8代 9代
+---細川重賢------細川治年----+---年和20歳没、應五郎6歳没
| ‖ |
+------清源院 +---埴 +---就(ナル)姫・久我前内大臣通明簾中
(5)‖ | | 10代 11代 12代 13代
+---細川興里 | +==齊茲----齊樹==== 齊護 ----+---韶邦
| (6) | ⇧ ⇧ | 14代
+------ 興文----+----------------- 立禮----立之---+---立政 +---護久・・・・・・・・・・・・・・・・・宗家
(7) (8) | (9)
+---行芬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宇土・細川家
(10)
1、立禮(齊茲)の宗家相続については、立禮が消極的であったようだが、5代興里公夫人で重賢公の妹・清源院(治年にとっては叔母)が、
「是非ともお受けするように」と協力に助言をされたという話が伝わる。
2、立禮にとって宗家の治年は姉聟という関係であり、その息應五郎が幼少であったためのリリーフ役であった。
3、立之は立禮が宇土藩主時代の子(兄)であり、齊樹は立之が宗家相続後(齊茲)の子(弟)である。
4、立政が宇土藩主時代、齊樹女・篤姫と結婚するも14歳で死去している。
齊樹の病が重篤となり、齊樹夫人(一橋大納言治斎女=紀姫)の実方から養嗣子を迎える話が進捗していたが、国元に於いては
血統が絶えることに反対の声が沸騰し、決定が覆されて宇土市藩藩主立政に決定した。
宇土藩主は弟・行芬が若くして(17歳)跡式継承した。