津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本県立図書館9ヶ月間休館

2014-06-30 14:51:28 | 徒然

 明日から今年度いっぱい熊本県立図書館が改修工事の為に休館する。今日は借りている本四冊を返却の為にあわてて走り込む。
デジカメを携えて休館の御知らせなどの看板が出ているだろうと撮影を目論んだが、素気ないものでなにも出ていない。
館内のどこかにはあったかもしれないが・・・・・

9か月間図書館が使えないというのは多いに困る。その間ブログはどうしたものかと、悩むことしきりである。
少し方向転換をして、今後は熊本市の歴史文書資料室の史料を活用させていただこうと思っている。

因みに熊本市立図書館も九月から改修工事の為に休館するらしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■長岡おはす

2014-06-30 06:59:57 | 人物

 随分以前、こういう名前の人物についてお尋ねをいただいたのだが、果たして何方なのか判らないまま数年を経てしまった。
数日前から丹後旧事記や丹後細川能番組を読んでいるが、後者の能番組の中に長岡おはす殿の名前を発見した。
女性とばかり思い込んでいたが、実は男性であった。解説には次の様にあった。

5~9に〈鷺(二回)・西王母・猩々・籠太鼓〉のシテを舞う。最初の登場が〈鷺〉のシテという破格の待遇からも幽齋の子で天正15年7月17日に早世した蓮丸〈(出典・細川幽齋〉の愛称が「おはす」であろう。天正14年12月の9を最後に名が出ないのも翌年に没したのと照応する。細川家系図類は蓮丸を五男としているが、四男とされる次の与十郎(茶知丸)よりは年長だったことが本番組から確認される。

「おはす」「蓮丸」・・・・・・・・何故今迄気が付かなかったか・・・・・・・・・こんなことも有る(汗、、、)

因みに5~9とは
       5、天正十四年丙戌二月十二日(ママ)於円隆寺
       6、       同七日          於一如院
       7、       同十四日         於米田助右衛門座敷
       8、     同    十一月三日夜  於宮津御城殿
       9、     同    十二月廿二日  於田辺小笠原少左衛門庭   等で行われた能番組である。 

 

因みに下の写真は 幽齋五男・細川蓮丸像 としてオークションに出品されたものである。
蓮丸については資料が乏しく、この蓮丸像は大変貴重なものだと思われるが、画賛の内容がどの様な物か知りたいものである。 

 

                                     
                

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■井芹氏のこと

2014-06-30 06:49:47 | 人物

 渡辺玄察の「拾集昔語」(二・p384~)に、井芹氏に関する記録がある。
熊本市の北部を流れる井芹川の花園地区周辺にも井芹氏が住みついていたが、これも井芹氏の別れだという。
全国に散らばる井芹氏の本貫の地こそ御船・甲佐地域であろう。

    甲斐宗運井芹の黨を被殺候事 

御船・甲佐在々に井芹何某/\と申候て井芹の一黨七十餘人天正の年中に有之候 一人も不剛の者なく昔金石の武士にて阿蘇殿も御重實に被思召候 (甲斐)宗運も其通に被存候者ともにて候 彼井芹の大将を加賀守と申候 彼者共冥加もなく武運も盡果候て各一黨連判の書状を相認候て薩摩島津殿江密々申進候は阿蘇家の代官を井芹一黨に被仰付候はゝ味方に成可申候 併何とぞ御手立を被成候て可有御覧候 彼入道被致随意候はゞ阿蘇家の侍一人も不残幕下に罷成可申候と申遣候由にて貴殿御越候哉と被申候へば口上之儀は無之候と申候て書状を文箱共に指出申候を入道披見被申御船城外に朱質和尚と申て古老なる智徳の禅和尚有之候を呼入奥にて被申候は和尚を頼度事候て呼申候 珍客請候間自分は客の會釋可申居候に座敷へ御出候て可被申候は客人と見え候御免候へ/\と被申候て宗運か膝を枕にして可被申には頃日は持病之脚気令再發候て以の外足腰痛候 いつもの様に脚を捻りてたべ/\と被申候へ愚老捻り可申候此事此に心得有之候て頼候事にて候と被申候へは和尚被申候は殿の御用にて御望候上は慮外と申事は無之候間其通に致可申候と被申候故入道座敷え出四方山の噺など被申候處に和尚罷出右之通に被申候をいかにも捻りもみ打などいたし被進候 島津殿之使者是を見候はゝ師匠と外存間敷候故罷帰り島津殿へなひき可申やといわせ可申ための事之由に候 左候て其夜只一人に栗林等なと申はやわざ武士之者一人側に置使の仁にさゝやき被申候は島津殿ケ様の御状を被下候事は不思議に存候が御一存の御分別にて候や又はいか様之譯共有之候ての事に候やケ様の御使御出候からは島津殿も無他事思召低貴殿にて可有之候上は御内意承度候と被申候へは使者被申候は其事に候阿蘇家の侍井芹の一黨七十餘人各連判にて島津の味方に成可申候 併甲斐宗運を味方に被成候手立宜く存候と密々申越候 就夫貴老も御内心は御同前にて可有之候ま書状進可申との事にて如此に候と申候やに候 入道聞被申候て扨は左様候かと被申候迄にていか様の段も問答不申使者を馳走被致音物共遣候て翌朝遅く立に小川に令一宿候様に計ひ其夜中に甲斐武蔵守・同伊勢守両人と被令密談井芹何某は何某に討候へ/\と七十餘人の討手を被申付翌朝右之使者罷立候跡に一日の内に甲佐御船在々に罷在候井芹共悉く討被申候 井芹大将の加賀守は渡邊軍兵衛討申候 當分之上豊内村庄屋又右衛門は加賀守の曾孫にて候 井芹河内守が加賀守は甥にて候 彼加賀守か曾孫は糸田村の彌助十兵衛にて候 右之通に七十餘人を一時に殺し被申候て宗運泪を流し候て被申候由は是非に不及候 井芹の各おのれ/\か自害とは云なからあたら者共一騎當千の奴原故にて候 入道か指一つ折れ候と被申候て深く惜み被申候由に 右の使者案のことく小川泊り翌朝此事を令風聞舌を巻罷立候由に候 入道其事を聞被申候て島津に返事を能して候 彼使者に風聞させんために小川町に泊り候様にあひしらひ小川にて聞候様に計ひ候と被申候由に候 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沢村家先祖附から (三・了) 三代・宇右衛門友雅 四代・大九郎友朗 五代・衛士友常

2014-06-29 07:16:24 | 先祖附

                          
                         一、(二代)宇右衛門儀寛文五年七月七日病死仕候付被下置候
                            御知行家屋敷共無相違曾祖父沢村宇右衛門(三代・友雅)
                            被為拝領組外被仰付其後御備頭被仰付候
                         一、宇右衛門儀病気ニ付貞享三年三月七日
                            御知行家屋敷共無相違祖父沢村大九郎(四代・友朗)
                            被為拝領沼田小兵衛組被召加其後御備頭被
                            仰付候
                         一、大九郎儀病気罷成罷成申候付被下置候御知行
                            家屋敷差上申度旨奉願候処元禄十五年
                            二月朔日如願被仰付養父沢村岩三郎(五代・衛士友常)

                            家督無相違被為拝領有吉清助組被召加候
                            岩三郎儀其後衛士と相改申候 宝永七年
                            五月晦日御備頭被仰付候 享保十七年十二月
                            御家老役被仰付候
                            隆院(宗孝)様御婚礼御用ニ付而寛保元年
                            九月江戸江被召寄同十一月十八日御結納之為
                            御使者
                            紀州様江被指越候 此節従 紀州様御腰物

                            被為拝領御盃被為頂戴候 同月廿二日
                            御婚礼ニ付御輿請取被仰付相勤申候 同月
                            廿七日御三ツ目之為御祝儀 此方様ゟ
                            紀州様江被遊御出候付而御供被召連此節
                            又々従 紀州様御腰物被為拝領候
                         一、寛保二年四月朔日 八代姫様松平
                            讃岐守様江御婚禮之節衛士儀御輿渡
                            被仰付相勤申候 此節讃岐守様ゟも御腰物

                            被為拝領候 右両御婚礼御用首尾能相勤
                            申候由ニ而御懇之御意を以御時服品々被為
                            拝領候 其外於御當地も度々拝領物被仰付候
                         一、衛士儀同年四月江戸被指立六月當御地江
                            着仕候 然処同年五月ゟ病気差■申候付為
                            御尋度々被成下 御奉書御肴をも被為
                            拝領候 衛士病気色々養生仕候得共不相叶
                            寛保三年閏四月十七日病死仕候


     澤村大学介吉重====宇右衛門友好---宇右衛門友雅---大九郎友朗
                      ↑                 ∥
+-----●--松井二平次--庄次郎友好          +---●かな
|                                 |
+---松井康之------興長------寄之------直之---+-----壽之

 

■三代・沢村宇右衛門閉門・知行召上らる。  以下二点の資料から内容に異同が見受けられる。

・妙應院(綱利)様御代、澤村衛士様 御備頭 御妹の儀に付、世上専沙汰に及候に付、御役儀御勤成され難く、御断仰上て、御知行御屋敷差上られ候段、御内存の趣、松井求馬仰達せられ、御病気の由にて、御引込在せられ候段、御家老中様より、於江戸坂崎忠左衛門様、松月院様(木村豊持)へ、御連名の御状を以て、御内意仰越候處、右の筋至て難相済御事に付、御知行召上られ候御様子に候處、松月院様御格別なる御取成有之、御役儀をも、其儘に御勤成され候儀仰出され候間、難有次第思召候由、求馬様より、松月院様へ、御状を以て仰越され、衛士様よりも、御禮状差越され候事
                                                                (肥後文献叢書・肥後先哲遺跡、木村豊持項) 

・貞享二年八月十日 (熊本藩年表稿から)
沢村宇右衛門・有吉清助・伊藤一平らが立花飛騨守関札ノ内に止宿したため閉門、なお知行は蔵納同前とし今月より当前扶持方支給 (花畑邸奉行所) 


四代・沢村友朗の墓地 七城町亀尾字北杉田2038

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■武士道―侍社会の文化と倫理

2014-06-28 22:20:15 | 書籍・読書
  武士道ー 侍社会の文化と倫理
 
      エヌティティ出版

本の内容

武士道は思弁的な教条主義を排し、現実重視と結果尊重の立場を貫く。徳川日本の力量示す、その戦略的思考と行動の論理。 

目次

第1章 「武士道」という語の登場
第2章 近世前期、一七世紀における「武士道」(高坂昌信著・小幡景憲編『甲陽軍鑑』小笠原昨雲『諸家評定』 ほか)
第3章 近世中期、一八世紀における「武士道」(山本常朝『葉隠』大道寺友山『武道初心集』 ほか)
第4章 近世後期、一九世紀における「武士道」(中村元恒『尚武論』松代版『武道初心集』 ほか)
終章 武士道の諸相(「武士道」という言葉と徳川社会における広がり武士道の本来的な内容 ほか)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沢村家先祖附から (ニ) 沢村宇右衛門

2014-06-28 09:07:53 | 先祖附

                          一、高祖父沢村宇右衛門儀
                             妙解院様御部屋住之節松井庄次郎と申候而
                             十七八歳之比御児小姓被召出御側江召仕候
                          一、宇右衛門儀若キ時分折々仕者等被仰付首尾能
                             仕候由ニ御座候 宇右衛門儀大坂冬之御陳之時分ハ
                             妙解院様御供仕従江戸大坂御陳場江罷越
                             申候 夏之御陳ニハ従小倉

                             妙解院様御供仕罷上申候 宇右衛門儀小倉ゟ
                             御入国之翌三年大学養子被仰付候 宇右衛門
                             儀島原御陳之節は
                             妙解院様御在江戸故御供ニ而江府罷立
                             被遊御下候 御供仕嶋原江罷越申候 原之城
                             落城之日は御本陳御小屋ニ相詰申候處
                             急ニ肥前手ゟ乗候由御先手ゟ注進仕候付
                             妙解院様被遊御出候 宇右衛門儀も御供仕三之

                             丸江乗入申候
                             妙解院様は三之丸海手ニ御本陳被為居候
                             宇右衛門儀は直ニ二之丸江乗入敵大勢本丸江
                             引取申候を言葉をかけ候へハ殿之者共五六人
                             取テ返シ両方鑓ニ而たゝき合其場ニ而二人
                             突■シ首二ツ討捕申候 其間ニ残ル者共は
                             本丸江引取申候間御本陳江持参仕右之首共
                             懸御目申候 御帰陳之上ニ而為御褒美御加増

                             三千石被為拝領都合六千石被仰付候
                          一、宇右衛門儀大学病死仕候付跡目之御知行五千石
                             被為拝領都合一万千石被為仰付其後御家老
                             役被仰付候 被下置候御知行一万千石之内
                             千石沢村八郎左衛門江内分仕度奉願候処願之通
                             被仰付八郎左衛門江内分仕候
                            (宇右衛門儀寛文五年七月七日病死仕候)
                             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■沢村家先祖附から (一) 沢村大学吉重

2014-06-28 08:33:30 | 先祖附

                                       壱万千石 沢村衛士
                     一、先祖沢村大学儀天正十年八月上旬於丹後国
                        忠興様江足軽之者罷出申候其時分者沢村
                        才八与申候同年九月上旬丹後之屋形一色殿
                        依叛逆被召寄
                        忠興様館を被遊御手討家老之者何茂
                        御討伐之時一色殿之侍牧忠左衛門与申者
                        御小姓梶野平七を伐殺退候所を才八仕留申候

                        右同日一色殿居城弓木を鳥井と申者
                        持■候を御責被成候 大手門口の狭間より

                        鉄炮稠敷打候間手負死人数多出来
                        候得共才八鉄炮ニ而狭間を打からめ申候付
                        其後はしらみ候而手負も無御座候 左候而
                        扱ニ成城相渡申候
                     一、天正十一年閏正月下旬勢州亀山之城
                        秀吉公御責被成候時■御家中ゟ石寺五郎右衛門

                        松井佐渡守内荒木下兵衛・才八三人ならてハ
                        塀際迄付不申候
                     一、天正十二年五月朔日尾州小牧之陳ニ而大槻
                        助右衛門と申者を鉄炮ニ而打■シ申候 然処大原
                        文蔵と申者武者振能候付目懸候而七八間
                        慕参候得共彼者其場を引申候 其内ニ大槻
                        首は米田内山本又三と申者取申候而
                        秀吉公ゟ感状熨斗付之刀拝領仕候

                        又三も才八■ニ而仕合ニ罷越候由ニ而才八
                        小屋江禮ニ参候 右之合戦中一日置候而
                        濃州加賀野井之城
                        家康公ゟ御持せ被成候を二之丸迄仕■門口ニ而
                        才八鑓を合組討ニ而平井駿河と申者を
                        討捕申候 此時才八二ケ所手を負申候
                        忠興様被成 御意候ハ其方事小牧ニ而
                        一昨日手柄を仕今日又手柄之高名仕
                                   
                        無比類被思召候 其首を早々 太閤江
                        持参仕候得之由被 仰付候付 秀吉公御本陳
                        留田之寺内之前ニ御人数被立 秀吉公ハ
                        大キ成塚之上ニ被成御座候間直ニ御前江持参候

                        得は 秀吉公被成御覧是ハ平井駿河と
                        申候而此城之大将成程之者ニ而其方は何と
                        申者ぞと御尋被成候付沢村才八と申上候ヘハ覚帳ニ
                        能付置候へと御諚ニ候 重而又御意被成候は

                        越中事一昨日今日打續小牧加賀野井
                        両所之手柄無比類被思召候 此後ハ一万之
                        大将ニ被成御先手を可被仰付候而其方事も
                        立身可仕と御諚ニ候
                        天正十三年之春泉州観音寺城責之時
                        才八一番ニ参鉄炮七ツ中り候得共仕合能
                        漸玉一ツ身ニ通申候然共■不申候
                     一、天正十八年之春豆州小田原陳之節薤山之

                        出丸御乗取被成候時も才八山之手江早ク
                        参候 此時も鉄炮ニ而高腿を被打抜候 右同時
                        小田原被成御責候時仕寄を土俵ニ而
                        忠興様御自身御付被成候而才八ニも被
                        仰付候 一夜之内ニ堀端江七八間程寄せ申候
                        乍毎
                        忠興様別而被成御感候 同年之秋當原ゟ
                        直ニ奥州為御検地

                        忠興様御趣被成候時利符之城主之内之者
                        五人此方江狼藉申懸参候を則其者共を

                        西郡大炊之助三拾人衆被指添放シ国人ニ而
                        被替候 大炊之助ハ利符本丸江参右之段々
                        申内ニ科人共門口ニ而迯散申候を何も追懸
                        参候得は家ニ迯入候を家主隠置何事ぞと
                        申所を才八家主を人質ニ取申候故隠シ
                        不得出シ申候 依之御帰陳之上御知行百石

                        初而被為拝領御小姓組被 召可候 慶長五年
                        八月下旬岐阜陳之時本丸門口ニ而敵三人
                        扣候内母衣武者二人鑓長刀ニ而向候を才八
                        鑓を合手負候得共一人を組候而崖之下江
                        七八間落居候を今一人母衣かけさる武志
                        助候とて才八を一鑓突退候故組中候者之
                        首を取申候 此時才八七八ケ所手負申候
                        左候而首実検之時生捕之者中申候ハ中嶋

                        傳右衛門と申者之首之由ニ御座候
                     一、同年九月中旬於関ケ原は
                        家康公之方江才八為御使被指上候 罷帰候而
                        御合戦初り候
                        三齋様御諚ニは岐阜ニ而数ヶ所手負
                        いたし候間今日は御側ニ居候得と被仰出前後一人
                        罷在
                        忠興様御自身御働御手柄被遊候付而

                        御手傳も仕候 其節黒田甲斐守様御馳付
                        いたし候而
                        忠興様御働御手柄何も見届候間
                        家康公江可申上候条我々働之段々をも被
                        仰上候得と堅々仰候得共御返詞ニ候 御手前之
                        働ハ不被成御覧由被仰ニ付才八彼御働之
                        様子具ニ見届申候付其段申上候ヘハ甲斐守様
                        少も違不申由被仰候付左候て我々小姓

                        見届候前を可被仰上有之儀ニ而才八見届候■を
                        家康公江被仰上候 才八儀於其砌為御褒美
                        猩々緋之御羽織被為拝領候
                        文禄之比高麗御陳之刻唐人を討捕
                        申候 依之御帰朝之上御知行一倍ニ被仰付候
                        其外於伏見仕者首尾好仕丹後宮津
                        そらと申所ニ而取籠しとも搦捕申候
                     一、寛永十四年十月下旬肥前嶋原天草表江

                        切支丹一揆起申候付
                        光利様御出陳被遊候 大学儀七■八■之時
                        御供被召連御在陳中諸事支配宜被
                        思召上候由ニ而御帰陳之上従
                        忠利様為御使片山自庵を下之各々
                        御懇之御諚ニ而御座候 其後山本三左衛門
                        御使ニ而国俊之御差料之御腰物被為
                        拝領候 大学儀段々御加増被為拝領都合

                        五千石被為仰付御城代役被仰付候

                                      

                        (只今をチェック中・・・・・)

                        

                       
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■論考の御紹介「熊本博物館所蔵の吉田家文書」

2014-06-27 14:27:57 | 論考

 先にご紹介した吉田如雪正固遺構「西南の役見聞録」、並びに「阿部茶事談」の筆写をした正固成る人物は同一人物であることを御紹介したが、この吉田家に係る多くの史料が熊本博物館に収蔵されていることをご教示たまわった。同時に大浪和哉先生の「熊本博物館所蔵の吉田家文書」という論考を併せてお教えいただいた。
感謝を申し上げここにご紹介申し上げる。

                     http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/mugiamnews/14oonami.pdf

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生 第105講

2014-06-27 07:05:57 | 史料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■61年目の鎮魂の日

2014-06-26 17:15:50 | 熊本

 数日降り続いていた雨が白川を駈け下り、子飼橋の左岸を大きく削り私の通っていた小学校の生徒27人が亡くなり行方不明となった。
多分今頃の時間だと思うが、私が住んでいた出水町でも急激に水位が上がり、暫くすると前の道は濁流が渦巻く凄い流れとなった。
後の話によると、氾濫した白川の水が豊肥線が走る土手でせき止められたため、これを決壊させたためだという話が流布した。
嘘か本当か知らないが、あの水の急激な上昇を考えると、本当かも知れないと思ったものだ。少し薄暗くなったころには外に出ると腰の高さほどの水位となった。命からがら非難をして命を拾った。翌日帰ってみると、我が家の前の家が三軒程流されていて、突き井戸の水がこんこんと奇麗な水を吹きだしていたことを鮮明に覚えている。我が家は鴨居の高さまで水がきて、戦後のささやかな暮らしを支えていた大方の財産を失った。それから十数年少し傾いたままの家で生活をした。出水町という町の名もなんとも恨めしいものであった。

今日は時折の小雨が降ったがどんよりとした一日であった。涙雨ですよ・・・・・
タイピングしながらも目頭が熱くなってきます。決して忘れる事のない鎮魂の日は61年目となりました。 合掌 

                                                「6・26水害」から61年 熊本市で慰霊祭2014年06月26日

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■正固なる人物

2014-06-26 07:13:58 | 人物

 昨日 熊本城炎上・・吉田如雪の日記から を書いたが、この吉田如雪は正固と名乗っている。
実は上妻本「阿部茶事談」においては、最初に筆写をしたと思われる人の花押があり「正固」とあった。何方だろうといろいろ調べている内に吉田如雪に行き着いたのだ。そんな中で吉田如雪の日記が手元にあったことを思い出し、資料の山をかき分けていたら幸いにも見つけ出して昨日ご紹介したという次第である。

因みに吉田如雪は文化十四年(1817)生まれ、幼名鳩太郎、阿部茶事談が筆写されたのは天保十一年(1840)だから、鳩太郎二十四歳の時である。 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本城炎上・・吉田如雪の日記から

2014-06-25 16:12:18 | 人物

 吉田如雪正固遺構「西南の役見聞録」という著がある。曾孫・吉田純二遍とあるが、私の手元にあるのは数葉の抜刷ならぬ抜コピーである。
この日記は明治十丁丑年二月十日から始まっており、偶然にも熊本城炎上二日前の事である。

    熊本城砲台
一、埋御門 一、二ノ丸御屋敷 一、千葉城上中学校(此砲台最も力有り) 一、後で瀬戸坂上松枝亘屋敷 一、南大手上 (其の外数多有之と雖も悉見せず)
    賊軍砲台
一、鶴林(我宅向ふにて三度処替、複片山屋敷内) 一、四方池 一、花岡山(阿蘇殿松の上墓所) 一、長六橋際 (其の外数多有之と雖も悉見せず)

    二月十七日 晴
  鹿児島県下一般人気不穏銃刀を帯し所々に屯集して声高して云う「将に上京訴る事あり」と。其の仔細は鹿児島県下にて刺客二十七人を捕え得たり、
  足を糺問するに島津久光茲に当公且つ前参議西郷何某、篠原以下数人を殺し得るに至らば黄金何千円を与うべしとの三条実美公以下参議中連の
  書札を出したるより人心沸騰此の挙に及ぶ云う。餘波我県に連り廃刀廃禄を憤るの県士千名余相扇動し九州の騒動甚だし。今日新堀に掲示して云う。
  「鹿児島兵隊今日水俣に到着の報知あり、因て県官出張応接に及ぶ管(ママ)に付人々不驚様、若し応接不調の節は尚掲示す」と云う。今日より市中資
  財を運送し県下動揺たゞならず。

    二月十八日 晴
  今日も亦昨日の如く市中荷車人力車東西に馳せ老若乱を避くる者近在を望みて出づ。鹿児島の宿陣役今日川尻に至ると云う。

    二月十九日 晴
  朝飯後四時過京町浜田屋の湯に行く。然れども戸を閉して寂然たり。亭主言う「湯は有り入浴せよ」と、よって湯に浴す。亭主云う「火事あり急ぎ出て見
  よ」と、予裸体のまゝ三階に上り之を見るに辰巳の方向に当って黒煙天に沖す。亭主云う「山崎なるか」。予云う「然らず下ノ通丁方角なるべし」と。然れ
  とも寒風猛烈裸体に堪へず、又入浴す。既にして亭主大声にて予を呼んで云う「火事は御城」と、予狼狽楼に上って見ると雖も確定に見えず、依って出
  て加藤社に至る。城中東南の隅(本丸なり)より天守際にて火焔天を突く、今日西北の風烈しく飛火草葉丁水道丁辺に吹き落して所々に火を発す、其
  の勢い惨然として消防の人なく只火勢に任す。遂に九時頃より天守に火懸り八時に至り只天守台を見るのみ。加藤清正公造築以来連綿として西国の
  名城と称する城今日一炬の火を以て灰燼に属す。加藤社の神慮如何ぞや。本丸一宇も残さず、独り宇土櫓のみ祝融を兎る。
  今日鹿児島征討の勅旨鎮台に下る。

    二月廿日 晴
  今日家財を五丁川東村岩崎古平と西梶尾村不浄取・丈平竝に弁慶下熊屋敷に送る。尤も家内は奔走せず、要書宜しきに安んじ猶本宅に在り。
  今夕薩兵川尻に着く。

          以下続があるものと思われるが、抜コピーは残念ながらこれで切れている。
          大変貴重な記録であるが残念ながら熊本県立図書館も蔵していない(残念・・・・)
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「旦夕覺書」 鳥--11

2014-06-25 13:22:55 | 人物

                 随分お休みをしていたが、再度「旦夕覺書」にチャレンジしようと思っている。2011-10-29 09:57:50 以来である。
      ある人曰く、近代デジタルライブラリーで見ることが出来るから、「御苦労なことは止めたら」と・・・・・
      もっともなご指摘とは思うが、文章をタイピングすることでその内容が理解できると言うメリットもあるし、皆様にも適当な長さの節を
      読みやすく提供し、お読みいただきたいと思うが故である。

 

(p175最末尾から~)

御先代に被召仕候子孫に七八百石被下 真源院様御代に其刻随一の奉公人と御聞及び江戸御供に被召連候折節御心安思召御大名衆御煩被成候由毎日代る/\御使者に被遣候 其者参候て歸候刻被召出御直に御聞被成候處に段々委細申上罷立候跡にて扨も/\気味能物にておもふ様に勤申候 熊本
にて何も譽年寄共も譽たるか道理也 去ながら一ツつかはれぬ事が有ると御意被成候由同名不白其時分御児小姓承申候 拙者に咄被申候嶋原にて能きと申にて無之内に末々にて沙汰仕候 夫を御聞被遊右の御意との不白咄被申候 尤昔は一度能候ても腕を合申とて二度能を用申事鷹も逸物と申すは一度にては用不申二度取申時逸物との名を付申由嶋原後御人數出候後なく候へば右の人一代主君に左様に思召候様なるは天罰と存候 御奉行も勤たる儀幼少に覺へ後には御番頭に成申候 唯今家絶申候へ共其縁者多く名は記不申候 惣別人の悪はかくし申道にて候へ共與風書つゞけ申候 當世御静謐にて人の
勇臆知れ兼申人々の不仕合又は仕合も可有之哉おかしく候 其家々にて諸人あれは用に立可申物と申は十人に九人は用に立申候 あれは何共合點ゆかぬ者と諸人申者は十人か十人無勇物と信玄記武功の侍とも批判仕候と見へ申候 左様に可有之事哉と存候はつれ/\にか有之哉筆を取れは物書れ楽きをとれは音をたてんと思ふとか覺申候 併若き内には必とうはきにて平生も力身男伊達成る仕形にて咄もうてたて好候事世の常にて候 次第/\夫もすくなくて時々のはやり事に心をうつし申事各御存知可有平生武士道を心がけ申はむねの内に有之事にて外にあらはしたかるは血氣の勇とやらん 大勇には及不申と申傳候 近くは木村長門守難波戦記にしるし置候 存生にては色々申候へとも死後に志顕れ信實に秀頼公を被存たる儀日本國中の侍は不及申 将軍国主/\迄御感じ被成と申傳候 下々末々迄勇は相應/\に有之候侍と生れ下々の勇を心にかけ可申様もなく候 軍書を見れば偽或はかりこと多く有之候間聖賢の書を見申様にと幼少より同名初として申聞候 いかにも尤成儀仁義禮智本にて何も真實に守る様に尤/\と書物見申ても一字にて其身に行申事學問の根元と貝原か書置申候尤と存候尤と存ましき様なく候 人間の根本に候 然とも今は成らぬ事夫は昔事などゝ皆々心得候得共人間に昔今とて替り不申候 しからは一事成とも何とそまね身の上に行度存筈に候 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■興津才右衛門天の罰め

2014-06-24 11:14:22 | 人物

 忠興公に殉死した興津弥五右衛門の子・才右衛門は、元禄二年六月廿二日に閉門・知行召上を仰せ付けられたが、堀内傳右衛門の「旦夕覺書」にその理由を含めて書かれている。
そして傳右衛門は「天の罰め」と書き捨てている。

興津才右衛門は今の彌五右衛門父にて候、若き時より御家中一番の口利、細川丹後殿なと初として御一門中御家老中御懇比に候 妙應院様(綱利)・若狭守様(綱利弟・利重)も御懇比にて御直にも被召仕愚意を申上候程の者にて何そと申せは才右衛門被召仕候、戸越御屋敷の内廣過たる御沙汰江戸ゟ申来御せはめ被成候時、才右衛門江戸へ被遣借銀願申候、惣銀所の御目附御中小姓末松勘助に逢申今度願上申候銀高にてもへし被申候はゝ誓言にて御断申江戸御断可申由を勘助聞故、其時分氏家甚左衛門殿御奉行上野故勘助右才右衛門誓言にて申候事内意申如願埒明申候、才右衛門方々にて埒明たる自満咄の沙汰のみおれは合點せぬ惣躰つもりは調物の代過不足もなくて不叶事願の銀高不足候はゝ重ても成間敷物にてなく心まゝ誓言唯今才右衛門は御家中一人の口聞上にも能思召故、御家中歴々迄譽被申候由おれは今度の誓文にて才右衛門を夫程には思はぬと被申候同名文左衛門は別て咄被申拙者も折々出合申候、或時才右衛門十左衛門殿(山名氏)へ参候て御免被成候へとて其儘羽織むき申候、在宅にて着仕候うしろに大紋付たる帷子着いたし今日舎人殿奥方気色見廻りに参候大勢の見廻衆就夫羽織借用仕候て参候、惣躰在宅故勘略仕御寺参りの上下帷子の外には持不申なとゝ申候故、十左衛門殿御申候はいかにも御理屈承候併先日そなたの庭を見申候、大石を澤山に御求と見申候定て銀子出し御調はよもや有間敷候、百姓共に持せ取寄被申候共大勢に定て粮米は出し可被申候左様成つもりにて帷子布の羽織は出来可申候、ソナタの數寄には目か見へぬと云ふたれは才右衛門一言出す別の咄にて歸り候と拙者へ御咄被成候、いか様才右衛門何の角のとしかり申候へとも亦唯者にては無御座と申候、舎人殿にはひたしくは不参候、才右衛門は學好にて五経も自筆にて書たると承候、色々才右衛門か咄多く候、右之通に申たる者にて信少なく發明口きゝの名斗と存候、御鉄炮三十挺御預沼田小兵衛殿組にて其時分何か御用にて被召出候へは私儀今度御鉄炮御加増殊に一番備の小兵衛組に被 仰付難有由申候へは一番二番は存まし推参成る儀と御機嫌そこね申なと沙汰仕候、藤田助之進父子死骸片つけ申刻も北關に被遣候何そと申は被召仕候、其後御鉄炮頭衆と打寄足輕共鉄炮稽古の儀は昔は不斷隙々にはうたせ候や其時分は御鷹野多く三月朔日か九月朔日か定り年始の打初ゟ外には打事は成不申候、唯今も其通と存候、然る處に仲間とせり合有無に才右衛門は打せ可申と申たる儀御吟味被成才右衛門にきひ敷閉門被 仰付候て知行被召上唯今之彌五右衛門に貮百石祖父跡と被 仰付候、才右衛門は百石加増にて三百石被下候右の仕合にて病死仕候、つく/\存候へは中間申合時節を待たる稽古させ候はゝ不残御用に立可申候、才右衛門三拾挺計上手に成候ても差ての事は有間敷候、我利口たて斗にて中間にすくれたると自満斗にて信實の忠とは不存候、天罰と存候、才右衛門程成る者も又出来不申との噂のみに御座候つる、然れ共右の様子にて御意に叶不申は御直にも申上候、推参者と御意江戸にて若狭守様にも先御代之事のみ申時節しらぬ我満者にて何哉覧申上候得はおれも 真源院様御子なとゝ以の外御腹立られ候、わけは覺不申候、真實の忠ならは鉄炮稽古も中間申合候て致延引才右衛門果候ても跡々迄も御用に立様に仕事に候、拙者承候てもいくらも不實の事と存事有之候へ共事永くかゝれ不申候、兎角利口發明も不實にては天の罰めに逢申候、兎角入被申たる儀尤に存書置候 


上の文章に有る「おれも 真源院様御子・・・」という言葉は何方がが発せられたものであろうか、怒りの程が察せられる。
翌三年は妙解院様の五十回忌であり、三月にはその故を以て閉門は解かれ、息弥五右衛門に貮百石が与えられた。(御花畑御奉行所日記抄出)
因みに本妙寺(東光院?)にある興津家の墓石には九曜の紋が穿かれている。(・・・・・・・) 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御恵贈御礼「国定忠治の時代」

2014-06-23 13:57:23 | 書籍・読書

                                      国定忠治の時代 ─読み書きと剣術
 国立歴史民俗博物館の名誉教授・高橋敏先生から御著「国定忠治の時代」をお贈りいただいた。
実は過日お電話をいただき、ある件についてのお尋ねがあった。なかなか骨の折れそうな案件であるが、熊本の歴史の一端に目をつけていただいたことはうれしい限りであり、ご協力をしなければならないと思っている。
Amazonで先生の御著をいろいろ拝見し購入を考えていた矢先、この著をお送りいただいた。厚く御礼を申し上げる。

この本の内容

上州の博徒・国定忠治が生きた時代は、社会の大きな転換期でもあった。養蚕業の発展によりもたらされた富の蓄積が、文人結社・手習塾などの興隆や、女性たちの自立を促し、やがては世の中を動かす原動力ともなっていったのである。本書はそうした時代の庶民の息遣いを、豊富な古文書と丹念なフィールドワークをもとに描き出した意欲作といえる。

この本の目次

1 国定忠治の周辺(桐生周辺の無宿・博奕打忠治の武器感覚忠治の読み書き能力―無宿忠次郎と師僧貞然 ほか)
2 民衆の読み書き(筆子・筆子中とは民衆の読み書きと村落文化落文・火札・張札 ほか)
3 もうひとつの近世社会(上州の女たち子育て絵馬と間引き絵馬商家の年中行事 ほか)


 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする