20年ばかりどっぽりと熊本の歴史を勉強する中で、どうしても判らない三つの疑問がある。
年代順に並べると次のようになる。
1、「茶臼山ト隈本之図」における、四木社・神田原の位置。
2、熊本城二様の石垣(細川時代と言われる)の上に加藤時代に作られた本丸御殿がある事。
3、森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」にある「一木三銘の香木」及び「横田清兵衛殺害の年次」の間違い
それぞれいろんな本や資料を読んでの私なりの結論は次の通りである。
1、書き込まれた場所の間違い
・出田氏の千葉城以前の状況を描いたと思われるこの茶臼山の状況では、白川の流れはこのようなもので
あったらしい。清正の熊本城築城の時期までの140~150年の間に白川は大蛇行したという事になる。
四木社があった場所は、現在の花畑公園だとされ四本の木の一本がここに現存する。
つまり、四木社や神田原は坪井川と白川の間に位置しており、大蛇行は四木社周辺を迂回して坪井川に
合流し、竹之丸-桜馬場-隈本城(古城)の南面・現第一高校グランド部分を河岸としていたと考える。
2、本丸御殿の完成に合わせて加藤時代までに継ぎ足された
・熊本城超絶再現記の著者で、熊本城ジオラマを作成された島充氏もこの疑問に触れられており、原因と
して四つ考えられるとされている。
本丸御殿が加藤期に作られ、石垣が細川時代に継ぎ足されたとするならば、本丸御殿の一部は宙に浮い
ていたことになる。そしてこの状態で石垣を積み足すことが可能であろうか?否としか言いようがない。
本丸御殿から二様の石垣の隅部に在った三階櫓までは細川時代のものか。
3、「一木三銘」森鴎外が著作の為にベースとした「翁草」の間違い。
「横田清兵衛殺害年次」事件が起きたとする寛永三年は間違い。寛永五年当時、清兵衛生存を伺わせる資料の発見
・一木三銘又は四銘については、種々の説が巷間流布されている。お香の団体などでも森鴎外の「興津弥五右衛
の遺書」による記述に準じているが、これは「翁草」の引用であるから鴎外に罪はない。ただし翁草に於いて
は松平不昧家に存在するお香については、虚説としているが、本当は存在しているようだ。
横田清兵衛殺害事件については、寛永五年以降の生存が伺える資料を、「福岡県史・近世史料‐細川小倉藩」か
ら発見した。
歴史小説の大家・鴎外の小説がもたらす影響は、ここに記されていることを真実として語っていると思わせる
が、私たちは小説は虚構のものであることを理解しておかなければならない。
今後もこれら三件の疑問については、種々の史料を読み込んで調べていきたいと思うが、現況に於いての中間報告としておきたい。