津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

本源院さま供養の観音像

2011-08-31 11:11:58 | 徒然

 先に芦屋在住のTさまから、細川綱利公正室本源院を供養するために侍女達の髪が納められた観音様の像が発見されたことをご教示いただいた。
どんなものだろうと思い、いろいろぐぐっていたら新聞記事を発見・・・・ 
         http://www.tobuyomiuri.co.jp/area/yashio/110530kannon.2.html

 本源院の結婚に伴い徳川家から附いてきた幾人かの侍女たちが、その死去に伴い髪を下ろしたのであろうか・・・いずれにしても奇特なことではある。詳細が判明することを願っているのだが・・・

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史料所在 「熊本藩の天草・島原一揆への対応史料」

2011-08-30 10:32:26 | 歴史

 熊本藩の天草・島原一揆への対応史料

これは圭室文雄氏が手に入れられた史料であり、「大日本近世史料-細川家史料」や「熊本県史料」等にも重複しない貴重な史料である。明治大学学術成果リポジトリで公開されている。

 「その一」 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/8884/1/kyouyoronshu_215_81.pdf

 「その二」 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/9031/1/kyouyoronshu_229_207.pdf

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十)来年御参勤御供調九月中被仰付候式

2011-08-30 08:43:19 | 有吉家文書

一御小姓頭弐人一人ハ御中小姓頭之事もあり御奉行
  一人御用人二人御目附一人御勘定役
  壱人被仰付候事
     但御勘定役ハ本行一同ニ被仰付候
     節ハ同席執筆ニ候へとも別ニ奉伺
     候節ハ御奉行執筆ニて候事
一右御供しらへ被仰付候名前半切
  自筆ニ相認奉伺候事
一前日呼出及達候事
一口之間中ノ間也御目附繰出ニて申渡候
  尤御目附列座無之候事
一右申渡相済候得ハ御小姓頭付根取
  御参勤之御供調御用相済候様
  達可仕哉之書付御小姓頭より相伺
  候之間存寄無之旨直ニ及差図候
  事
一御小姓組之内二人御参勤之御供帳
  役相勤候様達可仕哉之段御小姓頭
  より追而相伺候間右同断
     但右者一人ハ御供点前一人ハ
     御留守残之人之由候事
一御近習御目附一人御参勤之節之
  御用しらへ輪番之人如例達可仕段従
  御用人追而以書附相窺候間右同断
     但御次軽輩御供被仰付候名前
     覚書御用番江相達存寄無之旨
     差図之上右書附御用人より御奉行江
     達来候得共以来者口達迄ニて書付ハ
     直ニ御奉行江可相達旨文化十二年
     九月志水隼太より口達有之候事

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有吉家文書「年中行事抜粋」(三十九)御放鷹等御供之式

2011-08-29 13:45:35 | 有吉家文書

一御用人より訪問又ハ口之間ニ而申達候得ハ
  御受申上別段中柱御間江罷出御礼申上
  候ニハ不及候事
    但宅江申来候節ハ返書ニ御請申向
    格別不及出仕候事
一御供之御小姓頭御用人御歩頭江諸事
  之儀前日又ハ即朝ニも相頼候事
    但御歩頭江者供之駆引且不都合ニ
    無之様ニとの儀も頼置候事
一御鷹等被仰付候御模様ニも有之節ハ
  鷹かけ其外諸手都合之儀御鷹懸
  之御取次江相頼候事
    但鷹所持之面々者御用人御取次江
    懸合居へ越候儀茂有之候事
一御刻限より一時前程罷出候事
    但被仰付候御程次第御次口より
    御用人間江罷出候儀も有之候
    御出向江直ニ罷り越候儀も有之候間
    前以御用人江懸合可申事
一御出向江御待受申上候節ハ供中ハ
  御目通ニて無之所江除置尤刀持并
  草履取者御目通遠差置不苦候
  勿論横身ニ敬之刀ハ伏サセ候事
一御出前御次江罷出候節ハ御用人間へ罷
  出居御供廻り之節御用人一同御次より下
  御庭江廻候儀も有之候事
    但御鑓之間より候節ハ供之控所又ハ
    路物ハ御次小姓江申聞候得者致世話
    候事
一御庭江廻り候而ハ陽春御間御椽先キ
  御用人之脇江控居候 多ハ御椽先御鷹部屋之前也事
一夫より御途中御側ニ被召連候節ハ
  御十文字之内ニハ家来一両人草履取者
  差置候其外ハ惣供之方江下り候尤此
  家来之儀ハ御歩頭江懸合置候事
    但総供之立場ハ小姓頭心得居候間
    略之事
一供之儀者御歩頭御案内役等并歩
  御使番江小姓頭出会次第諸事
  心を添ラレ候様相頼候事
一御庭江罷出夫より御跡江下り候節ハ
  御庭内ハ御側ニ附参御門外より下候而
  総御供巻を離御跡より罷越候又ハ
  御十文字ニ附候様被仰付候節ハ
  見計側役等召連其外之供之者ハ
  小姓頭引廻し是又惣御供巻より
  離レ見合罷越候事
    但右御供之儀臨時ニ被
    仰付候節ハ供呼寄候儀モ急ニ
    出来兼候付供之者兼而其
    心得之儀可申聞置事
一御鷹等被仰付御昼前後之内ニも
  暫御側を離少シ御通抜ニ相成
  候得者見計側役等を呼寄候此時ハ
  御小姓役一人御鷹匠一人ハ被差添
  候之事
一御側ニて臨時御鷹等被仰付候節ハ
  家来ハ離召連尤其時之見計茂
  可有之候事
一水前寺御茶屋江被為入候節ハ
  御前ニ而頂戴物被仰付候儀茂
  有之其節ハ御前を下り直に
  御用人江御禮申上候事
    但其外御昼休ニても被召上候御
    残等頂戴之節ハ是以右同之事
一御帰殿之節ハ御供被仰付候へ者
  直ニ御用人間江罷出御礼申上
  致帰宅候又御側を離候節ハ
  御帰殿後御次より罷出右同
  断之事
一御側を離候而者獲有之候得ハ御昼
  之節御用人御取次之内を以差上
  御昼後之時分者御帰殿之上
  右同断之事
    但獲拝領被仰付候ヘハ御用人より
    其段申聞候間直ニ御礼申上候帰
    宅之上ニて候得者御用人より紙面
    を以差越候付返書ニ御禮申上出仕ニ
    不及翌日伺御機嫌候節猶
    御礼申上候事
  被差添候御小姓役江者時宜ニ応し
  翌日為会尺家来差越候事
一供中股引半切ニて候而ハ
  上之御供ニ紛レ候由御小姓頭より
  内意之趣茂有之候處八代家来ハ
  先年様子茂有之白之三尺手拭
  相用候付両家其外茂弥以右同様ニ
  申談以来白之三尺手拭又ハ端折
  にも可致と申談候事
    但本行之趣文化十一年十二月八日
    嘉津次より佐田造酒助江申達置
    候事
  右者極りと申ニてハ近々同席中
  御供之節之儀致勘考記置候事ニ而
  猶其節之模様ニ可応事
一御小姓頭御用人江者以前弁当等
  振舞候得共文化九年申談差止其
  段者両御役江茂相断置候事
    但世話いたし候歩御使番江も右
    同断
一御方向違ニ被差添候御小姓役御鷹
  匠江者至而手軽く弁当振廻元
  気付ハ臨時見計之事 

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御恵贈御礼・日本エッセイストクラブ編 ’11年度ベストエッセイ集

2011-08-28 16:24:14 | 旦夕覺書

 畏友近藤健氏から’11年度ベストエッセイ集をお贈りいただいた。今年で29年目となるこのエッセイ集に、市井のエッセイストとして今回五度目の掲載となる快挙を達成された。

                               

 氏は赤穂義士・堀部弥兵衛の切腹の折介錯役を勤めた米良市右衛門のご子孫である。時代が下って米良亀雄なる人物が神風連の挙に参加、以降ご子孫は北海道に屯田兵として入植された。当然氏も北海道のご出身だが、大学時代を京都で過ごされ、就職されて以来ずっと東京にお住まいだった。今年初めに北海道に転勤された。ひょんな事でお付き合いが始まり、ご厚誼いただいている。そんな中でこの権威あるベストエッセイ集に五回も登場されたのだが、どの作品も氏の人柄があふれた温かみ溢れる佳作ばかりである。出版業界も荒波の中にあるらしく、残念ながらこの本も今回がお仕舞になるらしいが残念の極みではある。

  • 05年ベストエッセイ集・掲載・・「警視総監賞」
  • 06年ベストエッセイ集・掲載・・「昆布干しの夏」
  • 08年ベストエッセイ集・掲載・・「介錯人の末裔」
  • 09年ベストエッセイ集・掲載・・「増穂の小貝」
    ・ 11年ベストエッセイ集・掲載・・「風船の女の子」     
  • 私のサイトでも「 Coffee Break Essay 」 でご紹介している。
    ご一読をお勧めする。

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    御合力米と御切米 (三)

    2011-08-27 09:04:25 | 歴史

    御奉行所取遣                    慶應三年より

    堀部常彦別禄被召出御切米被下置旨委細内意之趣令承知候 然處根元御合力米御切米名義は士席軽輩之差別ニ而ハ無之子孫ニ被及被下置候を御合力米其身一代限被下置候を御切米と申其差別之名ニ而候 一家を立御米を子孫ニ被及候處より御合力米ニ而候得は御渡方旧来之御格も有之処其身一代被下置候分御合力米ニ而被下置御切米も被下置區々相成居候ニ付以来御切米ニ而被下置候方ニ此節一定之僉議相決機密間より及返答候通候間左様相心得右之趣可被申聞候依而別紙者令返却候事
         四月六日 右者御裏方御用人より書付達有之候付本文之通書取を以御用人江
                 被相渡候尤御用人之書付者此頭マ拾枚前ニ扣有之候付略記

    御奉行所取遣                   慶應三年より
    此書■於御花畑御用人江奥より御渡
    堀部常彦儀別禄御中小姓被召出御切米被下置候ニ付而委細内意之通ニ候處御合力米御切米と申は子孫ニ被及候と其身一代限被下沖候差別有之候處是迄御知行取之嫡子養子別禄ニ被召出候節御強力米も被下置御切米も被下置區チニ相成居候ハ例より例ニ亘全研究届兼候儀と相見其身一代限被下置候を御合力米ニ而被下置候儀は當り兼候付御切米に而候方ニ相究候 右御合力米之儀は御知行跡御中小姓ニ被下置且御知行被召上御扶持方迄被下置候御中小姓御役附被仰付候節は先御足給被下置追而御合力米ニ被直下候得は引継又ハ世減を以夫々跡目江被下置又軽輩より御取立御擬作被下置候跡御合力米弐拾石被下置其跡ハ御切米拾石四口歩御使番列被仰付候御格ニ而其身軽輩より御中小姓被仰付候ハ一代限之訳ニ而都而御切米を被下置跡目には及不申候 且又御馬役等御蔵米取之嫡子養子別禄は惣而御切米被下置右躰之人親跡御中小姓被召出候節は御合力米を被下置其跡も御切米拾石四口被下置候 右段々之次第ニ而御切米と申は強テ軽輩ニ被下候銘義ニ而ハ無之一代限被下置候銘義燦然たる事ニて嫡子養子ニ別禄被下候は其身一代ニも不及家督之節ハ父江被下置候御知行を被下置其身へ被下置候御扶持且御擬作をも被召上候見合ニ而子孫ニ被及候禄ニ無之候得は御切米ニ而被下候義當前之筋ニ付き此節前文之通■定之上ハ常彦ニ限御合力米被下置候儀は難叶候事

    御切米方書抜
          覚
    一御合力米御足給取之面々渡方は旅江も被召仕候得は御借米ハ不被渡下持前高ニ應し足御合
      力共弐拾石分被渡下候事
    一御合力米御足給米一ケ年之内半途ニ右被下置候而も月引なし十二月廿九日晦日ニ而も其暮 
      より全被渡下候事
    一御切米取ハ旅ニ被召仕候御役は其御役付而高拾石分差引平本給之高ニ春秋之差別を以御借
      米を加被渡下候事
    一御切米取一ケ年之内半途ニ被下置候面々は三月迄被召出候人は其暮御切米全被渡下四月  
      已後被下置候人ハ其月より月引を以被渡候事

      右之通地旅共被渡下候儀ハ御旧格と而右御合力御足給御切米其取分を以被渡下候
      其訳筋は御切米方ニ而相分不申事

        (慶應三)  四月                          御切米方

                              (了)

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    御合力米と御切米 (二)

    2011-08-26 08:34:23 | 歴史

        御次より差出候例書

                                  弥左衛門養子
                                      志方逸次
    安永三年十月十六日
        御雇ニ而御近習被召仕居候処御合力米拾石五人扶持被下置
        御中小姓之御小姓役被仰付候

                                  十左衛門嫡子
                                      井上新之允
    寛政六年七月廿三日
        御中小姓之御小姓役被仰付御合力米弐拾石五人扶持被下置候

                                  傳之允二男
                                      嶋田 尹
    文政五年八月十三日
        御雇ニ而濱町様御近習被仰付置多年心懸厚出精相勤候付
        御別段を以御中小姓被召出御合力米弐拾五石人扶持被下
        置濱町御小姓役被仰付候

                                  源吾弟
                                      松岡萬喜
    文化八年十二月廿七日
        御中小姓被仰付御合力米弐拾五石五人扶持被下置濱町
        御小姓役被仰付候

                                  勘吾二男
                                      今井熊八
    文政五年八月十三日
        御雇ニ而御近習被仰付置候處格別心懸厚出精相勤候ニ付
        御別段を以御中小姓被召出御合力米弐拾石五人扶持被下
        置濱町御小姓役被仰付候

                                  三左衛門二男
                                      田代 弼
    文化十一年二月六日
        御伽被召仕候以来多年心懸能出精相勤候ニ付御合力米貮拾石
        五人扶持被下置御中小姓之御小姓役被召出候

     

        機密間書抜之例   

                                  御知行取
                                    儀助嫡子
                                      辛嶋才蔵
    天明六年八月
        御切米拾五石五人扶持被下置御中小姓被召出訓導被仰付候事 

                                  御蔵米取
                                    多十郎嫡子
                                      大城準太
    文政十二年五月
        右同断    (上記辛嶋才蔵と同じであるということ)

                                  御知行取
                                    平右衛門嫡子
                                    游師役
                                      小堀清右衛門
    嘉永三年七月
        右御合力米拾五石三人扶持被下置御中小姓被召候事

                                  御知行取
                                    兵助嫡子
                                      小野呈太
    天保十年七月
        右御中小姓被召出小物成方根取本役被仰付御切米拾石五人
        扶持被下置御足給五石被下置候事

                                  御擬作取
                                    嘉十郎嫡子
                                      内藤清作
    嘉永六年九月
        右御中小姓被召出若殿様御次物書所根取本役仰付御切米
        拾五石五人扶持被下置御足給五石被下置候事

                                  御擬作取
                                    長右衛門名跡相續之二男
                                      倉重五左衛門
    嘉永五年七月
        右御中小姓被召出御切米拾石五人扶持被下置櫨方根取本役
        被仰付御足給五石被下置候事

    一御馬方御馬医御蔵米取之嫡子養子別禄被召出候節惣而御切米被下置候事
      右之外ニも吟味仕候ハヽ別禄被召出之人も可有之先書之通御座候事

     二月十七日
      右之通奥御奉行被存寄無之候付問合之方へ及返答候事
    一二男抔別禄之身分実子無之候ニ付養子願者相済候哉此養子江跡式相續者何程之儀ニ
      可有る御座候哉之事
          但本行別禄之身実子幼少ニ付養子願も本行ニ准し可申哉之事

     本行養子いたし候儀は                  例
     勝手次第跡式は不被仰               一文化七年十一月 中山田慶次郎
     付見合候                                      後山田敬次ト改

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    大江戸釣客伝

    2011-08-25 20:38:47 | 書籍・読書
       大江戸釣客伝 上
          夢枕 獏
          講談社

     「何羨録(カセンロク)」という、旗本津軽采女が書いた、本邦最初の釣りの入門書がある。
    随分以前このことをブログで書いた。
     「釣り道楽」http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/9369d315cd78929f45942b2510962ce7
    この御仁は吉良上野介の娘婿である。いつかこの本や吉良上野介との関係などを取り上げて、誰かが何か書くのではないかと密かな確信を持っていたが・・・夢枕獏が書いた。
    これは購入して読まずばなるまいと「上下巻」購入の手配をした。

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    熊本城の馬具櫓と続塀を復元

    2011-08-25 10:56:10 | 新聞

             http://kumanichi.com/news/local/main/20110825001.shtmlhei

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    御合力米と御切米 (一)

    2011-08-25 10:23:48 | 歴史

     上妻文庫に大変貴重な史料が残されている。上記表題のごとくであるが、副題に「堀部常彦御切米を御合力米に直れ候例」とある。

    我々は色々な史料を読むとき夫々の言葉に出会っているが、御切米はともかく御合力米については、定かなる定義を承知しないままである。畏兄・中村勝氏はご自身のサイトで貴重な史料を公開されている。
             http://www1.odn.ne.jp/higo-nakamura/kanwa7.html

    表題の史料は、「御合力米についての定義」について語られているわけではないが、大変興味深く示唆に富んでいる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                堀部常彦御切米を御合力米に直れ候例

       御奉行所取遣                            慶應三年より
                                          甚三郎養子
                                               堀部常彦
    右常彦儀良之助様(細川護美)御廣敷御番御雇被仰付置候處旧臘御中小姓被召出御切米拾石五人扶持御足給五石被下置候處御小姓役等別禄被下置候を御合力米被下置候處此節御切米被下置候ハ如何と申事ニ而別紙例書差出御次より問合ニ相成申候 成程別紙之面々ハ御合力米被下置候 惣躰御合力米ト申ハ子孫ニ引キ御切米と申ハ其身一代限之ものニ而例書之内二男末子等ハ子供有之候ヘハ跡式被立下候付御合力に而被下置候方宜候得共嫡子養子別禄被召出候ハ其身一代ニも及不申親病死又ハ隠居仕候ヘハ親之御知行を被下置其身ニ被下置候御給扶持御擬作に被召上候ニ付嫡子養子之別禄ハ御切米ニ而被下置候方至當ニ相見申候 御合力米被下置候ハ御近習一手迄ニも無之小堀清左衛門抔も御合力米被下置候得共例より例ニ亘り究極届兼たるニ而可有御座則先例別紙之通ニ付以来御近習一手たり共嫡子養子別禄被召出候節ハ御切米ニ而被下置方ニ可有御座哉 二男末子等ハ別禄ニハ不被召出年數積候ヘハ御米可被増下と相究居申候
          但御合力米と御切米と御渡方之差別も有之候哉と御勘定所に問合候處差別ハ無之由御座候
    本紙之通取しらへ申候處御合力米と申ハ士席御切米と申ハ軽輩ニ被下置候 名義ニハ無之哉御近習一手ハ都而御合力米被下置御次書抜之通機密間書抜之内辛嶋大城ハ其分ニ候得共其外之面々ニハ様子も違イ可猶勘考仕候様御口達之趣奉畏候 成程御知行跡御中小姓ニ相成候ハヽ御合力被下又御知行被召上等ニ而追而御扶持方迄被下置御中小姓被召出候面々被召仕追而御役付被仰付候ヘハ矢張御合力米被下置右様之家々を相續御中小姓と唱へ弐拾石之跡ハ拾五石拾五石之跡ハ拾石被下置惣而跡式被立下候 又ハ軽輩より御取立御擬作被下置候跡も御合力米弐拾石被下置其跡ハ拾石四口歩御使番列被仰付候御格ニ而其身軽輩より御中小姓被仰付候を一代御中小姓と唱へ右ハ先一代限ニ付御切米ニ而被下置候 御合力米ハ子孫相續一家を被立置候ニ付御切米と御合力米と相渡方之員数は本文ニ認置候通多少ハ無御座候得共御切米ハ三月迄被召出候得ハ無月引被渡下四月後被召出候ヘハ月引ニ而被渡下御合力米を被下置候ヘハ四月後たりとも無月引全渡下候由嫡子養子親懸ニ而別禄被下置候ニ一家を立居候同様ニ而ハ結構過可申夫故御馬役等御蔵米取之嫡子等御侍ニハ相違無之候へ共惣而御切米ニ而被下置候 右様之人躰親跡相續御中小姓被召出候節ハ御合力米を被下置候 右之次第ニ付御切米と申ハ強テ軽輩ニ被下名義ニハ無之其身一代限被下名義ニ付嫡子養子別禄之節ハ御切米ニ而被下置候方相當可仕哉と奉存候 

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    9/22熊本城マラソン、エントリー開始

    2011-08-24 20:30:07 | 熊本

     

     熊本城をスタート・ゴールとする、政令指定都市発足を記念して行われる「第1回熊本城マラソン」のエントリーが来月22日から始まる。以下毎日新聞記事から

      (1)歴史めぐりフルマラソン(9000人、1万円)
      (2)金栗記念熊日30キロロードレース(150人、5000円)
      (3)城下町4キロ(1000人、3000円)                の3種目
    来月22日午前10時からホームページ(http://kumamotojyo-marathon.jp/)で受け付ける。10月31日まで。先着順で、定員になり次第終了する。支払いは後日クレジットカードなどで決済する。(1)と(3)は専用振替用紙によるゆうちょ銀行・郵便局窓口での申し込みも可能で、来月1日から市役所1階総合案内所で用紙を配布する。振り込み期間は来月22~30日。問い合わせは熊本城マラソン実行委事務局エントリー係096・328・2561。

     熊本城のスタート・ゴールの急坂が勝負を左右することになるだろう。
    日本有数のランナーの登竜門となってきた、(2)金栗記念熊日30キロロードレースもコース変更となり、記録のほうへどう変化が現れるのか興味深い。
    最近あちこちでランニングする人の姿が多く見られるようになった。この大会を目指しているのだろう。4キロくらいなら走れるかなー・・・・無理か・・・・

     マラソン好きの皆様、どうぞお出でまっせ。

     

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    お久しぶり33℃越え

    2011-08-24 19:00:15 | 徒然

     8月13日以来の33℃越えである。湿度が高くて蒸し暑い一日となった。14~5日の大雨からずっと不安定な天気が続き、日照不足の状態で気温も30℃をまたいで上下する毎日が続いてきた。この状態で冷夏のままで秋に突入するかとさえ思われたが、久しぶりに太陽もフル出場(?)の一日である。しかし明日はまた天気は下り坂の予報であり、台風の影響もあって週末から月末にかけ、また涼しい夏に逆戻りしそうである。関東・東北の極暑が伝えられる中、なにか変な今年の熊本の夏である。それでも節電の夏はあつくてしょうがない。

                   胡坐して大きく使ふ渋団扇   小原菁々子

     山鹿市来民(くたみ)は、その渋団扇の産地である。

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    宮部鼎蔵は槍の名人なのか・・・

    2011-08-24 18:38:31 | 徒然

     ある方から「十字秘術」という寶蔵院流槍術の印可に関する資料を頂戴した。
    久武千助兼雄が、天明八年五月栗崎某に宛てたものだが、提供者の方のお宅にその由緒書とともに伝えられたらしい。久武家からは我が四代目室が嫁いできており、いささかの因縁を感じる。いろいろ調べていると、この類のものは結構残されているらしい事が判ってきた。

     「宝蔵院流十字秘術」で検索してみると、古文書を取り扱う某店で同様内容のものが売られていることが判る。これによるとどうやら久武氏より一代下った、弘化四年師範草野騏右衛門が宮部罪蔵なる人物に宛てたものであることが判る。宮部罪蔵なる部分が写真では見受けられないが、これは鼎蔵の間違いではないのか・・・私の推測が正しければ、宮部鼎蔵は槍の名人であったことになる。
    池田屋で新撰組などに襲われ落命したが、手許に槍があればどうであったか・・・・?

     同様のものが県立図書館の富永文書の中に見受けられた。これは更に時代が下り、明治二年十二月、水足五郎右衛門が大矢野権助に宛てたもので、図書館のINDEXによると内容の文章は同じだと思われる。「古者以兵為凶器也」が本当だが、INDEXでは「兵」が抜けているが・・・・

     現在、熊本において宝蔵院槍術が継承されて存在するのかどうか承知しないが、維新期までは脈々と伝承されてきたことがこれらの史料によって伺い知れる。
    白文で書かれているのでいささか荷の重い読み下しの作業であったが、富永文書の存在を知り少しばかり肩の荷が軽くなっている。近々図書館に出かけようと思っている。全文読み下して有る事を願いながら・・・・・・

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    途絶えた家康のDNA

    2011-08-23 08:19:49 | 歴史

     細川家には家康の血が流れている。随分以前だがそれがいつ途絶えたかという事を尋ねられ、いろいろ調べたことがある。そして今夏同様のお尋ねをいただいた。

     最初は家康長男信康女・五徳姫(小笠原秀政室)女・千代姫が秀忠養女として細川忠利に嫁いだことに拠ってである。二度目は綱利が家康の末子・水戸徳川家祖頼房の女(長男頼重の養女)久姫を迎え入れた。
    綱利自身も祖母・千代姫の血から家康のDNAを受け継ぐと共に、家康の孫女を正室として向かえたが男子が無く、細川家に於いては久姫を経ての血は受け継がれていない。男子が絶えた綱利は弟・利重の子利武を養子としたため、家康のDNAは千代姫の血をへて宗孝・重賢・治年と受け継がれた。治年に継嗣がなく宇土細川家から養子を迎え入れたため、ここでDNAは途絶えることに成る。利重の家系は(新田藩)では途絶えることなく受け継がれている。利重女・成が宇土細川家三代・有孝に嫁いだが、二人の間に子はなく宇土細川家にはDNAは受け継がれていない。ために齊茲以降の細川家には、家康のDNAは受け継がれていないことになる。
    光尚代においては「徳川の爪の端」といわれた細川家であったが、綱利もまたそうありたいと願ったのであろう。久姫との間は仲むつましかったらしく、側室に子が生まれるのは久姫亡き後のことである。

         +--信康-----●
         |        ∥----千代
         |    小笠原秀政
         |
         +--秀康
         |
         | 将軍家
    家康---+--秀忠--+--家光
         |      |
         |      +===千代             
         
    |           ∥             ∥
         |   +----細川忠利---光尚---+--綱利======宣紀---+--宗孝
         |   |                |                 |
         |   |                |                 +--重賢---治年--×
         |   |                |      新田藩
         |   |                +--------利重--+--利昌・・・・・・・・・・・・・・→○
         |   |                            |
         |   |                            +--利武(宣紀)
         |   |                            |
         |   |                            +--成
         |   |      宇土藩                     ∥---×
         |   +--------立孝----行孝--------------------有孝
         |
         | 尾張
         +--義直
         |
         | 紀州
         +--頼宣
         |             +==
         |              |
         |      +--頼重--+--頼常
         | 水戸   |          ↓
         +--頼房--+--光圀======頼常
                |
                +-- 

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    日本橋駿河町由来記

    2011-08-21 10:57:20 | 書籍・読書

     昭和42年発売の「日本橋駿河町由来記」を手に入れた。駿河銀行(現スルガ銀行)系の駿河不動産が「東京駿河ビルディング」の竣工落成にあわせて発行した、非売品であり私が手に入れた本には3624という数字が打ち込まれていた。

     日本橋駿河町の名は江戸開府以来のものだそうだが、家康に従い駿河出身の人々が此処に居住したことに由来するらしい。駿河銀行の初代もまたその社名が表す通り駿河の人である。地元で銀行業を興し名をなし東京日本橋に進出して、ビルディング建設に至ったというものである。
    そして其記念事業としてこのような書籍が生まれたことは、誠にありがたいことである。

     611頁に及ぶものだがその内容は多岐に渡り、江戸開府以来の日本橋界隈の発展の有様をつぶさに知ることが出来る。

           駿河町について             岸井良衛
           日本橋私記                池田弥三郎
           日本橋志                  木村毅
           日本橋の経済史            土屋喬雄
           日本橋諸相
               ・日本橋界隈と芝居       河竹登志夫
               ・浮世絵の日本橋        鈴木重三
               ・遠い明治の日本橋       谷崎精三(谷崎潤一郎弟)
               ・魚河岸春夏秋冬       永井龍男
               ・文学の中の日本橋       野田宇太郎
               ・日本橋川の流れ        日比谷 京
               ・日本橋建築散歩        村松貞次郎

     このような錚々たる方々が執筆されており、今後再びこの様な内容の充実した史書が発刊されることは無いのではないか・・・良い本を手に入れた満足感に浸っている。

     本の最後尾に「日本橋」の親柱にある橋名盤の拓本が添えられていた。関係者の了解を求めて奔走された結果のことで、これとて今後は不可能ではないかと思われる。いわずと知れた最後の将軍慶喜の筆によるものである。これまた感激の付録であった。

     読了するにはいささかの時間を要するが、楽しみな時間を与えてくれる本であることは間違いない。

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