日帳(寛永八年十一月)五日~六日
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| 五日 加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
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|一、助進・修理当番也
| (規矩郡)
弓場ニ死セル八開 |一、篠崎之弓場ニ、はちひらき壱人死有之由候間、御さうちのものニ捨させ候へと、上林甚介所へ、
ヲ捨テシム | 又右衛門を以、申遣候也、
片山示庵鳴海丹後 |一、片山示庵■家・鳴海丹後家修繕作事ノ奉行ニ、高田久三郎・服部左次兵衛両人申付候処、久三郎当
ノ家修繕奉行 | (筑後)
| 秋初ゟ相煩、宗庵薬をたへ申候へ共、然々験も無御座候、乍去、打ふしふせり申ほとハム御座、
| ふら/\と相煩申候間、さしかへ候様ニと候て、誓帋被差上事、
| (土々呂木以心)
上野清兵衛中風ニ |一、佐渡殿ゟ、山本源左衛門を以、被仰候は、上野清兵衛中風をさん/\相煩申候間、意心を被遣候
土々呂木以心ヲ遣 | へと被仰越候、意心申付、可遣と、返事申候事、
ス |
焔硝桶ニ欠タツ |一、重田吉左衛門申候は、五月ニ塩硝桶三拾積下候、壱桶ニ付、百五、六十日ほと、かん立申候間、
| 就其、大坂へ之送状、かん立申儀を御極候て、被仰上候而、被下候へと、吉左衛門申候、其段談合
| 仕候て、可申遣と、返事■■申候事、
| (土々呂木以心)
|一、十時意心登城被仕候間、申候は、上野清兵衛中風相煩申ニ付而、佐渡殿ゟ、意心被遣候へと被申
| 候間、被参候へと、申渡候事、
可児某病死 |一、可児清左衛門病死被仕之由、小崎與次兵衛被申候事、
| (信茂)
城信茂ヘノ貸船ニ |一、白井兵介・鏡善右衛門登城ニて申候は、城織ア様御舟御かり被成候ニ付而、御加子無之候間、当
水夫ナシ | (町奉行・吉田縫殿助)
町浦奉行等町水夫 | 町、又は浦水子可申付通、被申候ニ付而、則、吉田ぬい・御浦奉行両人ともニ登城被仕候間、相
浦水夫ヲ充ツ | (へ脱)
| 究候て、町加子四十三人・浦加子五十人被仰付候と、ぬい・浦奉行へ申渡候事、
寛永三年北国へ遣 |一、兵介・鏡善右衛門被申候は、寛永三年ニ、北国へ被遣候御舟之内、三艘北国ゟ戻不申候、就其、
セル船三艘戻ラズ | (破)
舟帳ノ肩書証判ヲ | 御舟帳究不申間、北国ニて弐艘はうり、壱艘は波損申候由申候ま、其段無紛との肩書を仕、印
求メラル | 判仕候様ニと、兵介・善左衛門申候、重而財津惣兵衛ニ、御算用聞置候御帳を見候て、かた書、
| 印判可仕と申候て、申渡候事、
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| 六日 河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
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|一、修理・兵庫当番也
門司雁木修繕奉行 |一、矢野勘右衛門登城被仕、被申候は、竹内八兵衛、事之外わつらひ申候間、神西金右衛門壱人にて、
大病 | 門司御修繕御奉行被仰付候へと、加被申候事、
| (伊与・長沢顕長室、沼田清延女)
奥方物師ヲ召置カ |一、いよ殿・けいしゆゐん殿、皆川治アを以、被仰候は、新参ニ被召置候御物師衆壱人、当壬壱〇月廿
ル扶持米ノ差紙 | (慶寿院ヵ)
| 六日ゟ被召置候、御切米七石ニ弐人ふち被遣候、月引ニ〆弐石被遣候へと、差かミ参候事、
| (沢村吉重) (炉甘)漢方薬か
長崎ニテ炉甘石購 |一、大学殿ゟ、切帋にて被仰越候ハ、長崎にて、ろかん石百斤ほとかい調候へと、被仰越候、銀子な
入ノ命 | と不足二候ハヽ、五十斤にて不苦由候、又、長崎へ便有之ハ、可申入由候事、
| (掘)
路地用二砂利ヲ掘 |一、御ろちノ衆申候ハ、しやりを田町之とぎ喜助前にて堀せ申候、今日ほり候て、明日ハ埋申候由申
ラシム | 候、念を入、埋候へと申付候事、吉田縫殿へも其段申理、堀せ候へと申付候事、
| 〃〃
町奉行闕所ノ刀脇 |一、吉田縫殿助所ゟ、御闕所物之由にて、刀一こし・わきさし四こし被差上候、御闕所奉行へ可被相
差ヲ上グ | 渡由申候て、返し申候事、
闕所奉行へ渡セシ |
ム |
中津へ出ス町水夫 |一、中津ゟ、御過去之儀被仰下早漏に付、町加子弐百人、浦加子七百人、内大坂へ上り、爰元二
浦水夫人数 | (ママ) (ママ) 百七十四人
| 不有合分五十人ハ、豊後へ遣、〆而只今出分四百七十七人出され候へと、御浦奉行衆へ申渡候事、
家老惣奉行ノ談合 |一、御年寄へ、八つゟ後、爲御談合被召寄候事、
|一、三斎様之御飛脚、江戸ゟ下候を、此方之御小早中靏二左衛門、中津へ直ニ乗せ下候由にて、今日
| 爰元着候事、