千利休は、天正19年2月13日秀吉の命により堺に帰るよう申し渡される。細川忠興や古田織部に見送られて淀川の舟本を離れた。その礼状が松井佐渡の許に送られた。有名な2月14日付の書状である。これが利休最後の手紙とされてきたが、15日付の芝山監物宛の書状が発見されて、その内容が利休の人間味や弱さを伺わせて、悲しみを誘う。25日大徳寺山門に在った利休の木像が聚楽第近くで磔にされる。25日とも26日とも云うが、利休は再び京都に呼び戻された。上杉景勝の手・三千人で厳重な警戒がなされた。そして2月28日、不審庵の茶室に於いて切腹して果てるのである。今日は利休忌、今日・明日全国のあちこちでお茶会が催される事であろう。
蒔田淡路守が介錯役を勤めたとする研究や著作が多く見受けられるが、綿考輯録・巻十に、「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。身贔屓かもしれないが、私はこちらが本当だと信じて疑わない。そしてわが「茶道・肥後古流」は、利休のお茶の形を現代に伝える正統である。
蒔田淡路守が介錯役を勤めたとする研究や著作が多く見受けられるが、綿考輯録・巻十に、「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。身贔屓かもしれないが、私はこちらが本当だと信じて疑わない。そしてわが「茶道・肥後古流」は、利休のお茶の形を現代に伝える正統である。