寛永五年の正月廿日、二月九日の記事に乃美主水と小篠次太夫との人の「出入」についての記述がある。
この場合の「出入」とは「でいり」であり争いごとをさす。
このことは忠利の耳にも達していたらしく、殊の顛末を知らせるようにとの御意である。
事は、乃美主水の下人が小篠次太夫の許へ奉公替えをすることに端を発している。乃美は快く了解をしたらしい。
しかし小篠の方からはこのことに付、特別の挨拶がない。この出入について扱いを一任されたのは、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門などである。
奉行からであろうか、坂崎道雲に尋ねたところ、三人の衆が小篠を同道して、乃美主水の許へ出かけてようとしたが、いろいろの理由で延引した。
しばらくして小篠小は乃美たくへ出かけてはいるが、この件に対する「礼」としての発言はしていない。「無言」という表現が面白い。
小篠はこれをもって、事は済んだと理解している。一方乃美方では「礼」としての発言があってないと理解している。
双方に食い違いが生じている。
その後2月9日の記事は、事が意外な方向に進展したことを記している。
小篠次太夫は奉公替えで受け入れた下人に「暇=いとま」をだし、宿(次太夫家の長屋か)を出るように促している。
ところがこの下人・小左衛門が切腹してしまったのである。
かっての主人と新しい主人の間で、自分のことで「出入」があり、それが原因と思われる「雇止め」が行われたのである。
小左衛門の心中は計り知れないが、死を選んだ。
事は役所に届けられ、忠利にも伝えられ「御構なき旨仰出され候」とあるから、当事者たちには何のお構いもなかったということである。
小篠次太夫は当時の奉行の一人である。一言の「礼の言葉}があって居れば、小左衛門も死を選ばずに済んだのかもしれない。
事は三年に及んでいるという。以下関係記事再掲する。
■寛永五年正月廿日・日帳
| (大脱) (成定) (元五)
忠利乃美景嘉ト小 |一、乃美主水・小篠次夫と人ノ出入あつかい被申候衆、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門、此三人
篠次大夫トノ人ノ | (成政) 清左衛門の養父
出入ヲ聞カシム | にて御座候由ニ付、落着之様子を、坂崎清左衛門を以、道雲ニたつね可申 御意ニ御座候間、則
| 清左衛門にたつね申候処ニ、道雲被申候ハ、あつかい調申候後、主水かたへ、あつかいノ衆次
| 大夫を同道仕候て、礼ニ参候筈ニ御座候処ニ、いろ/\と候て延引仕不参候、此儀ニ付而主水・
無言 | 次大夫無言にて御座候つれ共、あつかいノ後、久敷間御座候而、主水方へ次大夫礼とハ不申参
| 候へ共、主水ハ見廻と相心得、人出入済たる故ニ、次大夫礼ノ心得にて被参たるとハ、主水不存
| 様子ノ由、道雲被申候由、清左衛門被申也、
乃美小篠人ノ出入 |一、乃美主水・小篠次大夫人ノ出入之儀を、坂崎道雲あつかい人ノ内にて御座候ニ付而、其節之様子
ニツキ扱人坂崎道 | を道雲ニたつね可申旨 御意ニ付、道雲を御城へよひ候て、相たつね申候処ニ、道雲申様之
雲ノ口上 | 事、
■寛永五年二月九日・日帳
小篠ト乃美トノ人 |一、小谷忠二郎・熊谷九郎兵衛被申候ハ、小篠次太夫と乃美主水人之出入ニ付而、次太夫いとまを遣
ノ出入一件 | (小左衛門)
小左衛門暇ヲ出サ | 被申候もの、此中やとをもかへ候へと、申付候処ニ、日からあしき由申、今日、やとをかへ可申と
レ切腹 | 内々申候、然処ニ、今朝ほの/\あけニ切腹仕候、かの女房見付候て、こへをたて申ニ付、見付、
| (息)
| 忠二郎・九郎兵衛両人も参見申候、それ迄ハ少いき御座候へ共、そのまゝおち入申候、則式ア殿
| (友好)
ソノ後ノ処置 | へ参、此段申候へとも、御奉行衆へ可申通妃仰ニ付、如此之由被申候間、当番松井宇右衛門尉ニ
| 申、与之衆両人被仰付、かの切腹仕候者書置なとも可有之候間、左様之儀、其外妃相改候ハヽ、
| 其上を以、立 御耳可申候間、御与之衆被仰付候ヘと、申渡し候事、
|一、稲葉民ア殿へ之御返書出申候間、御与之衆被仰付候へと、申渡候事、
乃美ト小篠人ノ出 |一、乃美主水・小篠次太夫人ノ出入在之小左衛門と申もの、今朝未明ニ切腹仕ニ付、其段書付を以申
入一件 小左衛 | 上候処、無御構旨被仰出候事、則書付ハ得 御諚相済との袋ニ入置候也、
門切腹構ナシ |
得御諚相済トノ袋 |