にする、細川家家臣の生活ぶりを知る上での貴重な史料が、堀部甚之允家に残されている。(新・熊本市史-通史編第三巻・第四章「武士たちの生活」、「堀部家の生活」 p532に詳しい。)
そろそろ十二月、「忠臣蔵」の話などがぽつ/\出てくる季節になった。