歴史作家桐野作人氏のブログ「膏肓記」では、先のコメントで熊本を取材旅行されることが記されていた。
熊本に来られたのは4月21日のことだったらしいが、記事がUPされたのは今日のことである。
天気も良くよい旅をなさったらしく、好感を持っていただいたことが嬉しい。今後の氏の活動にどう反映されていくのか・・・・見守り、応援していきたい。
「生誕450年記念 加藤清正展」 が、熊本県立美術館で2/7/20(金)~12/9/2(日)の会期で行われる。
メディアでは度々報道され、前売り券の発売も行われているのに、肝心の美術館はサイトなどで何のコメントもしない。のんびりにも程が有る。
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/
全国から清正公に係る史料が大集合するという噂だが、この様な機会はしばらく訪れないだろう。
ならばもうちょっと真剣にPRをされたら如何だろうか。私は少し頭にきている。
一書申入候仍肥後殿之儀ニ其元も御拵候ハんと存候事つ
かへ候ハゝ我等なとも人数召つれ参筈ニ而候され共城渡
可申候間参事ニ而ハ有間敷候志广殿も御下之筈ニ而候幾
御上使衆不残小倉へ御著候其故所々馬飼不足申叓可在之
候条肥後へ取ニ遣候肥後舟いそかしく可在之候条若舟無
之候ハゝ其元之荷舟若候ハゝ熊本迄御遣候而可給候又其
大豆なと先其元迄遣置重而此方より舟廻シ可申候又熊本ニ
舟候ハゝかり其元へ馬飼上置可申候又我等大筒・玉薬舟
ニて廻シ候此舟も城渡シ候ヘハ不入候条道具ハ其元へ上
置舟ハ熊本へ参事も可在之候先度者所之塩早々満足申候
此状ハ肥後ニ舟無之時遣候へと申候へと申候間日付延候儀可有
候其御心得肝要候恐惶謹言
六月廿日
三宅藤兵衛殿
御宿所 三宅藤兵衛宛の珍しい文書、藤兵衛は天草島原の乱勃発時に戦死。
「130年の時を越えて「熊本城本丸御殿大広間」の復元整備」
http://www.k-keikaku.or.jp/xc/modules/pc_ktech/index.php?content_id=1709
熊本市動画チャンネル
http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/Content/web/asp/kiji_detail.asp?ID=2773&p_nt=true&mid=19&LS=41&tid=0
熊本城
http://www.infobears.ne.jp/athome/fukusuke291/osiro.htm
熊本城古城絵図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286589
熊本県立美術館においては「細川コレクション・永青文庫展示室」とは別に、本館第一展示室を永青文庫常設展示室に改修し昨日から展示が始まった。
永青文庫の至宝がより身近になった。さわやかな風の中熊本城を散策・・是非熊本県立美術館へどうぞ
■ 永青文庫常設展示室 http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20120428-0701_hosokawake_rekishibi/index.html
■ 細川コレクション永青文庫展示室 http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20120414-0701_kindaihosokawake/index.html
覚
肥後熊本之儀六月十五日ニ加藤右馬丞・下川又左衛門
より使を下シ肥後殿之儀豊後殿之儀如此ニ被仰出候間熊
本之儀無異議 御上使衆へ可相渡由肥後殿自筆之書状を持
上使衆御供申遣下候由申越候故扨者無格候間城を持可申
わけなく候間荷物もはやのけ武具・馬も売申候事
一、大かたかしらたち候ものそれより下も頂をそり申候事
一、女子ハ小身なるもの共ニ少ハのけ候ものも御座候侍数
大形千四五百御座候内五六百残はや立退候由申候へは左
様ニハ無之候下々走候故我々の荷物のけ候所へ送届大方
又熊本へ罷帰候事
一、はじめハ米を急うり候へハ上使衆おそく候故又侍共兵
粮をかい申一日/\と待申候此事を兵粮をかい入候なと
ゝ申候一切左様にてハ無之候事
一、女子ハ一切出し不申候右如申少ハ退候ものも御座候
一、いかに武具・兵粮を売り候ても明日も城を持候為にハ
事かき不申候子細は城之武具沢山ニ候て其上兵粮も三万
石鉄炮・玉薬ハ五間十二三間の蔵五ツ御座候事
一、加様ニ候上ハ見わけ候事不知様ニ候へとも籠城仕まし
きわけおゝく御座候一ツハ大方年寄わきものニ存候もの
多ク御座候女子之置所なと才覚ニ我等家中ニ親類御座候
ものハ頼ニ越申候中/\手立にて無之候荷物是又慥成も
のを付方々へのけ申候其身ニかわらぬもの共を荷物に付
置他國ニ置申候一ツニハ肥後一國七十五万石と書付右ニ
上へあかりたる由ニ候知行高ハ九拾六万石ニ究申候故加
様ニ候てハ又肥後殿手前如何と只今昼夜共ニ國之帳ヲ仕
替候ヘとも古キ帳共見へ不申候而難儀仕夜を明シ新敷帳
を作り申候是ハ加藤平右ヱ門と申城を預り候て居申候も
の如此ニ候間弥城を持不候と存候一ツニハ下地すき不
申候ニ肥後父子命を御たすけ候て肥後方より年寄共を使ニ
仕自筆ニ而城渡候へと被申候上ハ何しに肥州父子を捨城
持可申事無之儀ニ候
一、万ニ一理もなく気違もの五人・十人籠城仕候而も三ノ
丸迄ハ普請の見事さ中/\御同座むき候とも俄ニハ可仕
様無之城にて御座候大坂之城の今少石かき高キ小石成石
垣と思召候て侍町惣かまへ町なとは中/\少之間も持
申事成事ニてハ無之候たとひ肥後居申候共三ノ丸之外ハ
持申ましく候三方ふけにて候へとも此日てりにて馬かけ
ニ成申候一方川にて候てりにて殊外あさくいつ方も陸
渡りニ成申候事
各位様
侍帳を充実させようと考え、現在家紋の確認を行っていますが、判断に苦しむものや紋帳にないもの、又名称が判らないものなどがあり苦労しています。
御家の家紋について、写真や正式な名称など情報をお寄せください。
メールフォームからご連絡いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
津々堂 敬白
メールフォームには添付が出来ないようです。
直接津々堂のメールアドレスにお願いいたします。 shinshindoh@gmail.com です。よろしくお願い致します。 4:30追記
寛永九年
一書申上候我々事伊与(予)之長浜ニ着津仕候嵯峨(佐賀)関ニ我等迎
之船著候ヘハ熊本城籠大手口地(自)焼仕之由申候実正ニ而御
座候ハゝ御上使御待受御儀定を御在所ニ而被聞召候事ハ如
何御座候ハん哉はや加様ニ色を立候上ハ夫ニ及申間敷かと
存候其元御談合被成肥後へ被成御出場御上使衆を被地ニ而
御待御下知を御請被成可然候ハん哉被成御分別貴公様於御
同意ニ者御出場之日限承合我々事も肥後へ可罷越と存候但
無御下知事ハ如何可有御座候哉御分別被成御細報報待候日
比御奉公達も立見者如何と存候我等罷居候処肥後堺と入くミ
候御上使衆無御著前ニ肥後へ一旦成共ふミ入候て罷在御上
使を彼地にて待受申度心中ニ御座候誠ニ可為御分別前候處
人かしましき書中御はつかしく奉存候へとも別而被懸御目候
間御心易奉存慮外かましき事御免可被成恐惶謹言
有馬左衛門佐 日向延岡藩(53,000石)初代藩主・有馬直純
六月廿日 御報
細川越中守様
人々御中
猶々御仕置初と申かやうニ慮外之躰を仕候間御あつか
いには被成間敷かと存候左候ハゝ肥後へ早ク御うち入
被成候事よきニ成可申かと存候右之様子若於同意者其
元より御出場被成候日限又肥後おもてへ御著被成候日限
相定り次第乍御六ヶ敷無御失念御飛札報待候已上
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右御返案
六月廿日之御状同廿二日ニ於小倉拝見仕候
一、熊本城籠大手自焼仕候由聞召候段早々被仰聞忝存候方
々へ不及談合候兼而加様之儀候ハゝ豊後口ニ懸付豊後衆
御供申能所ニ陣取時分ニ候間兵粮内へ取入させさる様ニ
仕上使を待付可申と内々存候故段々肥後ニ人を付置申候
十九日迄一切籠城なとの懸念も無御座候何も法躰仕荷物
・妻子ものけ武具を売申候中/\如御書中にてハ無御座
候間可被成其御心得候
一、町屋なとへ物取切々火を付辻切なと中/\やくたいハ
なきよしニ候其儀船中へ聞へたるものと存候事
一、何時も自焼なと仕程ニ候ハゝ人ニハ構無御座候我等者
豊後口へ懸付可申候間彼地へ罷出候ハゝ必飛脚可進之候
事
一、肥後状之来候迄ハ城ハ渡候様ニハ御座有間敷儀ニ候其
分にてハ罷成間敷候自焼仕候或ハ苅田なと取込候ハゝ何
時成ともかけ付可申候可被成其御心得候事
一、貴様ハ堺目ニ候間替儀候ハゝ豊後口へかけて豊前へ人
を可被下候事
一、黒田事御報ニ如申入候此外相替儀も無御座候肥後ニ者
数々人を付置日々様子承候猶御使者へ申入候恐惶謹言
六月廿二日 細越中
有左衛様
御報
尚/\貴様之御分別我等同前ニ而候中/\人にかまい
申わけ一切無之由此中度々御精被入候段稲丹後殿へ具
ニ御物語可申候已上
久しぶりに一龍斎貞水の講談「細川の茶碗屋敷」をEテレ(21:30~22:00)でみる。
どうやら明日早朝総合でもやるらしい。見落とした方は早起きしてどうぞ・・・・
日本の話芸 講談「細川の茶碗屋敷」
チャンネル:総合
放送日: 2012年4月28日(土) 放送時間:午前4:30~午前5:00(30分)
- 講談「細川の茶碗屋敷」一龍斎貞水▽正直者の屑屋・太助、ある日長屋に住む浪人・川村惣左衛門の娘お花から、古ぼけた仏像を買い取る。これをきっかけに騒動が巻き起こる
- 一龍斎貞水で、講談「細川の茶碗屋敷」をお送りする。【あらすじ】正直者のくず屋・太助は、ある日、長屋に住む浪人・川村惣左衛門の娘・お花から、古ぼけた仏像を買い取る。これをきっかけに騒動が巻き起こり…。
- 一龍斎貞水
上・加賀守とあるのは貫弘信のことか 下は不明 播磨屋さんのサイトによると、細川家に弓の師範として仕えたとある。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nuki_k.html
細川家家臣・貫角太郎家初代との関係は不明・・・・
態以次飛脚申候仍我等肥後へ参付而中津之者不残留守居之
外召連候へと被仰越候又銀子弐百貫目被借下候此内中津
より罷出候者にもかし候へと被仰越候其元相談之上よきほと
残シ借候ものゝ借状をそへ残銀子此方へ可越候御切手ハ跡
より可遣候又米四五千石可在之候被借下候由是又御切手被下
候跡より可遣候米之内ニ仕大豆かり申渡候間舟をハ此方より可
申付候へとも不残上方へ上候間運賃ハ此方より可遣候条先五
六百石ほと小倉へ廻可申候跡之米之儀者追而可申候謹言
六月十八日
尚/\三齋様より御文箱二ツハ蔵介・あら川より箱則此次
飛脚ニ遣申候已上
立允へ以別紙可申候へ共此通候間無其儀由可申候立允
事ハ何とも不被仰越候定而皆かたへの御書之内ニ可有
之と存候以上
賢齋
志水次兵衛殿
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寛永九年
六月六日之状同十八日上申候
一 方々より之状目録のことく請取申候
一 此度用とて銀子弐百貫目米四五千利なしニ被借下候
重々被付御心忝候由能々参候而御礼可申候
一 又左舟馬之事はや申付候事
一 丹後殿調馬之事はや申付候事
一 六無事候由心得候
一 上使衆之馳走不残はや埒明候事
一 肥後へ参候時之人数之用意不残仕廻候子共ともまて無
理ニ参候故壱万弐三千可存之と存候六文之返事可申候へ
とも様々用共候間此由可申候事
一 肥後之城ハ渡間敷わけ一ツも無之候間こしらへついゑ
にて候一ツも調ぬ儀無之候気遣仕ましく候謹言
六月十九日
松野織部殿
町 三右衛門殿
道家左近右ヱ門殿
永良長兵衛殿
態以飛脚申入候
一、御上使衆近々可為御着と察入候事
一、事之外日てりにて候間中國路舟はた一切水御座有間敷
候 人馬共ニ事之外成御人数にて候間先様中國路へ被仰付
ため水をくみため置候様ニ可然存候 我等共上下にさへ所
により冬も水きれ申候
一、御舟のりまへ之儀不及申候へ共只今者風も静ニ御座候
當年は年ふるく候条いつもより風早立可申候間御舟数一度
ニ御出舟候ハゝ大事之儀候間被成其御分別御相談尤候室
なと廣ミなとへ御座候へとも舟五百艘ならてハ懸り不申
候 其外ハ少完之舟懸りにて御座候
一、頭之御衆御揃候而御用之儀も御座候ハゝ被仰合舟数す
くなく御一所ニ御出船可被成儀と存候御供舟多ク候ハゝ
是又ミなと無御座候条気遣存候事
一、肥後之儀切々左右を承候 御諚次第城渡可申とて掃除
なと仕所々番をも引申由度々申来候加様ニ無御座候而不
叶儀候条申迄も無御座候
一、我等國之道筋大方ハ御用かけさる様ニはや申付候
得とも田舎之儀御座候条存儘ニ無御座候迷惑仕候隣國も
可為此分と存候事
一、右之段々不及申様ニ御座候へ共御事多候状結句加様之
儀ニハ御失念も可有御座与存手前之儀不憚如斯候恐惶謹
言
六月廿日
久因幡様
人々御中
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肥後之ものハ大方法躰仕専荷をのけ申由其上四方之番
も引申中/\楯籠之覚悟無御座候可被成其御心得候事
一、鷹之儀下々のハはなし申候肥後殿のハ定而年寄共参候
て左様之埒明可申由候 され共人を遣置申候只今鳥屋半に
も不成儀ニ候へともさのミ偽者御座有間敷候間いつれの
道にも随分調候様ニ仕せめての御慰ニ成候様ニと存候可
御心安候恐惶謹言
六月廿日
戸左門様
人々御中
豊後路は熊本城から北へまっすぐ伸びている。その途中に宇土小路・山鹿小路といった一角がある。
加藤清正が小西行長(宇土)、立花宗茂(柳川)等の家臣を受け入れ住まわせた所である。立花家は改易となった大名として、唯一復活した家として知られる。唯一というと今ひとつあって、立花道雪は娘である千代に其の跡目を継がせたのである。そして宗茂を婿として迎えた。
そんな中柳川・立花家は改易となる。先に記したごとく、家臣は加藤清正に託された。千代も同然であるが後に県北玉名の地に屋敷を構えた。
そして大名家として復活することを知らないまま、改易から二年後この地で亡くなった。長洲町腹赤に「ぼたもちさん」と称して親しまれている千代のお墓がある。
何故このような形になったのか、不思議の極みである。
http://www.muneshige.com/place/botamochi.html
千代像
細川家と立花家の関係は大変良好である。忠興の弟・興元の継室は立花宗茂の養女(妹・高橋紹運女)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
柳川小路に在った柳川衆にとっては、立花家の再興は天にも昇るような慶事であったろう。
今静かなたたずまいを見せるこの界隈に、あるとき大歓声が起こったことを知る人は少なかろう。
改易(慶長五年)から二十年を経た元和六年(1620)のことである。
ちなみに千代のお墓がある長洲町腹赤とは、熊襲退治の折に景行天皇に「腹赤(はらか)=にべ」を献上した場所とされる。
六月十七日辰之下刻之御状同十八日辰之刻ニ拝見仕候 御
報にて即刻不申入候
一、熊本之様子左様ニ可有之儀と存候事
一、黒田右衛門佐殿家中出入弥悪成下大膳屋敷を取巻候由
國境之もの共昨日・一昨日申越候へ共見申もの無之付而
先不申入候 去十六日ニ福岡を出馬喰共馬を引参候 取まか
れ候て屋敷にも人多ニ候と申候 双方より未手出シハ無之候
見申通申候間先如此候 色々之様子申候へ共それハ相申間
敷と存不申入候 弥事実にも候ハゝ重而可申入候事
一、昨日浅丹州より飛脚参候 水野日向頭も肥後へ御下之衆ニ
而候由申来候 其分ニ御座候哉 恐惶謹言
巳ノ下刻
六月十八日
森 伊豆様
本 庄三様
御報
参考:栗山大膳事件(黒田騒動)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E8%97%A9#.E9.BB.92.E7.94.B0.E9.A8.92.E5.8B.95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E5%B1%B1%E5%88%A9%E7%AB%A0