津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■右手・花畑邸

2014-04-30 08:49:37 | 熊本

                    

 明治五年明治天皇は、細川家が明治新政府に献上した甲鉄艦「龍驤」を御召艦として西国巡幸に出られた。長崎を経て熊本にもお立ち寄りに成り、「龍驤」は奇しくも故郷に錦を飾る事に成る。随行した一人に写真師・内田九一がいた。この内田が大変貴重な写真を残してくれた。
右手が花畑邸、左手は作事所跡である。正面の書物櫓・馬具櫓越しに飯田丸五階櫓が見え、右手奥には大天守が見える。
どうも判らないのが花畑邸の塀から半ば突き出したような二階建ての建物である。藩政時代の絵図では見受けられず新しいもの(絵図作成後)なのだろう。
熊本鎮台に関係する建物と考えるにはタイムラグがある。
その先に正面玄関の冠木門らしいものが見えている。

左手黒い腰壁の建物と、手前の建物(掃除方)の塀のラインが食い違っているが、これは絵図上でも確認されここから山崎天神をへて船場橋方面に向かう道がある。
作事所跡には鯉幟の旗竿みたいなものが見えるがこれは何だろうか。この時期は作事所は廃止されているから、人家であろうと思われるが、果して何だろう。
いろいろ妄想を搔き立てられる写真である。

ご厚誼をいただいているS氏のブログ「徒然なか話」では、とっくの昔に取り上げられていた。
 

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■龍驤(りゅうじょう)

2014-04-30 06:25:23 | 史料

                                                                            龍驤

  細川藩が明治三年新政府に献上した「龍驤(りゅうじょう)」である。昨日の事泰宝丸や波奈之丸のことを書いたが、この龍驤についての問い合わせをいただいた。不思議な「船つながり」である。

正直な所私はこの船については全くと言っていいほど知識を持たない。慶應元年熊本藩がグラバーを通して建造(?)を発注したらしいが、熊本藩年表稿では慶應二年七月に契約したことが記されている。そして明治三年四月十二日、知事韶邦甲鉄艦一隻を献ずと記録されている。

明治五年龍驤は明治天皇の西国行幸の御召艦となった。西郷隆盛が随伴し長崎・熊本・鹿児島等を廻航している。
私は熊本に於いてどこに停泊したのかもしらないが、今小島に行在所が残っている所をみるとその近辺なのであろうか。
熊本藩からの献上ということもありさぞかし見物人などで賑わったことであろう。(何にも知らないので恥ずかしい至りである)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

付け足し:これまた偶然だが私は「内田九一の西国九州巡幸写真の位置」という論考を見付けて読んでいた。
この内田九一という人物が天皇に随行して、各地で写真撮影をして貴重な記録を残している。ここに数葉の熊本の記録が残されている。
熊本城や水前寺といった処は今の観光と一緒だが、大変貴重なのは花畑邸を右手に、作事所を左手に馬具櫓越しに大天守をのぞむ写真である。
凄い写真が残されているなーとおもっていろいろググっていたら、なんとご厚誼をいただいているブログ「徒然なか話」ですでに紹介されていた。
 

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■泰宝丸と波奈之丸

2014-04-29 09:47:29 | 史料

 細川家の御座船は波奈之丸が有名だが、それ以前に泰宝丸と云う波奈之丸より大きな船があったという。
 なにか詳しい資料はないかと思っていたら、「雑事紛冗解」にその答えがあった。
 雑事紛冗解(ざつじふんじょうかい)は重賢公時代にまとめられた、上中下三巻にわたる側近が調べた事項を整理記録したものである。 

 ■泰宝丸 八拾挺立
 但 天正年之比 丹後国於宮津八拾挺之御召船 初而新造出来被仰付由之御船 右之泰宝丸ニ而御座候 尤大坂天満町大工棟梁高橋善兵衛と申もの
 御雇下ニ而造立候段申伝候事
 右御船長過御乗悪被思召上 妙解院様(忠利)御代艫之方被御切せ 尤已前ハ櫓二人掛りニ而御座候を一人押被仰付候由 其時之御書左之通

    我等八拾挺立之船日外より如申何とても長過 乗にくゝ候間 とものつき板をのけ候而七拾四五挺立可申候哉 又七拾挺ニても可有之哉
    とかくミしかく仕度候間追付ともを切可被申候 当年下候時乗候様ニハ成間敷哉 不成候而も不苦候 左候ハゝ屋かたもつまり可申候 此段
    見計可申候 此状参着次第熊本より此状遣 奉行共参り可申候 一日も早く取付不申候ハゝ下候時やくニ立ましく候間 其元も大工候ハゝは
    や屋かたものけ急ニ出来候様有度候 又とかく九月下ニやくニ立不申候とも京之逗留ハ知申間敷候間 先屋かたより取のけ熊本奉行参次
    第船江つめ可申候 此所文字消候而分り兼申候 大工ニ可申付候 以上
         卯月十一日御名御判
                                      白井兵助とのへ
                                      糸川長右衛門とのへ

 此御書 妙解院様より其時代之御船頭江被下候由之写ニ而 熊本書于今相伝居申候 泰宝丸之儀丹後・小倉ニ而ハ国執丸と唱居候由之処 御好艫之
 間切方被仰付候時 不格好ニ成候故猶又六拾六挺立ニ被仰付夫より御船銘六拾六挺立と唱居候を
 靈雲院様(宣紀)御代御船銘泰宝丸と被遊御改 御真跡之御額をも被遊御掛御塗船ニ成候儀ハ
 隆徳院様(宗孝)御代已来ニ而御座候 尤大坂棟梁高橋善右衛門相勤候由申伝候事
    

                                        
                                                 波奈之丸と伴走する船

 ■波奈之丸 七拾四挺立
 豊前於中津 三斎様依御好新造出来被仰付 大坂棟梁高橋善兵衛御雇下ニ而 元和九年より明ル寛永元年夏迄ニ成就仕 三斎様被遊御召船候由
 肥後江被為移候時分 右弐艘共ニ川尻江被指廻置 貞享年之比 波奈之丸於大坂御造替 大坂棟梁高橋善兵衛忰高橋善左衛門と申者造立候事
 右御船 貞享年之比鶴崎江被指廻 唯今之通御座候 寛保二年御造替ニ付 大坂大工棟梁戎嶋豊後屋五兵衛と申者御雇下ニ而 大坂大工弐拾五人
 外ニ木挽・鍛冶・鋸屋共ニ御雇下 鶴崎御船手受込にて 同所棟梁立合 翌三年正月迄ニ成就仕候由之事 右之通申伝 又ハ控帳をも吟味仕候 尤旧
 年は控帳無御座 申伝之趣を以申上候 以上
       安永六年四月                                  川尻御船手 野間文右衛門 

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■細川家と烏丸家

2014-04-29 07:08:45 | 人物

 光賢室は三齋の愛娘・万姫である。二人の娘・禰々は忠利の子・光利(光尚)に嫁いだが寛永十三年十月十一日十七歳で亡くなっている。名前さえ付けられていない男子も十二月十二日母を追うようにして亡くなった。忠利の悲しみに満ちた書状を先にご紹介した。
日本近世史料・細川家史料二十四には、幾度ともなく烏丸家に関する記述が出てくる。
この巻は寛永十五年七月廿日から十一月廿八日の間のものだが、この間に烏丸家では光廣(七月十三日60歳)・光賢(九月九日36歳)の親子が相次いで亡くなった。烏丸家の打ち続く不幸な出来事に万姫の心中察するに余りある。
烏丸家の跡は嫡男・資慶が継ぐことになり、その娘は松井寄之(忠利や万姫の末弟)の嫡男・直之に嫁いでいる。
資慶の二男資清は裏松家を興し家祖となる。資清の子・意光の妻は松井寄之・女であるなど、細川家と烏丸家のつながりの深さが判る。

 
                               +---雅知===雅直===雅豊
                    飛鳥井雅章    |        ↑    ↑
                          ∥----+---雅直・・・・・     |
                      +---○    |              |
                      |        +---雅豊・・・・・・・・・・・・
                      |        |
                      |        +---吉田兼起室
                      |
         烏丸光広---光賢  |       +---女 七条隆豊室
                  ∥   |       |
                  ∥---+---資慶---+---松井直之室     
              +--お万  |          
              |       +---裏松資清-----意光-----益光
              |       |             ∥     ∥
              |       +---         ●     
              |       |  義兄・飛鳥井雅章養女 
              |       |  
              |       +---禰々     
              |           ∥      
幽齋---+---忠興---+--忠利-------光尚 
     |        |                   
     |        |                   ∥
     |        +---松井寄之---+--------直之
     |                    |
     |                    +-----------●役 裏松意光室   
     |                           
     +---------伊也                 ∥ 
              ∥------兼英------------兼起---兼敬---裏松益光室
吉田兼右---兼見---兼治

 
消息(丹羽亀之允言上之覚)正保三年
 一、弐百石         おせひ
    右ハ飛鳥井殿御娘御万様之御孫子御万様御養候而吉田殿御よめ被成候由

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■佐佐佐佐

2014-04-28 20:01:16 | 人物

 雑事紛冗解にある嘘のような本当の話・・・
松平出羽守の家臣の名前である。さささすけと読むのだそうだが、世の中にはこの様に奇をてらった名前の人が時折登場する。
なぜこのような名前が記録されているのかと云うと、各藩の家臣で読みが難しい人の名前にルビをふって記してある。
これは外交の上で不都合が起らないようにとの配慮によるものであろう。

114名の名前が挙げられているが、以下の如きは皆目わからなかった。
水戸様御家来 入戸野(ニットノ)十五郎、新家(ニイノミ)九郎右衛門
讃州様御家来 小夫(オダ)隼太
薩州様御家来 頴娃(エイ)左京 

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■銘・荒木

2014-04-28 08:47:10 | 徒然

 昨日の「なんでも鑑定団」をみていたら、この「荒木」とよく似ているからと出された茶碗があった。
安南(ベトナム)の茶碗でそれでも20万円とかの評価であったから、ご本人はなかなかの目利きではある。
しかしこの「荒木」村重が逃げる際、ふところに入れて大事にしたという話しが残っているが、よくぞ残ったものではある。 

                           唐草文染付茶碗 銘 荒木

                                                                        徳川美術館所蔵

唐草文染付茶碗 銘 荒木

戦国武将荒木村重が所持したことから「荒木」の銘がつけられた茶碗。見込と外部側面に呉須で唐草文が描かれているが、高台を除いて内外にかけられた乳白色の釉のため文様は不鮮明である。「荒木高麗」とも呼ばれてきたが、中国南部産の呉須絵陶器であろう。千利休、徳川家康の手を経て、尾張家初代義直に伝えられた。大名物。【明時代 16世紀】

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■光尚嫡男の死

2014-04-28 07:00:48 | 人物

 光尚に初めて授かった子は男子であり、その喜びは如何ばかりであったか、三齋書状や熊本における喜びの様などいろいろな史料に伺える。
それ故に室・禰々の死(10・14)や、引き続く男子の死(12・12)は驚愕の出来事であった。 

                       以早打申候孫之事肝と(を?)つふし候 肥後ニ心得可申候 打續加様之事稀成事にて候
                       此上者何ほとも祝候て可然候 此方も其分ニ候頓而祝候様ニ人を下可申候 何とそ肥後ニ
                       たゝり候去年ハ年と存候間此春ゟ祝候事せんにて候 又奥のつき/\の女の事も我等下
                       候て可申付と右ニも申候 先左様ニ心得可申候 替事候ハゝ跡ゟ可申候 次ニ何もゟ飛脚
                       なと参候事可有之候 度々承迷惑かり申候間必人も不参様ニと随分心得可申候 謹言
                                                         越
                         (寛永十四年)正月四日                  忠利 御印
                                 小笠原備前殿
                                 松野織部殿
                                 町三右衛門殿
                                 横山助進殿
                                 浅山修理殿

江戸から急報がもたらされたのだろうが、その返書の日付を見ると相当の日数が経過している。
孫の誕生を喜びながら新たな年の賀を祝っていたであろう最中の訃報であった。心中察するに余りある。 

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■細田七蔵との接点

2014-04-27 09:08:11 | 人物

 細田七蔵は荒木摂津守村重家系の人である。のちに細川家家臣となるのだが、いささか遡る時代に細川家との接点が見える。

    寛永十年正月二十七日、松野織部・町三右衛門宛忠利書状(熊本県史料・近世編二 p119)
        一、細七蔵ゟ隼之兄仙石兵助殿ゟ鷂(ハシタカ)一居六へ給候由得其意候事 

    寛永十一年十二月二十五日、松野織部・町三右衛門宛忠利書状(熊本県史料・近世編二 p116)
        一、六江阿波殿ゟはいたか一連・うつらいぬ一疋細田七蔵殿ゟこのり一連給候由得其意候事

     

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■休斎殿のこと

2014-04-27 07:24:59 | 人物

 三齋から忠利に宛てた寛永十一年八月十五日の書状は、忠利と仲たがいをしている叔父・休斎に係る事である。(熊本縣史料・近世編第二 p■■ 該当部分抜粋)
以前に書いた 孝之に家督・・・? に連動していると思われる文書だと思われる。

                    休斎儀ニ付立允かたへ松井佐渡書披見候 休斎儀ニ付被
                    差上せ候使持せ被置候由候 
此儀迄ニ候ハゝ今朝立允方
                    ゟ申遣候ことく其方之使者此方へ可給候 其間被待候而も
                    苦かるましき儀かと存候 其方へ我々談合申候上ならてハ
                    又左へ返事不成わけにて候其様子書中ニ難盡候間其方之
                    使待申候 恐々謹言

かっては25,000石を領し豊前香春城主であった休斎(孝之)だが、忠興はいわゆる「御一門払い」を実行し、一族枝葉をすべて家臣たらしめた。
休斎は甥である忠利から、500石の扶持を与えられ鬱憤もあってか、振舞いも悪く忠利との仲は険悪である。
直接の解決は難しく三齋に肝煎りを願ったのであろう。 

便宜の為「孝之に家督・・・?」に書いた熊本縣史料・近世編第二 p140にある、「年号不明 七月廿九日付、仁保太兵衛・下村五兵衛宛て忠利書状」を再掲しておく。(該当部分抜粋)


                    我等おち休斎事我等申候事を不被聞候間中を違候 就其
                    又上度由被申候間主儘与申候 乍去我等者中違二而候
                    故、三齋ハ御構候事不成候故、立允笑止かり主知行所へ
                    よひ候て置候様ニ聞候緞(ママ)又其替り被上候事も可在之
                    候 段々約束違候て心儘二候間右之分ニ候 それ故主身
                    躰之事も今ハ構不申候 何事そと可存候間申遣候 段々
                    御入候なかき儀ニ候間、此度不申候 左門殿なと御尋候
                    ハゝ此前かしらをそり京へ被上候時 色々かための書物な
                    と被申付候 左様之事違候とて腹を被立しかり被申候由ニ
                    候 今弟之知行へはいり候而被居候由承候通御尋候ハゝ
                    可申事
                                       

「やっかい叔父」という言い方があるが、忠利にとって一歳しか違わないこの叔父はまさしく厄介な人であったようだ。
二つの文書についての顛末はよく判らない。 

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■銀二貫

2014-04-26 16:13:08 | 熊本史談会

 私たち位の年代だと尺貫法もメートル法も両方理解している年代で、1貫目は3.75㎏であることはよく承知している。
「お前の体重は」と聞かれて16貫と答えると、それは何㎏かと問われる。すると頭の中で暗算をして56㎏と即答するのだが、16×3.75ではなく8×7.5と計算するわけだ。私の小学生時代は60㎏だった。現在はといえば言わぬが花・・・・・・

 NHKのドラマ「銀二貫」が放映されている。あまり見ていないが題の「銀二貫」には大いに興味がある。筋書きはNHKのサイト「木曜時代劇・銀二貫」を見ていただくとして、このお金は元々、火事に遭った天満宮再建の為に、寄進するために用意されたものであったとい筋立てが進行していく。

 現在の銀価格はグラム当たり約72円ほどである。二貫目7、500グラム×72円で518,000円であるが、当時はこんなに安いものではない。
「ドラマの見どころ」をみると、小判で33両ほど現在では300万円ほどだと解説している。価値の変動で何倍にもなる事があつたとも記してある。

 江戸時代のいわゆる「三貨制度」はなかなか理解が難しい。
次回の史談会ではゲスト講師を御迎えしてこの「三貨制度」についてお話を伺うが、予習の為と思い「江戸のお金の物語」などという本を読んでいるが、何とも難しくてちんぷんかんぷんである。

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■GW こちらは如何・・・

2014-04-26 15:20:54 | 熊本
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■寛永十五年・・口蹄疫?

2014-04-26 11:01:44 | 歴史

 4月13日熊本の南部・多良木町で鶏インフルエンザが発生したことが判明すると、熊本県は迅速な反応をして113,000羽の鶏を殺処分し16日には防疫措置完了するという手際の良さを見せた。その後広がりを見せておらずどうやら収束に向かっているのだろう。
かってはお隣宮崎県でも鶏インフルエンザや、牛の口蹄疫等で知事に当選直後の東国原氏が奔走する姿が全国メディアで注目されたことがあった。
牛の殺処分は276,000頭、鶏は41万羽に及んだと言われ宮崎東部の五ケ町村では牛の姿が消えてしまったという。
この様な大きな教訓をベースに今回の熊本における鶏インフルエンザの抑え込みは大きな成果であったと云える。

大日本近世史・細川家史料二十四を見ると、寛永十五年肥前・筑後で牛の大量死亡がさかんに伝えられている。これは豊前にも広がり米の作付に支障がでていると記されている。熊本も国境において被害がでている。
その数がどのくらいのものであったのかは判らないが、その衝撃は現代と変らないものであったようだ。
まさに歴史は繰り返されている。しぶとく菌は息長られているのだろう。 

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■一休長文字「諸悪莫作衆善奉行」

2014-04-26 08:13:02 | 史料

熊本県史料・近世編二の誌面をなんとなく眺めていたら、「一休長文字」が目に飛び込んできた。
この当該書状は寛永八年二月十五日付の三齋から忠利に宛てた書状(p41)で、正月廿日城中でもあろうか「御数寄初 将軍様へ御茶被進候由目出度儀候事」とし、次にこのように記している。
          廿一日薩摩殿・宮内殿・美作殿・長門殿・越前殿其方へ 御茶被下 御機嫌残所無之由是又目出度儀ニ候
          御かさり書立被越候内圓座之御茶入ハ如何様ニ披見候哉ちと平キ様ニ可被存かと存候 昔ハ日本ニて四ツ
          の茶入ニて候つる 不入儀なから様子承度候 一休長文字と被書付候ハ諸祖菩提之事候哉長文字之天下一
          ニて候披見候事浦山敷存候事

私は以前一休の長文字を書いた。童話で語られる「し」という長文字である。
上の文章を読みながらハッと思い至ったのが「一休長文字と被書付候ハ諸祖菩提之事候哉」という記述である。 
あわてて某展覧会の図録を引っ張り出してみる。一休宗純の「七仏通戒偈」である。この「諸悪莫作衆善奉行」という一休の書の存在はその書の雄渾な様が頭にあって忘れることは無いのだが、これが一休の長文字であった。この書を収める内箱の表に三齋の筆によりそう書かれているという。
そして私はこの書についても触れていた。 

                                                                                    

図録の解説をちゃんと読んでいればこんな失態をすることは無かったのだが、しかし上記書状を見つけ出して解決できたというのもまた価値があるではないかと思うのである。

追記:のちに見付けた上記書状に対する忠利の返書(p23) 14/04/26 14;24記す

          二月十五日之御書三月朔日致頂戴候
               (中略)
          一休長文字如御意諸祖菩提ニ而御座候 是ハ我等共目にも事之外見事ニ見申候 扨ハ天下一ニて御座候哉
          表具もむかしのニて御座候哉軸已下ふかく見へ申候 中ハ白地乃金襴ニ上のかたニ候大なるかのしゝ三ツ御
          座候 下の中ハ上の金襴ニかはり地ハしろく御座候へとももんかはり申候
               (中略)
             (寛永八年)三月五日                      忠興
                         貴田半左衛門殿 

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松寿庵先生 第96講

2014-04-25 11:52:47 | 歴史

                               ■ 細川内膳家と希首座の祠

                               ■ 希首座の祠

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■御恵贈御礼「大日本近世史料 細川家史料・二十四」

2014-04-25 09:10:19 | 書籍・読書

 誠に思いがけないことで、この巻の編纂を担当された東京大学史料編纂所の山口和夫准教授林 晃光助教両先生ご連名にてご恵贈いただいた。
なんとも恐れ入ったる次第でたいへん恐縮している。ただただ有り難く拝受させていただくことにした。
両先生の御苦労に敬意と感謝を申し上げる。 

待望の二十四巻は寛永十五年の御公儀案文である。七月廿日から十一月廿八日までのものだが、天草島原の乱後のようやく落ち着いた様子の中にも、忠利の討死をした人を想う気持ちなどが文面に表れている。烏丸光廣・光賢父子の死もこの時期である。それぞれの文面から時代の息使いが聞こえる。

 

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