津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「北村甚太郎覚書」を読む--1

2014-08-31 17:34:13 | 史料

 或方から幽齋公の「田邊城籠城」に係る古文書の原本をupしてほしいとのリクエストをいただいた。古文書解読の勉強をしたいとの事であった。
そこで今般「北村甚太郎覚書」を毎日1頁づつUPし、後日釈文をとりあげたいと思う。史料は上妻文庫の書写本である。

 

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■「尾藤家先祖附」 と 「林家記」・ニ

2014-08-31 06:54:46 | 史料

                  尾藤家先祖附      右浪人之時妻子
                                 京都江差越申候節家頼之中武功之侍林□□(半助カ)

                                 附申候由■中自然事も■無油断可相心得旨申附
                                 其節左衛門尉ゟ刀一腰黄金取出右半助と申候此刀ハ
                                 左衛門尉讃岐拝領之為嘉儀蒲生飛騨守殿ゟ被遣候
                                 飛騨守殿其節被申候は伊勢一国ニ換間敷刀ニ而候へ共
                                 此節譲申候由津之一國と名付致所持候由ニ而御座候右半助は
                                 讃岐ニ而貮千石知行仕候御家之林孫兵衛先祖ニ而
                                 御座候故孫兵衛方江右一國と申刀今以所持可仕候右
                                 刀本先祖刀ニ付先年私家ニ返可申と其節

                                 孫兵衛隠居仕請入致挨拶候得共由緒有之林家
                                 持傳候条此方江は申受間敷旨金左衛門(二代目)致
                                 返答候

 

                  林家記          尾藤殿牢人ニテ京都
                                 □越屋ト云モノ所ニ忍テヲハシマシテ何方ヘソ身ヲ隠シ
                                 有ヘシトテ内室御息女男子ハ嫡子宗二郎殿後ニ宗左衛門殿
                                 二男は正介殿後ニ金左衛門殿宗次郎殿八歳ノ時ノ事也 美濃
                                 ノ金山ニ森右近殿五万石ニテ御入候 此家老細野左兵衛と云ハ
                                 御内室兄也 此処へ可遣ニ相究半介ヲ呼其方ヲ頼之妻
                                 子ヲ金山へ遣度思フ明朝其方ツレテ行左兵衛ニ可相渡於

                                 路次トガメラレハ以此刀女房共ヲ先害シ隙有ラハ両人ノ男子
                                 ヲ殺シ其後ハ成次第ニ可仕此刀ハ當夏讃州拝領之時蒲生
                                 飛騨守殿サシ来ラレ今度自方々名作ノ刀ハかゝにサレ共此刀
                                 程ノ柄物稀ナルヘシ■蔵ニ存伊勢一国ニモカへマシキト云ノ
                                 イケンニテ一国ト名ヲ付ル 新身ナレ共トテクレラレタル刀也 此刀
                                 ト黄金六枚取出シ是ヲ呉右武尋被見候へ日比此金貯は持候ナラ
                                 ハ今度ハ何方カラモヨルマシ一両日之内ニ何茂ヨリクレラレタリ
                                 此金ニテハ三五年流浪イタス共叓闕事有マシト被仰候          

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いま一つの「高麗門記」

2014-08-30 07:12:49 | 史料

 以前 高麗門記 を御紹介したが白文であったため読めずにいたが、御縁があってMU様の御手により解読に至った。
それが 高麗門記 - 2 である。原文は家老・有吉家の臣・中山黙斎(昌禮)である。陪臣ながらも藩校時習館の塾長を勤め、又、「井田衍義」「度支彙缶(タクシイカン)」「肥後官員職領指掌図」「中山市之進上書」その他の著作を多く著している。

今般ご紹介するのは、肥後文献叢書(五)にある「鹽井先生遺稿・巻六」に記されている「高麗門記」である。
著者・鹽井先生とは藩校時習館の四代目の教授をつとめた辛嶋塩井である。天保十年二月廿三日没、八十六歳。


                高麗門者 熊城之西門也 負於市廛 面於郊野 祓水為之帯 而祇園之山 為之屏隣 亦郭内之一要衝也 昔豊太閤命諸将
                征朝鮮也 吾肥先封加藤氏 功為最多 而及其振旗也 遂取其門材而歸 以為城門 因以高麗稱云 葢門制高若干仭 長若
                干仭 比諸它城門 亦非高且大也 亦非壯且麗也 然邦人之諸他邦 他邦之人 必以是為問焉 出城門 則西不二十里 走
                於高梁 乃近津耳 亦非行旅來往之途也 然行旅之人 到於都下 亦必過而観焉 是豈非以其名之異邦 非特以其人邪 余
                家距門不遠 廛屋相比 木柝相聞 故自幼稚之時 従里老閭兒 逍遥出遊 或聚沙石 以為嬉戯 必于茲門之旁 又毎風景
                美日 風於鐘淵 嘯於祇山 而遊於域城西諸寺 亦必出入於是門 則未嘗不仰歎加藤氏朝鮮之事也 嘗聞朝鮮之人 至今立
                公祠于城門外 歳時祀焉 且其俗有鬼将之稱 以止兒啼 鬼将乃謂公云 嗚呼 公威武恩徳 被於殊域之人 亦何染也 至
                于如吾肥 固為其賜履之地 則營城郭築堤防 及定田野賦貢之制 民受其利澤 不一而足矣 則豈特仰公名於一門闕之高
                哉 然是門也 取名於殊域 以表城闕 則數十百年之後 萬民之膽仰 用不忘公之有大功於殊域 於是乎可見矣 由之観之
                鬼将之名 不朽於彼 所以殊域之名存於此地 昔春秋之世 宗人伐鄍 以大宮之椽歸 為盧門之椽 事載于左氏傳 葢旌其
                功也 夫朝鮮之役 留滞六七年 大小數百戦 天下後世 莫弗傳聞也 然近世史官之職癈久矣 故野史稗宮所記 撮其大綱
                耳 未遑及於細故之事也 嗚呼 異日如有大史之執筆 以録是役者 必及加藤氏之事 則是門之作 或足以為其旌功之一矣
                故記之 以備於大史氏之采云

 

四苦八苦でタイピングしたものの、御覧の通りの白文でまったく理解できない。是又どなたかに解読をお願いするしかない。    

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■「尾藤家先祖附」 と 「林家記」

2014-08-29 08:16:55 | 徒然

 現在、讃岐18万石を領し後秀吉により切腹させられた尾藤一成の子・尾藤知則(金左衛門)を初代とする尾藤家の先祖附を読んでいる。
中々の達筆で書かれているのにもかかわらず、独特の崩し文字があり読み下しに四苦八苦している。
寛永十二年金左衛門は細川忠利の召し出しにより熊本へ赴く途中の船便で、別の舟に乗っていた嫡子夫婦の舟が難破破損して溺死している。この折先祖に係る書物を紛失したらしく、一成に係る事も詳しく記されているとは言い難い。
そんな中にも父・一成が讃岐国を拝領した時蒲生飛騨守(氏郷)から一振りの名刀を祝いとして贈られたことに触れている。一国にも代えがたい刀だと称して「一国」を名づけられていた。一成は改易の後妻子を家臣・林半介に託して遁れさせている。蒲生氏郷から貰い受けた名刀「一國」は林家に伝えられたという。初代金左衛門女が林半介の子孫・孫兵衛正元に嫁いでおり因縁を感じさせる。

わたしは以前この林半介のご子孫からご連絡をいただき、先祖附を始め家記などをお送りして以降ご厚誼をいただいている。
先祖附は半介の代には触れられておらず、別途「家記」が存在してここに「尾藤家先祖附」に符合することが記されている。
林家の口伝では、織田信長の家老役であった林秀貞の子孫(一族?)らしいが、「家記」においても触れられておらず残念ながら実証は難しい。
しかし全くあり得ない話でもないように思え、追加資料が現れないかと神経を傍だたせている。
この「家記」は熊本県立図書館所蔵の宮村典太著の「雑撰録・巻三」に「林家記」として残されている。原本の所在は不明である。
そしてこちらも宮村典太の独特の筆跡が読み下しを困難にさせており、A4十枚に及ぶ読み下し文も■表示の文字が数多くあり完読に至っていない。

今般尾藤家の先祖附を読むに当たり、「一國」に関する共通の記述を発見して何とか両方の文書を完読させたいと再チャレンジをしている。 

 

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■熊本城顕彰会誌「熊本城」から

2014-08-28 13:48:26 | 徒然

 熊本城顕彰会誌「熊本城」の最新号(95号)に、富田紘一先生の「明治初期の熊本城・二」が紹介されている。
その中に「千葉城から不開門方向を望む(写真1)」と「千葉城前の掲示板(写真2)」があるが、「写真2」は「写真1」の掲示部分のクローズアップ写真である。
先生のお話によると鮮明な写真では、この掲示板の内容が読み取れるというのであるが、これは明治天皇の熊本御巡幸の予定を掲示しているものだという。ちなみにこの写真は長崎大学が所蔵する内田九一撮影の写真である。

                               写真1と同じ内田九一撮影の写真


内田九一は明治天皇の御真影も撮影した人物だが、天皇の西国御巡幸にも同道している。この写真もその折撮影したものであろうが、この文章は六月十四日となっているそうだから、天皇が熊本入りされる三日ほど前に掲示したことが判る。斜めに登る石垣は「不開門」前の坂だから、この場所は県立美術館分館の前あたりなのだろう。
原版の大きさがどの程度なのか判らないが、それにしても、この掲示板の内容が読み取れるというのがすごいではないか。

 

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■並河金右衛門

2014-08-28 07:09:14 | 歴史

 館林藩士・岡谷繁美なる人物が15年の歳月をかけて著した「名将言行録」という著がある。いまでは俗書と評されているが、結構この内容がWEB上で独り歩きしているものがある。
並河金右衛門が「織田信長の首をとった」という話しもその最たるものといえよう。

その金右衛門は熊本の並河志摩守に比定されている。迷惑な話ではある。

昨日「信長のディスマスク」を書いたが、信長が首を斬られたという事が事実として有り、一部の人間がその事を知り伝えたのではないのかとふと思った。
弥助なのか金右衛門なのか知る由もないが、今後いろいろ議論が深まる事であろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

因みに並河志摩守についてはぴえーる様の次のようなレポートがあった。全文を引用させていただく。

2013-04-16 並河志摩守 

『平成 肥後国誌』の載せる禅定寺の刻銘によると、寛永7年7月25日に並河志摩守宗為が亡くなっている。「安永三年小浜藩家臣由緒書」では、宗為の父は並河兵庫介宗隆。兵庫介はのち掃部介と改める。『丹波笑路城発掘調査報告』によると、並河因幡守宗隆、兵庫介(掃部介)易家の兄弟がおり、天正3年6月16日付で信長から朱印状をもらったとある。検索すると、その朱印状と思われるものが紹介されていた。

http://akira848.cocolog-nifty.com/nikki/2007/04/post_0d5d.html

『丹波笑路城発掘調査報告』では兵庫介(掃部介)ではなく因幡守の実名が宗隆となっている。どちらが正しいのか、実名を記した史料を知らないので判断できない。

千葉一族のページでは、易家の子を志摩守とする系図が紹介されている。

http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku7.htm

易家の名前は『明智軍記』に、子供の八郎と共にみえる。同書には易家は山崎の戦いで討死したとあるが、「安永三年小浜藩家臣由緒書」では、掃部介はその後も存命で、摂津で亡くなったとする。

「安永三年小浜藩家臣由緒書」によると、志摩守宗為の長男は、父と同様に加藤家に仕えた金右衛門、のち志摩。二男は小浜藩並河家の初代となる久左衛門宗久。二代目の志摩守の加藤家改易後の行方は諸説ある。『綿考輯録』は実名を元久とし、寛永10年7月21日に肥後で亡くなったとする。子孫は米村姓を称し、細川家に仕えた。一方、『南路志』や『土佐国郡書類従』によると、実名は宗照。土佐の山内忠義に仕えて、寛文8年8月4日に亡くなり、その後、養嗣子の主税重康の代に乱心で知行を召し上げられたとある。

『要略 会津藩諸士系譜』に金右衛門の子孫がみえるが、略系譜しかないため、二代目志摩守の子孫であるか判別できない。いずれ現地で調査したい。史料間の差異が複数見られるが、まずは現時点で分かっていることを並べてみた。

 

 

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■信長のディスマスク

2014-08-27 06:56:44 | 歴史

 最近新聞やWebに「信長のディスマスク」なるものの報道がなされている。TBSのローカル版の某番組で放送されたものらしい。
Webで一気に全国区になった。早速YouTubeにも登場していた。この時代ディスマスクを作る技術があったという事も驚きだが、弥助なる外人が登場してくると有りうる話かな~と納得もしてしまう。

唇の薄い神経質そうな面立ちを想像していたが、いかにもがっしりした武将の顔ではないか・・・・

最近新刊の信長に関する書籍が発刊されて興味深く読んでいるが、このディスマスクの顔がすっかり私の頭の中に居坐ってしまった。
そのうちどなたかが目を明けた信長の姿をお描きに成るのではないか・・・・

私はすっかり本物と思い込んでいるのだが・・・・さて 

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■お安く読む 本日発売「信長と将軍義昭 - 連携から追放、包囲網へ」中公新書

2014-08-26 20:34:20 | 書籍・読書

                                          信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ

信長と将軍義昭

連携から追放、包囲網へ

谷口克広 著

各地を流浪した足利義昭は、一五六八年、織田信長に奉じられて上洛し、宿願の将軍職に就いた。長らく傀儡にすぎないとされてきた義昭だが、近年では将軍として行使した政治力が注目されている。京都から追放された後でさえ、信長に対抗できる実力を保持していた、とする説もある。上洛後の信長と義昭は果たしてどのような関係にあったのか。強烈な個性を放った二人が、連携から確執、対立へと至る過程を詳述する。

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■稲葉小僧

2014-08-26 13:30:05 | 歴史

 稲葉小僧成る人物、実在していたか否かご存知ですか。答えは こちら・・・・・

                                        

重賢公の御代、長崎御留守居・御用人などをつとめた上羽蔀という人物があった。何が原因であるか御用人の砌御咎を受け差除けられた。
この蔀が御取次組脇を勤めていた頃、江戸龍口邸にこの稲葉小僧が押し入っている。
御道具等盗み取られ、ようやく夜が明けてその事を知ったが、御用人から急に蔀に出勤を申し渡され袴の紐を結び/\出て何事と聞きあわせると、これこれと説明があった。蔀は「御門留御達有りけるや」と申すと、夫よりあわてて「御門留」の達しがでたという。皆々気が動転している中、蔀の適切な言が書きとめられている。(残疑物語)
この人、致仕後に酒井烏鼠と名を改め、その言行が「肥後先哲偉蹟 正・続」に記載されている。 

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■先祖附 牧(新五)家

2014-08-25 15:14:35 | 先祖附

                                       

  牧家・略系図 (作成・責 津々堂)

                                +--新五(病死)
          兼重       嫡男・興相      |   善太郎・四郎右衛門
 牧遠江守---尉大夫---+--新五・左馬之允---+--平左衛門------------→(新五家)
                |             |   虎蔵    
                |             +--藤左衛門------------→(藤衛家)
                | 二男      
                +--五助----------------------------------→(新二家)
                |
                | 三男(細川忠興軍功記編者)
                +--丞大夫---+--権内 (病にて知行差上げ)
                          |
                          +--五左衛門---+--丹右衛門---→(市右衛門家)
                                     |
                                     +--丞大夫-----→(丞大夫家)
              

 牧家は細川家根本家臣の一家であり、青龍寺以来の家格を持つ。
 【牧丞太夫(兼重)ハ青龍寺より御奉公仕候、代々細川の御家臣筋目を以被召出、既ニ一色御討果の時も石川山にて狼烟を揚し役人也、其後小笠原少左衛門所にて黒川大炊と喧嘩 (中略)秀吉公より喧嘩は両成敗と被仰出・・(中略)立退・・夫より浪人して小西攝津守に奉公・・其後岐阜中納言殿ニも少の間奉公・・「今年(天正十九年)牧丞太夫・同新五父子帰参仕、聚楽にて御目見被仰付候」】


                                                千石 牧 新五
                               一、先祖牧遠江守と申者摂津國嶋上郡
                                 上牧と申所之者ニ而御座候右遠江守嫡子
                                 初代
                                 牧尉大夫儀
                                 幽齋様御代青龍寺ニ而被召出
                                 三齋様御代迄御奉公相勤高麗御陳
                                 之節御供仕其後丹後ニ而病死仕候御知行
                                 貮百石被為拝領候由ニ御座候

                                 三齋様御代右尉大夫嫡子二代目左馬之允儀新五と
                                 申候節丹後ニ而被召出御知行五百石被為拝領
                                 御側御鉄炮拾五挺被成御預御側ニ被召仕候
                                 岐阜関ヶ原御陳之節御供岐阜於大手
                                 相働申候ニ付御陳場ニ而段々御懇之蒙
                                 御意中くり之御差物并仁王清徳之御腰物
                                 被為拝領仁王之御腰物今以所持仕居申候右
                                 中くり之差物は関ヶ原御帰陳以後又々
                                 
                                 三齋様御指物ニ被遊由ニ而被召上御差物ニ
                                 御用被遊候由ニ御座候右中くり以来左馬之允
                                 定紋ニ相用候様ニと
                                 三齋様 御意ニ而今以定紋ニ相用申候
                                 其已後
                                 怠(臺)徳院様御差物初之節右中くり之御
                                 差物
                                 公義江被差上候段承傳申候其後於豊前国

                                 段々結構成 御意ニ而御加増被為拝領
                                 都合六千石之 御書出今以所持仕居
                                 申候其節御備頭被仰付御側ニ相勤御内■
                                 御用等段々被仰付
                                 三齋様 妙解院様御自筆之御書
                                 今以所持仕居申候右御加増被下候節従
                                 三齋様右左馬之允新五と申候節御自筆之
                                 御書被成下御取立可申極候間鉄炮はなし

                                 十人程馬乗候者二三人程先召抱可申候其外
                                 役程之人は知行被下候上ニ而召抱可申由之
                                 御書今以所持仕居申候其上
                                 三齋様御名乗之 御字被為拝領興相
                                 申候右興之 御字御自筆ニ而被遊被為
                                 拝領今以所持仕候是又御役料之由ニて高貮千石
                                 被為拝領候旨御自筆之御書出是又所持仕
                                 居申候

                                 権現様伏見ニ被成御座候節石田治部少輔逆心ニ而
                                 焼打ニ仕由其節
                                 権現様江 三齋様ゟ御内意被仰上御屋敷
                                 おちくほニ而御要害悪敷被思召上候間今晩
                                 向嶋■又ハ京都二條御城江被遊御立退候様
                                 御内意被仰上其節御道筋別而無御心元
                                 被思召候間牧左馬之允ひそかに御供仕候様ニと被
                                 仰付御鉄炮三十挺召連伝賀越被遊候節御供

                                 仕候由御大切之御供故被仰付旨御座候右之通
                                 承傳申候
                                 三齋様 妙解院様御二代御奉公相勤
                                 豊前於小倉病死仕候
                                 妙解院様御代右左馬之允嫡子牧新五病死
                                 仕二男牧善太郎三男牧虎蔵儀若年之節
                                 豊前ニ而被召出三代目善太郎江御知行千石
                                 虎蔵江御知行三百石被為拝領候其以後

                                 善太郎儀名を四郎右衛門と相改  (以下略) 


                           

     中央にあるのが銀の半月(中くり)の差物、当初忠興所要の差物であったが牧丞大夫が拝領、その後忠興に召上られ後徳川秀忠の請いにより
     細川家から将軍家に献上され、秀忠の差物の一つとなった。 

                                  

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■「三上」当てはまらず

2014-08-25 10:11:21 | 徒然

 手がしびれたり、足がむくんだり、こむら返しをおこしたり、立ちくらみをしたり・・・・すべからく血圧のせいだろうと思って朝の散歩を始めて一月以上に成る。
当初は160位の数字が当たり前であったのが、最近は140代半ばまで落ちてきた。これはまさに散歩のおかげでこれで体重が落ちてくれると云う事はないのだが、こちらは効果がなかなか現れない。不思議なことに途中小雨に降られたことはあったが、本降りの雨の為に休んだことはない。
四方の景色や路傍の植物などに目をやりながら散歩を楽しんでいる。

熊本県立図書館が工事の為休館となり、欲しい資料が手に入らずブログに何を書こうかしらといろいろ考えるが、散歩の途中そればっかり考えていることも有る。欧陽脩の「帰田録」に「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)馬上枕上ちんじゃう)厠上しじゃう)なり」という有名な言葉がある。
文章を考えるのに最も都合がよいのは、馬に乗っているとき、ベッドに入っているとき、トイレに入っているときで、これを「三上」と云うのだそうな。
現在では馬に乗ることは無いので、さしずめ電車やバスなどの交通機関に乗っているときであろうか。自分で車を運転しているときの考え事はあまりよろしくない。尾籠なことだが私はトイレはすこぶる早い。考え事などする暇もなくすぐ出てくる。やはり考え事はベッドの中と言う事に成る。

散歩を始めてから日数を重ねると少々疲労が重なり、昼間うつら/\したり、時にはベッドに寝転んで仮眠を取ったりすることが増えた。そして早寝癖がついてしまったのと同時に、ベッドに入っていろいろ考え事をしていても何ともまとまらないうちに寝込んでしまう有様である。
つまりは「三上」は私にとっては全く当てはまらず、まいにちPCを前にして悶々としている。 

 

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■「拾集物語」の編者渡邊玄察家の「渡邊家譜」について

2014-08-24 18:38:14 | 史料

「拾集物語を読む」をご紹介してきたが、編者・渡邊玄察ってどんな方ですかと問い合わせをいただいていた。
詳しくご紹介してから「拾集物語」に入るべきだったなーと反省しきり。
そんな中、玄察のご子孫にもなられるというS様が、「渡邊家譜」を送って下さった。ご了解をいただきここにupさせていただくこととした。
深く感謝申し上げここに掲載する。 

 

【渡辺家譜】 

             益城郡甲佐早川  渡辺大和守友寿覚書

第一代   渡辺次郎清

    先祖渡辺源三郎藤原秀久ト云シハ、阿曽ニ世大宮司成兼君ノ蘢臣ニテ、矢部菅ニ城ヲ築キ城住ス、後葉渡辺近江守透村家弟同名次郎清、
    一所懸命ノ地ヲ玉リ相続テ城主タリ、厥(その)後建長五年癸(みずのと)丑年、阿蘇五十一惟国君下命セラレテ、秀村ニ上益城郡甘
 木庄七半済ヲ玉ワリ早川城主トナル、舎弟次郎清早川厳島社并(あわせて)熊野権現社天神社ノ権大宮司ニ任セラレ、正嘉元丁巳年三
 社の祭祀春秋四十八祭式法惟国君御改定セラレ、神領トシテ田地六町附セラレ、神職・料田畠一百町玉ハリ譜代相続、

第二代   渡辺刑部正吉清

    城主秀村ノ嫡子相続テ早川城主タリ、叔父次郎清卒去シテ嗣子ナシ、依之惟直君命セラレテ三社権大宮司ヲ兼帯シケリ、弘安四年蒙古
 軍士四万ノ兵・軍船四千艘(そう)日本ニ渡海シテ襲ハントス、此時菊池肥後守武房一千余キ引卒、大宮司命ニヨッテ吉清モ武房ニ加
 リ、一同ニ蒙古ノ軍兵ヲ追散ス、戦場ニテ高名有、堅固ニ帰陳ス、

第三代   渡辺式部正直吉

    吉清嫡子也、父ノ遺跡相続シ不怠勤仕矣(い)、建武三年足利尊氏・直義両将、筑前国ニ落来リ九州ヲ討シタガヘントス、是ヲ討ント
 テ菊池九郎武敏・阿曽大宮司君不日討出玉フニ、筑前多々良浜合戦ニ見方討負ントス、此時直吉命ヲ重ンシテ終ニ戦場ニ討死ス、

第四代   渡辺兵部頭成吉

    直吉ノ嫡子ナリ、相続テ神職・城領・父ノ遺跡兼帯ス、

第五代   渡辺兵部進澄吉

    成吉家弟ナリ、直吉ノ二男、

第六代   渡辺兵庫正吉忠

    直吉三男、成吉家弟ナリ

第七代   渡辺兵庫助吉為

    澄吉三男

第八代   渡辺民部正吉俊字

    吉為嫡子ナリ、吉俊舎兄アリ、正秀ト号、大宮司君命セラレテ早川城主ニ任ス、則早川式部少輔正秀ト号、弟吉俊神職ニ任シ諸末社祭
 儀執行ス、正秀後ニ矢部佐渡ノ邑(むら)ニ隠居シ、正秀入道離風居士ト号ス、

第九代   渡辺民部正乗吉字

    吉俊嫡子也、三社権大宮司ニ任セラレ神事・祭祀不怠矣、永正十年菊池惟前・阿曽大宮司惟豊君ト不和ナリ、既ニ于(ここ)戈(ほこ)
 及ヒ堅志田城ヲ囲ム、君利ナク日向国ニ暫陣ヲ引玉フ、此時乗吉堅志田戦ニ討死ス、叔父正秀・正秀嫡子吉貞・家臣郎従皆日向ニ陣ヲ
 移ス、

第十代   渡邊吉貞 

    正秀嫡子也、父子ナカラ日向国ニテ時々ノ戦功ス、数日ヲヘテ君陣漸ク多勢ニナリシカバ、菊池ノ党ヲ討玉フニ一戦ニシテ軍利アリシ
 カハ、君モ阿曽ニ還住シ玉フ、正秀元ノ如ク城住シ、嫡子吉貞モ神職ニ補セラル、厥(その)後大永三年比大宮司惟豊君玉名郡筒嶽城
 ニ菊池党籠城セシヲ責賜、此処ニテ吉貞討死ス、家弟邦秀ト云アリ、戦場ヨリ兄ノ骸骨ヲ笈(おい、きゅう)帰陣ス、

十一代  渡辺式部少輔邦秀

    吉貞ノ家弟也、正秀二男也、兄吉貞ノ遺跡・神職相続ス、其後城主正秀由緒アッテ矢部佐渡ノ邑ニ隠居ス、依之邦秀早川城領・神事兼
 帯ス、父正秀佐渡ニ城ヲ築ク、此時早川熊野社ヲ勧請シ古蘇武良社ト号ス、良アッテ父子ノ間ニ讒(そしる、ざん、さん)臣アル、
 既ニ于戈ニ及ヒ実否ヲタゝス、戦場ノ事別巻ニ記ス、

十二代  渡辺佐近丞吉長

    正秀ノ三男、邦秀家弟也、兄邦秀城主トシテ神職ヲ家弟吉長ニ、自大宮司君命ヲ玉フ、

十三代  渡辺石見正吉盛

    吉貞ノ嫡子也、大宮司矢部浜ノ屋形ニ住居シ玉フ時、夜討合戦君命ニヨッテ自害ス、

十四代  渡辺右衛門太輔吉久

    吉長ノ嫡子也、吉盛卒シ嫡子ナシ、依之吉久神職ニ任セラル、叔父邦秀ノ嫡子越前守吉秀相続テ城主トナル、後ニ薙髪(ていはつ)シ
 テ休雲居士ト号ス、甲斐宗運ノ婿ナリ、吉久妻女ハ城主邦秀ノ娘也、吉久嫡男又太郎・二男孫四郎アリ、永禄年中大宮司惟将君命シ
 テ隈庄城ヲ攻ル時、城主早川越前守吉秀入道休雲・渡辺右衛門太輔吉久・円福寺住僧春蔵司、其外家中侍郎従舞原ニテ戦死ス、委細別
 巻書記ス、

十五代  渡辺石見守吉行字又太郎

    吉久嫡子タリ、父吉久隈庄ニオヒテ討死ス、因之吉行三社ノ神職ニ任セラル、其後家弟吉次ニ神職ヲ譲リ隠居シ、薙髪シテ空円ト号、
 此相良家中ニ西友鴎先生トテ名医有、空円コレニ入魂ニシテ医術ヲ伝授セリ、早川城領ハ吉秀入道休雲ノ嫡子秀家相続テ城主トナル、
 則早川越前守秀家ト云ハ是也、二男丹波ト云者有也、
(この早川丹波守秀貞が後に佐川駿河守秀貞として養子となり下横田に住すと我が系図には記して有り)

十六代     渡辺孫四郎吉次後ニ軍兵衛

 吉久ノ二男也、吉行ノ家弟也、相続テ神職トナル、天正年中相良義陽益城郡ニ攻入君領ヲ奪フ、此時御舟城主甲斐入道宗運相良勢ヲ退
 治ス、戦場ニテ吉次相良ノ侍頭豊永籐次ト云者ト一騎討ノ勝利アリ、此外数度戦功有リシカバ、名字ヲ君ヨリ玉リ軍兵衛尉ト号ス、
 天正年中薩广ノ軍士肥後ニ乱入、諸城ヲ攻ム、大ヲイ降参ス、此比大宮司御兄弟惟光・惟善御幼君ナリシカバ、幕下ノ諸城モ進退度ナ
 クシテ薩广勢ニ降ル社本意ナケレ、依之君ヲアヤウク思ヒ、軍兵衛吉次・城主吉秀入道休雲嫡子越前守秀家共、城且三社ヲ捨置、両君
 ヲ砥用矢部ノ深山ニ落シ奉、時ヲ候ヒ身方ノ勢ノ集ルヲ待テ密忠ヲ尽ス、委細ハ別巻ニ記ス故略之、天正年中宇土ノ城主小西氏領トナ
 リシ比、邪法大イニ行レ、国中神社、仏閣悉破滅セラレ、早川城トテハ其以前ニ落去シ神領等悉ク破却、先祖以来春秋四十八祭ノ神
 事・其外譜代相伝ノ家一時ニ滅亡す、且祝部、神人、巫(みこ)・楽人・寺院・坊主モ旧臣モ城主ノ家臣モ悉退転ス、厥後(そのご)
 清正公御領ト成テヨリ神社モ漸ク再興ス、然トモ昔ニハ似ル形モ無ク以前ノシルシヲノコス計(ばかり)也、

十七代  渡辺孫兵衛吉政

 吉次嫡男ナリ、漸ク家ヲ相続シ三社ノ祭祀ヲ行フ、正保四丁亥年九月四日、植木社祭礼再興、糸田村庄屋徳左衛門宅ニテ宮座ヲ致ス、
 寛永九壬(みずのえ)去る年十一日細川越中守光利公御入国当所、皆給地トナル、寛永十一年九月五日ノ宮坐始ル、下早川村ナリ、

十八代  渡辺孫兵衛貞許

 吉政嫡子ナリ、慶安三年社司トナル、貞許従子ニ明可云者有リ、其子ヲ養子トシ、娘ニアハセ孫兵衛ト号シ、是ニ神職ヲ相続、貞許隠
 居シ空円ニ医道ヲ相承シ、薙髪シ玄察ト号ス、厥後(そのご)京都ヨリ鈴木法橋ト云名医ニ医術ヲ伝授ス、委細ハ別巻ニ記シ置故是ヲ
 略ス、以下略之、称貞居ハ後薙髪号玄察

 

 

早川城草創之事並城主系譜

 阿蘇大宮司譜代家臣渡辺近江守秀村、矢部菅領ヲ賜リ菅城ニ在城ス、其後五十代大宮司惟国君、建長五癸(みずのと)巳年秀村ヘ早川
 二百余町ヲ玉フ、今年早川ニ下リ早川城ヲ新ニ築ク、秀村菅城ニアリシ時ハ、家弟次郎清モ一所懸命ノ城ヲ玉ハリシニ、右秀村早川二
 百町ノ領ヲ玉ヒ、家弟ノ次郎清ハ早川三社権大宮司ニ任セラルナリ、早川城ノ闈(囲カ)平地ヨリ上段マテ高サ五十余間・南北百十余
 間・東西八十余間、上段ヨリ段々三段アリ、城ヨリ東ハ高キ峯続キナリシヲ堀切リ此間五十余間、大手城戸ハ北ニ当テ于(ここ)今旧
 跡アリ、南東ノ隅ニ当テ四十余城下マテ築地ノ屏(へい)ナリ、円福寺ヨリ四(西か)ニ当テ築地ノ峠迄、桜馬場ノ中比ヨリ北別当坊
 門外マデ、町中ニ刀鍛冶、或武具師・塗物師・馬具飾等有、東ノ物見ノ役人榎本土佐・弥八兵衛入道了正、此両役人ハ城ヨリ東ノ山ノ
 上ヘヨリ物見ヲ勤ム、北ハ本留山口城ノ尾峠ヨリミル、南ハ小屋、林主水・谷川蔵人両役人、城ヨリノ高キ山ノニ物見櫓ヲ構エ、亦
 城ノ東竹ノサコ・田代辺・穂野山等皆薪山ナリ、城下ノ南面ハ碧川(みどりかわ)の大河ナリ、城下ハ渕ニテ有リシトナリ、此時水ノ
 ウツマキシトテ今ニウツノモト抔(など)ト云ル、城下ハ右ノ大河ニテ水ノ流レ早瀬故早川城ト号シ、或ハ村ヲ早川ノ邑ト号ストナリ、
 氏モ早川ト改ラル、 

式部少輔隠居並ニ父子及鉾楯事

 矢部ノ庄猿渡ノ城ハ、永正年中比早川少輔正秀隠居シテ、大宮司従二位惟豊君命ニヨッテ猿渡城ヲ築ク、正秀ノ嫡子早川式部少輔邦
 秀ヲ早川城主ニ任ゼラル、正秀薙髪シテ離風居士ト号ス、此時早川熊野権現社ヲ猿渡城中ニ勧請シ古蘇武良社ト号ス、離風猿渡ニ入城
 ノ砌(みぎ)リ召具シタル長臣六人、佐渡大学・同修理・同図書・佐藤内匠・岩見半助也、右半助離風ノ寵臣(ちょうしん)タリ、主
 君ノ寵(いつくしみ)ヲ誇リ非分ノ望ヲ発シ、嫡子早川ノ秀邦不孝ノ行アル由ヲ離風へ讒言(ざんげん)シ、種々奸謀(かんちょう)
 ヲ廻シ、終ニ父子不和ニ成テ于戈(うか?)ニ及、父ニ敵対シ不孝ノ罪難遁ケレハ、秀邦忽(たちまち)滅亡ニ及カ又ハ阿蘇ヨリ城
 地ヲ没収セラル、カ二ッノ内ヲ不可過、其時今度離風上秀邦ノ逆意ヲ註進仕タル恩賞ニ申賜ラント巧ケル、如案不和事積リテ父子合戦
 ニ及ヒ、離風自軍勢ヲ卒シ早川ヱ寄ラル、早川ヨリモ秀邦軍勢ニ引率シテ佐渡ニ寄ラル、互ニ水越ニテ行逢イ、既ニ合戦ニ及ントス処
 ニ、離風ノ家佐藤内匠只一騎秀邦ノ陣ニ馳参リ軍ノ子細ヲ申ケレハ、父子ノ相中讒言セシ次第一々明白ニ露顕シ、秀邦後悔不浅、内匠
 馳帰テ秀邦ノ私ナキ由詳ニ離風エ申上ル、離風甚後悔シテ、コノ上ハ子ナカラモ面目ナシ、世上ノ批判モ如何迚(とても)、即時ニ切
 腹シ、臟ヲ掴テ、側ナル白石ノ高サ四尺有ニ打纏イ、座シタル儘ニ卒去ス、秀邦遙ニ是ヲ見テ大ニ驚、即現人神(あらひとのかみ)ト
 崇祀ス、右趣佐藤内匠大宮司君ヘ参シ言上ス、惟豊君大ニ驚キ玉イ、且ツ内匠カ今度ノ働キ褒美トシテ名乗ヲ被下秀兼ト云、彼ノ悪道
 不忠ノ岩見半助ハ内匠討取ルナリ、今度秀邦無実ノ罪ナカラ、亡父離風ノ怒ヲ恐レ、髪ハ抜テ罪ヲ贖(あがなう)ントテ、早川氏ヲ
 改テ佐渡トス、今ニ右離風ノ家臣六人ノ子孫矢部猿渡村ニアリ、 

渡辺右衛門太輔隈庄合戦ノ事

 阿蘇大宮司ノ長臣御船ノ城主甲斐民部太輔入道宗運・早川城主早川越前守吉秀入道休雲・権大宮司渡辺右衛門太輔吉久・甲佐松尾ノ城
 主伊豆山(伊津野山)城守、此人々隈ノ庄ノ城ヲ討シ故如何トナレバ、隈ノ庄城主甲斐右馬尉守昌ハ御船城主甲斐入道宗運ノ婿ナリ、
 早川城主越前守入道休雲・甲佐松尾城主伊豆山城守モ宗運婿ナリ、アル時甲斐守昌、舅宗運座敷ニテ宗運ノ刀掛ニ鎧トヲシヲ掛置レツ
 ルニ、秘蔵ノ猫此刀ノ下ケ緒ニ戯ケルニ、九寸五分抜落テ、下タナル茶臼ニ切ッ先キ五分程立チケル、守昌不思儀ノ事ナルカ、何トソ
 此ノ九寸五分ヲ囉(もら)イ秘蔵セントテ舅宗運ニ乞ケレトモ、惜テユルサズ、守昌モセンカタナク立帰リ、妻女ニ此由ヲ語テ陰ニ盗
 マントス、コレヨリ守昌・宗運不平ナリシカハ、守昌安スカラヌ事ト思イ、一先薩州嶋津ノ幕下ニ降ント種々謀計ヲ廻ス、此由ヲ宗運
 伝聞テ、サアラバ主君ニ背ク逆臣討罰ノ由ヲ言上セン迚(とても)大宮司君ヘ訴ケル、是レニ依テ大宮司命シテ宗運ニ討タシメ玉フ、
 然レトモ熊野庄城無比類聞ニテ容易ニ落チス、依永禄八年阿蘇大宮司惟将君命ヲ賜リテ、宗運且又早川越前守入道休雲。渡辺右衛門太
 輔吉久・甲佐松尾ノ城主伊豆ノ山城守・三宮社ノ権大宮司、各手勢ヲ引卒シ三月十日ニ出陣ス、伊豆ノ勢ハ大将山城守、侍頭ニハ江原
 雲請、甲佐宮ノ赤星一太夫・社司・権大宮司、其外家中ノ侍都合五十五騎・雑兵共ニ四百余、松ノ尾ノ城ヲ打立チ、隈ノ庄城ヨリ東一
 里ヲ隔テ出水村ノ前川原ニ陣ヲ取ル、早川勢ハ大将越前守入道休雲、侍頭佐渡大学・同図書・同修理・同能登、其外一家中の侍、且又
 厳嶋社ノ権大宮司渡辺右衛門太輔吉久・承陽山円福寺住僧春蔵主等都て吉野茶臼山ノ一ノ谷頭ニ陣ヲ張ル、御舟城主宗運ハ北坂本村ニ
 陣ヲ居ル、三月十日未ノ刻ニハ城ヲ取闈(かこみ)テ攻ムヘキ手筈ナレハ、早時刻ニウツリヌト早川勢茶臼山ノ陣ヲ引掃テ、直ニ城ノ
 大手ニ攻寄ケル、三方一同ニ敵城ヲ攻討ベキナルニ伊豆ノ勢遅々ニ及時、早川勢頻ニ城戸ヲ責破ラントス、カゝル所ニ敵城主守昌、此
 以前ヨリ宇土ノ城主本江伯耆守ニ助勢ヲ乞置ケルカ、今日既ニ宇土ヨリ勢ヲ差向ケル、伯州ノ家弟同氏武蔵守ハ執事ナリシヲ、是ヲ大
 将トシテ、侍頭ニハ大河六弥太・成松式部左衛門、其勢都合二百余騎宇土ヲ立テ、木原・阿高(現熊本市城南町)ノ辺ニヨリ、塚原ノ
 村中林ノ陰ヲ忍テ沈目村ニ隠レ伏ス、素ヨリ隠シ勢有ルコトハ早川勢思イヨラザレバ、大将休雲士卒ニ下知シテ云ク、城主守昌天性知
 謀ナケレハ、唯々(ただただ)宗運方ノ責口ヲ堅ク守テ、此ノ大手口ハユダンニテ、城戸ヲ守ル者随(したがう)ヌト見ヘテ、コト
ノ外城中騒動シテ周章ノ体ニ見へケリ、一ト責攻ントテ揉(もみ)ニ揉テ攻メ討チケレハ、城戸口少打破
 リ既ニ攻入ントスル処ニ、思
ヒヨラヌ後ノ方タ沈目村ノ村境ヨリ赤籏一流レ風ニ颺(あがる)テ攻蒐(あつめる)タリ、大将休雲引返
 シテ、後陣ニ蒐ケヨ、伏兵有
ソ、城ヲ攻捨テニシテ引返セト下知シテ、宇土勢ニ蒐ケ合セ、片時ノ間火花ヲ散シテ攻戦フ、カ丶ル処ニ
 城中ヨリ甲斐ノ運天・同帯刀、
城戸ヲ颯ト開テ早川勢ノ後口ヲ切テ回ル、何三百余人乱レ立タルコトナレハ、陣中甚騒キ立テ、戦イ破レ
ケレバ、前後ヨリ攻討コト猶厳
 シク、競カ丶ツテ攻戦シカバ、身方大半討レケリ、休雲陣中ヲ少シ引退、吉久・春蔵主ヲ招キ、如何ニ今日ノ戦イ未勝負ハワカタス、
 一攻ニ守昌ヲ攻落シ首ヲ提ンモノヲ、伊豆勢比挟(卑怯)ゲニ遅々セシュヘ也、然レトモ我々此一戦討負シテト何ソ守昌二タ度蘇生ス
 ベカラス、声花(はなやか)ニ討死シテ敵身方ノ目ヲ覚サン、此レニハ少意味有ルコトナレハ各モ覚悟シ玉エ迚身繕有ハ、吉久・春蔵
 主両人其御事ニヤ及ヘケン、素ヨリ戦場ニ趣カラハ何迚敵ニ後ハ得見セ申スマシ、共ニ首ヲ戦場ニ曝シ迚亦軍中ニ蒐(あつまる)入ケ
 ル、三騎一同ニ多勢ヲ左右ニ切立テケレバ、少ハ敵ノ痿痺(ひるむ)処スツト切抜、後陣ニ扣(ひかえ)ヘシ本江武蔵ニ討テ蒐り漸
 ン時ノ程ハ戦イケルカ、休雲武蔵ト引組テ終ニ差違テソ死タリ、吉久・春蔵主、大河六弥田・成松式部左衛門ヲ目掛テ討テ蒐ル(あつ
 まる)、四人互ニ手木角ノ戦イナリシカ、大河・成松カナハシトヤ思イケン、村ガル中ニ蒐入ケレハ、

引続イテ成松カ家人トモ討テカ
 丶ル、此ノ者トモヲ左右ニ引受攻戦イ、四角八方ニ追散シケレハ、残ル敵モ見へサレバ、漸ク息ヲ休候処ニ、最前追散ラサレ逃帰ツタ
 ル城中ノ雑兵共、亦城戸ヲ開テ討テ出、逃ルカ迯ルカヒケウナリト罵テ攻蒐ケル、吉久偖(さて)ハ悪キ言ヲ云哉トテ取テ返シ、八人
 ヲ相手トシテ息ヲモツカス戦イケル処ニ、追散サレシ宇土勢共主ノ敵ト取テ返シ、左右ヨリ引包ンテ討合イケル間、残リ少ナニ討ナサ
 レ、今ハ漸々吉久・春蔵二人計リナリシ故、最早敵城ヱハ攻入コト叶マジ、大将ハ討死シ玉ヘハ今先一励討散セトテ、足下六人ノ荒手
(新手)ヲ討伏テ息ヲ継処ニ、亦城中ヨリ人々八騎討テ出、二人ヲ左右ヨリ取闈(かこむ)ムヤ、戦ウ内三人ヲ討取シカハ、春蔵主モ討
 レケリ、残ル五騎ノ敵兵共吉久一騎ニ討ナシ競イニ競イテ攻討ツ、吉久勇ヲ振テ足下二人ヲ切伏セケレハ、又城中ヨリ雑兵共一ムラ咄
 (どつ)ト出散々ニ切テ蒐ル、吉久今ハ叶ハシト死ニ苦イニ切散ラセハ、一先ツ城ニ引返ス内、一人残テ長刀ヲ以テ吉久ノ後ロヨリ討
 ケレハ、得タリト開イテ直ニ付ケ入、首討落シ引掻(か)テ、尻ヘニヒツ敷キ、腹十文字ニ掻切テ死シタリ、軈(やがて)テ此躰ヲ城
 ヨリヤ見ケン、一人足早ヤニ馳来テ首ヲ討鑓(やり)ノ先ニ貫立上ル処ニ、春蔵主ガ門弟善忠ト云僧、麦畑ノ中ヨリ飛テ出、長刀ヲ以
 テ大ゲサニ討落シ、共ニ師坊ノ首ノ戦場ニ有シヲ拾イ、袖ニ包ンテ落失ケルガ、先不領村ニ蒐入テ息ヲ休メケル、然処ニ右ノ戦イ討死
 ノ躰、宗運遥ニ見テ大ニ驚、逞兵勝ツテ二百騎ヲ引卒シ蒐付テ宇土勢ヲ追討ントス、大川・成松共ニ沈目ノ村林ニ逃隠、竹林ヲ小楯ニ
 息ヲ休メ、兵根ツカウテ居ル処ニ、一文字ニ討テ蒐リケレハ、戦疲タル勢思ノ外ニ討負、左行右行ナル処ニ、山出村大武明神ノ社司周
 防、大河六弥太ヲ討取ル、同所ノ地侍井芹河内・成松式部左ェ門ヲ討チテカヽリケレハ、宇土ノ残兵周章敗北シケルヲ追蒐追蒐攻ケレ
 ハ、大方沈目村ノ沼田ニ追ハメラレテ討レケル故、宗運直ニ城ヲ責テ、終ニハ守昌落城ス、 

早川越前守ノ墓

 下早川村ノ中ニアリ、塔アリ、碑銘ナシ、越前守古墳ト云ヘトモ吉秀カ父子ノ分不知ト云々、今案ルニ早川越前守秀家ハ舞ノ原ニテ討
 死、沈目村ニ其墓有ト云ヘトモ親ノ吉秀墓ナルヘシ、亦舞ノ原渡辺吉久討死ノ跡ニ墓石ヲ渡辺玄察建シト云々

 

 

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■細川家・・日出木下家・・臼杵稲葉家の関係

2014-08-24 12:31:12 | 先祖附

細川家と日出藩・木下家、臼杵藩・稲葉家は以下のような血縁関係にあり、木下家・稲葉家は細川家を寄親とするような関係でもある。
 

                          稲葉一通
                               ∥------ 信通(彦四郎)
                       +---多羅
                       |
     細川幽齋---+--細川忠興---+---忠利
             | 
             +------加賀
                    
                木下延俊



    細川忠興 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  永禄  6(1563)年生~正保 2(1645)年没
    細川忠利          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   天正14(1586)年生~寛永18(1641)年没

    木下延俊      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  天正  5(1577)年生~寛永19(1642)年没
      加賀                 * 慶長 9(1604)年没

    稲葉一通          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  天正15(1587)年生~寛永18(1641)年没 
      多羅            ・・・・・・・・・・・・・・・            天正16(1588)年生~慶長19(1614)年没
    稲葉信通                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 慶長13(1608)年生~寛文13(1673)年没
                                                              (元和七年)

            元和七年十月廿六日の忠利宛書状の中に、次のようにある。(細川家史料-322 抜粋)
      「稲彦と木右と間悪敷事存候、當所へ被来候ハゝ、中なをし可仕かと存候事」

      稲彦とは稲葉信通の事であるが、木右(木下右衛門太夫・延俊)とあまり仲が良くなかったというのである。
      忠利とはほとんど同世代の人だが、甥である彦四郎と叔父で大変仲の良い延俊の中を何とか取り持ちたいという心情が伺える。 

      忠興外孫・稲葉彦四郎様小倉に遊ぶ


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■御恵贈御礼「織田信長〈天下人〉の実像

2014-08-23 06:51:36 | 書籍・読書

 東京大学史料編纂所の金子拓先生の表題の御著については、つい先日発刊になりご紹介申し上げた処であるが御恵贈を給わった。
一介の市井の歴史好きの老人にとっては大変名誉な望外の幸せである。心から御礼を申し上げる。
先生の御著に触れ、ますます歴史を学ぶ楽しさを実感しながら、次はどのようなことをお教えいただけるのだろうかと云う期待感が何時も有る。

                            織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ

                            『信長記』と信長・秀吉の時代

                            兼見卿記1・2・3 (史料纂集 古記録編)

                            記憶の歴史学 史料に見る戦国 

 

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■松寿庵先生 第112講

2014-08-22 06:54:54 | 史料
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