吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2019:4:5日発行 第56号
本能寺からお玉が池へ ~その①~ 医師・西岡 曉
・・・・・・春に会いましょう
最後の歌(HURRY GO ROUNDO)でこう歌った歌手がいました。
あれからもう20年になりますが、この誌上では、皆様とまたお逢い出来る倖を噛みしめる春です。春を迎えてお届けするのは、申し訳ありませんが、深大寺にも吉祥寺にも関係ないお話になります。「本能寺の変」が三百年後の「東大医学部」の誕生に関わっているというお話です。
「そんな馬鹿な・・?」と思われるかもしれませんが、そこはそれ(?)同じ病院のよしみで、この度はこのお話にお付き合い頂ければ幸いです。
始めにお断りしておきますが、登場される皆様の敬称は(原則として)略させて頂きます。
[1] ガラシャ
「本能寺の変」から東大医学部の誕生へ、などと随分大風呂敷を広げましたが、このお話は、まずは本能寺の変(→山崎の戦→清須会議という激動の年)から始まります。今から440年も大昔のお話です。
1579年(天正6~7年)は、織田信長(1534~1582)が安土城(@滋賀県近江八幡市)を築いた年です。この年は、明智光秀(1534~1582)の娘たちにとって大きな転機の年でした。
明智光秀にはガラシャの他に3人の娘がいたというのは、皆様には初耳かも知れません。実は光秀には、娘が4人いました。(名前と生没年は「明智一族 三宅家の史料」によりましたが、異説もあります。)
長女・岸(1552~1582)
次女・里(1554~1582)
三女・玉、洗礼名ガラシャ(1564~1600)
四女・辰(1566~1593)
1579年、明智岸は、夫・荒く村次(生没年不詳)の父・村重(1535~1586)が前の年に信長への謀反に及んだため、村次が離縁して実家の明智家に戻っていましたが、この間まで姑だっただし(変わった名前ですが、村重夫人の お名前です)を始め荒木の一族郎党670人(多数の妻子を含みます)もが処刑されたのを聞いて悲嘆にくれます。
明智里は、父光秀が攻め落とした丹波国八上城(@兵庫県篠山市)主になった明智光忠(1540?~1682)に嫁ぎます。
明智玉は、信長の命で、信長の長男・信忠(1555~1582)の家臣・長岡(後の細川)忠興(1563~1643)に嫁ぎます。
明智辰は、同じく信長の命で、父光秀が縄張り(設計)した近江国大溝城(@滋賀県高島市)主になった信長の甥・津田信澄(1558?~1582)に嫁ぎます。
この年信澄は、荒木一族を捕えて京に護送する役を信長から拝命しています。
荒木村重の謀反をめぐる悲劇で岸が負った心身の深手が癒えたか癒えないかの1580年、父光秀は岸を家臣・三宅弥平治と再婚させます。
ついで(では、失礼ですか?)に言っておくと、この1580年は後日登場していただく予定の信忠の長男(=信長の孫)・織田秀信が岐阜で誕生した年でもあります。
明智岸が再婚した三宅弥平治は、明智秀満(1536?~1582)と名を改め、1581年、(信長から丹波国を与えられた光秀が築いた)福知山城の城主になりました。
その年、秀満と岸の間に男子が生まれます。光秀には既に初孫として玉(後のガラシャ)の息子(後の細川忠隆)がありましたから、岸の息子(後の三宅重利)は、光秀の二人目の孫になりますが、玉の息子は長岡家の跡取り(の予定でしたが、実際はガラシャの死のとばっちり(?)で勘当され、同じくガラシャの子である弟・忠利が長岡改め細川家を継ぐことになります。)ですから、明智家にとってはこの子・藤兵衛が光秀の初孫のように思えたかもしれません。
そして、三年後・・・・・・。
我が家の先祖と伝わる(ことは、三年前既に一部の皆様にはお話ししました。)明智光秀は、「本能寺の変」を起こします。
1582年6月21日(天正10年6月2日)、光秀は「天下布武」を旗印に十余年にわたって共に駆けてきたきた(主君であり同志である)信長を討ち果たすことになります。
しかし残念ながら「三日天下」に終り、羽柴秀吉(1537~1598)斃されます。
明智家の滅亡を受けて、光秀の娘たちはどうなったのでしょうか?
岸と里は、明智の城=坂本城(@滋賀県大津市)で自害して果てました。
玉は、明智家を離れていたので死は免れ、夫・長岡忠興によって丹後国の味土野(現・京丹後市弥栄町)という処に1年8か月の間幽閉されました。
後に大坂(現・大阪)の長岡屋敷に戻ることを許された玉は、1583年に次男・興秋(おきあき:1583~1615)、1586年に三男(で後に細川家を継ぐ)忠利を産みましたが、1587年2月、夫・忠興が九州に出陣した際に、侍女の清原マリア(生没年不詳、清少納言と同じ清原氏の儒学者・清原枝賢の娘・いと)から洗礼を受け、明智ガラシャ(当時は夫婦別姓ですから、夫の苗字になってはいません。
「細川ガラシャ」というのは明治以降に使われる通称ですが、当時の細川家は「長岡」を称していましたので、現代の夫婦同姓風にするなら「長岡ガラシャ」でしょう。)となりました。
ここでもしご存知なら、キリスト教の「アヴェマリアの祈り」を思い出してください。
現代日本語では、「アヴェ、マリア、恵に満ちた方、主はあなたとともにおられます。・・・・・・・」とと始まるお祈りです。
ガラシャの時代、この祈りは「ガラサみちみち玉ふマリアに御礼をなし奉る・・・・・」と唱えられました。ラテン語では(ガラシャの時代も今も)、「Ave Maria、gratia plena、Dominus tecum・・・・・」となりますが、このgratiaをスペイン語にするとgracia、当時の日本語カナ書きでは「ガラシャ」となり、これが明智玉の洗礼名です。
なお「ガラサ」というのは、ポルトガル語のgraçaのカナ書です。
大坂に戻った忠興は、ガラシャのキリシタン入信に激怒し、しかのみならず5人の側室を持つと宣言するなど夫婦仲は最悪となって、ガラシャは離婚を望むようになります。それに対して大坂の教会では(キリシタンの教義では、離婚は大罪なので)、「一つの十字架を捨てれば、別のもっと重い十字架を背負うことになる」と、「一つの十字架」としての結婚生活を続けるように勧めました。離婚をあきらめたガラシャは、1597年(慶長2年)長崎での26成人(その内20人が日本人)の殉教の報を受けて、自身も殉教を望むようになり、その準備を始めます。
1600年6月、忠興が会津征伐(=上杉討伐)に出陣するにあたって、妻・ガラシャに危機(例えば、人質にされそうな時)に臨んでは自害するように命じました。これを受けてガラシャは、危機に際して武士の妻として自害することが自殺を禁じたキリシタンの教義に反するものにならないよう神父たちと協議を重ねて備えました。ガラシャの心中を察するに、夫の命で自害することが神から授けられた十字架であり、自分なりの「殉教」だと考えたのではないでしょうか。
そして1600年8月25日(慶長5年7月17日)、ガラシャの最後の日が来ます。その最後は、ガラシャの望み通りのものでした。
ガラシャの望みを知ってか知らずか、翌年、夫・忠興が熱望して京で執り行われたガラシャの一周忌ミサで、ヴィンセンテ修道士(日本人)が誓書「ヨハネ黙示録」の「主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」との言葉を引いて、「ガラシャの徳と善き死について述べたところ越中殿(忠興)とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた」(イエスズ会「1601年の二本年報」)のでした。
散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
このガラシャの辞世の歌は有名ですが、ガラシャの思いとどう繋がるかは余り還みられていません。
この歌に詠まれた「時」とは、実家の土岐明智家の「土岐」と、誓書「コへレトの言葉」の「何事にも時があり、雨の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時 ・・・・・」の「死ぬ時」とを重ねたものではないでしょうか?
教会の公式見解はどうであれ、ガラシャ自身の思いは、「主に結ばれて死ぬ」こと、即ち日本26聖人に倣った「殉教」だったと、私は思うのです。
と言うのも、ガラシャの死後100年程後のウイーンで、ガラシャの最後を「殉教」として描いたオペラが上演され、マリー・アントワネット(1755~1793)を始めとするハブスグルブ家の貴婦人たちに深い感銘を与えたと言うのです。
イエスズ会の「1600年の日本年表」には、こうあります。「この夫人の死は、日本中で大いに悲しまれた。ドナ・ガラシャは、キリシタンである一人の息子(興秋)と二人の娘(長姫・多羅姫)を遣した。」
ガラシャの話が長くなりましたが、妹の辰は明智家滅亡後、幼子だった息子(後の織田昌澄:1579~1641)辰本人もまだ16歳の幼妻でした。)を連れて(ガラシャの長岡家ではなく、当時羽柴方でしたが、夫・津田信澄に仕えたことがある)藤堂高虎(1556~1630)の保護を求めます。(長姉・岸の系統の)三宅家の記録では、辰は1593年(豊臣秀頼誕生の年)没とありますが、藤堂家の記録では、1603年(家康の孫で7歳だった)千姫が秀頼に嫁いだ際に(本人ではなく徳川家の意向のようですが)千姫付の奥女中となって大坂城に入った、とあります。すると息子の昌澄は、藤堂家を辞して母を追うかのように大坂城に入り、秀頼に仕えることになります。
そして、皆様ご存知「大坂夏の陣」・・・・・・・
豊臣方の昌澄は、大恩ある藤堂高虎らの徳川方と激闘の末敗れ、秀よりは大坂城と運命を共にして果てましたが、昌澄は高虎の執り成しで死を免じられ、後年二代將軍秀忠に仕えました。母明智辰の行く末については、残念ながら記録がありません。
言い忘れましたが、本能寺の変当時大坂城主だったのは、辰の夫・津田信澄で、信澄は本能寺の変の3日後、(信長の三男)織田信孝と丹羽長秀に「本能寺の変は、光秀と信澄の共謀だ」との言いがかり(?)をつけられて、攻め殺されてしまいます。そう、信澄最後の地、それも大坂城なのでした。