津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「織田信長」の新たな手紙の発見

2024-09-06 19:14:10 | 新聞

織田信長の手紙を発見「あなただけが頼りです」 細川藤孝に送る

毎日新聞配信」を引用

<picture><source srcset="https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240906-00000059-mai-000-3-view.jpg?pri=l&w=640&h=448&exp=10800&fmt=webp" type="image/webp" /><source srcset="https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240906-00000059-mai-000-3-view.jpg?pri=l&w=640&h=448&exp=10800" type="image/jpeg" /></picture>

織田信長から細川藤孝に送られた手紙の発見を発表した永青文庫の細川護光理事長(左)と、熊本大の稲葉継陽教授=東京都千代田区で2024年9月6日、高島博之撮影

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■あるランク付け、細川家は第三位

2023-03-14 06:30:28 | 新聞

            1位・岩崎男爵家、2位・渡邊治右衛門氏、3位・細川護立氏

 これはあるランク付けなのだが、御覧になって諸兄には、大方の予想は出来るだろうか。
これは大正9年(1920)の東京日日新聞に掲載された、東京市に3,000坪以上の土地を所有する大富豪のランクである。

その累計は東京市の面積23,308,896坪の約廿分の一に及び、「都市発展を阻止し住宅難を増長させている」と辛辣である。
大関は岩崎男爵家(横綱はいない)これは岩崎久弥氏周辺のこと、渡邊治右衛門とは江戸日本橋の豪商明石屋の8代目当主である。
細川護立侯爵が堂々の三位には驚かされる。

何と言っても広大なのは、岩崎久弥氏の駒込上富士前の47,684坪(=157,633㎡)だが、江戸町めぐり‐【本郷①050】駒込動坂町によると、「五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の中屋敷であった。1702(元禄15)年、回遊式築山山水庭園の六義園が完成。明治期には三菱の創始者岩崎弥太郎の別邸となる。1917(大正6)年、岩崎久弥により、G・E・モリソンの蔵書の他、アジア全域からの書物や資料を収めた東洋文庫が開設。1924(大正13)年から公開された。1938(昭和13)年から一般公開され、1953(昭和28)年には国の特別名勝の指定を受けた。1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。」とある。
二番目は本郷・本富士町‐加賀前田家の加賀利為氏の13,489坪、これは東大本郷キャンパスとなった加賀藩上屋敷であろう。
細川護立氏は小石川・老松町の21,531坪でこれは現在の「永青文庫+肥後細川庭園+和敬塾本館+α」である。
それぞれ残念ながらすべてが住宅地にはならなかったものの、細川家の「α」が幽霊坂で分断された西側のブロックが唯一住宅地となっている。以上は10,000坪以上の土地だが、上記ランクによる総面積は、岩崎男爵家113,467坪渡邊治右衛門氏37,494坪細川護立氏33,925坪というから、岩崎男爵家の経済力には驚かされる。
因みに細川家のその他の土地は小石川に5,516坪、麹町に3,797坪、日本橋に3,081坪とある。

大正九年東京は既に住宅難だとしている。これら富豪たちが所有した膨大な面積の土地は、今では有名な公園や公共施設の用地、商業地などに転用されて住宅地となっているのは少ないようだ。下のリストを一々住所を辿ってみるのも面白そうだが・・?

                 

                                         この資料は、細川御一族GH氏からご提供いただいたものである。

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■細川藤孝夫妻・忠興夫妻の四つ御廟汚さる

2023-02-09 07:10:42 | 新聞

熊本藩主細川家の墓に赤い液体 熊本市の国史跡「四つ御廟」 市は被害届を提出

熊本日日新聞

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■熊本発BIG NEWS 古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土

2023-01-29 07:46:14 | 新聞

古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土、製作年月日か 江田船山古墳に続く県内2例目、国内では8例目

熊本日日新聞 | 2023年1月27日 21:34

 

熊本市と熊本大の合同調査で判明した、鉄刀の銘文部分(同市提供)
特別史跡・熊本城跡のNHK熊本放送会館跡地から出土した、象嵌の銘文が刻まれた鉄刀(熊本市提供)

 特別史跡・熊本城跡の千葉城地区(熊本市中央区)から昨年出土した古墳時代の鉄刀に、製作時期を示す象嵌[ぞうがん]銘文があることが27日、市と熊本大キャンパスミュージアム推進室との合同調査で明らかになった。県内での象嵌銘文刀剣の出土は江田船山古墳(和水町)に続く2例目で、国内は8例目という。

 会見した市熊本城調査研究センターは「兵庫県の箕谷[みいだに]二号墳から出土した象嵌銘文刀と製作時期などが類似しており、これらと比較することで当時の社会状況や国家形成を知る手掛かりにもなる」と話している。

 鉄刀は、旧NHK熊本放送会館跡地の南西側から見つかった。全長約55センチ(刃渡り約41センチ)、幅約3センチで、はみ出し鐔[つば]が残る。昨年10月に市と同大が実施したエックス線CT調査で、鐔に近い部分に象嵌手法で「甲子年五□□」(□は不明)の6文字が刻まれていることが分かったという。

 同センターによると、「甲子年[かしねん]」は鉄刀を製作した干支[えと]の年号で、下の3文字は製作月の「五月中」が考えられるという。装飾付大刀の形状から、古墳時代の終わりから飛鳥時代の前半のものとみられるが、「甲子年」の銘文から604年に製作された可能性が高いという。

 1962年に確認された古墳時代の横穴墓群10基の近くから出土しており、同センターは「もともと横穴墓にあった可能性がある。中央政府から熊本の有力者に贈られたものではないか」と見ている。

 江田船山古墳から出土した県内1例目は、日本最古級の文章が刻まれた古墳時代の銀象嵌銘大刀で、国宝に指定されている。同センターは「今後も調査を進め、刀剣の価値を検討していきたい」と話した。(鬼束実里)

NHK跡地の発掘調査で出土した、古墳時代の鉄製の刀(熊本市熊本城調査研究センター提供)
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■宮本武蔵が彫った? 熊本市の「座禅石」にあった地蔵尊、鎌倉市で発見

2023-01-06 10:04:00 | 新聞

 宮本武蔵が彫った? 熊本市の「座禅石」にあった地蔵尊、鎌倉市で発見  

        鎌倉市で見つかった宮本武蔵が彫ったと伝わる地蔵尊(金子家敏さん提供)

 剣豪・宮本武蔵が座禅を組んでいたと伝わる谷尾崎梅林公園(熊本市西区)の「座禅石」の傍らにあり、武蔵が彫ったとされる石製の地蔵尊が、神奈川県鎌倉市で見つかった。長く所在が分からなかったため、武蔵を研究する福田正秀さん(74)=山鹿市=は「巨石の上に座禅する武蔵や、地蔵尊を刻む姿をほうふつとさせる発見だ」と語る。

 座禅石は公園の西側斜面にある自然石で、平たくなった部分は2畳ほどの広さがある。その近くに座禅石の一部を削って武蔵が彫ったと伝わる地蔵尊があり、新熊本市史(1996年発行)には、「明治の頃、この石(座禅石)の前で発見され今は鎌倉にあるという」と記されている。

 今回見つかった地蔵尊は高さ約8センチで、所有者は武田流弓馬道司家の金子家敏さん(神奈川県鎌倉市)。金子さんの家には代々、熊本藩の竹原家から弓馬の故実書なども伝わっている。地蔵尊を収めた厨子[ずし]の箱書きによると、金子家が1961年に「秋山太郎繁治」と名乗る旧幕臣から地蔵尊を受け取ったとみられる。

 地蔵尊を撮影した写真は、谷尾崎の歴史をまとめた公民館の冊子(1985年発行)にも掲載されており、金子さんが持っている地蔵尊と同一のものと福田さんが確認した。

 福田さんは「あくまで言い伝えなので、本当に武蔵がこの地蔵尊を彫ったという確証はないが、座禅石が身近にある地元の人たちにとってもうれしい発見だろう」と話している。(園田琢磨)

      
   宮本武蔵が座禅を組んでいたと伝わる座禅石の         公民館が1985年に発行した冊子に掲載
   前に立つ福田正秀さん。
この石の前に地蔵尊が         されている地蔵尊(福田正秀さん提供)
   あったという=熊本市西区の谷尾崎梅林公園

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    追記:熊本史談会では本年5月の後援会に福田正秀先生をお招きして「宮本武蔵」についてのお話をお伺いする。
      この記事を含め先生の留まるところを知らぬ新たなお話がお聞きできるものと「期待大」である。

 

 
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■ビッグニュース熊本城

2022-09-01 09:48:59 | 新聞
熊本日日新聞
熊本城完成は1607年より前? 築城にまつわる清正の書状見つかる 東京大史料編纂所が調査    配信
                                       
                                 
                           加藤清正が熊本城築城の進捗状況を喜ぶ様子がうかがえる1603年5月21日付の加藤清正の書状(東京大学史料編纂所撮影)
 
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■国宝「蒙古襲来絵詞」の新安住地

2022-08-24 09:32:28 | 新聞

  「蒙古襲来絵詞」は、私たち熊本史談会会員にとっては大変身近にある。
それというのも現在宮内庁所管の「国宝・蒙古襲来絵詞」の元の所有者・大矢野家の現当主が熊本史談会の副会長であるからだ。
大矢野家には「白描図」が残されており、二年毎くらいに二本の長い絵巻物をお持ちいただき展示していただいている。
「白描図」には「国宝図」には見られない欠落図があったりして、大変興味深い。
今般、三の丸尚蔵館の管理と運営が、2023年10月1日から「国立文化財機構」に移管されるという報道があった。毎日新聞の記事を引用させていただく。
建物も整備され、「蒙古襲来絵詞」をはじめ、皇室に係わる収蔵品が新たな安住の地をえる。
そうなると公開の機会も増えることだろう。多くの皆様に見ていただきたいものだ。
我が史談会でも来年あたりには又展観の催しが企画されるのではないか。大いに楽しみではある。


 皇居・三の丸尚蔵館、宮内庁から国立文化財機構に移管 拡充工事中   配信

建て替え後の三の丸尚蔵館のイメージ図=宮内庁提供
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■熊本城内の井戸

2022-07-29 07:00:49 | 新聞

                         

 昨日の熊本日々新聞には「熊本城復興支援キャンペーン第四弾」ー「其の七」が14・15面で紹介されている。
(上記QRコードから「其の七」をタップしてください。)
「往時の暮らし伝える熊本城の井戸」として、一・二天守と宇土櫓をバックにして二の丸広場の井戸がメインに写されている。
この写真の場所は、時習館があった辺りだと思われるが、時習館の絵図を眺めてみると時習館東北角の東面に東門があり、入ると「家老の間」の脇に大きな井戸が描かれている。しかしいかにも空堀に近すぎる。
残念ながらこの井戸の位置については解説がなく残念。

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」には、お城の着工後すぐに井戸が掘られた様子を次のように記している。

お城の地均し「えいとう/\」の歌の節面白く常に聞きよったが、地鎮まつりの規式に御城の人で真言宗の出家が務めに
なったばい。この日はおなごは誰も入れつけずそののちに井川(井側=井戸)をぐっさり(沢山)になつたが、これも並大抵のこつじゃなかつた。

深いものでは35mあるそうだが、善蔵さんがいわずとも大変な工事であったろう。それが現存確認されるだけで25ヶ所だそうだが、往時はまだまだ多かったらしい。仕事に携わった方々の苦労がしのばれる。

 

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■古城(隈本城)のこと

2022-04-28 11:20:01 | 新聞

 昨日付けの熊本日々新聞に、二面に渡り「熊本城復興支援キャンペーン第四弾」として「古城地区に残る最古の石垣の魅力」という特集記事が掲載された。
その中で興味深いのは熊本城研究センターが2021年度の成果として発表した、この古城地区の地図だ。
古城は現在の熊本第一高校の校地と考えてよいが、左の図によると、校地のグランド部分は往時は白川の大蛇行に飲み込まれていたことが判る。
これは校地の川よりの端の地盤調査から、厚さ数メートルに及ぶ版築の跡が確認されたことから推測されていた。
しかし、鹿子木氏から城氏、佐々氏、そして加藤清正の半国時代のお城・隈本城の範囲や、各郭の名称が表示されており大変興味深い。
「のこる丸」は他の郭には「〇〇丸」と名がついているが、ここは名前が付けられずにあったからその名の由来であるという。(熊本城天守閣常設展示図録p19)
これらの名称の出典を知りたいと思う。

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■肥後細川家の料理人さんのお名前は料理谷さん

2021-07-04 15:53:04 | 新聞

明治の面影、宴会場復活 熊本地震で被災、肥後細川家の料理人邸宅       配信        熊本日日新聞

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■今日の熊日新聞・ニ題

2021-02-10 14:52:01 | 新聞

今日の熊日新聞に、二つのBIGな記事があった。
一つは今年度の県の重要文化財二件の指定答申があり、ご厚誼をいただいている肥後金春流の中村勝氏ご所蔵の貴重な能楽関係史料が決定を見ることになった。以前からお話は伺っていたが、喜ばしい限りである。

                                          

 いま一つは、細川家重臣でキリシタン信者として棄教に応じなかった、加々山隼人の誅伐に係る文書発見のニュ―スである。
その事実だけを承知しているが、資料の具体的なものがなかった。新しい資料として注目を浴びそうである。

                                                                 

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■ウイキペディアから記事が消えた

2021-01-04 12:51:44 | 新聞

 今日のデジタル朝日新聞では、「明智光秀は本能寺に行かなかった」という記事を挙げている。
斎藤利三と、光秀重臣の明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたとされる。
これらの事は、加賀藩に於ける記録「乙夜之書物」に斎藤利三の三男・利宗が甥の加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されているのだという。

 さてこの斎藤利宗という人物、ウイキペディアの記事が削除されている。全文削除に近い処置なのだが何が起こったのだろうか・・
法号を「立元」と紹介したりしているが、これは「立本」が本当で、「たてもと」とでも読んでタイピングの段階での間違tっつたかと好意的に解していたが、全文削除となるとこんな些末なことではないようだ。
春日局の兄であり後徳川家光の家臣となった利三は、かっては加藤清正にも仕え熊本にもなじみが深い。
私は、清正の菩提寺・本妙寺に宛てた書状をもっているから一層身近に感じている。

 明智光秀の本能寺襲撃の原因については、百家争鳴の状態だが、最近では斎藤利三のかかわりが指摘されてクローズアップされている。
今般の利宗の伝える処とされる記事が、光秀を論ずる識者の中にどう変化がおこるのか興味が尽きない。

 それにしても、ウイキペディアが気にかかる。

 

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■熊本日日新聞から「菊池一族初期の館跡か 菊池市の菊池川右岸」

2021-01-02 13:54:13 | 新聞

菊池一族初期の館跡か 菊池市の菊池川右岸 13~14世紀、「菊之城跡」柱穴三つ

熊本日日新聞
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■小倉細川藩の葡萄酒は寛永九年まで作られていた・・

2020-12-11 11:27:17 | 新聞

         

 熊本日々新聞の12月10日朝刊に掲載された記事である。
熊本大学永青文庫センターで新たな資料が発見され、発表された。
私は「小倉細川藩」の資料は、何度も読み直したがこの事実を知るには至らなかったのは、言い訳がましいが「福岡県史・近世資料編‐細川小倉藩」に於いては、寛永八年の十一月いっぱいで日帳の記録の所載が終わっているからである。
肥後入国後の上田太郎右衛門は合志で育林の仕事に携わっているようだから、葡萄酒とは縁が切れたことが伺える。

 

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■考えさせられること・・・

2020-07-07 17:19:37 | 新聞

   地元メディアでも取り上げられているが、今日の夕刊フジの記事は同様の内容を報じていて、大いに考えさせられるものである。
四国の四万十川と共に、その清流を並び称えられた川辺川に建設予定の「川辺川ダム」が、県民の大方の世論として、当時の県知事蒲島氏(今年四選)が取りやめを決定した。
ちょうど民主党政権時であの八場ダム工事のストップと共に、好感を持って迎えられた。
今回の9mを超す増水による人吉球磨地方の水害は、ダム建設を拒否した私たち県民の責任なのかもしれない。
その後の治水に関する県の積極的アプローチがないまま今日を迎えた。「クマモン人気」に乗った蒲島知事の不作為には大いなる批判が集中することであろう。
行政の不作為の一面がクローズアップした悲劇である。

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 「熊本水害、治水は万全だったのか 民主党政権が「川辺川ダム」の計画中止 専門家「ダムによる治水必要だった」 夕刊フジから引用

熊本県南部を襲った豪雨では、6日朝までに死者計22人、心肺停止18人、行方不明者11人など大きな被害が出た。氾濫した球磨(くま)川の支流では、九州最大級の「川辺川ダム」の建設計画が中止された。治水は万全だったのか。  “暴れ川”と呼ばれる球磨川では11カ所が氾濫、多数の被害が出た特別養護老人ホーム「千寿園」のある球磨村や、温泉地として知られる人吉市など流域で約6100戸が浸水した。  国は1966年、洪水防止のため川辺川ダム建設計画を発表したが、賛成派と反対派が対立し、2008年に蒲島郁夫知事が建設反対を表明、09年に民主党政権が計画中止の方針を示した。  関東学院大学名誉教授(河川工学)の宮村忠氏は「今回の氾濫で『ダムがあれば』と考えた人は当時の反対派にも少なくないのではないか。問題は記録的な豪雨だけでなく、豪雨に備える体制にもあった」と指摘する。  蒲島知事は5日、川辺川ダム中止の決断は県民の意向とした上で、反対の方針に変わりがないと強調した。大きな被害に「大変なショックを受けた」とし、「ダムによらない治水を目指してきたが、費用が多額でできなかった」と述べた。  「ダムによらない治水を極限まで検討する」「それをさらに考える機会を与えられた」とも話したが、具体的な方策に言及はなかった。  前出の宮村氏は、「人吉周辺は以前は人も少なく、ある程度の氾濫を受け入れて立ち上がることができた。しかし、現在は、交通インフラも整い、施設も増え、氾濫を受け入れる選択肢はない。だとすれば、ダムによる治水が必要だった。それぞれの時代に合った技術を適用すべきだということだ」と指摘した。  群馬県の八ッ場(やんば)ダムも民主党政権で工事を中断したが、その後再開。試験貯水中だった昨年10月の台風19号で治水効果を発揮した。

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