「肥後先哲遺蹟」を読んでいて、佐藤家-草野家に深い係わりが見え、又草野家が田中城城主・和仁勘兵衛親實に係わりあるお宅である事が判明、わが「新・肥後細川藩侍帳」を変更修正することにした。
■ 佐藤七之助 (南東45-16)
1、半七(直方、安節) 人持衆并組外衆 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・左藤半七
佐藤竹塢 越後の人、名は直方、通称半七、竹塢と号し、晩年安節と称せり。
林家に学び業成りて熊本に来り仕へ侍講となる。禄三百石。
宝永五年七月廿七日没す。年六十二。墓は春日町萬日山下長谷。
細川綱利公御書出(元禄六年)三百石
2、半四郎(直房・潭水)
3、半七(養子 実門弟・竹下氏 初・長之進、文右衛門・固菴)
佐藤固菴 名は實祐、字は自天、通称長之進、初松洞と號し、晩年固菴と改む。玉名軍の人竹下的庵の子なり。
本草野氏、佐藤竹塢に學び、後其家を継ぎて半七と改む。藩の侍講教師となり、禄三百石を食む。
享保八年十二月十四日歿す。年四十一。墓は十丁里。
4、左大夫(養子・実半四郎実子 半弥貞信 ) 三百石 御儒者 屋敷・山崎
5、三郎右衛門 七番与 三百石
6、寿八 新御屋形御小姓役 二百五十石
7、寿一郎(半助・寿八) 御番方・杤木内匠組 二百五十石
長崎聞役(嘉永六年ころ)
8、半兵衛
9、七之助 御番方十一番寺尾九郎左衛門組 二百五十石
■ 草野半平 (南東33-27)
1、隼人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(田中城城主・和仁勘兵衛親實 徒弟、天正15年田中城戰死)
2、和仁惣右衛門(宮内・歓西 筑前柳川浪人)
3、 吉兵衛(教西 三池住)
4、 宗哲(玉名郡十丁村・竹下了味養子・竹下的庵-医業をなす)
5、佐藤半七(初・竹下長之進・文右衛門)佐藤半四郎の養子となる。
6、 左大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・(佐藤家4代・左大夫 養子・半弥貞信のことか)
半七子・草野雲平を以て創家となす。草野姓は実家と有るが母方姓か?
7、草野雲平(佐藤半七嫡男) (1)外様御儒者 百石御蔵前
(2)御鉄炮廿挺頭同列・助教 百石御役料二十俵 隠居七人扶持
草野雲平知行所附目録(安永十年)百石
8、 嘉善(善平) 佐敷御番組脇 ・佐敷御番頭組 二百石内百石御足高
細川治年宛行状(天明六年)百石
目録 同上
細川斎茲宛行状(天明八年)百石
細川斎樹宛行状(文化九年)百石
草野蘭渓 名は嘉、嘉膳と称す。雲平の長子なり、時習館習書師となる。
天保十年十月二十八日没す。年七十八。
9、 半次
10、 長之進(半平)
和仁と草野について調べております
偶然こちらに辿り着きました
もしよければいろんなお話をご教授いただけますと幸いです
ご連絡先など教えていただけませんでしょうか
どうぞよろしくお願いいたします
ご期待に沿えるかどうかわかりませんが・・・