勝海舟の「氷川清話」には、海舟の幾つかの俳句が紹介されている。それぞれが大変興味深く御紹介してみようと思う。
■この中の「文芸評論」の中に「俳諧のはなし」という項が立てられており、数種の句が披露されている。
・時鳥不如帰遂に蜀魂
蜀魂(しょっこん)は、蜀の望帝の魂が化してこの鳥になったという伝説からホトトギスの漢名。
ゆえに「ほととぎす、ほととぎす遂にほととぎす」と読む。それぞれが少壮・中年から初老・そして晩年の意で「十七文字の中に人
生を一括したのさ」と解説するが、周りの人たちは「どうも先生の句はわからない」と言う人がいた。
・昼顔のとがまを漏れてさきにけり
この句は其角の「道の辺の木槿は馬に食われけり」という句から思い付いたという。とがまは「利鎌」とも書くがよく切れる鎌の
事。人名にもよく使われた。刈り取られることを逃れた一輪の昼顔の花の情景が浮かぶ。うまいなと感心した。
・稲妻やまたたくひまの人一世
この句は「稲妻の行く先見たり不破の関」(芭蕉の句らしいとされるが??)という句を読んで大いに感心して作句したものであ
る。維新の大業が為されるなかで有名無名の人々が命を落としている。大業を為さんとした人々の命のやり取りの一瞬だろうか。
そして新しい時代を迎えての感慨であろう。
・外の雪草鞋もぬかで子を思う
少々しんみりとした句だが、「少し調子が卑しい」などと云っている。「調子が卑しい」が理解できない。
・車引き車引きつつすぎにけり
随分長く車引きの仕事をしてきたが、新しい時代になったから商売を替えようと思いつつも、未だに車を引いていて、一生このまま
過ごすのだろかという感慨である。明治の大改革では不器用な人には生きにくい時代であった。
・米櫃に一夜つかるる老鼠
貧乏士族を鼠に見立てた句である。これも上の車引きと同様、次代に翻弄されて米櫃の底に残る米を心配しながら生きる人間の悲哀
を詠んでいる。
そして今の人たちの俳諧は「みな規模が小さくて、小天地の間にせこせこしている」といって次の句を披露している。
・雲の峰すぐに向こうは揚子江
「詩でも山陽の「雲耶山耶」などは、まだまだ小さいよ」と言って作った自画自賛の句だが、皆様はどうお感じだろうか。
熊本ゆかりの「泊天草洋」と題する頼山陽のあの「雲か山か呉か越か」でしられる詩に対抗している。
■また「太田道灌」という項では次の句が見える
・咲く花を散らさで祝え田舎人
どうやらいろんな役職に誘われるらしいが、生活に苦しい人々を見ていると、華やかに騒ぎ立てるのではなく静かに生きていきた
いという思いが強いようだ。
・上野飛鳥都の花となりけり
正岡子規の句に「つらつらと上野飛鳥の夏木立」とある。「飛鳥」は飛鳥山と思うが、徳川吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、
飛鳥山を桜の名所にし、行楽の地としたことで知られるが、上野に並ぶ東京の名所になったなあという感慨か
また、詩も紹介している。
・たちかえるわが古里の隅田川昔忘れぬ花の色かな
これは徳川幕臣たちが江戸を離れ静岡に引き払うときに、当然海舟もそうしているがその時に詠んだ「つねにだも住ままくほし
き隅田川わが故郷となりにけるかな」と前後照応していると説明している。
■「日本の下層階級」という項では三句が披露されている。
・新米や玉を炊ぐのおもひあり
・落栗やしうとと孫の糧二日
・唐茄子に一日は飢をいやしけり
それぞれに悲しい情景が伺える句である。あちこちの戦いでの悲惨な状況や、新たな時代になっても底辺の生活を強いられる人々
の代弁者としての詩であろうか。
■そして「西郷の礼儀正しさと肝の大きさ」では、今は亡き西郷を回顧している。
江戸城の無血開城における会談に際しての、幕府の臣に対しても敬礼を失わず、終始座を正して手を膝のうえに乗せて、戦勝の威光
を以て敗軍の将を軽蔑するというような素振りは無かったと述懐する。
次の句はいつの頃のものかは判らないが、上野に西郷の銅像が出来たころのものであろうか。
西郷夫人と久闊をあたため、いろんな会話が為されたのであろう。素直な句である。
・南洲の後家と話すや夢のあと