今の時期、朝早く東の空に「明けの明星」が見えるようになった。
朝方ベッドの中で顔を上げると大きく輝いく「明けの明星」に出合い本格的な秋を感じさせる。
私の部屋から眺めていると、6時25分頃には太陽が昇りはじめる。今日も良い天気だ。
昨日は病院から持ち帰った洗濯ものを洗濯したりで朝から疲れてしまい、おまけに御飯がなくトースト用のパンも切れて朝飯抜きになってしまった。
お昼には未開封のポテトチップスの封を切って空腹を満たす。前回見忘れた「光る君へ」を見た後、椅子にもたれていたら小一時間寝込んでしまった。
其の後、買い物を済ませてようやく夕方は食事らしい食事(?)をとる。後かたずけをしてTVのニュースを見て疲れのあまりベッドに入り又一時間ほど寝る。
9時過ぎ起き出したが、とにかく体が重い。10時には本式にベッドに入った。睡眠時間以外に4時間近くの仮寝をして、今朝の起床は5時59分だったが、明けの明星を眺めて少々元気が出た感じがする。
明日は病院へ行く日だが、点滴でも滴ってもらおうかと真剣に思っている。体重も約6㌔減って只今67.7㌔と相成った。
熊本十代藩主が家臣 山崎隼雄に与えた150石の知行宛行状と知行目録の2部
■山崎半十郎 (南東35-13)家・10代隼雄に関する知行宛行状だが、この宛行状の存在は既に知られていて、松本寿三郎先生の著「熊本藩御書出集成」に「10、隼雄宛 斎護公御書出(文政九年)百五十石・山崎隼雄知行目録(文政九年)」として記載されていた。
隼雄の孫が12代で肥後宏道流三代、肥後六花「肥後山茶花」の祖貞嗣であり、その貞嗣の孫が「東肥花譜」「熊本文学散歩」などを著された山崎貞士氏である。
これは以前にも出品されてきたが「不落」が続いている。
宮本武蔵の知行に係るいくつかの資料が残されている。
一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
寛永拾八年九月廿六日 御印
奉行中
この年の三月十七日に忠利が死去しているから、この指示書は光尚によるものである。
前年忠利は以下のような指示書を発している。これをみると光尚は忠利の意向を踏襲していることが判る。
一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間佐渡さしづ次第ニ可相渡候
以上
寛永拾七年十二月五日 御印
奉行中
又十九年には同様の指示所が発せられているが、「堪忍分の御合力米」と申すようにと伝えよと指示がある。
「合力米」と「堪忍分之御合力米」との違いがまだ呑み込めないでいるが、合力米(ごうりょくまい)とは「施し与える」米であるから、より穏やかな「堪忍分」の表現をするようにとの気配りであであろうか。
宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
寛永拾九年十一月八日 御印
奉行中
宮本武蔵ニハ御米被遣候時御合力米と不申唯堪忍分之
御合力米として被遣候由可申渡旨奉七郎右衛門
土曜日の熊本史談会に於ける、熊本博物館の下高大輔氏の「熊本城を考古学する」の講演は、誠に興味深いものでった。
先の熊本大地震の被害ならずとも、熊本城の石垣は度々崩壊を繰り返しているが、その都度修復が加えられてきて現在にその姿をとどめて居る。
つまり、加藤時代に於ける築城時の姿は、細川時代の拡幅による石垣の築造、崩壊・修復による変更などにより元の姿ではないことを認識すべきであるとの御説は、誠に当たり前のこととはいえ認識を新たにするものであった。
一つ二つ質問をしたいと思ったが、ほかの方がニ三人手を上げられたため、時間切れの状態になり私の疑問は持ち越しとなった。
というのも、資料をお示ししてお伺いしたいと思っていたのだが、その資料(かって■熊本城宇土櫓の石垣・・?で使用した絵図)が行方知れずなのだ。
熊本城の石垣の各地点の高さやその勾配などが事細かに測量されている小さな冊子である。
その冊子の名前さえ思い出せないし、本棚を隅から隅までさがしても姿を現さないから、どこかの資料袋に放り込んでいるのだろう。
熊本城の縄張りについては、「御大工棟梁善蔵聞覺之控」のなかでは、善蔵は「茶うす山の図引きとなつたときや、岩野のお武家で宗久隆さんがこの役になんなはったばい」と記録させている。岩野の御武家とは岩野嶽道祖城の城主であり、かっては本山城の城主でもあった宗氏のことである。
私がお聞きしたかったことは、大天守石垣の地山(茶臼山)と石垣の関係なのだが、先の資料なしでは言葉ではなかなか表現しがたいから、質問は躊躇してしまった。
なんとかこの冊子を見つけ出して、博物館に下高氏をお訪ねしてお聞きしてみたいと考えている。
大相撲の「大の里」の一番を見ようとTVを付けて・・・あっけない敗戦を見て即TVを消した。
日曜日だという事は認識しているのだが、少々疲れ気味で夕食後はそのことをすっかり忘れてしまった。
Youtubeでウクライナのロシア攻撃のニュースなどに気をとられてしまい、「光る君へ」を見落としてしまった。
仕方がないから再放送を見なければならない。最近は一事が万事こんな具合である。
妻もそろそろ退院できるのではないかと、希望的観測を持っているが、「高次機能障害」の妻とどう向き合わなければならないのか、憂鬱な気持ちにさせる。
毎日の家事洗濯・買い物などが、大変な重労働だという事を67日間という時間を通じて実感したが、この後は妻とこれを分担していかなければならない。
67㌔後半で推移していた体重が最近では前半に突入して66㌔を伺いつつある。
今日は熊本も、雨の一日となり涼しさが訪れつつあるが、蒸し暑くて快適には程遠い。
涼しく成ったら散歩を再開しようと思っていたが、妻が退院するとそんな時間もとれそうにない。退院するまでのわずかな時間で体力回復を図らなければならない。
大好きなTV番組を忘れるほどの状態はこれは遺憾・・・明日は世の中休日だから、人並みにゆっくり睡眠をとることにしましょう。
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関ケ原の戦いにあたり、石田三成の命を受けた小野木重次(丹波福知山城主)、前田茂勝(亀山城主)ら諸将に率いられた15,000とも云われる西軍が、細川幽齋がわずかの手勢で守る田邊城を取り囲んだ。
支城にあった人たちも三々五々この城に逃げ込み、わずか500人ほどの人数で、 慶長5年7月19日(1600年8月27日)~9月6日(10月12日)に至る籠城が行われた。
禁裏からの勅使をうけ幽齋は城を明け渡すが、忠興にはいささか合点がいかぬ事であったらしい。
9月21日付け宮津からこれら籠城衆にあてた書状である。
已上
昨日廿日かめ山迄令
着候處ニ城可相渡
由申候へとも徳善院ノ
事候間可成程馳走
可申と存様子内府へ
申入候其御返事次第可
下國候扨々二度相
候ハん事夢とのみ
思ふ事候面々籠城
さへ奇特と存候ニかせき
とものよし無比類儀
にけおち候やつ
はらあまりの事ニ
にくげなくおかしく候
恐々謹言
九月廿一日 越(花押)
宮津より
籠城之衆中
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一、田辺御籠城衆(北村甚太郎覚書より)
寺井吉右衛門 荒木善兵衛 日置善兵衛 丸山助左衛門
加藤新助 大塚源次 松山権兵衛 佐野三之允
加納曲斎 麻生喜左衛門 神戸喜右衛門 坂井半助
寺井道運 村野庄助 久代右近右衛門 大野源十郎
築山五右衛門 上羽小右衛門 山本三郎右衛門 矢野七助
中村甚左衛門 上原甚七 上林助兵衛 上羽新兵衛
岡本新兵衛 三戸屋四兵衛 北村石見 宮部市左衛門
北村甚太郎(宮村出雲) 入江淡路 北村勘三郎 前田七郎右衛門
箕田甚之允
不分明二カ三カ也
右は絵図之表各付有之面々合三十 ○ 人
外尓 嶺山衆各 宮津衆各
先に永青文庫から、細川藤孝に宛てた信長の書状が発見され会見が行われた。
そして、熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念として、信長関係の書状を60点一同に展観されるという。
『令和6年度秋季展 信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―』
会期:2024年10月5日(土)~2024年12月1日(日) ※会期中展示替えあり
会場:永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)
60点が一挙にという展観は初めてなのではなかろうか。信長フアンのみならず歴史フアンにとっては必見の展覧会である。
これは東京のみならずとも、主要都市で開催されるべきだと愚考するが、ぜひとも熊本でも開催をお願いしたいものである。
関係者の皆様のご一考を是非ともお願いしたい。
「本展開催にあわせ、書籍『永青文庫 織田信長文書の世界』(仮)を勉誠社より刊行予定!」とあるから、これは是非とも購入せねばならぬ。
昨日我が家の米櫃が心もとなくなったから、夕方近所のスーパーで購入しようと思ったら、いつものコメ(無洗米5㌔)がない。
普通のコメを買えばよかったのだが、明日は入るだろうと思い、改めて出てこようと帰宅した。
今日は昼食後出かけてみると、いつもなら平積みされている普通の米の山が一切見えない。
棚を見回すと、2キロの無洗米の小袋が五つ程だけ並んでいる。これは大きい小さいとか高いとか言っておれない、躊躇せずに購入した。
帰宅してよく見ると「新米」とある。そろそろ品も揃うのだろうが、米どころ熊本がこうなるとは思わなかった。
8月26日ブログで「コメ騒動」を書いたが、その後別に変わった様子も見られなかったが、今になってこのありさまである。
亜熱帯化した今年の日本の異常気象は、今年だけの現象と考えるのは危ないのかもしれない。
減反政策で米農家が減っている中で、瑞穂の国のコメ不足は笑えぬぞと云いたくなる。
農林大臣は熊本出身の坂本大臣、備蓄米の放出をして「男を上げる」機会を失された。
熊本史談会の9月例会が21日に迫っている。今月で4回目になる担当講座の史料が未だ出来上がらずに少々焦り気味である。
「箱根関所」の通行証を取り上げて少々お話をしようと思っているのだが、そもそも「箱根関所」がいつ出来たのかさえはきとしないらしい。
(神奈川新聞社刊-加藤利之著「箱根関所物語」)
慶長5年以降、慶長15年頃までには設けられたらしいという漠然としたものである。
「入り鉄炮と出女」という言葉があるが、鉄炮については至って初期の時代であったらしく、後にはもっぱら「出女」に異常なほどの力がそそがれている。
乗物で通る者は「戸を開かせ」女乗り物は女(人見女)に見せることとしているが、「公家・御門跡、大名家」はその限りではないとしている(寛永2年)
特に「女改め」が厳しくなったのは寛文8年の頃らしく布達文書が残されており、「女手形」の書式などが定められている。
そして「髪切り」という女性の髪形については、人見女が女性の髪をとかせて改めたという。
細川家の文書には、この女性の髪形改めについては寛永~元和の時期をうかがわせる貴重な文書が残されているが、先述の「箱根関所物語」では取り上げられていない。
著者がこの事実を御存知であったならば、内容も少々変わったのではないかとさえ思える。
お読みいただくと説明の必要はないと思うが、「三斎」とあるところを見ると忠興隠居後の元和9年以降在豊前の間の事件となる。
寛永2年迄は大名女中衆の駕籠改めは成されていないから、それ以降の同4年・7年・9年の三回にわたる江戸下向の際のことだと思われる。
女性の駕籠改めが厳しくなったのが寛永8年だとされるから、この事件は9年の事か?
今日はこんな話を資料をしてまとめ上げなければならない。
数日ブログをお休みした。食が進まず体重が二月で6㌔ほど減った。典型的夏バテだが奥方不在の家事・洗濯・買い物などが影響しているのも確かである。
食事も朝は特に進まない・・・これではまずいと思って、なんとか頑張って食べようと努力している。
悪友が「大丈夫かい」「生死確認だ」と言って連絡してきた。同様の話をすると、「俺も同じたい。毎日ソーメンばっかり食いよる」
「早よう涼しゅうならんと日干しになるばい」「あんたも死なんごてせなんばい」といつものとおりである。
それが効いたとは全く思わないが・・?・・、昨晩は珍しく食欲が出て今朝はなんとなく元気である。
最近は9時間睡眠をとっているが、くわえて昼食後は1時間ほど午睡が日常となった。
今日熊本は藤崎八旛宮の秋の例大祭の神興行列が行われる。いわゆるかっての「ボシタ祭り」が行われるが、今年は60頭の馬追が行われるという。
もう見に出かけることもないと思うが、街は一日大いににぎわう事だろう。しかし今日も真夏日間違いなし、熱中症には気を付けられよ。
悪友いわく、「16日は敬老の日だけん、うまかもんば食うて元気ば付けなっせ・・・・」「声がかすれてあんたらしゅうなかばい」
そうか、カレンダーの16日の朱書きは「敬老の日」なのかと気づいたところである。
それにしても、食べる気がしないというのは厄介なことではある。
期日:令和6年9月21日(第三・土曜日)午前9時45分~
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(
講題:熊本城の歴史を考古学的な知見から探る
講演:熊本博物館:考古学分野担当学芸員 下高大輔氏
一般参加自由:
連絡不要、但し当日参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
延宝8年(1680)9月13日、芭蕉37歳の句である。いろんなところで紹介されている下の句だが「ひそかに」と訓む文字がそれぞれ違うのが面白い。
●夜ル竊ニ虫は月下の栗を穿ツ 「竊」という字は、盗むの意を以て使われることが多いようだが、芭蕉は当然「ひそかに」
と訓ませている。
●夜ル窃ニ虫は月下の栗を穿ツ この「窃」の文字は「竊」の異体字、よく「窃盗」などと使われている。
●夜ル窈ニ虫は月下の栗を穿ツ 「窃」によく似ているが、こちらは「ひそかに」の意が強いように思える。
歌手・一青窈さんの「窈」だが、「①おくぶかい。暗い。ひそかな。かすかな。
②おくゆかしい。しとやか。のびやか。あでやか。」という意味であり、盗むという語意
はなくなっている。一青窈さんの「窈」は「しとやか」の意であろう。
芭蕉研究で知られる嵐山光三郎は、「窃」の字を使ってこの句を紹介しているが、はたして芭蕉さんはどの字を使ったのだろう。
「ひそかに」栗を穿つというのだから「盗み」の意が大いに包含されているのだろうが、こうしてみると俳句に於ける一つの文字の持つ意味合いが、大変重要であることがよくわかる。
今回(12日19:30~20:15)の「100カメ」は大河ドラマ「光る君へ」の撮影現場の臨場感あふれるセットや、「曲水の宴」撮影の苦労など、大河ドラマ撮影現場の生き生きとしたさまを見せてもらい、ドラマとは違うドラマを見たという感じをもった。
主演の吉高由里子さんは左利きだと聞いていたが、練習を重ね右手で自前の見事な筆さばきで大いに感心されられた。
今回に限った事ではないが、いわゆるお笑いの世界の人たちが見事な演技をしておられるのも、驚きである。
才能あふれる俳優や現場の人たちが、和気あいあいと平安の息遣いを作り上げていく活気あふれる世界を見た。
こんなものを見ると、ますます「光る君へ」は見逃せなくなる。
この番組の他、私の大好きな番組では「50ボイス」とか、「病院ラジオ」「ファミリーヒストリー」とかは見逃さないように注意しているし、「新日本風土記」も大好きでテーマ曲・朝崎郁恵さんの「あはがり」が流れると気持ちが洗われるような気がする。
AIの技術をして古文書を読ませようという試みは、中々完全なものには至らずに来ていたが、地元熊本大学の永青文庫研究センターと印刷大手のTOPPANが開発した技術が注目されている。
このことは新聞各社も報じていたが、少々古い記事だが2024年08月23日の、NHK熊本放送局のNHK熊本WEB特集 クマガジンが、「古文書の“くずし字” AIで解読に挑む!」として報じている。
熊本大学の史料288万枚の内の5万枚を読み解いて、精度はまだ80%だとしているが、キーワードによる検索機能が大いに実力を発揮しているらしい。
研究者の先生方にとっては、精度の向上もさることながらこの「検索機能」の充実は大いなる進展であろう。
いつの日かこれが市井の古文書愛好家にも、使わせていただける日が近いことを期待したい。