皆様にはこの一年間、当サイトをご覧いただき厚くお礼申し上げます。
何とか元気に大晦日を迎えることが出来ましたことを嬉しく思います。
来る年も又ご覧いただきます様お願い申し上げます。
(午年を六廻り致しました)
ありがとうございました。 津々堂 敬白
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何とか元気に大晦日を迎えることが出来ましたことを嬉しく思います。
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ありがとうございました。 津々堂 敬白
道中四日目
九月十八日 雨昼頃より晴
一、御定刻御供揃ニ而府中御出立被遊候
一、熊城川無御滞御渡川被遊候 久留米様より御役人来ル 雇船会所取計之事
一、古賀之茶屋御小休茶代棒頭取計
一、松崎御茶屋御小休茶代壱両被下候也
一、乙熊 御野立
一、山家脇本陣御昼休ニ付銀弐両被下候
一、冷水(ヒヤミズ)峠御歩被遊峠御茶屋御小休茶代棒頭取計
一、右同所ゟ御歩行ニ而内野脇本陣御小休茶代右同断
一、内野ゟ又々御歩行被遊テントウ御小休茶代右同断
一、テントウゟ御駕江被為召候也
一、飯塚江夜五ツ半時御着座被遊候
一、筑前様御国境より御先拂足軽両人出ル 用心駕等御跡より附来候也
一、飯塚御着之上松平備前守様御代官加藤助左衛門罷出当所御通行ニ付御機嫌相伺御用等も御座候はゝ 可被仰付旨兼而申付置候ニ付罷出申候由
拙者罷出程能及挨拶候 江戸ニ而御挨拶御座敷ニ付御徒士使等無之候也
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昨晩から降り出した雨はお昼頃にはあがったようだ。
柳川を出立、古賀之茶屋・松崎御茶屋・乙熊・山家脇本陣・冷水峠御茶屋・テントウ御茶屋をへて飯塚に至る行程である。
昼からお天気になったせいか、または陸尺をおもんばかってか立政は難所と言われる冷水峠を歩いている。二十歳の若い藩主ならではのことであろう。
古賀之茶屋はいかにも九州らしく「こがんちゃや」と読む。「の」を「ん」と読むのが九州流である。福岡県久留米市宮ノ陣町八丁島に西日本鉄道甘木線の古賀茶屋駅がある。
松崎之茶屋は福岡県小郡市にある松崎藩(久留米藩)有馬家1万石の陣屋町にその姿を残している。
http://www.ichiro-ichie.com/08nkyushu/fukuoka/matsuzaki/matsuzaki01.html
乙熊は同じく小郡市に乙隈(おとぐま)である。御野立というからちょっとした広場で休んだということだろう。ちなみに御茶屋というバス停もあるという。
山家(やまえ)脇本陣は福岡県筑紫野市山家の宿場町にあった。(地図参照)代官所の前に御茶屋とある。
冷水越え 山家宿から内野宿の間にある約10キロに及ぶ難所である。
http://www.kankou-iizuka.jp/homepage/?id=200
http://www.koga-fko.ed.jp/ao-syo/page-hiyamizutouge.html
内野宿 http://www.nagasakikaido-uchinoshuku.jp/
テントウとあるのは飯塚市の天道である。JR九州筑豊本線に天道駅がある。
飯塚御茶屋については次回。
東海大学教育研究所の馬場弘臣先生(第一研究所・准教授)から御恵贈給わった。深く感謝申し上げる。
これは東海大学付属図書館が所蔵する史料を翻刻した史料叢書である。全242頁に及ぶ大部である。
著者は定かではないとされるが伊勢在住の人物ではなかろうかと推測されている。嘉永六年から慶應四年までに及ぶ、まさに風聞を余すところなく(?)記録されている。書出しは嘉永六年の異国船の来航にかかわる記事であるが、風聞とは思えぬ濃い内容に驚かされる。
わが熊本藩についても名前書きされており、大変興味深い。御正月を通してじっくり精読しようと思っている。
昨晩は少々よだほりをして寝るのが遅くなり、今朝の起床は7時、あわてて朝の散歩に出る。
明日は大みそか、今年の散歩は今日までにしようかなどと考えながら歩を進める。
空はどんよりとしていてお日様のお出ましの気配がない。下南部(しもなべ)ン急坂にかかると今日は随分と車が少ないのに気付いた。
仕事おさめで出勤する人がへったせいだろう。こんなにも違うのかと改めて驚かされる。
ペットボトルと空き缶を一つづつひろっていつもの一日一善。立ち並ぶ六七軒のディラーさんも今日が仕事納めか・・・・
落ち葉が走り回っていた道端も、すっかり清掃車により掃除がすんで新年を迎える準備万端といった感じ。
血圧対策で始めた散歩も5か月を過ぎた。冬に入って寒さのせいで血圧は乱高下がひどい。体重も減る気配はなくこちらは少々食事の量に気を付けなければならない。しかし最近はベジタリアンになって、生野菜はドレッシングなどかけづに食べるのが習慣づけられて、これはおおきな収穫だった。
帰り着いてしばらくするとお日様が顔を出した。阿蘇の噴火のせいではなかろうが、なんだか空がどんよりとしている。
そう・・・阿蘇の噴火はまだ収まっていないんですよ・・・
ブログも今日で書き納めにしようと思っていますが、さてなにをもって最後としましょうか??
道中三日目
九月十七日 晴、昼過より曇ル 八ツ半時頃より雨
一、御定刻御供揃ニ而南ノ関御出立被遊候
一、御発駕前御関所御届河嶋市左衛門毎之通相勤候也
一、原町御小休松尾伊兵衛宅茶代銀壱両被下候
一、柳川様御領内御先拂足軽両人在小頭出ル
一、瀬高川無御滞御渡川被遊候 柳川様より川方御役人被差出候 拙者及挨拶候 仮橋も有之候也
一、瀬高御茶屋御昼休ニ付南鐐一片被下候也
一、羽犬塚御小休脇本陣中尾宅銀壱両被下候也
一、アイコウ御野立
一、府中御茶屋江夕七ツ半時過御 着座被遊候
一、右同所御茶屋守より初而御泊被仰付候由ニ而、樹木之柿栗差上無余儀御受ニ相成御銀壱両被下候
道中三日目、一行は南ノ関御茶屋を出立し隣藩・柳川領に入る。
当時の柳川藩主は九代・鑑賢(あきかた)公〈従四位下、左近将監〉である。
原町・瀬高御茶屋・羽犬塚・アイコウなどで小休・野立などをしながら、七ツ半に府中の御茶屋に到着している。約11時間の行程である。
薩摩街道を行く http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage86.htm
豊前街道|街道歩きの旅 http://kaidoaruki.com/area_kyusyu/buzen/buzen01.html
みやま市歴史資料館 http://www.library.miyama.fukuoka.jp/rekishi.html
瀬高の御茶屋
血圧高め爺は朝の散歩のお蔭か左手のしびれをあまり感じなくなった。
ところが最近は右手がよろしくない。右肩から二の腕、手・指にかけて痛みが慢性的になってきた。
原因はよくわかっている。PCのタイピングのせいである。2003年8月からのことだからもう11年と4ヶ月程になるから、職業病ならぬ道楽病で自業自得ということになる。
これが何とも痛くて腕をかかえたくなる始末で、揉んでみたり叩いてみたりと難儀なことである。
奥方に言うとPCのやりすぎと、怒られるに決まっているからただただ我慢するしかない。それに止めるわけにもいかぬのである。
ヤフオクであちこちから古本を仕入れている。これとて奥方にばれぬように郵便ポストをチェックする必要がある。
仕入れたのはよいがあまり趣味ではない本は処分して、新たに仕入れる本のために本箱のスペースを確保するのも一仕事である。
デスクの周りには史料そのほかが山になっており、年末くらいは少しきれいにしようかと思い一つ一つ眺めていると、行方不明になっていたものがひょっこり顔をだし読み入ってしまう。
床に座り込み、腕をさすりながらの作業はなんとも爺くさい有様だが、本や貴重な資料たちにも新しい年の装いをさせてあげようと思うが故である。
掃除機をかけてほこりが舞う中、窓をあけると冷たい風がこたえる。新しい年を迎えるという作業も段々難儀に思えるようになってきた。
道中二日目である。
九月十六日 晴
一、御定刻御供揃ニ而植木御茶屋御出立被遊候
一、廣尾御小休 御野立
一、山鹿川仮橋有之候也
一、山鹿御茶屋御昼休ニ付銀弐両被下候 御台所より薪・醤油等迄差出候ニ付 津嶋忠右衛門より願ニ付銀壱両被下 都合弐両(ママ)被下候也
一、岩村法行寺御小休銀壱両被下候
一、肥猪瀬口平左衛門宅江御小休茶代銀壱両被下候
一、南ノ関御茶屋江夕七ツ半時頃御着座被遊候
一、右同所御茶屋番河野七郎右衛門ゟ小鯛五ツ・大和柿一籠差上候ニ付金百疋被下候 指上物次第増減有之候
一、右同所御口屋番為伺御機嫌罷出候ニ付 御挨拶御徒士使差出ス 御口上書持参之事
右御使相済候上ニ而無程為御礼書状差越候 慥ニ受取申候由申聞使返ス
このあたりに記述については、私は地名など知らないところが多くググってみてもよくわからない場所がある。
例えば廣尾とか岩村法行寺などである。ご存知の方はご教示いただきたい。
山鹿川は現在では菊池川、この時期は仮設ながら橋が架けられていたのは、一向にとっては有り難いことであったろう。
山鹿御茶屋は忠利公以来湯治の場所として知られるところである。西山(足利)道鑑や宮本武蔵などと共に訪れたりしている。
肥猪は「こえい」と読む。すでに現在の行政区では南関町に入っている。そして南ノ関御茶屋に入り肥後領内での最後の宿泊をする。
南関の御茶屋 https://www.youtube.com/watch?v=lcxpKzP4GSA
豊前街道を行く・熊本編 http://www.geocities.jp/bicdenki/buzenkaidou.htm
一、御花畑江前以下地懸合ニ相成御出被遊候 御熨斗迄被差出一寸御對面被遊候由ニ而無程御立被遊候
一、出町口荒木和三郎宅江御小休被遊候 此所ニ而朝鮮飴差出置候ニ付直ニ御持せニ相成候 御供中江も不残平香物ニ而湯漬差出候得共何れも相断併三四膳は手ヲ掛御六尺江も
差出候由 迎町出町御小休ニ而被下之儀者宇土御用人中江申遣候 右御挨拶宇土より取計
一、三まけ御小休 宮ノ内御野立
一、植木御茶屋江七ツ半時過御着座被遊候
一、御家老衆拙者 御前江罷出恐悦申上候 御供中席々より之恐悦拙者相束御家老衆迄申上候也
一、宇土御家老中御用人中ゟ以飛札伺御機嫌申来則申上ニ相成返事書入ニ而相済候 右飛脚明朝御発駕奉見上罷帰候筈也
一、御茶屋番より御肴鰡(ぼら)二ツ 玉子一籠 山芋差上候ニ付金五百疋被下候
一行は迎町から長六橋を渡って御城下へ入り、あの阿部一族の屋敷(現RKK社屋)前から御城を望む一本道を花畑邸へ歩を進めた。
この時期熊本藩主・細川齊護は幸いにも在国しており、立政は挨拶のために花畑邸に立ち寄っている。
その後どこを通ったのか・・・下馬橋から南坂(現・行幸坂)を登り、南門から城内に入って北門から出て京町口へ出たのではなかろうか。
出町口の荒木氏は高名な商家である。朝鮮飴が出されたというのも面白い。六尺(陸尺)とは御駕衆のことである。
三まけとあるのは「御馬下の御茶屋」のことである。徳川家茂に嫁した薩摩の篤姫も江戸に上る途中ここで休んでいる。
現在も往時の姿をとどめる貴重な建物である。
植木御茶屋は植木町味取にあったとされる。七ツ半(午後五時)に到着して一泊である。
残念ながら私はその詳細を知らないが今後の課題としたい。
史料に出てくる様々な系図などを見てきたつもりだが、「ざるに水」の例えのとおり随分と洩れ落ちている。
沼田家は幽齋の室・麝香の実家であるが、系図を見ると三代延行の嫡男に延武という人物がみえる。熊本における沼田家の四代は延武の弟で二男の延将が継いでいるのだが、どういう訳であったのか気になっていた。最近花岡興輝先生の「主要系図」を眺めていたら、延武について次のような書き込みに気付いた。
「延武 十五郎 三左衛門 正保四年正月、母方の祖父の通称三左衛門尉と名替。母は杉原三左衛門正則女。正則は秀吉之妃高台院殿甥。若州佐梯城主、領地七千石、領地二千石、与力十六騎」
この解説からすると沼田家三代延行の室が、秀吉の室・高台院の甥・杉原三左衛門正則女ということになる。
高台院の甥といえば、木下勝俊(長男)、利房(次男)、延俊(三男)、俊定(四男)、延貞、秀規、小早川秀秋、周南紹叔等が知られているが、正則とは何方であろうか。御存じの方はご教示をいただきたい。
いずれにしろ沼田家が杉原氏とつながっていたことは驚きであった。今後の課題がまた一つ増えた。
小林正信先生から前回の御恵贈に引き続き、御著「織田・徳川同盟と王権--明智光秀の乱をめぐって--」と、関連する研究史料を御恵贈給わった。
この本はすでに絶版となっており、ほとんど手に入れることが難しい状態であるようだ。
一介の市井の歴史狂いの爺にかくもの御好意をもってお送りいただいたことに、ただただ恐れ入ると共に深く感謝申し上げる。
明智光秀を考えるとき、安国寺蔵の「土岐系図」の内容が示唆する情報や、沼田氏女系一族の進士氏の存在などささやかながら先生の今後のご研究にいくらかの糧となれば幸いである。
信長研究の最前線 (歴史新書y 49) | |
洋泉社 |
一般の歴史愛好家と専門の研究者の間で、織田信長像の差はどんどん大きくなっているという。
これまで信長の魅力は、破天荒さと革新性と言われてきた。天皇や朝廷などの伝統的権威を否定し、長篠の戦いでは火縄銃の三段撃ちで武田騎馬隊を撃破、「楽市楽座令」など画期的な政策で経済活性化――。ところが、これらはいずれも、否定されたり、疑問を呈されたり、信長独自のものでないことが指摘されたりしている。
本書では14人の研究者が、足利義昭との関係、武田氏と戦った理由、本能寺の変の原因、経済政策などのテーマで、信長研究の現状を報告する。決して超人でなかった信長がなぜ、天下人と呼ばれるまでになったかが問われていることがよくわかる。(洋泉社歴史新書y、950円)
川尻街道(薩摩街道)は白川にかかる唯一の橋・長六橋から御府内に入る。
その前に参勤の一行は、この橋のすぐ手前・迎町の松田敬次郎なる人物の宅で小休している。
一、迎町口枩田敬次郎宅江御小休被遊候 定例之通テ(干)菓子御吸物御酒一汁五菜之御膳差上御供中不残吸物一汁香物三菜ニ而湯漬差出惣供江は御酒差出候
此所江小堀普順罷出候
のちに記載が出てくるが、この日のうちに一行は植木の御茶屋まで進むことになる(七ツ半=17時)から、松田宅の小休は遅い朝食といったところか。
松田なる人物は宇土藩士には見えず、また本藩にも存在しないので確認できない。
御目見に罷り出た小堀普順は本藩家臣の茶頭で迎町のやや東・本庄に屋敷があり、現在でもここにご子孫が住んでおられる。
御当主小堀富夫氏は熊本放送名誉会長で熊本県文化協会会長である。茶道肥後古流小堀流家元である。
一、主殿殿より御附御使者是迄被指出候 御立之節御通筋江罷出御直答被遊候
+---細川重賢------治年====齊茲-----齊樹====齊護・・・・・・・・・・・・・→細川本家
| ∥
+---清源院 埴
∥
+---細川興里
| ↑
+---細川興文---+--埴 ↑ ↑
| 齊茲 齊護
+--------立禮---立之---+---立政
| |
| +---之壽(行芬)・・・・・・・→宇土細川家
|
+--------興誠---主殿(興秀)
ここ数日朝の散歩以外に外出しないでいると、ジングルベルも聞こえてこないし、町の喧騒など味わうこともなく師走気分も現実的ではなかった。
さすがに今日あたりになると、奥方がバタバタしている。私も遅まきながら年賀状の準備など始めると、流石にあと数日でこの年も終わりであることを実感している。わが干支・午年もおわり、後期高齢者などという嫌な言葉まではあと一年の余裕があるが、来年1月半ばに誕生日を迎え又齢を重ねることになる。
ああしたい、こうしたいが為されぬまま、ただただ反省の師走である。
義理を欠いて又ひととせや 師走かな 津々